黒永 vs 初瀬田 シングルス3 綾野 対 鏡藤 2 "奇跡の足音"
「風花、ナイスプレー! すっごくグッドだよ!」
ベンチに戻ってくる彼女を、両手の親指だけを立ててダブルグッドポーズを作りながら迎え入れる。
「響希ちゃん」
風花は水を受け取るよりも先に―――
「おっとと」
まるで倒れ込むようにあたしの胸にぎゅっと抱き着く。
そしてその後、背中に手をまわして力強く抱きしめられた。
「もう、甘えんぼなんだから」
風花はこれをやらないと、本気が出せない。
イップスが完治しかけた時にあたしが倒れちゃったから、変な後遺症みたいなものが残ってしまったのだと言う。
だから風花の試合には必ず、あたしがベンチに入って応援をすることになっている―――ううん、違うな。
(別にそんなのなくても、普通にあたしが1番近くで応援するし)
誰にもこの席を譲るつもりなんてない。
なんて事を考えている間も、あたしはずっと強く抱きしめられている。
風花の気が済むまでやる決まりだけど、今日は一段と長いな・・・あたしは右手で風花の背中をさすってあげる。
「よしよし、いいこいいこ」
―――あたしと風花は"2人のシングルス"
こうやっていると、そうなんだって実感できる。
風花は名残惜しそうに身体を離すと、あたしの隣にすとんと腰を落とした。
クーラーボックスから出したばかりの水ペットボトルを風花に手渡しながら、話を切り出す。
「すごいよ風花。綾野さんがここまで圧倒されてるの、初めて見た」
「自分でも今日は調子が良いって、分かるの。このまま、彼女が真の力を出してくる前に試合を終わらせたい」
「出来るよ風花なら」
そこまで言ったところで、興奮気味にコートの中へ入ってきた1年生の子が他のコートの試合経過を、荒々しくなった息を必死で抑えながら教えてくれた。
「ダブルス2、3-3。ダブルス1、4-1・・・」
「本当なの?」
「は、はい。間違いありません! 特にダブルス1の方は完全に主導権を掴みつつあると」
そしてシングルス3、この試合は3-0で風花のリード。
東京どころか全国に名を馳せる黒永相手に、このスコア、だ。
「この試合・・・勝ちを意識しても良いかもしれない」
あたしは絞り出すように、呟いた。
試合中にこんな事を言うのはあまりよくないのだけれど、目的意識はしっかりしておいた方が良い。
特に。
「あるよ。大番狂わせ・・・大金星が」
この試合のような、半ば特攻を仕掛けているような試合では。
"勝てる"という公算が付いたということ自体が、ほとんど奇跡に近いのだから。
「そろそろ行くね、響希ちゃん」
「風花」
「私のやることは変わらない・・・。響希ちゃんと全国に、それだけだから」
「気を付けてね。綾野さんはこのまま負けてくれるほど生易しい相手じゃないよ」
その言葉に、風花は一度深く頷いて、コート上へと戻って行った。
(すごいよ、風花は―――)
元々の才能だけじゃない。
プレースタイルも、風花が作り出した鏡の戦術も、努力する姿勢も、そして強さも―――
全部、すごすぎる。
あたしみたいなのがどんなに努力しても、風花みたいにはなれない。
いっさい驕ることなく万進出来る、本当の才覚の塊・・・、"天才"。
(あたしは風花の隣に立って一緒に歩いていけばいい)
彼女は、どこまでも連れて行ってくれる。
見たことない景色を見せてくれるし、したことも無いような経験を、一緒にしてくれる。
あたしはただ、風花の隣に寄り添う"希望"であれば良い。
その先の"未来"は、風花が切り拓いてくれる―――
(連れて行ってくれるんだよね、風花。『全国』って場所へ)
貴女となら、絶対に行ける。
貴女としか、絶対に行けない。
きっと全国っていうのはそういう場所なんだよね?
◆
このゲーム、重要だ。
ここを取れば一気に試合の流れを私の側に手繰り寄せる事が出来る。
逆に綾野さんはこのゲームを全力でブレイクしてくるはずだ。
ここをキープすれば―――
(勝利への道が拓かれる!)
私のサーブが向こうのコートで跳ねる。
それをあの究極までに"型どおり"を突き詰めたような綺麗すぎるフォームでレシーブされ。
―――瞬間、ボールを見失った
「っ!? はやっ・・・!」
目では追えなかったが、身体は反応できた。
来たショットを打ち返す。そのルーティーンを繰り返してきたから、それだけの理由。
それ以外の理由では、打ち返せないほどの速いレシーブだ。
私のショットに、綾野さんは既に回り込んでいた。
視線を合わせた時にはもう打ち返している。
そして、先ほどより明らかに速さが増したショットが、向けていた身体の反対側へ飛んでくるのだ。
(バックハンドじゃ、"鏡"は使えないッ・・・!)
あまりに素早い動きに、こちらの動きが間誤付いた。
弱い威力のバックハンドショットを、綾野さんが見逃すわけが無く。
―――ネット際から、前陣へと強烈なショットを叩き込まれた
「0-15」
『わああああ』
コートをぐるりと囲む、黒い軍団の声援が大きくなった。
先ほどまでの意気消沈を挽回するように、威勢を取り戻した大応援団。
「「あーやーの! あーやーの! あーやーの!」」
いつもの綾野さんなら、この大声援に手を振るくらいの事はするだろう。
だけど、
―――まったく反応しない
汗を拭うと、すぐに腰を落としてレシーブの体勢に入る。
(作戦を、切り替えた・・・?)
直感以外の何物でもないのだけど、私の中の選手としての本能が、そう告げていた。
あのスピードで、圧倒する腹づもりだと。
実際、私は面を食らってしまっている。今こそ足場を固めて、踏ん張らなければ。
(一歩、)
後ろに下がろう。
あのスピードに対応するには、多少攻撃能力を下げても距離を取るべきだ。
間もなくして、サーブを打つ。
そして綾野さんのレシーブが私側のコートでバウンドした、その時。
(加速した!?)
バウンドして威力が死ぬどころか、逆にスピードが増した。
―――ボールに順回転をかけて、バウンド後にショットを加速させたんだ
(このレベルのスピードで、更に回転をかけてバウンドさせた後、変化させるなんて―――)
中学生の技術じゃない。
スピードやパワーという要素は単純だが、単純が故に強力な武器になる。
なにせ受け手側からしたらどうしようもない事だからだ。
―――去年、全国で見た綾野さんにここまでのスピードは無かった
(まだ成長を続けてるっていうのッ!)
この綾野五十鈴というプレイヤー、未だ完成されてない。
まだまだ進化の途中、上達する最中に身を置いている。
じゃなきゃ、こんなショットを打てるわけがない。
―――その時
―――綾野五十鈴と、目が合った
「ッ」
本当に僅かだったけれど。
身体がビクッと、震えた。
悪寒とまではいかないまでも、かすかな"恐怖"を。
確かに、感じた。
―――その一瞬を付かれた
私のラケットが、わずかボールに届かない。
ボールは猛スピードでコート内を跳ね、金網フェンスへとぶつかり、がしゃんという音を立ててようやく威力が死ぬ。
もう一度、綾野さんの目を見た。
「・・・」
彼女は何も言わず、
ただ。
顎をすこし上げ、流し目で見下すように私の事を睨みつけていた。




