悔しいの記憶
試合が終わり、選手2人がネットを挟んで握手する。
普段なら我が白桜の場合、そのまま出入り口から選手はコートから出ていくように言っているのだが、水鳥がそちらにはいかず、私の方に寄ってきたのには少し驚いた。
「どうした。どこか痛めたか?」
最初に心配したのはそれだ。
普段とは違う行動、決められていない行動を選手がとった場合、まず疑うのは身体の異常。これは私が監督を任されてから見つけた鉄則のようなものだった。
「違います」
水鳥はしっかりとした口調で否定する。
ひとまず、胸をなでおろしたが。
「・・・」
彼女の何とも言えない表情を見ると、安心してばかりもいられないと思った。
「どうした」
改めて、もう一度聞く。
「納得していない、という顔をしているな」
彼女の表情を曇らせ、下唇を噛ませているその原因を。
「私は、まだ走れます」
水鳥が、すぐに話し出す。
痛みを我慢できない・・・とは少し違う、不満を言わなきゃ済まないと言った口調で。
「まだ強いショットも打てるし、疲れだってそんなに感じてません。まだやれるんです。まだ、全然暴れ足りてないんです。全力を出し切っていないんです」
彼女の細めた視線の先に映るのは、恐らく。
「私は、まだ戦えるのに・・・!」
前の試合で―――全てを出し切って試合を終えた、"藍原有紀の存在"だろう。
「なのに、負けたんですっ」
水鳥自身、藍原の試合を頭からずっと見ていたわけではない。
だが、試合後の会場の雰囲気や、藍原本人の様子を見れば、だいたいの事は察することができる。
鋭い洞察力を持った水鳥なら、尚のこと。
「負けたことは自分の実力不足だって分かってるんです。でも、私はっ」
―――私は、驚いた
「負け方に納得がいかないッ・・・!!」
嗚咽を漏らすように、それを言葉にする彼女に。
「自分に腹が立つんです!」
顔をくしゃくしゃにさせて、涙の零れない泣き顔をしている、1年生に。
(この子は、ここまで成長したか)
数か月前、初めての実戦で水鳥を使った際、勝ち試合だったものの粘り弱く逃げの姿勢を見せた彼女を、私は叱りつけた。
あの時、内容はどうあれ勝てば良いと考えていた水鳥文香。
それがどうだろう。
彼女は今、負けた結果より、その負け方に納得がいかないと、私の前で顔を歪ませて悔やんでいる。
―――彼女を、ここまで押し上げたもの
それは、誰の目にも明らかだった。
(藍原の存在・・・か)
彼女がレギュラーを獲らなければ、はたまたこの子の近くに居なかったら。
水鳥文香はここまで強くなることが、成長することが出来ただろうか。
藍原の成長スピードは目を見張るものがある。
だが、水鳥もそれに負けじと彼女の前を走り続ける。それは恐らく、マラソンでいうペースメーカー的な役割を、お互いが果たしている結果なのだろう。
水鳥文香は天才である。テニスの天才だ。
その才能に成長スピードと言うギアが乗で掛かった今という状況。
これは指導者としての"勘"に過ぎないが、私には彼女がこの先、今の2倍、4倍、8倍と成長していく―――その曲線に乗ったように思えた。
「お前のその気持ちは間違ってない」
だから、私はその背中を正しい方向に押してやらなければならない。
「今の悔しさ、やりきれなさ、不完全燃焼・・・それを絶対に忘れるな」
勝手に成長していく選手など、居はしない。
「人間は忘れる生き物だ。強い感情も時が経てば経つほどに忘れ、薄れていく。明日、明後日、1週間後・・・今と同じくらいの熱を持って悔しがってみろ」
「・・・!」
特に、彼女たちはまだ人間としても未熟な中学生だ。
その子たちを放っておけるほど、私は無頓着な人間ではないと自負している。
「それが出来んのなら、またお前は同じ気持ちを味わうことになるぞ。テニスはそんなに甘い競技じゃない!」
天才は、"己の才能"というものに自信を持たせてはいけない。
才能という言葉は魔法だ。
自らを生かす薬にもなれば、堕落させる毒にもなる。
私は、選手に毒を与えることは絶対にしない。それが僅かな確率であったとしても、関係なく。
「はい」
水鳥は小さく呟くと、顎を引き少しジッと前を見据えながらコートの外へとさがって行った。
(悔しい経験には悔しい記憶を)
今の私の言葉で、その記憶はより深く、彼女の心に刻まれただろう。
(私のことなどいくらでも恨んでくれて構わん。それがお前の成長の糧になるのなら、いくらでも怒りをぶつけてくれればいい)
その証拠に、最後の返事をした時の水鳥の表情は全く納得などしていなかった。
それでいい。
今、ここで水鳥を納得させるような言葉をかけることが、彼女の成長に繋がるとは思えない。
(この負けを忘れるな)
自ら納得できない負け方だったと、私に直訴してきた試合。
最悪の記憶になった敗北。
それは間違いなく水鳥文香の心に残り続けるはずだ。
何故なら地区予選決勝、彼女は同じく敗北を喫したが、今のように怒りの感情を出すことなどなかった。
ただ、敗北という結果を受け止めきれず呆然としていただけ。
負けた悲しい、で終わっていた1年生が―――よく、僅か数週間でここまで。
「中学生は最高・・・か」
よく白桜へ取材に来る雑誌社の記者が、カメラのシャッターを連射させながら、そんな事を言っていたのが頭の隅を掠めた。
◆
「すみません、力になれませんでした」
コートから出た時、ぱちぱちと少なからず送られる拍手に、申し訳なくて頭を下げる。
「水鳥さん」
ふと、その声に釣られて下げていた頭を、すっと頭の上から繋がれた糸に引かれるように上げると。
「私が決めてくる」
すれ違うその人の顔は準備運動のお陰か少しだけ蒸気していた。
その顔に少しだけ見惚れていた刹那、彼女は私の肩に手を置き。
「それが先輩としての役目だから」
かと思えばすぐに放して、コートの中へ入っていく。
ほんの一瞬のやり取り。
私が何かに気付いたように後ろを振り向くと、もうその背中は見えなくなっていた。
「新倉さん、気合入ってたね」
「ですわね」
熊原先輩と仁科先輩の会話を聞いて、初めてすれ違ったのが新倉先輩であると意識する。
今さっきすれ違った時の彼女・・・新倉先輩は、私の知るあの人とはまるで別人のように感じられた。
物静かで、常に冷静沈着。後輩を受け入れる包容力もある。
私の中の新倉先輩はそんな、どこか柔らかさを持った人だった。
でも、今さっき感じたのは―――
(刃物のような"鋭さ"・・・)
あれは気のせいだったのだろうか。
あるいは、私自身が負けた後で、気が立っていたとか、少しナイーブになり過ぎていたゆえの勘違い?
「あの子が試合モードになった時・・・ちょっと、怖いよね」
「えっ」
熊原先輩が何気なく放ったその言葉に、思わず反応してしまう。
「え、あ、ごめん。私、変なこと言った・・・?」
「いえ。違うんです。私も今、同じような事考えててっ」
すぐに謝る熊原先輩に、私の方が平謝りになってしまう。
「先輩。1年生が困ってますわよ。あと、すぐに謝る癖、まだ治ってませんでしたのね」
「ご・・・、」
ごめん、と言う言葉を喉からなんとか出さずにお腹に押し込める熊原先輩は。
「なかなか、一度ついた癖って治らないじゃない」
繕うように違う言葉に変換して口から出す。
「それで、水鳥さん。試合モードの新倉さんが怖く見えますの?」
「はい・・・。普段はすごく優しくて柔らかい先輩が、なんだか鋭い刃物みたいに見えて」
こんな事を後輩の私が言うのは失礼だろうか、という自問自答を押し退けて、会話を続ける。
「まあ。私、貴女にも同じようなところがあると感じることがありますわよ」
そしてその言葉に、驚いて声も出なかった。
「普段、貴女、あまり周りの先輩に対して主張したり、反抗したりしないでしょう? それがコートの中に入ると、誰が相手だろうがぶっ飛ばしてやるーっていう雰囲気というかオーラを出しているように見えるというか・・・」
「良い意味でまりかや新倉さんと同じなんだよね」
「そう! 部長もそうですもの。普段はへらへらいい加減なように見えて、ひとたびコートに入ると気迫で気圧されそうになりますわ」
思わぬ形で、先輩たちの会話の花に水をあげてしまった形になったのは幸か不幸か。
私はさっきの言葉の衝撃で、未だに口を開けないでいた。
("貴女は私によく似ている"―――)
私はあの時、新倉先輩の言ったことの意味が、正直よく分かっていなかったと思う。
でも、今、改めて考えてみると―――あの言葉の意味が、少しだけ・・・じんわりと自分の中に広がったのが、感じられた。




