VS 緑ヶ原 シングルス3 新倉雛 5 "本当のあたし"
センパイの言ってくれたことで、1つ大きく心に残ったものがあった。
「雛、怒りに呑まれてはダメ」
寝る前のミーティングを寮の一角、あたし達2人の部屋で行っていた時のこと。
センパイはひどく真剣な表情でそう言うと、人差し指を立てて念を押すように。
「確かに"あいつに勝ちたい""あいつを見返してやりたい"という激情は、スポーツをやる上にとって一種のモチベーションにもなる、大事な感情だと思うわ。時に何物にも代えがたいような大きな支えになったりする、まさに『怒りの炎』とも呼べるもの。それは間違いない」
彼女はあたしの中にある1番の感情が、それである事を十分に理解してくれている人だ。
だからこそ―――
「でもね、それだけじゃ足りないの」
「足りない・・・?」
「ごめんなさい、言い方が悪かったわ。それだけじゃ、いつか限界が来る」
センパイは1つ1つ、言葉を選んで。あたしに言い聞かせるようにゆっくりと話す。
「怒りや嫉妬、恨み・・・それらは負の感情よ。雛、あなたが3年間、中学テニスをやり続けようと思うのなら、それ以外にやりがいや目標、夢を持たないと」
「目標、夢」
そんなの、考えたことも無かった。
過去の自分と決別する、それが全てのあたしにとって、その先のことなんてどうでもいいと思っていたからだ。
「今のままでは、新倉燐を倒すと言う目的を達成した後、あなたは『空っぽの人間』になってしまう」
「!」
「それは誰も望んでいないわ。ワタシは勿論、あなた自身も・・・」
そうだ。
あたしには、何もない。
もしあの人を倒した時、その後。あたしはテニスを続ける理由なんて、何もなくなってしまう。
「その理由を、一緒に探していきましょう?」
「センパイ・・・」
「なに? 雛?」
センパイは。
どうして・・・。
「あたしなんかの為に、こんなにしてくれるんですか」
気づくとあたしは、声を震わせながらそんな事を聞いていた。
だって、分からない。センパイは、部内でもいろんな人に信用されていて、選手としても強くて。
そんな人がこんな入部して3カ月も経たない1年生の為に、付きっきりで居てくれるんだろう。
「雛・・・、わからない?」
「わかりません」
伏し目がちになりながら、あたしは吐き出すようにそう言って、センパイから視線を逸らした。
その瞬間―――
「っ!!」
真正面から、抱きしめられた。
優しく、優しく。それはまるでふわふわの綿菓子に包まれているかのような柔らかさで。
「ワタシにとって、雛。あなたは『1番』なの」
「いちばん・・・?」
「他の何より、あなたが『1番』大事。あなたを置いて、他のことなんて考えられない」
その台詞が、あたしの心に突き刺さった。
思えば新倉の家に居た時、あたしは誰の1番でもなかった。
両親、姉さんは勿論。
悠だって、あたしより姉さんのことを優先していたように思える。
愛情を感じなかったわけじゃないけど、あたしに向けられた愛情は他の人の次いででしかなかった。
でも、この人は。
「あなたさえいれば、他には何もいらない」
ハッキリと、そう言ってくれる。
他の誰かのついでじゃない、あたしの為だけに愛を向けてくれる。
「雛が唯一無二の存在だから、あなたには自分を大切にしてほしいの」
「あたしに、出来るでしょうか・・・」
「出来るよ。ワタシが好きな雛は、努力家で、何にでも一生懸命で、元気で・・・そんな雛に、出来ないことなんて何もない」
あたしの良いところを、何の迷いも無く囁いてくれる。
「・・・はい」
だから、あたしは。
この人の為に、変わろうと思う。
センパイのいう事を実行して、過去とは違う自分に、なりたい―――
センパイと一緒に、今までとは違う、より良い未来を生きてみたい。
そう思わせてくれる人と、確かに巡り会えたのだから。
◆
(来た! フラットサーブ!!)
狙い通りだ。
強く握りしめたラケットを振り抜き、それをレシーブする。
藍原はそれを短いストロークで返してきた。
ラリー戦になる前に、あたしを前陣に出して後方で粘られるのを防ごうとしているのだろう。
(だけど、決められる前に決めてやる!)
素早く前陣に上がり、弱いショットを掬い上げるようにラケットを前に差し出して返す。
藍原は決して足の速い選手じゃない。これを拾うには、向こうも同じように弱いショットで返すしかないはず―――
しかし。
「んだらっしゃあああ!」
藍原はネット際まで猛ダッシュしてくると、ラケットを下から出してその弱いショットをまさに下から上に放り上げるように返したのだ。
自身はダッシュの勢い余って、ネットに激突しそうになるほど。
ギリギリ踏みとどまったが、一歩間違えれば怪我に繋がりかねないほどの勢いと、そして無謀さを感じるプレーだった。
ボールはあたしの頭の上を完全に超えていき、コート後方でぽーんと跳ねる。
「40-30!」
後ろを見ながら、愕然とした。
「入った・・・?」
あんなムチャクチャなプレーで打ったボールが、コート内にインした。
偶然? それとも、今のだってちゃんと練習して覚えたショットだとでも言うのだろうか?
「雛ちゃんさ」
気づくと藍原が体勢を立て直し、すくっと立ちあがりながら。
あたしの目をしっかりと見つめ―――
「今、対戦してるの、わたしだよ?」
そんな事を言い始めるのだ。
「何を・・・」
「だって戦ってるのに、全然わたしのこと、見てくれないんだもん」
―――ッ!
瞬間、まるで雷でも食らったような衝撃が頭の中を走った。
「そりゃ燐先輩はすごい人だよ。でも、今、雛ちゃんと戦ってるのは、わたし」
「藍原、有紀・・・」
「ようやく、わたしの名前呼んでくれたね。わたしの方、見てくれた」
なんなんだ。
「わたし、雛とちゃんと勝負して、勝ちたいから」
「あ、あたしだって・・・」
「だから試合中くらい、目の前のわたしに集中してくれても、いいんじゃない?」
なんなんだよ、こいつ。
(あたしが、センパイのアドバイスばっか気にしてることも)
分かっている、とでも言うのだろうか―――
(そんなわけない)
そんなわけがないんだ。
でも。
こんな事を考えさせられちゃうっていう時点で。
見抜かれてるのと同じなんじゃないだろうか。
「あたしは・・・」
―――目的を達成すれば、あたしは空っぽになってしまうとセンパイは言っていた
―――じゃあ、そもそも『今のあたし』って?
―――今も、空っぽじゃないのか?
―――"誰か"の意志で"動かされてる"だけじゃ、ないのか?
「雛は?」
「あたしは・・・!」
「教えてよ。"本当の雛"は、どうしたいのか」
姉に勝ちたい、センパイの期待に応えたい、それは間違いなくあたしの意志だ。
だけど、それは最終的な目的や目標であって、今この時どうしたいか・・・それはこの2つじゃないはずだ。
最初から、分かってた。
こいつと同じコートに立ったときから感じていた苛立ち、ムカつくっていう感情。
それらはこの藍原に対する嫌悪感であると同時に。
「藍原有紀と、本気で戦いたい・・・!」
藍原に勝ちたい―――
そんな強い願いだったんだ。
それはテニスプレイヤーとしてこいつより強いことを証明したいと言う、闘争本能。
テニスが上手になりたいと言う、テニスプレイヤーなら誰もが願う純粋な気持ち。
「うん。わたしもだよ」
「勝つのはあたしだけどね!」
「わたしだって!」
「いいや、あたしだね」
「わーたーしー!」
ネット際でそんな会話をして、最後はお互いふんと顔を背けてサーブ位置、レシーブ位置へと戻って行った。
―――なんだろう
―――こんな風に意地張って、必死になって対抗しちゃって
「いくよ、雛!」
「来い!!」
―――あたしを1番に思ってくれるセンパイにと出逢った時と、同じ気分
―――新倉の名前とか、そんなの関係なく
―――"雛"と勝負して勝ちたいって言われたことが、"あたし"にとってこんなに大きなものだったんだ
ラケットを大きく振って、藍原のサーブを打ち返す。
(ああ、テニスって)
楽しいな―――




