天使を抱きしめて
「燐先輩!」
食堂での作戦会議が解散となり、足早に去ろうとする燐先輩を呼び止める。
「何かしら?」
振り向きながらわたしに話しかける燐先輩の様子は、いつもと変わらなかった。
クールビューティー・・・そんな言葉がしっくりくるその人は、笑顔未満のリラックスした表情で、そこに凛と佇んでいる。
「ごめんなさい!」
わたしは先輩が向き直った瞬間に、がばっと頭を下げた。
「?? 藍原さん・・・?」
先輩の不思議そうな声が聞こえて、わたしは喋り出す。
「いつかの朝練で、先輩を怒らせちゃったことがありましたよね!」
あれは文香のオーバーワークを先輩が窘めた日のひことだった。
『藍原さんには失望されてしまうかもしれないけれど、私はそこまで出来た人間ではないわ』
少し俯き、嫌悪感とも思える苦々しさが混じった、その言葉。
あの時はその意味が分からなかった。
でも。
さっきの先輩の表情を見ていたら、なんとなく分かる。
「さっき、新倉雛・・・さんの映像が流れた時、燐先輩、あの時と同じ表情をしてたから・・・。だから、ごめんなさい。きっとわたし、無神経な事を言っちゃったんですよね」
―――先輩の表情を曇らせていたのは
―――妹さんのこと、だ
「改めて謝らせてください!」
燐先輩は、わたしの憧れだから。
目標だから、敬愛する人だから。
・・・嫌われたくない。
「顔を上げて」
言われて、頭を上げ先輩の方を見る。
「―――」
いつもの、先輩の顔だった。
「ふふっ」
それどころか、どこか上機嫌ですらある。
「藍原さんに気づかれちゃうなんて、もっとポーカーフェイスを勉強しないとダメかしら」
「えっ? ええ!?」
燐先輩は楽しそうに、拳で軽く口元を抑えるように笑うのだ。
「ヒドイですよぅ! 先輩までわたしのことバカっていうんですかー!」
「ごめんなさい、そういうつもりはないの」
言って、少し真面目な表情に顔を戻すと。
「確かに妹とは上手くいっているとは言えない状況にあるわ。その責任が私にあることも理解しているつもり」
「じゃあ、どうして・・・。ううん。先輩は、それでいいんですかっ?」
恐る恐る聞くと、先輩はゆっくり首を2度、横に振って。
「良いとか悪いとか、そういうことじゃないの。これはもう、時間が解決してくれるのを待つしかない」
「諦めてるってことですか?」
「諦め・・・、それに近い感覚かもしれない。きっと私がいま、何を言ってもあの子の持ってる憎悪を増幅させてしまうだけだと思うの」
先輩は妹さんとの仲が悪いことを認めて、原因が自分にあることも自覚している。
その上で、今、たとえ話し合いをしたところで相手の怒りの炎に油を撒くことになってしまうということも、わかってて・・・。
「あの子が私と顔を合わせるのが嫌で緑ヶ原を選んだなら、私はその決意を尊重してあげたい」
そう語る先輩の表情は、辛そうだけどどこかでそれを受け入れているようなものだった。
少なくとも未練や、迷いは感じられない。
じゃあ。
「先輩は、妹さんのこと、嫌いじゃないんですか・・・?」
燐先輩自身の気持ちは、どうなんだろう。
わたしが問いかけると先輩は、少し目を細めて、どこか遠くを見るように。
「あの子は、雛はかわいい妹よ。それは昔も今も変わらない」
ハッキリと、そう言い切った。
かわいい妹と、顔を突き合わせたら喧嘩をしなければならない状況。
先輩はそのこと自体を嫌悪しているのであって、妹さん本人を憎んだり嫌ったりしているわけではないようだった。
―――相手から一方的に向けられる敵意
それは想像以上に辛いものだ。
わたしは先日、そのことを身をもって体験した。
(宮本葵・・・)
彼女から向けられたものが、それだった。
強烈な否定の感情をハッキリ向けられるのは、思い切り振り抜かれたフラットショットと同じ。余計なごまかしが無い分、何も包み隠さない重さと鋭さ・・・何より"痛み"をずっしりと感じるのだ。
―――あれを血のつながった家族から向けられるのは
耐えられないと思う。
特に先輩の言葉からは妹さんのことを嫌っているどころか、本当は仲良くしたいような好意すら感じる。
「そう、ですか」
だったら。
家族の問題に、部外者のわたしが口を出すのは違うかな・・・と思う。
変にコトを荒立てたら、先輩は今よりもっと、傷ついてしまうのではないかと。
「でもでもっ。わたしに何かできることがあれば言ってください。この藍原、燐先輩の為なら粉骨砕身、文字通りなんでもする所存ですので!」
「うん、それじゃあ・・・」
先輩はあごに手を当てて少しだけ考える。
「私のこと、抱きしめてくれるかしら」
そして、さらりとそんな事を言った。
「え、ええぇ!?」
聞き間違いかと思った。
わたしの脳内で勝手に言葉が都合よく変換されてしまったのだと。
「いつも菊池先輩としてるでしょ? この間は水鳥さんの事をお姫さま抱っこしてたし。海老名さんと抱き合ってたこともあったわね」
「そ、それはそうですけど・・・。それじゃ、わたしが部員の子なら誰でも構わずに抱いてるみたいじゃないですか」
「違うの?」
「相手は選んでます!」
基本的に本当に仲良くなきゃ出来ないし!
それか海老名先輩ほどのビジュアルスペックの人・・・。違う違う、今の無し!
(でも、そう考えると燐先輩のビジュアルは完璧・・・)
黒髪ロング。
冷静沈着、どこか儚げなクールビューティー。
背も高くてスタイルも良いお姉さまタイプ。
―――天使。
(・・・断る理由が無い)
わたしがしたいってお願いしてるのならともかく、先輩からしてくれって言われてるわけだし。
断ったら、変な感じになる、よね・・・?
「わ、わかりました」
「ええ」
返事をすると、先輩はこくんと頷き。
何故か目を瞑る。
(キスするんじゃないんだから)
そんな事を思いながら、身体を近づけ、ゆっくりと密着させると。
背中に手をまわして、両手でしっかりと抱きしめた。
(うわ、細・・・)
背の高さから考えたら有り得ない細さだ。
文香は背が低いし、このみ先輩はただちっちゃいだけだし、海老名先輩はふわふわだった。
だからこの、本気でぎゅーってしたら折れちゃうんじゃないかと言う気分は新感覚。
「「・・・」」
10秒くらい、沈黙が続く。
どうしよう、やばい。
わたしのが方がドキドキしてきちゃって、止め時を完全に見失ってしまった。
更に緊張の波が襲ってきて、身体がガチガチに固まって動けない。
(わ、わたし、燐先輩を抱いてる!!)
今になってそんな事を実感する。
どうしよう、どうすればいいのだろう。
その時。
「おーい、藍原ぁー!」
ビクッと、全身がまるでのけ反るように反応した。
すぐに先輩を抱いていた腕をひっこめて、距離を取る。
「ああ、居た居た」
廊下の壁の向こうからひょこっと顔を出したのは瑞稀先輩だった。
「・・・? 燐? アンタら何やってんの?」
微妙な距離で何をするでもなくただ突っ立っているわたし達に、瑞稀先輩は怪訝な表情で言う。
「な、なんでもないですよ! それで用とは?」
「咲来先輩が確認しておきたいことがあるって」
「そ、そーですかー! それじゃあ行きましょう、すぐに行きましょう」
「・・・アンタ、おかしくない? いや、いつも以上に」
「いつも通りぜんっぜん普通ですYO!!」
普通じゃないテンションで瑞稀先輩の背中をずいずいと押し、その場から立ち去ろうとする。
「そ、それじゃあ燐先輩。おやすみなさいっ」
わたしは無理矢理な笑顔で先輩に挨拶をすると。
「ええ、おやすみなさい」
燐先輩はそう言いながら腰くらいの低い位置で小さく手を振って"ばいばい"をする。
それが何か2人の秘密の挨拶みたいで、また顔が赤くなってきた。
―――試合以上に、ものすごく緊張した時間だった
これに比べたら、並大抵のプレッシャーには耐えきれる気がするほどに。




