光芒
しとしとと降り続く雨が全身を濡らしているのに、ちっとも涼しくない。それどころか不快感と服の重みが身体から体力を奪っていく。
これなら日本晴れの中、茹だるような暑さと容赦なく差し込む日光に晒された方が幾分かマシだった。
「はあ・・・、くっ」
身体に力を入れようとするが、もう上手く全身に力が伝達しない。そんな体力は残されていなかった。
前衛に居る八重は私の比ではないほど消耗しきっているはずだ。
持ち味のスピードが、ほとんど出ていない。
―――だが
(条件は相手も同じ!)
この雨を苦に感じているのは何もこちらだけじゃない。それは初瀬田のダブルス1ペアとて同じなはず。
その証拠に向こうの前衛だって肩で息をしている。ここを凌いでデュースに戻せば、まだチャンスはある。
粘り強く、淡々と。もう一度チャンスを掴めば・・・!
―――そこで敵後衛の放った長いストロークのショットが
「!」
―――読みと逆を突かれた
雨と疲れで参っている時の、ほんの一瞬の判断ミスだ。
(まずい!)
ここで、八重を抜かれたら―――
(間に合―――)
逆方向に走り出そうとした瞬間だった。
目の前の景色が―――一転する。
まるで天井と床が急にひっくり返ったような感覚。
次に気が付いた時には全身の左半分に強烈な痛みが駆け巡っていた。
頭を打たなかったのが、不幸中の幸い。
―――聞こえてくる
大きな声援と。
それと同じくらいの大きさの悲鳴が。
「部長さん・・・」
倒れていた私の顔の前に、小さな手が差し出されていた。
だが、私を呼ぶ声はとてもか細く、震えていて。
「負゛げちゃっだッ・・・!」
八重自身も、私の前でぺたんと座り込み、下を俯いてしまった。
「ゲームアンドマッチ、ウォンバイ、松本・折鶴ペア。7-6」
その宣告を受け入れる余裕など、身体的にも精神的にも、どこにも無く。
ただただ、私は倒れ、大粒の雨を跳ね返すコートに顔半分が溺れかけているように張り付いたまま―――動くことが出来なかった。
◆
「部長は大丈夫なんですか!?」
「頭は打ってないみたい。今、大会本部のテントで治療を受けてるって」
そう報告してくれた小嶺切の声にも、力が無かった。
彼女たちは勝ったはずなのに―――
コンクリートに近いハードコートは、確かに濡れると非常に滑りやすい。
雨脚が強くなったことに加えて部長の件もあり、今、試合進行はストップしている状態だ。
とはいえ、シングルス3までの試合は既に終わっている。
2勝1敗―――あと1勝すれば、ワタシたちの3位が決定するところまで来た。だが。
(シングルス2を落とせば・・・)
嫌でも頭の中を掠める。
そして、視界に入ってくるのだ。
(―――鏡藤風花)
彼女が精力的に味方に声をかけ、最前線で必死に応援している姿が。
だから、今、緑ヶ原のみんなに心なしか元気がない。
いくら考えるのをやめようとしても、考えてしまう。ここで負けたらシングルス1はあいつが出てくるんだ、というその事実が。
みんなそのことを口にしないけれど、確実に考えているはずだ。考えないわけがない。
「センパイ!!」
そこで大きな声を上げたのが―――
「任せてください。次にはまわしません!」
雛、だった。
彼女は自らの胸の辺りをぐっと力強く拳で打つと、ハッキリと前を見据えてそう言った。
(なんて精神力・・・!)
チームのほぼ全員が委縮しているところで、この子はまったく怖がっていないどころか、いつ始まるかとも分からない次の試合に向けて高い志気を保ち続けている。
「べ、別にシングルス1にまわろうとも、ボクが鏡藤を倒しちゃいますけどね!」
「えーホントー?」
「内心超ビビッてたりたりー?」
「全然っ、ビビッてなんてないでしゅし!」
その強い想いが伝達したのか、言葉少なだった他の選手たちに、元気が戻ってきた。
少なくとも、軽口をたたく余裕が出てくる程度には。
「あ・・・」
そこでワタシは、不意に空を見上げる。
「雨が止んだ―――」
朝から空を支配していた厚い雲の切れ目から、陽が差し込んできた。
まるで雛が強い想いを吐露したのを、待っていたかのように。
大会役員の人達が、コートの上の水を除去する作業を行い始めた。
そしてそれから数分も経たないうちに、シングルス2開始のアナウンスが流れたのだ。
「行ってきます。私の手で、関東大会出場を掴んできます!」
雛は力強く言う。
チーム全てを背負う覚悟―――エースの覚悟と、共に。
「雛」
その彼女に、ワタシが言うべきことは。
「行ってらっしゃい」
その一言、だけだった。
「はい!!」
雛の勢いの良い返事とほぼ同時だっただろうか。
「頑張れ雛ー!」
「行こうよ関東大会!!」
「決めろー!」
応援にも勢いが出始めた。
これが雛のすごいところ・・・観衆を味方に付ける、彼女の最強の武器。
(貴女に任せるわ。雛・・・!)
この試合、絶対に目を逸らさない。
だってワタシの『いちばん』である雛が、あんなに頑張っているんだ。
最後まで見届けよう。
そして。
このみんなで、次のステージへ―――
◆
「ゲームアンドマッチ」
数秒間、観衆が静まり返った。
それは沈痛―――そんな雰囲気を具現したかのような重い、重い静けさ。
「ウソだ・・・」
「こんなのないよ」
「雛が、」
そしてその後に訪れたのは。
「負けるなんて」
熱狂する観客の声と、緑ヶ原応援団の悲鳴の波だった。
「だ、誰!? 初瀬田のシングルス2!」
「あの選手、準決勝には出てなかったよね・・・!?」
まわりの人たちはまだ、目の前の光景が信じられない。
そんな感じだろう。
だけど、私の考えていることは違う―――
(間に合った―――)
その嬉しさと、達成感と、安堵感と・・・そして、"使命感"。
「あたし達の"子"が、やってくれたね」
隣で見ていた響希ちゃんとを繋いでいた手に、力が入る。
指の一本一本を絡める握り方、その指の1つ1つが温かく、強く。私達は同じことを考えているんだと実感できて、心が躍る。
コートの上に立っている、"あの子"に目をやった。
「この試合が終わったら、うんと褒めてあげなきゃね」
1週間前はロクに試合も出来ない状況だった"あの子"が、緑ヶ原の新倉雛に勝った。
そのことがあまりにも嬉しく、まるで自分の子供が運動会で大活躍しているのを見ているような。そんな気分にさせてくれる。
「みんな、ありがとう。私にまわしてくれて」
響希ちゃんと手を繋いだまま、部員全員の前に立つ。
そして、絡めた手を一本一本解いていき。
「私を見ていて」
その解いた右手で、ラケットを握り金網フェンスをくぐる。
「私のテニスを―――!」
さあ、いこう。
私が自らの手で―――この試合の勝利を掴む!
誰よりも愛しい、貴女の為に。
◆
「まだだ! まだ負けてない!!」
そこで一番大きな声を出していたのは、戻ってきたばかりの最上選手だった。
「この試合、崩せるぞ! 行って来い梶本!!」
「梶本さん! 全然いけますよ!」
「梶本せんぱーい!」
コートに立つ梶本選手の姿はとても小さく、大きな大きな声援に押し潰されてしまいそうなくらい、緊張していた。
そんなの、誰からの目にも明らかだったのだ。
(目を逸らさないぞ)
ここでレンズから目を放したら、カメラマン失格だ。
どんなに辛い場面でも、どんなに悲しい描写だろうと、そこにある真実をそのまま撮るのが私の仕事。
試合会場は梶本選手への必死の応援と、彼女―――鏡藤風花への期待の声で、今まで見たこともないような雰囲気に包まれていた。
その試合で、私たちが見たのは―――
ただただ、ひたすらに強い。
とても華麗で、まるで舞踊をしているかのように艶やかな―――
鏡藤風花のテニスだった。
「すげえ・・・」
口から思わず、そんな言葉が零れて。
「すげえすげえすげえ!」
それが止めどもなく、堰を切ったかのように溢れてくる。
(今の風花ちゃんの強さは・・・!)
まさに、『エース』の名に相応しい―――最高のプレーだ。
この異様とも言える雰囲気が、彼女をもう1つ上のステージに上がらせた。
ギア全開、最初からトップスピード。
梶本選手が弱いわけでは決してないのだろう。
だけど、今の風花ちゃんに比べれば、やはり劣ってしまっているのは・・・ううん、違うな。
―――それほどまでに圧倒的なパフォーマンスを、風花ちゃんがしているんだ
シャッターを押す指が止まらない。
一時たりとも、この瞬間を漏らしてなるものか。
この試合を画像で表現するのが私の仕事なのだが―――
これほど動きを見せられないというのが惜しいと思ったのは初めてだ。
「いけえー!」
「まだまだここからだよー!」
そんな応援が緑ヶ原側から出る。
しかし。
その声を"受け流す"ように―――
(出た!)
鏡藤風花のラケットから放たれたショットは、ふわりと舞い上がり。
ぽとりとネット際に落ちた。
"鏡"の乱反射―――
それさえも、今の風花ちゃんは自由自在にコントロールしている。
相手の梶本選手が必死になればなるほど、力を入れれば入れるほど。"鏡"の威力は増していく―――
(すげえ! これが!)
このプレーこそが―――
「ゲームアンドマッチ、ウォンバイ鏡藤」
この"結果"こそが―――
「6-0!!」
ただひたすらにチームを勝利へと導く、『絶対的エース』の証だ―――
戦いが終わるなり、コートをすぐに出て部長の七本さんと抱き合う鏡藤選手。
その顔は既に、先ほどまでのただ勝利を追い求めるテニスプレイヤーの表情から―――恋人と喜びを分かち合う、女性の表情になっていた。




