"段違い"
このみ先輩の放った長いストロークが相手ペアの間を抜けていく。
「ゲーム、菊池・藍原ペア。4-0」
わたしは呆然としていた。
何だろう、この感じ。この違和感にも似た"気持ち悪さ"は。
普通なら試合に勝っていて、ゲームを取って、ポイントを取って。
たまらなく嬉しいはずなのに。
―――全然、ドキドキしない
「・・・」
自分の胸にぎゅっと手を当ててみる。
ビックリするくらい、平常運転。もちろん運動していることによって鼓動は早くなっているけれど、それだけだ。
早くなっているだけで全然高鳴らないし、頭の中の景色が開けていく高揚感も無い。
(今まで、どんな相手と戦ってもドキドキしたのに)
それはどれだけ点差が開こうが、一方的な試合だろうが関係ない。
本気で向かってくる相手選手の気迫、それを真正面からぶつかって戦う事の怖さと楽しさ。
そういうものを感じて戦ってきていたのに。
―――この相手に限っては、それが一切ない
(なに、これ・・・)
得体の知れない気持ち悪さに、口の中が少しだけ苦くなった。
「藍原? どうしたんですか」
先輩が不思議そうに口を半分開きながらこちらを見上げている。
「次、お前のサービスですよ。ここを取って一気にいきましょう」
―――どうして、わたしは今、こんなに冷静なんだろう。
先輩からボールを手渡された。
わたしはしばらくそれをじっと見つめてしまう。
「本当にどうしたんですか?」
さすがに、様子がおかしいことが先輩にも気づかれてしまった。
「先輩、変なこと聞きますけど・・・」
「お前はいっつも変なことしか言わな」
『今、練習中じゃないですよね?』
自分でもどうしてそんな事を言ってしまったのか分からない。
今、わたしが感じていることをそのまま言葉にしたら、そうなったのだ。
「藍原・・・」
「ごめんなさい。切り替えます。サーブ、1本集中いきましょう!」
心配そうなこのみ先輩の顔をなるべく見ないようにして、大声を出し無理矢理頭を切り替えた。
関係ない。ドキドキしなくても、関係ないんだ。
この試合に勝たなきゃならないって事に、何の変更も無い。
冷静に考えれば、一方的なリードで迎えたわたしのサービスゲーム。
今、考えなきゃならないのはサーブをちゃんと入れて、このゲームを取る事だ。
なのに。
(・・・気持ち悪い!)
べったりとした何かが、頭の片隅にこびりついて、剥がれなかった。
◆
(なにこの相手・・・!?)
私のサーブがレシーブされ、とうとうそれを返すことさえ出来なくなった。
(また『あそこ』に!)
ダブルスの場合、シングルスと違いコートの横幅が片側1.37m、両方併せて3m弱、外に広くなる。
敵は途中から、広くなった部分をレシーブで重点的に狙うようになってきたのだ。
あそこにレシーブを返されるとキツい。
僅か1.37mの差だけれど、レシーバーから見て真正面に放たれた、外側にスライスしていくレシーブは、シングルスと同じ感覚でプレーしていたら到底、届かないのだ。
あそこにレシーブを打たせないためには、前衛が自らの正面に飛んでくるレシーブを返す必要がある。
「もういい! 私に任せ・・・ッ」
雪歩はそう叫んで無理矢理レシーブを返す。
しかし、ダメだ。
―――それが通らないのは、分かってる
力のこもったレシーブを無理矢理返したような弱い打球は、敵前衛の格好のエサ。
「ゲーム、山雲・河内ペア。5-0」
スマッシュのように強いストロークが私たちのバラバラになった陣形を抜けていき。
(何よ、これ・・・)
―――勝負にもならない
敵ペアは何事も無かったようにコートから出て行った。
「チェンジだよ、ひのか」
そう言って寄ってくる雪歩の顔を見ることも出来ずに。
「・・・分かってるわよッ」
私は文字通り吐き捨てるように言ってから、歩き出した。
頭では分かっていた。
ダブルスはシングルスが強い2人が組めば強いペアが出来るなんて単純なものではない。
1人で試合を全て組み立てるシングルスとは勝手が違うのだ。
何より、対戦相手は都内最強のダブルスペア・・・。苦戦は必至だった。それなのに。
(どこかで、どうにかなると思ってた・・・!)
甘い。甘すぎる考えだった。
地元では1度も挫折したことがないようなテニス人生を送ってきて、東京へ来ても葵ちゃんという良い友達に出会って、テニス部で1年生にしてレギュラーを獲ったんだ。
そして今日この試合を迎えるまで、公式戦で1度も負けてなかった。
これで調子に乗るなと言う方が、無理な話・・・!
言い訳なんて見苦しいって分かってる。でも。
(この試合は厳しいことになるとか、99%勝てるわけがないとか!)
誰かが1つでも忠告してくれたなら、私はそれ相応の準備や心づもりでこの試合に臨んでいたはずだ。
最初から勝てると思ってるから、何もかもが上手くいかなくて今更になってこんなに焦ってる。
だって、この試合で私たちが負けたら・・・。
(葵ちゃんに、嫌われる―――)
嫌だ。イヤだイヤだイヤだイヤだイヤだ。
それだけは絶対に嫌だ。
頭がムシャクシャして、私はどうすることも出来ずに隣を見る。
雪歩の事だ。私以上にテンパってるんじゃないだろうか。
そんな事を思いながら。
「・・・ひのか」
彼女は天を仰いで、両目を塞ぐように左腕を顔の上に乗せていた。
「私、もうダメだ」
雪歩の消え入るような、震え声。
「葵さまに会わせる顔がない。このままじゃ、葵さまに見限られる・・・」
もしかしたら、泣いているから目を見せないようにしているのかもしれない。
そう思わせるほどの弱弱しく、震えた声。
その声からは、もう。
明らかに戦意が喪失していた。
「・・・」
返せる言葉もなかった。
一体、この状況で何を言えばいいと言うのか。
分からない。何も、分からなかった。
「バカ、泣くなよ・・・」
アンタに泣かれたら。
「だってぇ」
必死に我慢していた私まで、我慢できなくなってしまう。
みっともない。
情けないし、本当にかっこ悪いと思う。
(私たち・・・)
そうなんだ。結局―――
(葵ちゃんが居なかったら、何もできないんだ)
今までの試合だってずっと。
葵ちゃんがシングルス1に居てくれたら、なんとかプレッシャーを感じずに頑張れていただけで。
葵ちゃんという絶対的な存在が、この鷺山の全てを支えていたんだ。
葵ちゃんが負けなければチームも負けないという圧倒的な信頼感と、安心感。
それがあったから私も雪歩も、足りない実力を120%出し切って、強豪校のレギュラー相手でも勝ってこられた。
葵ちゃん頼み、葵ちゃんしか頼れる人が居ない、そんな部の雰囲気―――
だから葵ちゃんは、何がどうなろうとシングルス1に居てくれなきゃダメだったんだ。
彼女がシングルス1から外れた時点で。
もうこの試合は―――




