賀茂光栄西海道に旅立つこと(一)
賀茂光栄、西海道に旅立つこと(一)
賀茂光栄は若き陰陽師である。
高名な陰陽師、賀茂忠行を祖父に、陰陽頭加茂保憲を父に持つ。
陰陽師は、陰陽五行説に基づき、国家や個人の吉凶禍福を占い、祓などの呪術作法を行うことを職とする。
中務省の配下である陰陽寮は、父加茂保憲が長官、陰陽頭、であるのだが、そこでは、この国の天文・暦・卜筮・漏刻を司る。
特に、具注暦という暦は、その年、その月、その日の吉凶禍福を具に記述されていて、天皇や貴族の行動の指針となっていた。
現代人の目からすると、極めて馬鹿馬鹿しく非合理と思われるのであるが、当時の人々はその指針を固く守っていたのである。
さて、賀茂家では祝宴が催されていた。
当家の嫡男が位階を授かったのである。
従八位下という位階であって、位階としては最下層に当たるのだが、賀茂家の嫡男、光栄にとって初めて朝廷から与えられた位階である。
館には貴族や陰陽寮の関係者が次々と集まっていた。
光栄にというよりも、その父で陰陽寮の長官である賀茂保憲に祝辞を述べる為に来館した者が殆どであった。
弓削氏とその姫も祝いに駆けつけている。
弓削氏の姫と光栄の婚礼の儀が近く行われる予定であったのだが、それは延期された。
なぜなら、光栄に位階と同時に官職が与えられたからである。
位階が与えられただけならば、婚礼の儀は先に進められたのであるが、光栄に与えられた官職は、勿論、陰陽師の仕事であったが、勤務先は、西海道は筑紫の国、大宰府であったのである。
以前は、遠の朝廷といわれ、九州及び壱岐・対馬を管轄し、外交を司り、外敵を防ぐ国の重要拠点であった。
大友の旅人が大宰府の帥(長官)であった頃、筑前守であった山上憶良等と桜を愛でながら、歌を詠んだ。
また、大宰大弐、小野老は、大宰府で、
「あおによし、奈良の都は咲く花の、におうがごとく今盛りなり」
という、有名な歌を詠んでいる。
しかし、それは奈良時代のことであって、光栄が育った平安時代には大宰府の権限は弱くなって大陸との交易を管理するだけの機関となっていた。
なぜならば、九世紀ごろから、遣唐使も派遣されなくなるなど、外国との公的な政府間交渉は行われなくなっていたからである。
そのため、唐を中心とする大陸文化の摂取に勤めていた日本は光栄の生きた、平安中期頃を境に、唐風文化から国風文化と呼ばれる、外来文化を融合した独自の文化の時代へと入ることになる。
とはいえ、大宰府は朝鮮半島や大陸との交易を行う重要な機関であることには変わりなかった。
そこに勤める陰陽師の一人が病気になったため、光栄にその後任となるように命が下ったのである。
任期は、病気の陰陽師の回復具合にもよるが、二年と言うことであった。
となると、弓削氏は、手塩にかけた可愛い娘を、西海道などと言う最果ての地に住まわせる訳にもいかないと考えたのである。
弓削氏の姫との婚儀は光栄が都に帰って来てからということになったのであった。
光栄にとっても、それは大歓迎であった。
若いうちに、自由に旅をして、見聞を広めたいと思っていたのである。
聞くところによると、大陸からの先進的な技術や文化は博多大津を通して入って、その情報は、全て大宰府にもたらされるという。
陰陽道を始めとするあらゆる学問や技術の奥義を極めようと目論む光栄にとって、大陸からもたらされる知識は是非とも学びたい対象であった。
その夜は遅くまで、宴会があり、最後の来客が退席したのは既に子の刻に入っていたであろう。
光栄はかなり酔っていた、その酔いが醒めようとすると、困ったことに頭が冴えだして、なかなか寝付けなかったが、かと言って、書を読む気にもならなかった。
仕方なく、ただ、目を閉じて西海道に思いを馳せていた。
西海道の大宰府とは、どんなところであろうか、かつて、遣唐使として、大陸で学び、陰陽道を始め、様々な術の達人となり、聖武天皇のもとで、安倍内親王❘後の孝謙女帝❘の家庭教師を勤め、紆余曲折の末、学者では初めて右大臣にまで出世した、あの吉備真備も、一時期、西海道でその辣腕をふるった。
吉備真備が、大宰府大弐であった頃、朝鮮半島の新羅国に対抗するために築いた怡土城は、現在もその遺跡を福岡県前原市に見ることが出来る。
更に、平安の世に入ると、宇多天皇のもとで、やはり右大臣まで出世した学者、菅原道真もいた。
藤原時平の讒言で大宰権帥として大宰府に左遷され、九百三年に没した。
現在、その地には太宰府天満宮があって、学問の神様として、参拝者は引きも切らない。
境内には
「東風吹かば、匂ひおこせよ梅の花、主なしとて春を忘るな」
と詠んだ道真を慕って、都から飛んで来たという伝説の飛梅があって、春には真白い花が咲き、夏には青い実をつける。
さて、西海道とは、どんなところであろうか、どの様な行程で大宰府まで行こうか、山陽道を行くか、瀬戸の内海を渡って南海道を通るか、あるいは大きく遠回りして山陰道を行くか。
そんなことを考えていた光栄は、いつの間にか、つい、うつらうつらとしていた。
浅い眠りの中で近くに人の蠢く気配を感じて目を覚ました。
不意に小さな声がした。
「若、若」
「何ものか」
縁側に出ると、暗闇の中に、誰かが蹲っているのが分かった。
「そこにいるのは、誰だ」
「若、私めに、ござります」
「おお、蜘蛛丸か、して、こんな夜分に、なにようがあって参った?」
「なにようと申されましても」
どうも、蜘蛛丸の言葉の歯切れが悪い、どうしたのであろうか、と注視していると、仄かに、花の香りを感じた。
これは、蜘蛛丸の臭いではない、この男に風雅な心得があるはずがない、何ものかが近くに潜んでいる、と感じたのであった。
光栄は、ゆっくりと後ずさりをして太刀をまさぐって引き寄せた。
目を凝らして注意深く見ると蜘蛛丸の背後に何かの気配を見た。
「若、お助け下され、私めは、何かに憑りつかれております」
震えながら平伏している蜘蛛丸の背後に、白い何かが、うっすらと見える、怨霊か?その白い影が、恨めしそうに光栄を見つめている。
身構える、光栄に向かって白い影が、小さな声で、苦しそうに語り掛けた。
「満仲め、主人である、この麻呂に刃を向けおった。光栄、苦しいぞ、恨めしいぞ」
はて、こ奴めは、誰であろうか、思い当たりが無い、あっ、若しや、あの中将と呼ばれた貴族なのか?
貴族で、光栄と満仲の双方を知っている者といえば彼しかいない。
この俺が思いを寄せた、あの姫とその腹の子を捨て、その上、出世の邪魔になると見るや、理不尽にも、満仲に命じてこの世から抹殺した、あの貴族だ。
ならば、中将という男、死して、地獄道や餓鬼道をさ迷っても当然の唾棄すべき男、この俺が、その男を平穏な道へ導く義理は無い。
それに、あの中将とは、それほど懇意にはしておらぬではないか。
あ奴が、この俺に救いを求めに来るとは信じられぬ。
待てよ、これは、中将とこの俺の双方を知っていて、かつ、経緯を承知している何ものかが、中将の霊になりすまして、蜘蛛丸の背後に隠れているに違いない、では、彼奴の怨霊に成りすますことのできる者とは、いったい何者か?と考えた時、微かに薫る花のにおいが、光栄に何かを暗示していた。
光栄はすぐさま太刀を抜き放って、蜘蛛丸に向かって叫んでいた。
「蜘蛛丸、そこをどけ、どかぬと切って捨てる」
「怨霊でござるよ、若の呪術をもって、祓って下され、お願いでござる」
蜘蛛丸が光栄に向かって、祈るような仕草で手を合わせている。
「分かった、今、怨霊から解き放ってやるぞ」
光栄は縁側から飛び上がって蜘蛛丸の背後の白い影を目がけて上段から弧を描くように振り下ろした。
「ひええっ」
蜘蛛丸が転がるように脇へ飛び退いた。
白い影が、煙が風に流されるように消えて、空を切った太刀の向うで笑い声がした。
「ふふふ、狼狽えたか、光栄」
その声に漸く気が付いた。
「この匂いとその声、憶えがある、大人しく出てこい、胡蝶、遊びが過ぎるぞ。蜘蛛丸は、怨霊に取り付かれたと思い、恐怖で震えあがっているではないか」
庭のこんもりと繁った草陰で潜んでいる人影に向かって、光栄が笑って呼びかける。
「何ですと、あれは怨霊では無かったので御座るか、それにしても、若、危ないでは有りませぬか、もう少しで、この蜘蛛丸めは命を落とすところでしたぞ」
蜘蛛丸は、立ち上がって、光栄の後ろに回って泣き言を言う。
「そうだ、お前の背後にいたのは、あいつだ、良く見ろ」
草むらの向うで白い影が立ち上がった。
「光栄、良く分かったな、さすがだ、俺の男になれ」
桔梗が、熱いまなざしで、光栄を見つめる。
「あれは女盗賊、若、これは大ごとに成りますぞ、ああ、恐ろしや、あ奴は、怨霊よりも恐ろしゅうござります、お助け下され」
蜘蛛丸が光栄の袖に縋り付いた。
「胡蝶、俺と言うな、女の身でありながら、男言葉を使うなどせずに、も少し上品に振る舞ってはどうだ」
「分かった、考えておこう。ところで、光栄、そなた朝廷から位階を得たと聞いた、目出度いことだ」
「耳が早いな、さすが、盗賊の頭目だな、この俺は位階など望んではおらぬが、位階に伴う報酬は有難いことよ」
「ところで、光栄、わざわざ、この庭に忍んで来たのは祝辞を述べる為だけではない、お前の身に危険が迫っていることを警告しにやって来たのだ」
「なんと、警告か?」
「そうだ、源満仲を憶えておろう」
源満仲、その名を、忘れはしない。
あの長月の十六夜の月明かりのもとで見た精悍な面魂から発する気迫に、光栄は少なからず恐怖を感じたことを思い出す。
「ああ、憶えておる、その満仲がどうした」
「お前を狙っておる」
「この俺を?」
「そうだ、先日、羅城門の天井でおぬしに言うたではないか、満仲め、己の評判に傷がつくのを恐れて、こともあろうに、あの中将を、病気に見せかけて、密に抹殺したのだ」
「貴族を殺すとは、なんとも恐ろしい男で御座るな、若」
蜘蛛丸が光栄の衣の袖を引いて悲鳴のような声を上げた。
胡蝶は話を続ける。
「俺の、いやわらわの、どうだ、光栄、これからはわらわと言うが、それで良いか」
「良いから、話を続けよ」
「わらわの手下がその様子を見ておったのだ。そして、驚くなよ光栄、あの満仲め、賀茂光栄を殺せと部下に命じておったそうだ、油断するな」
満仲という奴、何と心の狭い男よ、と光栄はため息を吐いた。
武士の棟梁として、家の子や郎党を食わせてやらねばならぬことは分かる。
満仲の失敗を神経質に攻めたて、彼を貶めようとした中将の存在は、今後の武士の活動に支障をきたす恐れがある。
邪魔者を処分することは、良いとは言えないが、武士という暴力集団が、皇族や貴族の争いに介入してもめ事を解決し、その見返りに財を得る仕事で食っていくためには致し方ないのかも知れない。
もめ事を処理できない無能な男というレッテルを張られた時、貴族というパトロンや常連客から見捨てられて、彼らは即座に飢餓の危機に陥ってしまう。
集団を養うためには盗賊集団になる以外道はなくなる。
その事態を避けるためには、つまり、評判を維持するためには、危険を冒して、密に中将の口をふさぐことも致し方ないかもしれない。
だが、この俺に関する限り、秘密を漏らさぬように頼めば、快く引き受け、約束を違うこともない。
秘密を守れと言えばいいものを、何とも難儀なことよ。
「相分かった、知らせてくれて、有難く思うぞ、以後、油断をせぬように気をつけよう」
「では、さらばだ」
胡蝶が高く飛び上がって屋敷の塀の向こうに消えた。
後には、仄かな花の香りが残った。
光栄は、胡蝶のことを心から信用している訳ではない、だが、彼女の姿を見るたびに、あの姫の面影を思い出す。
双子であり、外見は、瓜二つでありながら、性格は全く異なっている、人は持って生まれたものでその生き方が決まるのではなく、環境というものが大きく作用するものだと、光栄は思う。
家柄や血統よりも苦難に耐えて人生という修羅の道を生きることが信念のある強く優しい人を育むということを、光栄は、霊山に迷った経験から、感じていた。
「若、恐ろしゅうござりますなあ、あの女盗賊に狙われましたら一溜まりもありませぬぞ、ああ、くわばら」
先ほどまで震えていた蜘蛛丸が安心したように言う。
「さて、夜明けまであまり時間もない、眠くなった、俺は少し眠るぞ」
蜘蛛丸というこの男は、環境が変わったとしても、何かが変わる余地もなさそうだ、と思いながら、光栄は床に就いた。
「若、お休みなされ、例え、曲者が来ようとも、この蜘蛛丸めが控えておりますゆえ、ご安心下され」
蜘蛛丸の声を遠くに聞きながら、光栄は、次第に夢の中に入って行った。