賀茂光栄、西海道に旅立つこと(二)
賀茂光栄、西海道に旅立つこと(二)
翌日、光栄は神泉苑と大内裏の間、二条大路を散策していた。
もうすぐ京の都を離れるのだが、その前に都の様子を目にとどめておきたかったからである。
暫しの間ではあるが、都を離れるとなると、若干の感傷と懐かしさもある。
大内裏は百官が集い、日々汗を流しているところであって、国の立法、行政、司法、軍事の全てを司る所である。
大内裏の中には天皇の御所である内裏があって、内裏には天皇がハレという公式の行事を行う紫宸殿や、ケという日常の生活を行う清涼殿などがあった。
因みに、現在、京都市上京区にある京都御所は、室町時代に正式に御所となったもので、平安時代の内裏からは、東に約二キロ離れたところに位置している。
時の村上天皇の治世は父醍醐天皇の治世と合わせて延喜・天暦の治といわれ、政治、文化の両面において活気が見られ、天皇親政の理想的な時代といわれる。
だが、実際には水害や旱魃、盗賊の横行に加えて、道真の左遷に関わった多くの貴族が謎の死を遂げた、政情定まらぬ時期であった。
これ等貴族の死は、菅原道真の怨霊によるもの噂されたため、醍醐天皇は道真を右大臣に復し、正二位の位階を贈ってその怨霊を鎮めようとしたが、災いは収まらなかった。
左遷に深く関わった大納言、藤原清貫は清涼殿において、醍醐天皇の側近く仕えていた時、俄かに掻き曇った空から落ちた雷に直撃されて胸を裂かれた。
その死に顔は苦悶に満ちて悲惨であったという。
次々と続く近親者や側近の死に遭遇した醍醐天皇は遂に体調を崩し、朱雀帝に譲位したのである。
譲位を受けて即位した朱雀帝の御代も世情は収まらなかった。
関東で平将門、伊予国では藤原純友が乱を起こした世にいう承平・天慶の乱が発生した。
乱が発生した頃、賀茂光栄は生を受けた、そして、彼が未だ母の腕に抱かれていたころ、平将門の首を取った、俵淘汰こと藤原秀郷は、意気揚々と朱雀通りを凱旋した。
将門の首は東市に長く晒されたが、都は、将門の怨霊にも悩まされることになった。
こうして、歴史を重ねるごとに、京の都は、特に夜ともなれば、何処からともなく怨霊が集まり、魑魅魍魎の巣食うところとなったのである。
次の村上天皇の治世に至っても世の中の乱れは収まらなかった。
それは、賀茂光栄にとって青春時代であったと共に修業の時代でもあった。
光栄は、昨年の長月の夜を懐かしく思い出していた。
あれは、この俺にとって、初恋というものであったのかも知れない。
恋した女は、すでに怨霊となってはいたが、その心は美しいままであった。
そして、その後に、その双子の妹、胡蝶という女性に出会った。姿形は瓜二つであるが、その性格は全く違った、育ちとは不思議なものだ。
そんなことを思い出しながら、神泉苑のそばを歩いている頃には、夜がとっぷりと暮れて、東山連山から月が上りだした。
そんな時、夕暮の時ぐらいから、誰かが背後から光栄を付けているような気配を感じた。