汗と涙が浸みこんだグラウンド
◆
「穂高美憂ちゃんか。じゃあ、みーちゃんだね」
馴れ馴れしい、と思った。
「みーちゃん、私と黒永に行こう。一緒に全国制覇、してみない?」
テレビで顔と名前くらいは見たことのあるその少女は、待ち合わせ場所のファミレスでメロンソーダに刺さったストローを咥えながら、世間話でもするようなテンションで言い放った。
―――彼女が都内の有力選手に声をかけて回っているという噂は、私の耳にも入っていたのだ
だが、それが実際自分の前に現れたとなると話は違ってくる。
私は、彼女に選ばれた。そんな風に取ることも出来るだろう。
だが。
「少しだけ、考えさせてくれない? 今すぐに、結論は出せないよ」
「うんうん。大事な進路の話だもんね。親御さんとも話し合って。ゆっくりでいいから」
私は何故だか、無性に腹が立って仕方がなかった。
この話自体ではない。この、綾野五十鈴という少女に対して、だ。
(天才だか何だか知らないけど・・・)
自分だけの最強軍団でも作り上げる気でいるのだろうか。
それも、都内最強のテニスの名門、黒永学院で・・・。
さすが天才様の考えることはスケールが違う。
私も、その『綾野軍団』の一員になれと。
(冗談じゃない)
あの場でイヤだ、と突っぱねることも出来た。
だが、私の中の何かが、それはやめておけと言っていたのだ。
その正体が何であるかなんて、分からないまま、夏休みも後半に差し掛かろうとしていた。
綾野五十鈴からの回答期限は、夏休み明けまで。
私は熟慮に熟慮を重ね、親とも何度も相談し、それでも結論を出せないでいた。
・・・どうして?
そんなある日。
態度保留のままでいいから一緒に来て欲しいと言われ、私は綾野五十鈴に、とある公園へ呼び出された。
そこには―――
(三ノ宮未希、吉岡志麻子、それにあっちは夏の全国大会ダブルス部門で優勝した那木と微風・・・!)
綾野五十鈴が集めた、錚々たる面々が集合していたのだ。
こうして互いに顔を合わせるのは、大会で姿を見た時を除けば初めてかもしれない。
「やあや、みんなごめんね急に集まってもらって」
最後に少し遅れて、綾野五十鈴が手を振りながら到着する。
「あたしらも暇じゃないけぇ。さっさと本題に入ってくれんかのぅ?」
真っ先に口を開いたのは、ボサボサの銀髪が特徴的な鋭い目つきの少女・・・那木・微風ペアの那木銀華だ。
「んとね、ちょっと待ってて欲しいんだ。もうすぐ来るから」
「来るって、誰が?」
「"最後の1人"だよ」
そう。
私たちをこの場に集めた目的―――それは、綾野五十鈴の幼馴染であり、全日本選抜のエース、久我まりかをこの『最強の軍団』に引き入れるための交渉材料に使うためだった。
案の定、やってきた久我まりかはここに居る面子に驚愕し、そして同時に目を輝かせていた。
それなのに。
「ごめん。私はいいや」
彼女は、綾野五十鈴の誘いを真正面から断った。
そして私は彼女の言い放ったその言葉に、戦慄したのだ。
「そこに入っちゃったら、君たちを倒せないでしょ?」
この面子を全員敵にまわして、そのチームに"勝つ"という。
こんなものは無謀を通り越して蛮勇だ。この女のやっていることは、賢い行為ではない。
「そっか」
私達は唖然としていた。だが。
「じゃあ、まりちゃんとはここでお別れだね」
その時の綾野五十鈴の表情を、私は見逃さなかった。
「―――ッ!」
全身がかあっと熱くなる感覚。
彼女は悲しそうに目を細め、下を俯いていたものの―――他のみんなが見逃しても、私だけは見逃さなかった―――その口元が、僅かに"笑っていた"のだ。
何かを噛み締めるように、心の底から湧き上がってくる何かを抑えつけるように、口元だけに見せた笑い。
その正体が・・・知りたい。
私の奥底から湧き出たその欲求が、どういう種類のものだったかは分からない。
だが、確かに言えることが1つだけある。
綾野五十鈴という少女が心の奥底に秘めた"それ"に、触れてみたくなったのだ。
久我まりかが帰った後、もう夕陽も完全に沈み、夜の帳が支配する公園で。
「綾野五十鈴。私はお前に着いていく」
私は宣言した。
「みーちゃんはそれでいいの?」
先ほどの久我まりかの返答をまだ引きずっているのか、言葉に力が無い。
だが、私は堂々と、はっきり言ってやる。
「君の1番近くで、君を見ていたくなった」
彼女の正体を、見極める。そのために。
「それがみーちゃんの答えなんだね」
「ああ」
私は、黒永学院へ進学する。
綾野五十鈴はいけ好かない女だ。だが、私もテレビで彼女の活躍を目にする多くの人間と、同じだった。
綾野五十鈴という『規格外の怪物』が歩むその足跡を、"1番近くで"、見てみたい―――
その好奇心に、抗えなかったのだ。
◆
だが、私の目論見は大きく外れることになる。
「1年! 遅いよ、準備運動に何分かかってんの!」
「はいっ」
外周2周に腹筋と腕立てのセットを4回ずつ、これが準備運動・・・!?
―――綾野五十鈴の1番近くで彼女を見ていたい?
―――寝言は寝て言えと言いたくなるような見当違いの発言だ
綾野五十鈴は入部1日目で1軍行きを命じられた。
他にも三ノ宮や那木・微風と言った私と同じように彼女に連れてこられてきたメンバーのうちの何人かは、その才能を見いだされ早々に1軍へと昇格。他の先輩たちと混じってボールを使った練習をしている。
それに比べて、私はと言えば。
「はあ、はあ・・・」
「穂高ー! いつまで走ってんだ早く終わらせろよー!」
「ず、ずみまぜん・・・!」
来る日も来る日も来る日も、2軍でひたすら基礎体力強化のメニューをこなす毎日。
走った。走って走って走って、死ぬんじゃないかって思うくらい辛くなるまで走った。
晴れの日も、風の日も、雨が降っても・・・。
そしていつしか、私はその日の練習が終わると2軍の練習場のど真ん中で仰向けになってぶっ倒れるようになっていた。
今日はこれまで、という声が聞こえた瞬間、全身の力が抜けてその場に倒れ込むのだ。
(何やってんだ、私・・・)
思い上がっていた?
自分にそんな気はなかったのに。
冷たい土の上に身体を乗せて、地面の鼓動を聞くように耳を傾けると、もう何だかよく分からなくなってくる。
上には上なんていくらでも居る―――
そんな事は分かっていたつもりだった。だけど、この黒永学院は異常だ。
このままじゃ、3年生の先輩は愚か、2年生・・・1年生の中でだって、1番になれる気がしない。
このまま、埋もれるのか?
この凄い人たちの中で、何も出来ずに。
綾野五十鈴になんて、触れることも出来ずに―――
(イヤだ・・・)
気づくと、両目から大粒の涙が溢れてきていた。
それは鼻の上を通り抜け、地面に落ちて土に浸みていく。
(イヤだ・・・!!)
終わりたくない。
私は、綾野五十鈴のところまで行くんだ。
「イ゛ヤ゛だ・・・!!」
何も出来ないまま・・・何もしないまま終わるのなら、私は何のために黒永に来たんだ。
―――この2軍から抜け出して、綾野五十鈴の近くへ行くには、
「・・・ッ!!」
腕に力を込める。
1日の練習に耐え、もう力なんて入らないと思っていた両腕に。
―――他の部員と同じことだけをやってたんじゃ絶対にダメだ
手のひらで地面を握るようにして、両腕の力で上半身を起こす。
―――人の何倍も努力を、練習をしなきゃ
視線を上げ、ぐちゃぐちゃになった顔を上げて、空を見上げるようにキッと視線を上へ。
―――私はランニングをやるために、黒永学院テニス部に入ったんじゃない!
「まだだ・・・、まだ、練習し足りない・・・!」
制限時間は設けない。
先輩か、監督。どちらかに怒られるまで、ここで練習してやる。
止められるまで、ひたすらやり続けてやる。
私は、腹を括った。
テニスの為に、自分の人生を投げ打つ覚悟を―――




