VS 黒永 ダブルス2 月下・日下生ペア 8 "あの日から、今日へ"
「藍原」
ふらふらと歩いていると、後ろから背中にぴたっと手を当てられ、小さく上下にさすられる。
「あと1ゲームです。しんどいでしょうけど、ここで終わらせてゆっくり休みましょう」
耳元で語り掛けてくれる先輩の口調はしっかりとしていて。
「はい・・・!」
わたしも、それに負けないくらいちゃんとした、強い返事をしたつもりだった。
「藍原。お前本当に大丈夫ですか?」
―――え
「何言ってるんですか。全然いけますよ。ラスト1ゲーム、頑張りましょう」
しかし、何を言ってもこのみ先輩の顔は曇るばかりだった。
心配そうに口を閉じて、少しだけう~んと何かを考えるようにしていたけれど、先輩は何かを思い切るようにカッと目を開き。
「そうです。ここが最後のゲームです。絶対取りましょう!」
言って、自分の所定位置へと走っていく。
わたしはそれをぼうっと見送って、ゆっくり相手コートの方へと向き直った。
(どうしたんだろう。先輩、様子がちょっと変だったな)
息を整えて、なんとか目の焦点を合わせる。
(まずはわたしのレシーブ・・・)
この状態でまともな返球が出来るだろうか。
サーバーは、背の低い方の選手―――力強いサーブを打ってくる方の選手だ。パワーとスピードで押し切ってくるタイプのサーブ。わたしは、それを―――
「ッ!」
全く、力の無い打球が飛んでいく。
相手サーバーはこの状況でも厳しいコースにサーブを叩き込んできた。
「15-0」
雨の音がうるさく聞こえてくる。その向こうから声援、応援、ボールの音・・・。ラケットの音だって。
「藍原、上がった!」
気づくと、頭の上にボールがあった。
チャンスボールだ。これを叩けば、1点入る。わたしは瞬間的にそう思って、スマッシュの姿勢に入る。
(いけ!!)
―――まずは、1点
前衛の後ろ辺りでボールは跳ねたが。
『威力が足りない!』
誰かの声が聞こえてきた。
その言葉の通り、スマッシュのバウンドが足りないのだ。敵後衛に拾われて、ボールはこのみ先輩の方へ。
「くっ!」
このみ先輩の返したショットが、今度は浅い。短いストロークになってしまっていた。
敵前衛はそれを狙いすましたかのように、強打してくる。
(返せる!)
だが、それもコースが甘い。
これなら返せる。わたしはそう思って、踏み込んで両手でそのショットを返す。
―――今度こそ!
さっきは上手くいかなかったけど、これならどうだ。
「ナメるなあ!!」
そう思った瞬間、前衛の選手が放ったショットがわたしの真横を抜けていく。
速く、強く、何より彼女の気迫に押されて、全く反応が出来なかった。
「よっし、どうだなのです!」
「凄いよ天才」
敵の選手2人がそう言ってハイタッチを交わしている。
あの人たち、試合前半は全然息もあってなくて、仲悪い感じだったのに。
(今は・・・)
すごく、活き活きとプレーしている。
2人の間にあった壁みたいなものも、無くなったように感じた。
あれ、おかしいな。
わたし達が勝ってるはずなのに―――
(向こうの方が、雰囲気が良い・・・)
どうして?
さっき、心配そうにこちらを見上げていた先輩の顔を思い出す。
原因は、わたし?
今の一連のプレーは、明らかにわたしが足を引っ張っていた。スマッシュは決めきれない、ボレーも上手く処理できない。それどころか。
(身体に、力が入らない・・・)
なんだ。
なんなんだこの状態。
おかしいよ。全身から力がどんどん抜けていく。
まるで身体に穴が空いて、そこからエネルギーがどばどばと抜け落ちている感覚。もう、体力は愚か気力まで、今のわたしにはほとんど残されてない。その証拠に―――
「・・・っ」
声が、出ない・・・!
何かを叫ぼうとしても、喉から空気だけが漏れて音として伝わらない。
まずい―――
5-5にされたら、7ゲームを取らなければならなくなる。わたしには、それを戦い抜くだけの体力は残されていない。
ここで絶対に試合を決める・・・。その心づもりで臨まなきゃならないのに。
―――このみ先輩がコート隅ギリギリのボールをどうにか拾う
「藍原、頼んだですっ!」
勿論、"次"には戻って来られそうにない。
正面に打たれたら、わたしが処理しなきゃならないのだ。それも、背が低い方である縦ロールツインテの女の子・・・あっちの、強いショットを打つ方の人のボレーを。
「返せるもんなら!」
わたしは右手をラケットに添えて、強打に備える。
前衛のこの位置からでも、返さなきゃならない。今のわたしに一歩、後ろに下がるだけの体力も余裕もない。この位置で―――
飛んできたボレーの強さに、逃げそうになるのを必死で我慢。
「返してみるのです!!」
ショットを全力で叩くが―――打球が、上がらない。
ネットにボールは引っ掛かり。
「40-15」
審判のコールが聞こえた瞬間、黒永の応援団が沸き立つ。
しばらく選手の名前を連呼した後、この試合何度が聞いた黒永の校歌を歌い始めた。
声援に、押し潰されそうになる感覚―――
「諦めんな、藍原」
「このみ先輩・・・」
「とにかくレシーブです。敵コートにボールを返しさえすれば、あとは私が!」
先輩の力強い言葉と、わたしの心は遠く離れていた。
そんな事を言われても、わたしだって必死でレシーブしているつもりだ。
だけど―――
(また、厳しいコース!)
ラケットを下から出して、拾い上げるようにサーブを返す。
弱く、短いストロークのショット。こんなものが通用するわけがない。
敵前衛に軽くボレーを、このみ先輩とは逆方向のネットから短い位置に落とされ、簡単に―――
「ゲーム、月下・日下生ペア。5-5!」
このゲームを落として、同点に並ばれてしまった。
(ウソ・・・)
わたしは思わずその場で座り込む。
もうだめだ。立てない。立ち続けることが出来なかったのだ。
「藍原さん・・・」
「もう限界なんだ」
白桜の応援からも、そんな声が漏れる。
わたしが限界なのは、もう周知の事実のようだった。
そうだよ。元々調子が悪かったのに、こんなに長く試合をしたこともなかった。もう、ここが限界なんだ。
わたしは、ここで―――
「姉御おおぉぉぉ!!」
次の瞬間、わたしの耳に聞こえてきたのは。
「何やってんスか、こんなとこで自分に負けるんスか!!」
随分と聞き覚えのある、"誰か"の声。
「入寮してきた日、言ってた事はウソだったんスか!!」
―――あの日のことを、少しだけ思い出す
「『わたしは白桜のエースになる』って! アンタ、レギュラーまで取っときながら、今あきらめるんスか!?」
彼女の声は掠れそうなほど強烈で。
「ここまで"ウチ"に夢見せといて、今更舞台から降りるなんて、そんなの認めないッスよ! アンタには―――」
大声援に呑まれそうになりながらも、それでも必死に張り上げられたその声が、
「最後までやり遂げる責任があるはずだ!!」
ようやく―――わたしの心に、届いた。
何も聞こえなかった、聞こうとしていなかったわたしは、真っ暗な闇の中に灯る光のように力強いその声に導かれて。
もう一度、上を向いた。
―――諦められない
今まで懸けてきた、全てに対して、わたしは向き合う責任がある。
逃げ出すことなんて許されるはずがない。
そのことを、思い出した。
(ありがとう、万理)
ゆっくりと折っていた膝を立たせ。
もう一度ふくらはぎと太ももに力を入れる。
(わたしの、最高の友達―――)
藍原有紀は、立ち上がった。
自分自身の力で―――燃えたぎるような意志で、再び。




