その夜のこと
辺り一面、真っ暗闇。
何も見えない、辛うじて遠くで寮の灯りが見切れている程度だ。
その一面黒の世界で、ただ風を切る音が聞こえる。ラケットが空を切る音だけが。
「懐かしいね」
私は昔話を始めるような軽いトーンで、1m先も見えない暗闇に言葉を投げてみる。
「1年の頃はよくここでひたすらラケット振ったよね。2軍の1年生が夜に練習できる場所なんて、ここしかなかったから」
「・・・その声、真緒?」
そしたら、何も見えない正面から返事が来た。
「私だよ、このみ」
だから私も彼女の名前を呼ぶ。
最初から誰がやってるかんて、分かってたけど。
「なんだ、ビックリしましたよ。居るなら居るって言ってください」
「ごめん。私そういうの苦手で」
「昔から真緒は天才ぶって孤高キャラ気取ってましたからね」
「なんだとー」
こんなやり取りを軽く出来るのも、このみだからこそって感じ。
この子は、本当に相手が傷つくことは言わないから。
(そういうところに、藍原は懐いたんだろうな)
後輩にモテる処世術ってわけか。私も見習わなきゃな。
「あの頃はただ不安だったよね。誰も1軍に呼ばれなくて。ラケット振ってなきゃ不安で不安でしょうがなかったから、みんなで集まって練習始めたんだった」
「それが、私たちをここまで押し上げてくれたんですよ」
言って、もう一度このみはラケットを振るう。
「今日はみんな試合やってるから、疲れてるしオーバーワーク回避のために練習を禁じられてる。試合に出てない私が練習をするのは・・・当たり前ですよッ」
そして、もう一度。
力を込めて彼女は腕を振った。
「だからってここで練習しなくても、コーチに言えば室内練習場使えるのに」
「ここへ来て、初心を思い出したかったんです。それに―――」
このみが今、どんな表情をしているかは分からない。
「試合に出られて当たり前・・・、そんな風に考えていた自分への戒めでもあるんですよ」
多分だけど―――思い切り下唇噛んで、泣きそうなくらい必死な顔してるんだろうな。
(それだけ悔しかったか)
―――藍原がシングルスで試合に出れば、このみの出番がなくなるのは当然と言えば当然だ
それを、この子は自分の中で受け入れなかった。
その現実と今、このみは戦ってるんだ。
「ふう。真緒は何しにここまで来たんですか」
「それ、聞く?」
軽く笑いながら言って、私は後ろ手に回していた右手―――ラケットをすっと構えた。
「試合に出られなくて悔しいのはアンタだけじゃないんだよ」
私だって―――悔しい。
同級生や後輩があれだけの試合をしている中で、私だけが"控えで当たり前"の位置に居る。悔しくないわけがないじゃないか。
風呂で海老名にあんなこと言って焚き付けたのだって、自分の尻に火を点けたというか、自分を追い込んむ為なんだ。私は一度だって、レギュラーとして試合に出ることを諦めた事は無い。
「一緒にやろう」
周囲をちゃんと確認して、まずは軽く、フォームを確かめるように一度ラケットを振ってみる。
「勝手にしろ、です」
「言っとくけど、アンタにだって負けてるつもりも負けるつもりもないんだからね」
「真緒に勝ってると思ったことなんて一度も無いですよ」
こうしていると、嫌なこと忘れて目の前のテニスにだけ没頭できる。
なんか不思議だな。こんな感覚になったの、3年生になってから初めてかもしれない。
都大会もいよいよ決勝戦・・・自分に出番がまわってくるかは分からない。だけど。
―――1人のプレイヤーとして、出来ることを最大限に
その気持ちが萎えたことは片時も無かった。
◆
部屋に呼び出しを食らった。
「あ、あの。お邪魔します・・・」
「おお、いらっしゃい」
他でもない―――
「藍原ちゃん」
部長から。
「今、1人だから。そこ座っていいよ」
部長は学習机のような大きな机からすっと立ち上がって、平場になっている床に手を向ける。
「あ、あの・・・!」
でも、そんな事出来るわけないじゃない!
「わたし、何かしてしまいましたか・・・!?」
部長だよ?
部長のお部屋にお呼び出し食らってるんだよ?
ド緊張でやばい。なんか普通にしててもいいか分からないし、寧ろ普通にしてるってなんだっけって思う。
「いやいや、違う違う。違うんだよ藍原ちゃん」
「は、はひ!?」
「ここへ来てって話は誰から聞いたの?」
「み、瑞稀先輩が部長じきじきのお話があると・・・!」
言われたときのことを思い出してみる。
『藍原、あんた、部長が部屋来いっつってたよ。粗相のないようにね』
ダウナーな雰囲気で、ほぼ棒読みのまま、夕食中にそれを言われたのだ。
それから先、美味しいご飯があんまり喉を通らなかったよ。あれだけ動いた後なのに。
「咲来ぁ、河内さんに言伝頼むのはまずいって・・・」
部長はあちゃー、と言ったように右手のひらで顔を押さえて頭を抱えてしまっていた。
「私が藍原ちゃんをここに呼んだのは、約束を守るためだよ」
「約束、ですか・・・?」
「覚えてないの?」
「な、なんでしたっけ」
分からない、という意思を表して両手を広げてみる。
部長、呼び出し、約束・・・、えと、なんだっけな。約束、うん、約束・・・。頭をフル回転して思い出そうとするが、なかなか引き出しが開かない。
「藍原ちゃん、ファーストキスの経験は?」
「え゛っ。無いですよ!」
急に言われて、変な声が出る。
「じゃあ」
部長はそう言うと、ぐいっと抱き寄せるようにわたしの顔を近づけて。
「―――」
おでこに、ちゅっと唇が触れるだけのキスをした。
「!?」
あまりに突然のことに、頭が真っ白になるを通り越して、いろんなことが頭を過ぎって大混乱に陥った。
(い、今・・・!?)
何されました・・・!?
「約束、果たしたからね」
「約束・・・!?」
「昨日の練習の時、試合で勝ったらキスしてあげるって言ったでしょ?」
それを言われた瞬間に、がーっと頭の中にもっといろんなことがフラッシュバックして来て。
ようやく、その記憶に辿りつく。
シングルスの練習を部長とした時、そんな事を言われた記憶に。
「あ、あれ、本気だったんですか・・・!?」
されるがままにおでこにちゅーされた後に言うのもなんだけど、あんなのあの場限りの冗談だと思っていた。わたしだって本気でされると思って返事なんてしてなかったし。
それが―――
2人きりの私室でキスって。
「わ、私は本気だったんだけど」
言って、少し恥ずかしそうに頬をかく。
ぶ、部長におでこにちゅーされちゃった。
こんな美人で優しいお姉さまタイプの年上の女の人に、キス。キス、キスとか・・・!
急に恥ずかしくって、顔が熱くなっていくのを感じる。
「ごめんね藍原ちゃん。顔真っ赤だけど、大丈夫?」
「ふぁ、ふぁい・・・」
「1人でちゃんと部屋まで帰れる?」
ふわふわした感覚。本当に変な感覚がする。地に足がついてないってこういうことなのかな。
確かに今、わたしは地に足なんてついてないだろう。放っておいたら風船みたいにどこまでも高く飛んで行ってしまいそうな。
「む、無理っぽいです・・・」
わたし、風船なんでちゃんと紐持っておいてください。
そんな意志が伝わったのかどうか分からないけれど。
「部屋まで送るよ」
部長は顔を赤くしながら、下を向きながらもわたしの手をしっかり繋いで、そう言ってくれた。




