決戦前夜の静けさと
「総監督、全員分のノートをお持ちしました」
私は1軍選手30人分のノートを手に、監督室のドアを叩く。
「入りなさい」
中からの返事を確認して、木の扉をぎぃっと開ける。
ここは選手寮の最上階―――選手の部屋はこの階には存在しない。
黒永学院女子テニス部の監督室がここにあるのは、"総監督"である黒中ゆかりの権威の象徴であり――この学校で最も権利と責任を背負う役職の1つが、女子テニス部の総監督なのだ――黒永学院創始者一族であることを誇示するためでもあった。
「先輩方は皆さん、あの練習メニューをこなした後、こんなノートを書いているんですか」
「これも1軍の練習の一環です」
監督は私が机に置いた30冊のノートをぽんぽん、と叩くと。
「今の自分を超えるには自分を客観的に分析し、強くなるための方法論を『自ら』考えなければならない。それが出来ない選手は黒永の1軍には必要ない・・・」
一瞬、私の顔に目を遣り。
「誰かに命令されないと動けない人間は、所詮それまで。やらされるのではなく、『自ら』やる子を評価するのが私の指導方針よ」
にやりと口角を上げ、1番上にあったノートを広げた。
「今のチームは監督の育成・指導の賜物ですものね」
「今年の黒永はここ10年で最強のチーム・・・」
彼女は座っていた背もたれつきの回転いすをくるりと回し、窓から月を見上げながら。
「これだけの戦力を与えられて全国優勝できなかったら、私は笑い者です」
こちらの方向では窓から外を見ているあの人が、今、どんな表情でその言葉を言ったのか、窺い知ることは出来ない。
だが、声色から察することは出来る。
―――混じりっ気のない、真剣な声
今の言葉にまったくの偽りがなく、過不足なく本気である何よりのしるし。
「白桜戦は"関東大会の0回戦"、そういうつもりで戦うわ。あの子たちも、ここが終着点だとは思っていないでしょう」
「監督、1つよろしいですか」
現チームは最高にして最強。
ハッキリとそう言い切る彼女に、聞いてみたいことがある。
「私の存在はいつまで隠しきるおつもりで?」
そう問うと、監督はこちらを見ないまま、月を見上げる姿勢を崩さず短い沈黙を挟んだ後。
「しかるべき時が来たら・・・貴女にも舞台を用意しましょう。それまでは」
「今のままで、そういうことですね」
貴女がそう命じるのなら、私は何も言わない。
それは貴女に付き従うと決めた時から一切変わっていない私の気持ちでもある。
この人が隠し通せと言うのなら、喜んでその命を全うしよう。
「ここへいらっしゃい」
回転椅子ごとこちらへ振り返った監督が、ぽんぽんと膝の上を軽く叩く。
私はお預けを食らっていた犬が飼い主に良し、と言われたときのように。待ってましたと言わんばかりに、かと言って駆け寄るような下品な真似はせず。一歩ずつ、彼女の下へと近づき。
その膝の上にすとんと座り、彼女に身体の体重をすべて預けた。
◆
テニス部寮から少し離れた、監督室のある棟。
私は2階にあるテニス部監督室の前でふう、と息を吐くと、ゆっくりとドアノブをまわして扉を開けた。
(暗い・・・?)
部屋の中は灯りが点いておらず、ほとんど真っ暗な状態だった。
おかしい、この時間はまだ監督が居るはずなのに、と不思議に思っていると、部屋に奥にぼんやりとした光が漏れているのが目についた。
その光に向かって、恐る恐る、一歩ずつゆっくり近寄ってみる。
「篠岡監督」
結果的に言うと、その光の正体は間接照明だった。
その光の下で佇んでいる彼女は、上が白のワイシャツというラフな格好で、机の上にある資料をいくつか手で探っていたのだ。
「小椋コーチ。今日はもう帰ったのかと」
「帰ろうかとも思ったんですけど、もう少し貴女と話がしたくって」
「私と・・・?」
いぶかし気な表情をした後、監督は部屋の照明を着けようとしたのだろう。ゆっくりと席から立ち上がろうとするが。
「このままでいいですよ」
今はその間合いすら、煩わしい。
それに、良いムードじゃないか。
暗い部屋で、間接照明だけ点けてお話をするなんて。
「いよいよですね」
「ああ」
「長かった都大会も明日で決着。何より・・・」
「あの子達の前に幾度となく立ちはだかってきた、黒永との最終決戦」
都大会決勝より、そちらの意味合いの方が強いだろう。
特に、今の3年生にとっては。
勿論、関東大会でぶつかる可能性もゼロではない。しかし限りなくゼロに近い確率だ。何故なら。
「関東大会の、シード権―――是が非でも取りたいですね」
そう。
都大会の優勝チームには、それが与えられる。
そしてそれはこの白桜にとって、特別な意味を持つ。
「久我さんのくじ運を加味すると、シード権なしに関東大会を勝ち抜くのは難しいでしょうから」
篠岡監督はただゆっくり、何も言わずに1度うなずいた。
久我さんのくじ運が致命的に悪いのは、もはや周知の事実だ。
この都大会ですら、白桜は第2シードであるにも関わらず厳しい対戦相手との試合が連続した。
都大会よりレベルが上がる関東大会で、シード権を得られず戦わなければならないとすれば。
関東でも指折りのチームがひしめく死のブロックに投げ入れられる可能性が高いのは否定のしようがない。
しかし。
「それもある。だが、私は―――」
この人が考えていたのは、そういう"先の話"ではなかった。
「3年生たちに、一度でいいからあの黒永に勝たせてやりたい」
ただ、目の前の試合のことだけを。
「どんな形でも良い。運がよかっただけと言われても構わない。あの子たちに、あの子たちの努力に『結果』を与えてやりたい」
それは彼女たちを3年間、最も近い位置で見続けてきたこの人だから言えることなのだろう。
私も、その手伝いはしてきたつもりだった。
だけど。
(そこまで、あの子たちを想って―――)
私はまだ、足りていなかったのかもしれない。
「入部の時からいわれなき非難を受けてきた子たち・・・時に"落ちこぼれの世代"と揶揄されても、あの子たち自身は一度もそれを受け入れた事など無かった」
「綾野五十鈴選手が東京都中の有力選手を勧誘して黒永に入学したこと。その事が、あの年の受験において主に東京都内からの一般入試を例年より厳しくして、地方からのスカウト組を優先的に入学させることに繋がったんでしたね」
その時からの"因縁のライバル"。今まで一度として勝てなかった相手だから。
さっきの監督の言葉へと繋がったのだろう。
どんな形でもいいから勝ちたい、と。
「その為に明日はこのチームの全戦力を投入するつもりだ」
「はい」
「必勝態勢―――黒永に勝つ為の、ありとあらゆる術を尽くす」
この人の事だ。きっと、基本的な戦術は変わらない。
今年の夏、得てきたもの。戦ってきた戦い方で、黒永と真正面からぶつかる方法を選ぶはずだ。
今更じたばたしても仕方がない。
白桜は白桜のやり方で、最強の敵に勝つ―――
(そうですよね、監督)
だからきっと、大丈夫。
都大会決勝まで来られたこのチームだから、胸を張って言えるんだ。
今年の白桜は、間違いなく―――"強い"!




