河内瑞稀
瑞稀は意外と足が遅い。
「瑞稀っ」
とはいえ、テニス部のレギュラーだ。とんでもなく遅いとか、そういう事じゃなくて。
持久力が無いんだ。まだ1年生・・・、それもしょうがないのかもしれない。
食堂から出ると、遠くで瑞稀の赤いリボンが角に消えていくのが見えた。
あのリボンが見切れていなかったら、この時点で瑞稀を見失ってしまっていただろう。
―――ここからは、瑞稀とのおいかっけこ
夜の寮、本当は走っちゃいけない廊下、邪魔する人も見てる人も誰も居ないそんな月明かりの下で―――十分足らずだっただろうか。
瑞稀の手首をぎゅっと握るまでにかかった時間は。
「つ、捕まえたッ・・・!」
さすがに、息が切れる。
追いかける私が本気なら、逃げる瑞稀も本気だった。
この暗い中、一度も瑞稀を見失わなかったのは、きっと―――
「っ・・・、放してくださいっ!」
大きく肩で息をしながら、瑞稀は残った力を全て使って私から逃れようとした。
疲れでロクに上がらない左手を大きく振って、なんとか。
「放さない!!」
それでも―――
「絶対に放さない!!」
この手だけは、放すわけにいかなかった。
ここで放しちゃったら、きっと瑞稀とはもう二度と、あんな風にダブルスをすることも出来なくなる。
何故だか分からないけれど、私にはそのことが直感的に理解できていた。
理由なんてわからない。根拠なんて無いに等しい。だけど、瑞稀と一緒のコートに入った時、自分でもどうしてだか分からないのに瑞稀の気持ちが全て理解できている、あの時のように。
"このこと"だけは間違いないって、そう確信を持って言う事ができるんだ。
「・・・っ」
しばらくすると、瑞稀は抵抗するのをやめてくれた。
「逃げませんから、放してください」
しゃくりを上げながら、ぐじゅぐじゅの声で泣きながら、そう言う彼女の言葉を聞いて。
「うん」
私はゆっくりと、手を放してあげた。
「ごめんね、痛かったよね・・・」
本気だったから、手加減なんてしてあげられなかっただろう。
「・・・なんで」
瑞稀はまだ大泣きしながら、話を切り出す。
「なんで、追いかけてきたんですか」
「なんでって」
そっか。
そこから分かんないんだよね。
「瑞稀が好きだからだよ」
それ以外に理由なんて無いし、必要もないと思う。
「答えになってないじゃないですかっ」
「なってないかな?」
自分じゃ、その答えがよくわからない。
「でも、これが私の"ほんとう"だよ。瑞稀が好き・・・好きな人が泣いて走ってっちゃったら、追いかける以外に無いでしょ?」
微笑みながら、首を傾ける。
ただひたすらに、私の好意が瑞稀に伝わるように。
「あたしは、追いかけてきて欲しくなんかなかったです!」
だけど、瑞稀はその気持ちを受け取ってはくれなかった。
それも、手に持った"それ"を地面に叩きつけるように・・・明確な拒絶の意志を持って。
「どうして?」
「言いたくないですッ」
「私が、嫌いだから・・・?」
「そうですっ。きらいっ、先輩のことなんか、だいっきらい!」
うん。
「・・・っ」
結構クるねこれは。
大好きな人に、"嫌い"だって面と向かって言われるのってこんなに苦しいんだ。
でも・・・。
ここで諦めたら、瑞稀は私のこと、"きらい"のままだと思うから。
「瑞稀」
―――私はそんなの、
小さく呟くと、ぎゅっと瑞稀の身体を包み込むように抱きしめた。
右手で頭を抱えるようにして抱いて、左手は抱えるように脇腹へ差し込む。
丁度、秋口の寒い夜だった。
こうして抱き合っているには、丁度良すぎるくらいの肌寒さ。
―――イヤだ
黙ってずっと、瑞稀のことを抱きしめる。
腕の中の瑞稀はしばらく泣いていて、それから鼻をすすって、泣くのをやめて。
そうすると、小さく震え始めて。
―――瑞稀がどう思っていても、関係ない
まるで寒さに耐えきれなくなったように。
―――瑞稀に、私を好きになって欲しい
私の腰に手をまわして、抱きしめ返してくれた。
―――この気持ちがエゴや独善なら、それでも良い
―――ありとあらゆるものを投げ打ってでも
だから、私も瑞稀を包み込む腕に少しだけ力を加える。
―――『瑞稀の気持ちだけは、欲しい』
お互いに抱き合っている体勢の中で、胸の中で小さくなっている瑞稀が。
「誰かのことが好きだとか、憧れてるとか」
ようやく、話し始めてくれた。
「そんなこと、かっこ悪いじゃないですか。ダサいじゃないですか」
瑞稀はまだ半分泣いているような声で。
「他人に知られたくない。それこそ当人になんて知られたら、耐えられない・・・!」
瑞稀の"ほんとう"を。
「あたしは、ただ、それが怖くて・・・」
剥きだしになった『心』を。
「いいんだよ、瑞稀。それでもいいの」
「この気持ち、咲来先輩に知られちゃったっ。恥ずかしい、死にたい、もうやだ・・・」
「私は嬉しいよ」
自分の気持ちが、一方的なものじゃなかった。
「瑞稀が私のこと好きだって」
そのたったひとつの真実があれば―――
「そう、想ってくれて・・・」
これ以上のことなんて、何もいらない。
嬉しいとか良かったとか、そういう感情を超えて、身体が温かくなる。
またしばらく、無言の時間が流れた。
でも、その時間さえ心地よかったんだ。
痛くなるような沈黙・・・そんなものとは全く無縁の静けさ。
瑞稀と一緒なら、どんな時だって、こんな気持ちでいられる。そう再認識するのに、この時間は十分すぎるものだった。
「先輩のこと、ずっと好きでした」
瑞稀と身体を離して、向かい合うようになる。
彼女は少しだけはにかむように笑っていた。
(この子、こんな風に笑うんだ)
初めて見る瑞稀の柔和な表情。
「あの、肩ぶつかっちゃった時あったよね?」
「その頃はもうベタ惚れです」
瑞稀の顔が少しだけ赤くなる。
でも彼女は一切表情を隠さず、ただ少しだけ笑って、私の方を見てくれていた。
「そっかぁ」
じゃあ、もう全然最初から・・・。
私のこと、大好きだったんだね。
(あのつんけんした態度とか、ぜんぶ・・・)
好きの裏返しだった。
(・・・かわいすぎる)
ダメだ。これ、ダメなやつだ。
自分の頬が緩んでいるのが分かって、それでもどうにもできなくて。
「咲来先輩」
目の前に居るただ、愛しい人。
「にやけ顔も素敵ですっ」
その人が、私のことを見て笑ってくれている。
「瑞稀」
私はね。
「貴女のことしか、見えない―――」
◆
伸ばしたラケットのその先。
全然届かない、その向こう側へ。
「ゲーム」
ボールが通り過ぎていく。
「最上・楠木ペア。5-0」
その宣告を聞いた瞬間、頭の中からさーっと血が引いていくのが分かった。
(私、何やってるんだろう・・・)
私は色々なものを背負っていたはずなのに、その1つ1つがまったく思い出せない。
ただ頭の中はぐちゃぐちゃで、何も考えられないだけ。
真緒に何か一喝されたけれど、それすら耳から耳へ通り抜けていき―――
その瞬間。
「先輩!!」
彼女の言葉が、頭の中に鳴り響いた。
そして、左手を見ると。
「・・・逃げないでください」
がっちりと手首を掴む瑞稀の手。
その力具合が、何かを加減するような配慮が一切されていないことだけが理解できた。
「逃げないよ、私は別にどこにも」
「嘘です」
「ウソじゃないってば」
瑞稀、なに言ってるの。大体、どこに逃げるって言うの。
そんな事を言おうとした、その瞬間―――
「―――」
―――瑞稀の唇が、私のものと重なって
一瞬だけ合わさったそれはすぐに離れ、瑞稀はまっすぐにこちらを見据える。
「あたしの話、聞いてくれますよね」
その刺激と、瑞稀のまっすぐな視線が。
「・・・、」
合ってなかった目の焦点を、ピタリと合わせてくれたように。
「・・・うん」
頭の中のぐちゃぐちゃが無くなっていき。
真っ白だった視界が、霧が晴れていくようにクリアになっていくのが、手に取るようにわかった。




