もう一つの表情
「ナイスサーブ、銀華!」
ベンチに戻ると、志麻がスポーツドリンクのペットボトルを持ちながら出迎えてくれていた。
「志麻がベンチに居るの、なんか新鮮だね」
「じゃのぉ」
これで3度目のエンドチェンジなのに、いつもと少し違う光景に戸惑ってしまう。
彼女からスポーツドリンクを受け取って、喉に流し込む。
「試合に出てなくても出来ることはたくさんあるから・・・。今日はそっちに徹しようと思って」
ふふ、と小さな微笑みを浮かべながら誇らしげに語る志麻を見て。
「この健気さが弥生にもあったらのぉ」
「この素直さが銀華にもあったらなぁ」
と、ほぼ同時に口にしていた。
それを瞬時に察知して、お互いの目を見遣る。
「あぁ?」
「なに、やるの?」
軽口のような感じで相手を挑発して。
(ま、でも)
―――こいつとじゃなきゃ、張り合い甲斐が無いんだけどね
どちらかともなく、そんな事を直感的に理解し合って小さな笑いが漏れる。
その様子を志麻は何も言わずに見ていてくれた。
こんな事はもう慣れっこ。3年間ずっと近くで見守ってきてくれた彼女だから、分かるのだろう。あたしと弥生は"いつも通り"なのだと。
「その様子だと、大丈夫そうだね」
「まあね」
「ちょっと心配してたんだ。過去2回負けた相性の悪いペアとの勝負だから・・・2人共、萎縮しちゃってるんじゃないかって」
志麻は胸を撫で下ろしたように安心した表情で。
「さすが黒永・・・ううん、全国最強のペアだよ」
そう小さく笑いかけてくれた。
(なんつー母性じゃ)
物凄い包容力・・・全てを包み込むような懐の大きさ。
このくらい余裕を持ってテニスが出来たら、どれほど楽なことだろう。
「志麻とダブルス組むと気持ちいいっていうの、ちょっと分かるね」
弥生もそう苦笑いをしていた。
「弥生ったら、銀華以外とペア組む気なんてないくせに」
「それとこれとは話が別だよ」
「2番目の女・・・圧倒的愛人感、じゃな」
「あー、それ言えてる」
「もう! 2人で束になっておちょくらないでよ~」
珍しくコート外で弥生と息がピッタリと合った。
怒った様子で文句を言う志麻には少し申し訳ないが、今のやり取りは気持ちがよかった。
(はっ・・・!?)
まさかこれすらも"気持ちよくさせる"技術の一環・・・!?
(こいつ、とんでもない女じゃ)
時折見せる底の知れなさを含め、魅力的な人間だと感じさせられる。
あたし達が志麻とじゃれていた、その時だった。
―――ぽつん
コートの上を、何かが跳ねたのが目に入る。
"それ"の正体をその瞬間に確信すると、自然と顔が上を向いていた。
「降ってきたのぉ」
その言葉とほぼ同時に、ぽつぽつと数えきれないほどの雫がコートの上で跳ねて、やがて小さな雫がコートの色を深くさせるまでにその範囲を広げていく。
「よし、いくか」
言ってから、弥生と同時に駆け足でコートへ戻っていく。
しかし、このぱらつく程度の小雨では試合は止まらない。
多かれ少なかれプレーに影響は出るだろうが、仕方がない。割り切って続けるしかないだろう。
「久々に雨の中での試合じゃ」
「この都大会中はずっと暑かったし晴れてたからね」
気持ちいいシャワーくらいに頭の中で留めておいて、普通にプレーするしかない。
雨天の試合経験なんぞいくらでもある。これくらいでどうにかなるようなヤワな練習はしてきていない。
少なくとも、あたし達は。
(さあ、この雨がどう出るか)
この膠着した試合状態を変える一手になるか、それとも―――
◆
試合前、3年生が輪を作って3年生同士で決起しているところを、あたしは遠目から見ていた。
大会登録メンバーの2年生はあたしと月下だけ。どちらかがどちらかを誘って何かすればいいんだろうけど、相手が月下だからそんな気にもなれなかった。
(あいつ、元々物静かなタイプだし)
テニス以外の事で、なんて話しかけたらいいかもよく分からない。
「そういやどこ行ったんだろ」
いつも先輩たちと一緒に居るのに、今日ばかりは先輩たちの輪の中に月下の姿が無い。
「あれ、佳恋、どこ行くの?」
「んー。ちょっと月下探してくるのです」
「時間気をつけてねー。スタメンが遅刻なんかしたら大変だよー?」
分かってる、と生返事のような返しをして決勝戦の会場から離れていく。
同じようなコートが何面もある会場だ。自分がどこに居るのか、なんとなく分からなくなりそうな気もするけど、大体人が多いところを目指していけば迷うことは無いだろう。
「しっかし、ホントにどこ行ったのです・・・?」
普段ぼやっとしてるところもあるし、まさか迷ったんじゃ。
(ひひひ。泣きそうになってるとこ見つけてからかってやろ、なのです)
そう言う邪な考えが頭を過ぎり、その姿を想像して笑いがこみ上げてくる。
仏頂面の月下がおどおどと脅えていたらさぞ楽しいことだろう。
「あ、」
その瞬間に。
(見つけた)
丁度、月下の姿を見つけた。
こっそりと気づかれないように接近する。
ある程度のところまで近づくと、あいつが何をしていたのかが見えてきた。
「おねえちゃん、頑張ってね!」
「これ、私たちで作ったの。お守り!!」
「わぁ。すごいね神社のお守りみたいだ。ありがとう」
月下は嬉しそうに笑うと、そのお守りをぎゅーっと握りしめる。
「みんなでいっしょうけんめー作ったんだよー」
「紐はあたしが結んだ!」
「嬉しいよ。さっすが、私の妹たちだね」
あいつは妹の1人の頬を撫でると、そのまま他の妹たちの頭を順に撫でていく。
「よし、このお守りのお礼に今度カレーを作ってあげるよ。お肉いっぱいのやつ」
「え、お姉ちゃん、家に帰って来れるの?」
「ちょっと先の話になるけど、大きな大会が終われば少しくらい時間に余裕が出来るかもしれないんだ。それにみんなが良い子だから、私もお姉ちゃんとして何かしてあげたくなっちゃった」
「わー、やったー」
「カレー!」
「お肉ー!」
きゃいのきゃいのと騒ぐ子供たちは少女というにはまだ幼すぎるくらいの年齢に見える。
背の高さから比べても、月下の半分くらいの年齢・・・と言ったところだろうか。
「約束ねー」
「うん。約束」
その妹たちを見つめる月下の顔は・・・どこか満ち足りていて、幸せそうで。
(あんな表情、見たことない―――)
戦いを忘れた、あれが本当の月下の顔なんだろう。
テニス部じゃ絶対にあんな表情はしない。いつも戦闘モードのスイッチが入っているんだ。
そうじゃない、今の顔を見たから改めてわかる。
「待っててね。お姉ちゃん、がんばるから」
あたしはなんだか途轍もなく悪いことをしているような罪悪感に襲われて、その場をひっそりと立ち去った。
(なによ)
こんなことなら、あいつを探しになんて、くるんじゃなかった。
月下のあんな表情なんて。
(見たくなかった―――)
何。何なのこの気持ち。
心の中がざわざわとして、すごく不気味。あたしがあたしじゃないみたいな感覚すら覚える。
知らない。
あたしの知らない"何か"が、心の中に棲んでいるようで―――
「―――ッ」
そんな言いようのないものを振り切るように、あたしは上を見る。前を見つめる。
こんなの、あたしじゃない。
『これ』は、あたしの気持ちじゃないんだ。
◆




