賀茂の光栄、羅城門で盗賊に出会うこと
体の疲れがようやく癒えた頃、桜の花はすっかり散ってしまっていた。賀茂光栄は朱雀大路を歩いていた。万葉の頃は、花と言えば桜よりも梅の方が持て囃された。万葉の頃の人々にとって花は、その美しさはもとより、匂いも楽しみの対象であったのであろう。
桜の花が観賞されるようになったのは平安時代からである。
光栄は珍しく一人であった。何かと理由を付けては光栄の後に従って離れようとしない、下人蜘蛛丸は先ほど遁甲の方術を使って巻いてきた。今頃は、一条戻り橋あたりで、光栄の名を呼んで狼狽えて探していることであろう。
遁甲の術について、不十分ながら何とか使いこなせるようになってきたと自分でも思っている。
光栄は、近頃、都で囁かれている噂が気になっていた。
若い貴族が病で身罷ったという噂である。その貴族はどことかの中将と呼ばれていて、帝の覚えも良く、蔵人頭として側近く仕える殿上人だという。近衛中将を兼任していたということから、もしかしたら、と光栄は思うのである。中将といえば、そう、あの中将である。
昨秋の十六夜、神泉苑の近くで物の怪の退治に後れを取った源満仲を生け垣の陰から執拗に叱責していたあの声の主ではないのだろうか、と思ったのである。もしも、あの中将であったならば、本当に病で死んだのか、一抹の疑念が残る。
あれから、さほど月日は経っていない、せいぜい半年ほどであろう。
あの時の感じでは、将に気位の高い上級貴族らしい、高慢不遜なもの言いであった。さらに、神経質で甲高い声であったが、病気で苦しんでいる様子は何処にも見えなかった。勿論、彼は生垣の陰から姿を現すことが無かったので、その姿を見た訳ではないが、生気に溢れていたように思われるのであった。
それに、今のところ、京の都で流行病が猛威をふるっているという噂は聞かない。もしも疫病が流行っているとしたら、大儺という儀式を行って、都から疫病や悪寒を祓う儀式を行うよう、陰陽寮の長官である賀茂保憲に、帝の勅命が下るであろうし、宮廷貴族から、天皇や貴族の身を清めるために、穢れを込めた身代わりの人形を川に流す、七瀬祓の儀式を執り行うよう依頼があるはずであるが、今のところ、そんな動きはない。
大儺とは宮中で陰陽道のしきたりに則って行われる大掛かりな儀式で、陽の気が弱まって陰の気が強まり、鬼神が寒気を伴って現れ、人々に疾病をもたらす冬に行われることが多い。内裏と都から疾神を追い払い、寒気・陰気を祓う儀式である。
また、七瀬祓とは、天皇の災いを移した人形を、七人の勅使が鴨川など、七か所の水辺で災禍を免れるため流した、これも陰陽道に則った、儀式である。宮廷貴族たちもこれに習い、争ってこの儀式を行った。
中将の噂と共に懐かしく思い出されるのは、かの姫のことである。
燃え盛る炎となって、天に昇って行く姿を確かに光栄は目撃した。
その姫が、あの中将への恋慕の情と怨恨を断ち切れずに、怨霊となって、舞い戻り、鬼と化して、あの貴族の命を奪ったのであろうか、いや、そうではないだろう。
あの姫が、あの時流した涙は空涙とは思えない。彼女はきっと成仏したに違いない。かの姫のことを思い出すだけで、若者の胸は熱く疼くのであった。
では、なぜあの中将は死んだのであろうか?そういえば、彼の姫には、確か、双子の妹がいると言っていた。
その妹は、人買い商人を殺して、山中に逃げ込んで生き延び、今では、狙ったものは決して逃さないという盗賊集団の頭になり、何十人という荒くれどもを顎で使う、名うての盗賊になっているというではないか。彼女は、死んだ姉の敵を討つと息巻いていたというが、その盗賊の頭のなせる業か?
そんなことをあれこれと考えながら朱雀大路を歩いていた光栄はいつしか羅城門に差し掛かっていた。
羅城門は大内裏の南門である朱雀門から南にまっすぐに伸びる朱雀大路の南端にある、都へ入る門である。これをくぐれば都の外であって、門の外側には秩序の無い混沌とした世界が広がり、邪気が蠢いている。
光栄がまだ幼い頃、俵藤汰こと藤原秀郷は、平貞盛と協力して宿敵、平将門を討ったあと、羅城門から都に入り、朱雀大路を内裏まで、将門の首を高く掲げて意気揚々と行軍した。都の人々は喝采で迎えた。世にいう『平将門の乱』が終結した瞬間であった。
その首は市の司によって東市で人々の目にさらされた。
かっと目を見開いた平将門の首は怨霊となって都の人々に永く祟ったという。
千年の都といわれる京の都の繁栄の裏は怨念に満ちていた。
羅城門の外と同様に、天にも、地にも邪気が蠢き、百鬼の横行するところとなっていた。
ところで、光栄は先ほどから、何者かに跡をつけられている気配を感じていた。光栄の歩きに合わせて、付かず離れず、誰かが尾行している、そんな風に思うのであった。
急いで羅城門の赤い円柱の陰に身を隠して、あたりに気を配ったが、それらしい、曲者の姿は見えない。
今、光栄がいる昼下がりの羅城門近くには人通りが少なく、かつての繁栄は見られない。羅城門のあちこちには、ほころびが多く見られ、修理もあまり行われていない様子であった。
円柱の朱塗りは、かなりの部分がはげ落ち、立派な檜か杉の大木で出来ているみごとな柱のいくつかは長い間、風雨にさらされて朽ち果てようとしていた。
光栄が円柱の陰に見を隠して暫く辺りの様子を窺っていた一刻ばかりの間に、羅城門の側を通りかかったのは、見るからにむさいが、屈強そうに見える中年の男達に引かれた荷車が一台、鮎を売る桂女が一人、急ぎ足で朱雀大路を下って来て羅城門から左に曲がって九条大路から東寺に入っていく僧が数人、あとは、平服を着た庶民の姿が時折見えるだけである。
「美味なる鮎の飴煮はいらんか」
桂女が引き返して来て、艶のある良く通る声を上げると、どこからか男女が数人、器を持って走り寄ってきた。
「ほうれ、桂川の鮎だよ」
桂女は談笑しながら、羅城門をちらりと見た。光栄は柱の陰に隠れてへばり付いた。彼女が、光栄の跡をつけている曲者だとは思わないが、白い布で頬かむりをしているのでその表情は分からないものの、奥に光る桂女の視線に、何かの意図を感じたからである。
しばらくそのまま息を潜めていたが、彼が感じていた跡をつけているらしい姿は見かけない。だが、誰かが自分の様子を伺っていると感じるうすら寒い気配は拭えない。すぐ側に羅城門の上階に昇る階段が目に留まった。上階には空間があるはずである。そこに暫らく潜んで少し様子を窺おうと思った。朱塗りの階段の塗料は所々剥げ落ちていた。階段の下から上を見上げると、暗い入り口が見えた。どうやら、上って屋根裏に入れそうである。階段は相当に古く、足をそっとかけると軋んだ。一段上るごとに音を立てて更に軋む。上りきって屋根裏をそっと覗くとそこは人が立って歩けるほどの空間が広がっていた。暗い。手探りで進む。床が軋む。しばらくして暗闇に目が慣れてくると、その空間の様子がぼんやりと見えてきた。人の気配を感じた気がした。
「誰か、居るか」
返事はない。気を付けてじっと周りを見渡す。床には幾つかの屍が転がっているようだ。埃臭く、光栄は少し咽た。乾燥しているせいだろうか。死臭はしない。懇ろに弔ってやることが出来ない屍を詮方なく、この羅城門の屋根裏に放置する者がいる、と聞いたことはあるが、屍の数は思いのほか多い。こんなにも多くの人々が誰にも知られず打ち捨てられているのか。光栄は世の無常を感じた。若者は静かに印を結び、呪を唱えずにはいられなかった。死者の魂に向かって、怨霊としてこの修羅に留まることなく、平穏に極楽浄土に旅立てと願うばかりであった。陰陽道は、中国で生まれた陰陽五行説の教えを基に、日本で独自に発達した宗教であるが、使者の魂の平穏を願うのは本来、仏教の役割であった。しかし、平安の世になると、仏教と陰陽道の垣根は明確ではなくなっていたのである。
その時、光栄は、又もや人の気配を感じた。
「そこにいるのは何者だ、出てこい」
暗闇の中で何かが光った。それは反射的に身を反らした光栄の頬をかすめた。わずかな痛みを感じながら後方に飛び退いた。暗闇の中に立っている二つの黒い影が目に飛び込んできた。
「盗賊か?」
二つの影は暗闇の中で不気味に光るものを上段に構えて、光栄に向かってじわりと間合いを取りながら近づいてくる。壁の隙間から僅かに漏れる光が舞い上がる埃と男たちの姿を浮かび上がらせた。男たちの姿が次第に明らかになった時、彼らが構えた太刀が上段から空気を切り裂いて振り下ろされた。
「なぜ、俺を狙う」
光栄は太刀を完全に抜く暇もなく、鞘に納めたまま、真横にして頭上に掲げた。きん、という金属のふれあう音がして閃光が走った。
二人の男の顔が一瞬、暗闇の中に浮かび上がった。その顔に、見覚えがあった。この者達、あの日、源満仲が率いていた武士の一団の中にいた。手強い、もう一度切り込まれたら、今度は避けきれぬかも知れない、と覚悟を決めたその時であった。
天井から人影が白い蝶のようにひらりと舞い降りて二人の男の間に割って入った。どさりと男達が倒れた。
「光栄、大丈夫か?」
その白い人影は男の首から短剣を引き抜きながら若者に声を掛けた。女の声であった。気が付くと、背後には、いつの間に現れたのか、数人の男が片膝をついて畏まっている。
「誰か、明かりをくれ」
女が命ずると、男の一人が荏胡麻を灯した明かりを差し出した。じりっと、油の燃える音がして香ばしい香りが広がる。明かりを受け取って、すぐ脇の床に置きながら、女は言い放った。
「お前達、そこにある骸を片付けて去れ。そやつらが身につけている武具と衣類は、はぎ取って良いぞ、東西の市で売り払うなり、自分で使うなり、好きにいたせ」
跪いた男達が頭を垂れる。
「はっ、お頭、ありがとう御座りまする」
遺体を抱えて柱の陰に運ぶと、てきぱきと慣れた手つきで衣類を剥ぎ取って屍を蹴り飛ばした。そして、音もなく出て行った。
後には、朽ち果てた骸骨の間に、丸太が二本並ぶように、裸の死体が転がっている。女は光栄の前に胡座をかいて座った。
白い水干姿で顔には布を巻いて覆い隠している。水干とその布は手に掛けた男達の血しぶきで赤く染まっている。
「光栄、お前も座れ」
「うむ」
光栄は言われるままに女の前で胡坐をかいて向かい合った。仄かに甘い薫りがした。
「光栄、俺の名は胡蝶だ、こうして見ると、お前、なかなかの若武者ぶりだな」
女の目が、巻かれた布の奥できらりと光り、じっと光栄を品定めするかのように見つめている。
「俺は、武者ではないが、なぜ、俺の名を知っている」
問いかけながら、光栄は、女の身から薫る仄かな臭いが妙に気になっていた。女の肌が醸し出す性的な臭いばかりではない、どこか体がしびれるような感覚を若者は感じていた。
「俺たちは、あの長月の十六夜、大内裏に忍び込み、大蔵省の倉に盗みに押し入ったのだ。大蔵省には、五畿七道から集めて運び込まれた庸や調の税が山のように積まれておる。ところが、神泉苑は大内裏のすぐ隣、あの物の怪騒ぎで宿直のものどもが目覚めて騒ぎ出すのではないかと、ちと肝が冷えたぞ。だが、何とか俺たちは荷車三台分の絹や鉄材等をせしめたのよ。逃げる途中に源満仲やその手下である検非違使庁の男どもの体たらくを見たのさ」
「そうか、あの場を見ていたのか」
「お前の方術も確かに見届けたぞ、光栄、お前の技はまがいものでは無い、お前は本物の陰陽師だ、見事であったぞ」
そこまで話して、胡蝶と名乗る女は、顔を覆っていた布を取って頭を左右に軽く振った。隠れていた長い髪がはらりと肩まで落ちて軽く弾んだとき、「あっ」と小さく叫んだ後、光栄は息を呑んだ。
そこには匂い立つような美しい女の顔があった。十六夜の月明かりの中、神泉苑近くの二条大路を行く牛車の中に垣間見た麗しく艶やかな、あの白拍子に生き写しではないか。
目の前にいる女はあの姫ではない。それは分かっている。だが、光栄の心は乱れた。かつて、哀れな身の上に同情し、愛しいと思った姿に、再び巡り会えた気がしたのである。闇の中で小さな炎に照らされてわずかに微笑む赤い唇を魅入られるように見ていた。
「あの姫には、幼いときに分かれた双子の妹がいたと聞いておったが、そなたが、その妹か?」
「そうだ、あれは俺の姉だ」
しかし、双子の姉妹がこれほどまでも生き写しであるとは・・、光栄は、言葉を失っていた。
「光栄、お前が、あの二条大路を去った時、俺は手下の一人に命じて、お前の後をつけさせたという訳だ。手下から、事細かにお前と物の怪のやり取りの様子を聞いたのだ」
「そうか」
「それでな、手下の報告を良く聞いてみると、その物の怪とやら、どうも俺の姉ではないかと思った訳だ。俺の姉が生きていて、賀茂神社で舞を披露する白拍子となって、訪れる貴人に酒の相手をしている、ということを聞き知ってはいた」
「姉上に、会いたいとは思わなかったのか」
「懐かしいとは思ったが、なかなかその機会が無く、とうとう会えずじまいだった。中将の女になって幸せに暮らしていると聞いていたが、まさか身罷っていたとはな、無念でならぬ。腹の中の子が、この世を見ることも出来ず、消えていったとは、姉も未練が残ったことであろう、物の怪となって、この世に留まったこと、分からぬではない」
そこまで話したとき、胡蝶は声を潜めた。
「光栄、何か聞こえぬか?」
耳を澄ます。確かに何か聞こえる。階段が軋む音だ、しかも、一人や二人ではない、五人、いや、それ以上の気配がする。
「光栄、明かりを消してくれ」
叫ぶと同時に、胡蝶の身体は、ふわりと浮きあがり、天井の梁にへばり付いた。火を消す暇は無かった。どやどやと武装した男たちが階段から登りあがって、光栄に襲い掛かった。片膝をついて太刀を抜き放った光栄は、先頭の男の足を薙ぎ払った。激しい呻き声を残して男は倒れた。
「観念しておとなしくあの世に行ってもらおう」
男たちが光栄の前に立ちはだかって太刀を構え、じりじりと迫って来る。
「それは、お前たちの方だ」
いつの間にか、男たちの背後に、胡蝶が立っていた。驚いて、男たちが振り向いた時、すかさず胡蝶は男たちの間をすり抜けた。男たちが、次々と倒れた。皆一様に首から血を吹きだして痙攣している。どうやら、首を狙うのが胡蝶の得意な戦い方であるらしい。
「光栄、今度も、無事か?」
駆け寄って、光栄に怪我がないことを確かめた後、指を唇に当てて口笛を吹いた。
「お頭、御無事でありましたか」
階段を上って来た盗賊たちが、胡蝶の前に平伏した。
「なぜに見張りを怠ったのだ、彼らが、我らを襲ってくることは予測が出来たであろうに、左源太、己の罪は死に当たるぞ」
左源太と呼ばれた、屈強な中年の男は、平伏したまま胡蝶を見上げて涙を流している。
「お頭、この左源太めに死を与えて下され、不覚で御座りました」
「だが、ここは光栄に免じて、今回は許して遣わす」
「胡蝶、俺に何の関係が・・」
「では、こやつを殺す、良いか?」
そう言って左源太と呼ばれた配下の首に短剣を当てた。
「いや、待て、胡蝶、無益な殺生をしてはならぬ」
「そうか、ここは光栄、お前の顔を立ててやるぞ」
光栄にとって、盗賊集団の内部事情になぜ自分が関わらなければならないのか、胡蝶の言う不可解な理屈にある種の作為を感じたが、そこを強く言い張る気にはならなかった。兎に角、この場は収まったのだ、だが、油断はできないと若者は感じた。
「では皆、そこの屍を片付けよ、彼らが身に付けている物は、好きに致せ」
男たちはてきぱきと死体から身ぐるみを剥いで裸にして並べた後、立ち去って行った。二人はまた、胡坐をかいて向かい合った。
「さて、光栄、話の続きだが、手下の報告を受けて、俺が四条河原に行った時には、お前の姿は既に無かった。お前の下僕が姉の亡骸を荷車に積んで運んでいるところであった。あ奴の名前が蜘蛛丸であることを知ったとき、俺は吹き出してしまった。将に、名は体を表すとはよく言ったものだ。気付かれぬように蜘蛛丸の後を着けたところがどうだ、あの者め、姉の骸から身ぐるみを全て剥ぎ取って、裸のまま、検非違使庁に投げ込みおった」
言い終ると、怒りに任せて短刀を床に突き刺した。
「それはすまぬことをした、俺は何と言って謝ってよいやら、見当も付かぬ、許してくれ」
光栄は頭を垂れた。
「お前が謝る必要はない。お前は俺の姉を成仏させてくれた。礼を言うぞ、悪いのはあいつ、蜘蛛丸だ。俺はすぐにあいつを引っ捕らえて、殺そうとしたのだ。だが、あのものは激しく泣き叫んで、命乞いをした。命を助けてくれるのなら、何でもすると言いおった。俺がお前の素性を尋ねると、光栄、蜘蛛丸は、お前のことは勿論、知っていることを、何もかもしゃべると誓ったのだ。だから俺は許してやったのだ。所詮は貧しい下賤のもの、時には自分よりもさらに弱いものから盗まねば、この世の中、生きてはいけない。それは俺が一番良く知っている。お前のことを詳しく聞いたが、蜘蛛丸め、ふふっ、お前のことはおろか屋敷の中のことも全て何もかもあっさりとしゃべったぞ、しかも事細かに。ふふふっ、お前の館に盗みに入れば、容易く、お宝をせしめることが出来るであろう」
恐ろしく落ち着き払って、時には笑みを漏らしながら事の顛末を語る胡蝶の剛胆さに光栄は舌を巻く思いであった。
「うむ、だが、それそこに転がっておる男達、殺すこともなかっただろうに」
諭すような口調で語る若者の顔をきっと睨み付けて胡蝶は言う。
「光栄、お前は、何というお人好しなのだ。あの中将は殺されたのだぞ」
言われて、やはり、そうだったのかと思った。あの中将、確かにあのときの声の調子からしてまだ若く、病を得ているような様子ではなかった。胡蝶の言葉に初めて合点が行く思いであった。
「それは本当なのか、しかし、なぜ、殺されねばならぬのだ?」
「表だっては、病を得て身罷ったとされておるが、かの貴族が源満仲に殺されたのは、光栄、おぬしにも関わりがあるのだぞ」
「この俺に関わりがあるだと、なぜだ?」
「分からぬか、中将は、あの満仲に物の怪になった俺の姉の始末を頼んだのだ」
「まあそんなところであろうと、およその見当は付くが・・・だが、それが俺となんの関わりがあるのだ」
「まあ、光栄。人の話は最後まで聞け」
「分かった」
「ところが、お前も知っての通り、満仲は始末を付けることが出来なかった。それどころか、あ奴は、あの牛車との戦いに敗れたのだ。お前が陰陽の術で助けなければ、満仲は、とっくに死んでいたはずだ。金子や反物や穀物など多くの褒美を前もって中将からもらっていたにも関わらず、目的を果たすことが出来なかったばかりか、惨めな体を晒した。それでな、満仲を激しく叱責するだけでは中将の怒りは収まらず、満仲の不甲斐なさを同僚の貴族達に言いふらしたのだ。考えても見よ。武士は、宇多天皇の御代、滝口の武士を創設して以来、皇族や貴族のもめ事や権力者の秘密に、武力を以て介入し、その謝礼を得て生きる者どもなのだぞ。桓武平氏だの清和源氏だのといって、自分たちをやんごとなき貴族の出自だと言いふらしておるが、所詮は野武士だの夜盗、山賊、海賊の類を集めて束ね、その武力を以て狼藉をはたらく者どもなのだ。満仲という男、自分の武士としての評判を異常に気にするやつなのだ。それもそのはず、評判が落ちると、雇ってくれる皇族や貴族はいなくなるのだ。武士の棟梁として大勢の家の子郎党を養っていけなくなる。だから、自分を中傷する、あの中将を生かしてはおけなかったのさ。それゆえ、密かに始末したって訳だ」
「うむ」
「ところで、光栄、お前もその一人なのだ」
「なんのことだ?」
「覚えがあろう。あのとき、満仲の体たらくを、お前は一部始終見てしまったのだ。お前の口からあのときのことが漏れ聞こえることを、奴は恐れているのだ。満仲は、あの時のことを知っている者達を全て始末しようとしているのだ。こいつ等はその刺客だぞ。こいつらを生かしておいたら、いつまでもお前につきまとう、お前を殺すまでな。光栄、人の良いのもいい加減にしろ」
光栄は溜息をついて呟く。
「なんと度量の小さいことよ」
「これで、お前に話しておきたいことは、おおかた話した。それでは」
胡蝶は急に立ち上がって、若者を見おろして言う。
「我は盗賊、名は胡蝶、光栄、我のことを忘れるではないぞ」
この時、光栄は、この盗賊の頭目が立ち去ると思って見上げた。
白く艶やかな顔と濡れたような瞳、そして、紅き唇は、かの姫の面影をそこはかとなく漂わせている。光栄の胸を、あの姫へのどうしようもなく断ち難い思いが過った。そこに光栄の油断があったのである。
気がついたとき、胡蝶の衣はさらりとその肌を滑り落ち、一糸まとわぬ滑らかで眩しい女の肢体が目の前にあった。
胡蝶の豊かな白い胸から甘い蜜の香りがしたその時、初めて光栄は自分が彼女の罠にはまっていることを自覚した。驚いて、立ち上がろうと焦ったが、既に光栄の身体の自由は半ば奪われていた。
「うむ、油断のならぬ奴め」
身体は急速に痺れを増して、どうあがいても力が入らない。先ほどから胡蝶の身体から発していた仄かな香りは、彼女の身体に塗られている痺れ薬に違いない。胡蝶は、屈み込んで光栄を抱きしめた。
「光栄、我を抱け、遠慮はいらぬ」
胡蝶の胸から切なく甘い香りが光栄の鼻腔を刺激して五体の中に染みこんでいった。薬の効果がなぜ、胡蝶には現れないのであろうか、多分、胡蝶の身体は薬に慣れて、耐性を獲得しているからであろう、と光栄は推測した。
胡蝶は妖艶なその顔を近づけ光栄の口に自分の唇を重ねた。
光栄はくらくらと目眩のする中、胡蝶の裸の胸に顔を埋めたまま深い穴の中に落ちていくような感覚に囚われると共に、めくるめく男女の営みの中で甘い香りと恍惚の中に沈んでいく自分を感じていた。
柔らかな乳房から薫るこの匂いは、唐土から渡ってきた媚薬に違いない。甘く切ない薫りに、身体は自然に反応して、彼女の乳房を吸っていた。このまま、胡蝶に身を任せて男女の営みに溺れてみたいという誘惑に駆り立てられている自分がそこにいた。だが、一方で、このまま胡蝶を抱けば、光栄自身、身も心も、彼女の虜になり、思い通りに操られると共に賀茂家に巧みに入って来るであろう。
そんな事態になれば、賀茂家の将来に禍根を残すことになる。
何としても阻止せねばならないと、冷静に見ているもう一人の自分がいた。
光栄は精神を落ち着かせるために密かに呪を唱え、印を結んだ。
呪の声は無意識ではあるが、次第に大きくなる。印を結ぶ手に力が入り、一瞬、意識が遠のくような感じを覚えたすぐ後に、体の中を稲妻のような衝撃が走り抜けた。
「なんだ、光栄、どうなったのだ」
胡蝶は、一瞬、激しい衝撃を覚えて、光栄の身体から弾き飛ばされた。そして、光栄の姿が消えたことに気づき、驚いて叫んだ。
その声を聞いた時、若き陰陽師は遁甲の術が成って結界が張られたことを実感した。光栄は、自分が結界の中に居て、胡蝶には姿が見えないことは分かっていたが、念のため、そっと柱の陰に身を隠した。
「光栄、恨めしいぞ、この胡蝶が嫌いか?」
胡蝶は、諦めきれない様子で、暫く付近を手探りして光栄を求めていたが、「遁甲の術か?冷たき奴め、仕方がない、今日のところは諦めよう、だが、光栄、また会おうぞ」という言葉を残して、去って行った。
何とか女難は逃れたものの、体の自由はきかず、ふわふわとした雲の中に居るような気分であった。暫く、そのまま羅城門の屋根裏に留まって、休息を取ったが、疲労はなかなか取れない。
光栄は、その間、懐から紙を取り出して折り始めた。暫くすると人形が出来た。それを四つに折って狩衣の懐にしまい込んで、立ち上がった。まだ意識がはっきりとはしない。階段を降りると、もう夕方に近いのだろう、暗くなり始めていた。朱雀大路を最南端で横切る九条大路にも朱雀大路にも人通りは少ない。
光栄は朱雀門に向かって歩いていた。道の両側にある数本の桜の巨木は花が散って、新緑が茂り始めている。
京の都の日の暮れは早い。日が落ちると、人々はわれ先に家路に急ぐ、人通りは瞬く間に無くなって、前方に野良犬の群れが見えた。
辺りは暗く静かである。胡蝶は、先ほど光栄を襲った男たちは、源満仲の配下であるというが、検非違使庁の武士たちを束ねるほどの統率力を持つ武士の棟梁が、果してそんな度量の狭いことで勤まるものなのか、胡蝶の考え過ぎではないか、そもそも、胡蝶は所詮盗賊の頭目である、彼女は、あるいは俺を根拠のない恐怖に陥れて、自分の思うように操ろうと思っているのかも知れぬ。一方、検非違使は宮城を警備するという重要な任務を負っている武士だ。盗賊などとは身分が違う、どちらが信用できるか、自ずと分かるものであろう、などと思いながら歩いている光栄の前方から野犬の群れが近づいてくる。その眼が奇妙に光っている。野犬の背後に、複数人の気配を感じた。光栄はその影に何やら殺気のような視線を感じた。
反射的に踵を返した光栄はもと来た道へ、急ぎ足で取って返した。
振り返ると、野良犬と影の一団は急速に迫って来る。光栄は走った。
「逃がすな」
背後で声がして、犬の唸り声が瞬く間に迫ってきた。鴻臚館を東に曲がって七条大路に逃げ込んだとき、犬の唸り声をすぐ後ろに聞いた光栄は太刀を引き抜いて、後ろ手に当て推量で振り回す。犬が太刀に食らいついた。太刀を銜え込んで、口が裂けたのだろう、悲鳴を上げた。鴻臚館とは、律令時代の外国使節の接待場所である。
男たちの影を背中に感じた時、光栄は呪を唱えながら、懐から、四つに折った紙を取り出して、片手で器用に広げた。それは先ほど作った、人形であった。若き陰陽師は人形に息を吹き付けて、空に放り出すと、声を大きく呪を唱えて、片手で印を結ぶ。
「追いついたぞ、皆、打ち掛かって賀茂殿のお命、もらい受けよ」
男たちが、人形を取り囲んで切り込んでゆく。人形は、男たちが切り込む際に発生する風に吹かれて、ふわりふわりと身をかわす。その隙に光栄は走り逃げる。暗闇の中で、男たちは光栄の唱える呪と結ばれた印の効果で、一種の催眠術にかかり、幻覚を見て人形を光栄と信じているのである。だが、犬は人形には目もくれない。それは、獣の嗅覚を頼りに若者を追っているからである。東市まで来た時、光栄は振り返って地を蹴り、宙に舞い上がると、野犬の群れの中に飛び込んで太刀を振りかざして、獣に襲い掛かり、切って、切って、切りまくる。一かけらの情けをかけることなく無慈悲に命を奪う。畜生に情けを掛ける必要はない、情けを掛ければ、それが命取りになることがある。そのことは、先日、霊山で狼を相手に戦った時に学んだ。犬を全て成敗し終えた若者は、ほっと溜息をついた。畜生は、慈しんで育てれば、人に慣れ親しみ、いずれは、大切な友となることを、このとき、まだ光栄は知らない。
若き陰陽師は東市の無人の店棚に入り込んで身を隠した。
「討ち果たしたぞ」
という、男たちの歓声が遠くで聞こえた。
何とか館に帰り着き、家の者に気づかれぬように、自分の部屋に辿り着くと倒れるように褥の上に転がった。
眠りの中で、また、光栄は悪夢を見ていた。暗く長い道を歩いている。なぜだか知らないが、鎧を身に付けている。歩くたびに、鎧が摺れて奇妙な音がする。自分の身体を見回すと、胸や肩、腹や足、いたるところに矢が突き刺さっている。痛みは感じない。これは夢なのだと自分でも分かっている。足元に屍と髑髏が転がっている、いや、屍は、道を一杯に埋め尽くしている。背中に幾つもの霊が取り付いて重い肩と背中と腰を引きずってそのまま歩いている。
「これは、何なのだ、なぜ俺は、こんな嫌な夢を見なければならぬのだ」
光栄は夢の中で呻く。これは俺の前世の姿なのか、それとも、将来経験する姿なのか、あるいは疲れによる心の疲労がもたらすものなのか。夢の中で、光栄の歩く果てしなく長い道は、益々暗く、冷たい風が吹き抜けて行く。
「光栄、起きなさい」
朝の光の中、母御前の声に目覚めさせられた。
体中の節々が痛い。昨日は相当に無理をして、戦い、懸命に走った一日であった。
「母上、何でございますか」
「光栄、昨日は何処にいたのですか、母は随分探しましたぞ、蜘蛛丸に聞いても、皆目、分からないと言うし、母は心配で、蜘蛛丸に少しばかりつらく当たってしまいましたぞ、いつの間に帰っていたのですか、でも、無事帰ってきてよかった、お願いですから、もうこれ以上、母に心配かけてはいけませぬぞ」
「はい、分かりました」
「そうそう、ところで、光栄、今日は珍しいものが手に入ったのですよ。茶というものだそうで。何でも唐土では薬として用いるとか。熱き湯で煎じて飲むと、それは何とも甘露な味ですよ。ましてや、醍醐を食しながら飲むと、この世のものとは思われない極楽の味ですよ」
この頃の日本に飲茶の習慣はない。一部の上級貴族や僧侶の中には、あるいはあったかも知れないが、少なくとも、一般的ではなかった。鎌倉時代に、臨済宗の開祖、栄西は宋に渡って修業をした。修業を終えて日本に帰国した際に持ち帰った茶種を九州博多に開いた臨済宗の道場である聖福寺や背振の山に蒔いた。それが、全国に広まって、茶が一般に飲まれるようになったのである。
当初は薬として飲まれたようで、栄西は「喫茶養生記」にその薬効を記して、時の将軍、源実朝に献じている。
ちなみに、醍醐とは牛乳から精製される食べ物で、今日のチーズのようなものであったと言われている。非常に美味であったらしく、この乳製品が食されるようになってから、最高の面白さや味わいのことを醍醐味というようになったと言われる。
「光栄、私はもう、頂きました。後ほど、あと一口いただきましょうか、桂女殿、私が用事を済ませて戻ってくるまでここにいてくださいな、お願い致しますよ」
母御前は我が子を部屋から廊下に連れ出して、庭に跪いている女に向かって声を掛けた後、衣擦れの音も爽やかに館の奥に消えていった。
桂女は片膝をついて頭を下げていたが、光栄に向き直って、彼の側にじり寄るようにして近づき、茶器に熱湯を注ぎいれ、暫くしてから湯飲みに茶を満たした。湯気が立って香ばしい薫りが広がった。
桂女は頭に白い布をかけている、そのため、顔は良く見えない。
桂女とは、京都洛外、桂の里に住んで飴や桂川で取れた鮎を売り歩くことを生業としたが、時には売春もしていたらしい。
彼女のしなやかな指の動きとさりげなく見える二の腕の白さに光栄は何となく惹かれていた。
「ささ、熱いうちに、お召し上がりくださりませ」
「うむ、そうか」
差し出される茶を一口飲んだ途端、光栄は「うっ」と呻いて顔をしかめた。熱い茶が唇の傷に沁みたのである。
「ふふっ」
白布の奥で桂女の目がきらりと光った、そして、可笑しそうに小声で笑った。
「熱う御座りましたか」
光栄は、女の様子が妙に気にかかって、その仕草それをじっと見続けた。そして、密に身構えた。
「光栄、昨日、俺はお前の口をいっぱい吸ってやったぞ。その上、少しばかりお前の唇を噛んでやった。熱き茶に傷が染みるか」
嬉しそうに語り、若者を見上げる顔は正しく盗賊の女頭目であった。
「そなた、胡蝶か」
「そうだ、胡蝶だ。俺の名を覚えておいてくれたか」
「忘れるものか、お前にはひどい目に遭わされたからな」
そう言って油断無く胡蝶を見る。
どちらかといえば、ほっそりとしたこの女らしい体のどこからあのような俊敏で力強い動きが出てくるのか不思議な気がするのである。
「そんなに俺をじろじろ見る所を見ると、光栄、お前、俺に惚れたな」
「惚れてはおらぬ。が、胡蝶、お前は女ではないか、もう少し、女らしい言葉を使ったらどうだ。俺と言うな」
「なにをいう、俺は、手下どもを束ねればならぬ。時には俺の命に背いたやつの命を奪わねばならぬ。女言葉など使っておれるか、俺は、盗賊の頭目なのだぞ」
美しい顔かたちをしておりながら、実に惜しいと光栄は思う。
「そうか」
「ところで、なあ、光栄。俺はそなたの子を孕んだぞ」
「嘘を申すな、俺はそなたが孕むようなことは何もしておらぬ。よしんばしていたとしても、胡蝶、あれは昨日のことだぞ。孕んだかどうか、分かるはずもあるまい」
「そうだ、嘘だ。でも、もし孕んでいたとしても、おぬしに迷惑はかけぬ。自分で育てるから、心配はするな」
「胡蝶、俺にとって、それは呪なのだぞ」
「何だ。呪とは」
「お前の言葉に俺が一瞬でも動揺し、その上で、お前を愛しいと思ったとしたら、お前は俺に呪をかけたのだ」
「愛しいと思ったのか?」
「いや、そうではない、例えば、の話だ」
「そうか、つまらん。光栄、惚れたのなら、惚れたとはっきり言うが良い、無理をするな」
「誰も、無理はしておらぬ」
そして、胡蝶は楽しそうに笑った。
「光栄、お前と話すと、たまらなく心地良い。そういう意味では、お前は俺に呪をかけたと言えるのかも知れぬ」
そういった後、胡蝶は、急に、真顔になって膝をそろえて丁寧に頭を下げた。
「光栄、礼を言うぞ。この通りだ。お前は俺の姉を成仏させてくれた。姉の生涯は幸せというものには縁のないものであった。その上、この人こそと身も心も捧げた男にも裏切られ、挙句には、その妻の嫉妬で殺された。勿論、手に掛けたのは金で雇われた武士であったが」
光栄は目を閉じてその話を聞いていた。あの秋の夜、牛車の中の美しくも妖艶なたたずまいを思い出す。生まれて初めて愛しいと感じたあの姫を助けてやれなかった後悔の念が、光栄に、自分の非力を思い出させる。そしてまた、切なく哀しい想いが、熱く彼の胸を焦がす。
「光栄。中将が身罷って、悲しみに暮れる館から、荷車いっぱいの財を奪い取ることが出来た。弔問の客はひっきりなしに訪れて、頻繁に人が出入りしておった。仕事は楽に、誰に気づかれることも無くやり終えたぞ」
「だが、もう、盗賊はやめろ」
「そうは行かぬ、俺には多くの手下がいる。彼奴め等とその家族が生きる為の糧を稼がねばならぬのでな、ところで、今日は、そんな話をしに来たのではない、別れの挨拶に来たのだ。俺は、白骨と化した姉の亡骸を拾い集めた。その亡骸を今から故郷の丹波に連れて帰る。幼いころ、二人で、駆けては転び、思い切り遊んだ花の咲き乱れるあの野原に埋めてやるのだ」
「そうか、俺に何かできることがあるか」
「ない、その心で、十分だ。だが、光栄、源満仲には気をつけることだ。あいつは執念深い。今もお前を狙っておるぞ」
「分かった、気をつけよう」
「さらばだ、光栄。またいつか会おうぞ」
身を翻して去っていく胡蝶の目にきらりと光って流れるものがあった。
「あら、桂女殿はどこに行ったのですか。戻るまで待っていて下されと申しておったのに、どうしたのでしょうね」
奥から戻ってきた母御前は辺りを見回して、首をひねった。
そこへ血相を変えた蜘蛛丸が走り込んできた。片膝をついて光栄を見上げた蜘蛛丸の体は恐怖に震えている。
「若、今そこで恐ろしい盗賊と擦れ違いましたぞ、お屋敷の中で何か変わったことはござりませぬか、ああ、恐ろしや、恐ろしや、悪名高き、女の盗賊で御座りますぞ、若、私めの話を聞いておられますか」
都を騒がす盗賊は捕えねばならない。だが、都は今、飢餓に苦しむ庶民で溢れている。一方、上級貴族には富が集中しているが、彼らは庶民に重税を課すばかりで手を差し伸べようとしない。
役人は賄賂の多寡によって仕事を行い、己の出世と貪欲さを満たす為、人を陥れ、貶め、殺して栄華を手に入れようとする。こうした風潮の中で、卑劣な貴族だけを狙って財を奪う胡蝶の行動を、それは許されることではないが、責める気にはならないのであった。
「若、あの者は恐ろしゅう御座るぞ、本当に、お屋敷の中で変わったことは、御座りませぬか?」
光栄が気に留める様子を示さないのを見て蜘蛛丸は、不満げに言葉を続けた。
「それにしても、若、昨日は、この蜘蛛丸めは、若のお供をしておりましたが、一条戻り橋のところで、ちょっとばかりよそ見をしている間に、若の姿が見えなくなり申したが、若、若しや、遁甲の術を使われたのではありませぬか」
「何のことかな」
光栄は、とぼけて言った。
「弓削殿がお帰りだ」
賀茂保憲の声が聞こえた。
「あら、お帰りで御座りまするか?」
母御前は振り返って頭を下げて、そちらへ向かおうとした。
「いやあ、そのまま、そのまま、それでは、また近いうちに窺い致しましょうぞ」
弓削殿と呼ばれた初老の貴族らしき男は母御前を手で制して、そのまま保憲と談笑しながら去って行った。その後ろには姫が続いて歩いて行く。袿袴姿であった。姫は袖で顔を隠していたが、振り返った姫の目が袖の影から光栄の様子を窺っていた。
美しいが、誇り高く気の強い姫だと光栄は見た。
「光栄、如何思いますか、あの姫」
「なんですと、母御前様、若に、縁談の話があるのでござりまするか、それはよう御座います」
蜘蛛丸が驚きと嬉しさの混じった目で光栄と母御前の顔を交互に見て、にんまりと笑った。
「何のことでしょうか」
何やら、面倒な話になりそうだなと光栄は良く晴れた初夏の空を見ながら呟くのであった。