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陰陽師 賀茂光栄  作者: 屯田水鏡
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賀茂光栄、霊山に迷うこと

賀茂光栄かものみつよし霊山に迷うこと


賀茂光栄は若き陰陽師おんようじである。高名な陰陽師、賀茂忠行を祖父に、陰陽頭おんようのかみ加茂保憲を父に持つ。

陰陽師は、陰陽五行説に基づき、国家や個人の吉凶禍福を占い、祓などの呪術作法を行うことを職とする。

平安末期に成立した説話集『今昔物語集』によれば、祖父賀茂忠行は百鬼の群れに遭遇したとき、即座に遁甲の方術で結界を張り、百鬼をやり過ごして難を逃れたという。

また、父賀茂保憲は幼い時、忠行が陰陽道の儀式を行った際、小さな鬼神がぞろぞろとやって来て、供物をたらふく食らった後、思い思いに舟形の乗り物に乗って帰って行く様子を目撃した。

その一部始終を父忠行に語った時、忠行は我が子の恵まれた陰陽師としての資質に驚愕すると共にいたく喜び、己の持つ陰陽の方術全てを余さず伝授したのだが、保憲は期待にたがわず、「甕の水を移すがごとく」その技を漏らさず、悉く吸収したという。

かくして、忠行と保憲の評判は名高い。この評判を聞くにつけ、賀茂光栄は自分の凡庸さに悩まされるのである。陰陽道の大家に嫡子として生を受けたことは彼にとってこの上ない幸運であると共にそれ以上に不運であった。祖父忠行は既に第一線から退いてはいたが、陰陽の術を切り開いた偉人として神のごとく崇められている。

そして、賀茂家の現当主、父保憲は天皇や公卿などの上級貴族から信望が厚く、天文・暦・卜筮・漏刻を司り、この国の陰陽師を指揮監督する陰陽寮の長官、陰陽頭という職席にまで登り詰めて、既に忠行を超えたという世の評価を得ている。賀茂家の館には保憲の名声を慕って多くの陰陽師が教えを請う為に五畿七道の国々から尋ねて来て門前を賑わしていた。宮廷貴族は従者に貢物を満載にした荷車を従えてわれ先に日参して来る有様であった。貴族が賀茂家を訪れるにはそれなりの切実な思惑があった。この国の富と権力を握る彼らは、外見上優雅に振る舞ってはいるが、水面下では日夜権力の座を巡って激しく争っていたのである。さらに、摂関家や上級貴族にとって天皇との外戚関係こそが揺るぎない権力を維持するための手段であった。彼らは娘を天皇に入内させるために優秀な家庭教師を付けた。その代表が紫式部や清少納言である。一般の貴族は摂関家に取り入ってその後ろ盾を得るために強いパイプを構築する必要があった。

彼等の間では、ライバルを排除するために呪詛によって呪い殺すことが頻繁に行われていた。陰陽師はその目的を達するために欠かせない存在であった。つまり、陰陽師を使って政敵を排除する行為が日常的に行われていたのである。

こうした世の風潮を知るにつけ、光栄は身がすくむ思いに囚われるのであった。一見優雅に見える平安の世は政争と戦いの場であったのである。そこには戦いに敗れた貴族や武士の怨霊と巻き添えを食って虫けらのように殺された庶民の霊が徘徊する修羅の場であったのである。

「俺はどうあがいても、父の期待に添うことは出来ぬ」

光栄はため息をつく。彼の精神に重く圧し掛かるもの、その正体が何かは明確ではない。だが、その原因が彼自身の弱さにあることは彼にも漠然とではあるが分かる気がした。

何事につけて祖父や父と比べられることは彼にとっていかに重圧であるか、その苦しみは誰も分かってくれない。

陰陽道という食う手段を手に入れた伝統ある下級貴族の嫡子として生まれ、飢えることも無く日々を安楽に暮し、将来を約束されている光栄に何の不満があろうかと世人は思っている。

昨年の秋に光栄は恋をした。思う姫は怨霊となっていたが、彼はその姫を救えなかった。未熟な彼が怨霊となった姫を救い出すことなど出来る筈など無いことは初めから分かっていたことである。

更に先日、安倍清明という陰陽師の操る深遠とも言える熟達した術に圧倒され、自分の技量が清明に比べて極めて稚拙であることを痛感した。

未熟な自分を振り返る度に強い自己嫌悪が彼の精神を苛んだ。

確かに、光栄は陰陽道の修行について、今までたいして熱心ではなかったし、さして難しいものだとも思わず、どちらかと言えば少しばかり如何わしく、財物を稼ぎ出すための手段と考えていた。

嫡男である光栄は大切に育てられると共にそれなりの技は身につけていた。しかし、死にもの狂いの修業を行った訳ではない。安倍清明との出会いは自分の実力の脆弱さを思い知らされ、その自尊心は完膚なきまでに打ちのめされ、陰陽の術が実は果てしも無く深遠なものであって、いい加減な修業はそれなりの結果しかもたらさないことを実感した若者の心の奥深くに挫折という大きな傷がぱっくりと開き、そこから湧出る絶望感と恐怖は彼の心の制御盤を次々と狂わせてその精神は蝕まれ、底知れぬ悲しみと怒りが突然、理由も無く夏の黒雲のごとく湧き出て制御できない感情の高まりは外に向かわず、彼の内面に向かって深く突き刺さった。

「一体俺は何を学び、何を修行してきたのだ」

自分の中に沸き上がる後悔の念は徐々に自分自身への呪いの言霊となった。気が付くと一挙一動にも意欲が起こらなくなり、体を動かすことさえ億劫でならなくなった。部屋に籠って口もきかずただ壁に向かうようになった。壁には、数えきれない穴が空いていて、その穴の一つ一つを覗いてみると、それぞれの穴の奥深くから蛇が赤い舌を出して光栄を見つめて今にも這い出して来ようとしていた。

次の瞬間、穴から這い出して来る蛇が折り重なって足の踏み場もなく、部屋いっぱいになって光栄の身体は次第にその中に埋まっていった。体は硬直してうずくまったまま動けない。それは最早数々の陰陽道の修行を行ってきた陰陽師の姿ではなかった。どうする事も出来ずにただ体を固くする若者の耳に頭上から激しく非難する声が聞こえる。天井からか壁からか地面からか何処から聞こえてくるのか判然としない。耳を塞いでも声は止まない。もしかしたら自身の中から聞こえてくるのかも知れなかった。非難の声は次第に大きく騒がしくなる。光栄は思わず叫んでいた。

「うるさい」

だが、声は止まず、益々大きくなって、まるで降り注ぐ雨のように若者を苦しめる。なぜ、何者が非難するのか理解できない。彼の中で思考と知覚の歪曲が始まっていた。父も母も屋敷中の誰もが悪意の籠った目で光栄を見ている。誰もが自分の噂をしているに違いないと確信に近い思いと共に彼の中に不安と恐怖が広がって、幻聴は大きくしかも生々しく迫り、色彩は生臭い匂いを伴った強い衝撃を彼に与えた。耳を塞ぎ、目を閉じても逃れることのできない苦しみは押しては返す波のように彼に死出の山への旅立ちを誘うのであった。目を閉じると、見知らぬ顔が彼の鼻先に入れ替わり立ち替わり現れて、恐ろしい形相で睨みつけると、その肉が崩れ落ちて頭蓋骨が現れる。

眠る度、暗い沼に転がり落ちて溺れ、水底ではるか上空を見上げて微かに見える陽光を求めて藻掻き苦しんだ。そんなことが何日も続いて、遂には呼吸をすることさえ苦しくなった時、その苦しみはいつか絶望にとって代わっていた。彼の心の異常と苦悩に気付く者は誰一人としていなかった。

光栄の姿が都から忽然と消えた。光栄の突然の失踪に賀茂家の人々は慌てた。陰陽師家の嫡男が姿を隠したのである。尋常のことではない、賀茂家の存続に関わる事態である。

ところが、誰一人として、失踪の理由について思い当たる節は無く、皆一様に首をひねった。賀茂家の人々が総出で探したが、ようとしてその行方はわからなかった。一族の当惑と悲しみは一通りでは無かった。特に母御前の悲しみは大きく、心労で食事も喉を通らなかった。部屋に閉じこもって神仏に祈っては涙に暮れ、眠れぬ夜を脇息に寄りかかって虚ろな眼を押さえ、力なく溜息を漏らしては涙に暮れた。その姿は、日を追うごとにやつれていった。時には、光栄のことを気に掛ける様子を示さない夫、保憲を激しくなじった。

当の保憲は、妻の訴えに耳を貸さないふりをしていたが、密かに自室に祭壇を設け、古代中国の聖天子伏羲ふっきを祀り、彼があみだした八卦である乾、兌、離、震、巽、坎、艮、坤を唱え、易を操って光栄の気を尋ねた。それによると、光栄の気は弱まり、生命力に陰りがあると出た。陰陽道の達人である賀茂保憲も人の子の親である。手塩にかけて育てた我が子の死を望むものではない。胸を掻きむしられるほど気がかりであった。だが、保憲には、ただ信じて見守ることしか出来ない。何が光栄の身に起こったのか保憲にも分からないが、何があったにせよ、陰陽師として生きていくには、苦難を克服して更なる高みに上らなければならず、いま、その能力を天に試されている。世の中に責任を負う立場のものがその資質を問われ、くぐり抜けなければならない狭き門なのである。そして幾多の者がこの試練に耐えきれず淘汰されて去って行った判定の門でもある。

陰陽師として生きることを背負ってこの世に生まれ出た以上、その試練に耐えなければならない。もしも試練に耐えきれないならば、それは天命なのである。

もしも光栄がこのまま帰らぬ時は、弟、光国を賀茂家の後継者とせねばなるまいと保憲は密に覚悟せざるを得なかった。勿論、光栄が無事に帰還することを心から望んでいた。

その頃、当の光栄は山中を彷徨っていた。

そこが何処なのか分からないし、また、なぜ、どのようにしてそこに至ったのか訳が分からなかった。自分の意志で来たのか或いは誰かに案内されてきたのかそれさえも記憶にない。ただ、気付かなうちに見えない強い力にぐいと引かれるように辿り着いたように思うばかりである。その上、激痛よりも辛い幻覚に悩まされていた。

姿の見えない誰かが彼の耳元で囁いている。

「うるさい。お前は何者なのだ」

光栄は叫び、耳を塞いだ。山道を歩いている今が現実の出来事なのかそうではないのか確信が持てない。深い霧の中をふら付きながら歩いているようだ、足元が心許ない。意識が朦朧として昼なのか夜なのか見当もつかない。不意に何かにぶつかって転んだ。道に張り出している木の根らしいと思った時、坂道を転げ落ちていた。精神がすっかり摩耗している身体に激しい痛みは感じない。まるで遥か向うで起こっている出来事のようであった。混濁する意識のまま立ち上がると、鼻先に女の顔が不意に現れ、目を剥き、彼の顔に嘔吐するように呪いの言葉を浴びせかけた。その顔は見る間に腐乱して、皮が剥がれて肉が汚物のように溶けて流れてその後に白いしゃれこうべだけが残り、暗い空洞となった二つの目の奥には蛆虫がうごめいている。腐食した女の体がどさっと崩れて、蛆虫の群れが光栄の足に取り憑き、ふくらはぎをよじ登ってくる。佇む光栄は、恐怖におののくと共に蝉時雨せみしぐれのような激しい耳鳴りに悩まされていた。頭や肩や腰に鈍痛が起こり、ゆっくりと蛆虫の群れの中に倒れこんで頭を抱え、もだえ苦しむ。波のように襲い掛かる嘔吐と鈍痛に耐えきれず、不覚にも体の内から湧きだす嗚咽に肩を震わせて泣いていた。

「もし、どうかされましたか」

誰かが、座り込んで悶える光栄の背中を撫でながら、顔を覗き込んでいた。

その顔にはまだあどけなさが残っている。僧服に身を包み、擦り切れそうな草履を履いている。まだ、志学には達していないように見えた。

「水を、水を貰えませぬか」

かすれた声で、助けを求める光栄の額には脂汗が噴き出して、顔面は蒼白であった。

「分かりました、しばらくお待ちください」

若き僧は立ち上がり、急ぎ足で近くの沢にかけ下りてすぐに戻り、水のたっぷりと入った瓢箪を差し出した。光栄は瓢箪を奪い取るように受け取って貪り吸った。青臭い味がするのは瓢箪の果肉が水に溶け込んでいたのであろう。その味は光栄の体に沁み込んだ。甘露とはこのような味であったか、味い水だ、生き返るとはこのことを言うのであろうか。心身ともに疲れ切っている身体にとって正に命の水であった。何の変哲もない一口の水が生と死の境で生きる命の活力となる、これはいったい何なのであろうか、光栄には不可思議な体験であった。

「ありがとう御座ります、おかげで身も心も随分と楽になりました」

光栄は笑みを返しながらその若き修行僧に礼を述べた。改めて見れば、光栄よりも相当に若い。まだ幼さが残るその瞳は相手を思いやる心根を表そうとしていた。僧服はぼろ布のように薄く、草履は擦り切れ、足には血が滲んでいる。いったいこの若い僧は何者であろうか。

「あなたのおかげでどうやら命を繋ぐことができたようです。どうかあなたの名をお聞かせ願いませぬか?」

尋ねる光栄に対して若き僧はあくまでさり気なく、何の気負いも飾りもなく寄り添うがごとくに話をする。

「私の名は源信と申します。比叡の山、横川よがわで修行の身でありますが、恥ずかしながら、母を懐かしんで一目会いたく、生まれ故郷の葛城郡の母の元を尋ねたのですが、母に叱責されて、追い返され、また比叡の山に戻るところで御座います。思えば当たり前のこと、出家してまだ間がなく、未熟な私が何の成果を上げることもなく、ただ母恋しくて会いに行くなど、まるで母の元に逃げ帰るような行動は浅はかと言われても致し方ございません。まだまだ、未熟者でございます。比叡の山への帰りにこの坂道を歩いている時にあなたと出会ったのです。これもみ仏のお引き合わせ、前世の契りでございましょう。私に何か出来ることはござりませぬか?何なりとお申し付け下さい」

この若者の内には迷える人を導く類まれなる才能が潜んでいると光栄は見て取った。あどけなさの残る少年僧の顔に心がなごむ自分を感じた。だが次の瞬間、年端もいかない見習いの僧に慰められている自分に気づき、己の不甲斐無さがつくづく身に沁みて腹立たしさと恥ずかしさに顔が火照った。

「いえ、もう大丈夫です、誠に有難うございました」

そう言って光栄は少年に笑いかけた。その言葉には、これ以上の情けの甘受は俺の誇りが傷つくのだという拒絶の響きがあった。

光栄の心情を察したのであろうか、若い僧は手を合わせて頭を深々と下げた。

「御仏のご加護があなたにありますように」

小さくつぶやいて爽やかなほほえみを浮かべた後、くるりと背を向け、山道を軽々と走るように歩み去って行った。その獣道には雪が残り、木々をしならせて風が吹き抜けていた。光栄は気力を振り絞ってさらに山深く分け入って行った。山道の脇には時折、人骨や髑髏が転がっている。彼等にも彼らなりの生活があったのであろうか、修業の途上に志なかばで尽きた命なのか、あるいは自ら選んだ死なのか、または、誰かに奪われたのか、何れも長い年月の間、風雨にさらされたのであろう、枯れて乾燥した木片のように白く光っているだけであった。よろけて骨片を踏みつけるとぽきりと乾いた音がして砕けた。疲労は、心身に深く食い込むように染みて、幻聴と幻覚が再び激しく光栄を襲い続ける。骸骨がむっくりと立ち上がって光栄の前に立ちはだかり、問いただす。

「お前は何をしているのだ。いや、何をしようとしているのだ。そして、何のためにここにいるのだ」

「俺にも分からぬ」

光栄は答える。疲労は限界に達していた。だが、神経は強く張った琵琶の弦のように緊張していた。冷たい風が、容赦なく光栄の身体から熱を奪っていった。虚ろな心を吹き抜ける風はなお一層冷たかった。

衣服はぼろぼろに破れ、剥き出した肌にはその心と同じように無数の傷があった。一方、幻聴と幻覚は益々激しくなって意識の混濁と共に無数の怨霊が恐ろしい顔で目の前に次々と現れては消えていった。女が、目をむいて睨みつける。その次には男の顔が現れて何かを語りかけて、射るような眼で光栄の目を覗き込む。苦しみ藻掻く顔が現れて、目をつぶっても、耳を塞いでも振り払うことが出来ない。この世のものではないことは分かっている。目を背けることが出来なければ仕方がない、その顔を見続けなければならない。

前世の報いか。腹立たしいが、次第に体は衰弱して、だるく重く動きが緩慢になると共に、考えることさえも億劫になってきた。

極端な疲れの意外な効果なのであろうか、光栄は、持て余す幻聴や幻覚を自分の病気、あるいは資質として、受け入れるしか仕方がないと思い始めていた。獣道を辿って行くと、森の闇の中に光る眼が幾つも現れて光栄をじっと観察していた。

「うるさい、怨霊ども、去れ」

目を閉じて、腹の底から大声を吐き出す。とその時、風を感じた。これは怨霊ではないという直感がした。思わず目を開けた時、暗闇の中から光る眼が飛び掛ってくる。思わず体を捻り乍ら、刀を引き抜いて払いのけた。

「ぎゃん」という声と共に飛沫を顔に浴びた。生くさい匂いがしたと感じて見ると狼が横たわって痙攣している。血の臭いを嗅いだ別の狼が断末魔の痙攣を繰り返す仲間の傷口に貪りついてその肉を喰らっていた。光栄は逃げた。背後で傷ついた獣の絶叫と仲間の肉を喰らって争う獣の唸り声がいつまでも耳に残った。

「俺は生き延びた。獣を殺して、俺は生き延びた」

光栄は、逃げながら小さく呟き、生きている自分を感じていた。

だが、希望が生まれた訳ではない。麻痺した神経がとにかく逃げろと叫んでいるだけであった。何処をどの様に来たのか分からない。

いつか山の頂に立っていた。満天の星が頭上に輝いている。

「俺は陰陽師、賀茂の光栄だ」

天に向かって叫ぶ声が風に吹き飛ぶ。広大な天と地の間では人間の存在など取るに足りない。寒い、寒い、体は痺れて感覚は無い。

だが、それ以上に心は果てし無く寒かった。なぜか知らないが涙が溢れてくる。

涙の向うに雲水の一団が歩いて来るのが見えた。間もなく僧達の一団がどやどやと目の前に現れた。一列になって読経しながら脇を通り過ぎようとしたが、最後尾の一人が急に振り返って光栄に罵声を浴びせかける。

「無礼者。ここで何をしておる。ここを霊山と知ってのことか。お前ごとき未熟者が来るところではない。霊山が穢れるではないか、早く立ち去らぬか、汚き者よ、お前の魂は腐りきっている」  雲水が皆恐ろしい顔で光栄をとがめる。  「汚らわしい、未熟者め」

「穢れた魂め、己を知れ」

「邪道を説く者よ、去れ、去れ、ここはお前などの来るところではない」

僧たちが恐ろしい顔で睨みつける。

「おい、おい、その辺で良いではないか」

一人の老僧が山上からすたすたと下って来て、近くで声をかけた。

雲水達が僧を見て顔色を変え、その場に跪いて額づく。

僧は光栄を見て笑いながら語り掛けた。

「どうかな、何か学んだかな」

光栄は答える。

「何も、何も分かりませぬ」

老僧はにこりと笑ってまた言う。

「そうか、分からぬか、あるいは分からぬということを学んだのかも知れぬのう。それも良かろう、では先を急ぐのでな」

僧はまたすたすたと去っていった。雲水達が大声で叫び、慌ててその後を追っていく。

「行基菩薩様、お待ちください。私どもに戒律をお授けください」

しかし、その僧の歩みの速さは尋常ではない。見る間に視界から消え去っていった。光栄は現実と幻の世界の狭間を彷徨っていた。

行基は平安の世の人ではない。光栄の生きた時代よりも二百年ほど遡る天平の時代を大いなる慈悲を持って生き抜いた聖人である。

彼を慕って集まった数千人の信徒を率いて、池や堤を作り、橋や港を整備する知識という慈善事業を指揮した。その評判に恐れを感じた政府は弾圧を加えたが彼は怯まなかった。遂に聖武天皇と光明皇后は東大寺に大仏造立を発願した時、行基の力に頼ったのである。

また、雲水の一人が振り返って叫ぶ。

「ここは霊山である、お前のような未熟者が足を踏み入れるところではない、生きることも出来ず、かと言って死ぬことも出来ず、勿論、悟りも開けず、いや、悟ろうとせず、自分の弱さを認めず、淫猥な心を制御できず、厳然たる現実に真摯に向き合おうとせず、人を信じることも、ましてや、自分を信じることも叶わぬ、お前如きが、ええい、まだまだ言い足らぬ、挙げれば数限りない。小童、お前など、見るも汚らわしい、無駄に命を捨てるだけだ、死ぬのはお前の勝手なれど、その穢れた屍をこの霊山で朽ちさせるのは、修業の途上で命尽きた汚れなき魂に対して申し訳が立たぬ。お前など、腐れ切った都で行き倒れて、犬や烏の餌食となって、鴨の河原に打ち捨てられるが相応しかろう、汚辱にまみれた汝にふさわしい地へ帰れ、帰れ」

光栄は黙って聞き流し、その一団が遠くに消え去るまで見送った。

荒涼たる静けさの中に風が吹いている。何処からか小さな声が聞こえ、幻聴となって声は段々と大きくなる。光栄はその場に屈みこんで耳を塞いだ。

「そうだ、俺は弱く、卑怯な男だ」

身も心も弱り切っているはずなのに、涙だけが止めどなく流れ落ちる。ようやく、よろよろと立ち上がって歩こうとすると、暗い地面から湧出る青白い手が狩衣の裾を掴んで彼の行く手を阻む。

「離せ、離さぬか、俺は行かねばならぬ、邪魔をするな」

地面に向かってどなりつけているものの、自分が何処に向かおうとしているのか見当も付かない。目的の定まらない自分自身に苛ついていた。刀を引き抜いて、地面から突き出た腕のことごとくを薙ぎ払った。

だが、霊の群れは次々と地中から這い出して立ち上がって光栄の行く手を遮り、鼻先に腐れかけた顔を近づけて何かを語りかけるがその意味が分からない。

刀を振り回す光栄。立ち上がってくる霊の群れを切って、切って、切り捨てるが、倒しても、倒しても、むくむくと地面から次々に這い出しては立ち上がり、霊は光栄に迫ってくる。

「なぜ我らを切るのだ、我らが何をした、答えてみろ、光栄、見てみろ、その屍の顔を、お前自身なのだぞ、気が付かぬか、ほれ、お前の母もおる、お前の父もおる、おや、父親の屍が多いな、あっちもこっちも、おい、お前、自分の父を恨んでおるな、父が憎いのか、そうだな、おい」

「うるさい、俺に近寄るな」

光栄は剣を闇雲に振り回しながら走った。

「待て、光栄、逃げるか卑怯者」

霊の群れが追いかけてくる。逃げても、逃げても、追いかけてくる。光栄は印を結び、呪文を唱えた。平静な自分を取り戻すため、陰陽の術に無意識に頼ったのであろうが、案の定、心の平穏を取り戻す手段にはなり得ない。元々光栄は陰陽師の家に生まれながら陰陽の術に懐疑的であった。陰陽の術は、多分に人間の内なる弱さに付けこんで、その心にある、恨み、妬み、恐れ、悲しみ、苦しみ、後悔のそれぞれが生み出す負の連鎖によって形成される幻、いわばまやかしを利用して財を商う幻術であると光栄は思っていた。その幻術に、頼ろうとしている自分にこの若者は、言い知れぬ絶望感を覚えていた。実は陰陽道はその当時の最先端の科学技術であったのだが、光栄はまだ気が付いないのである。

人は弱きがゆえに何かに頼ろうとする。その心が勝手に妄想を引き起こして、少しでも普段と変わった現象を目にすると、それが例えまやかしであっても不可思議な超常現象として映り、驚愕して冷静さを失い、その妄執に囚われて、もはや逃れられない。それが弱い人間の実態である。例えどんなに強がっても、誰もがその内面に人には知られたくない弱さを抱えているものである。光栄は正にその弱き人間の一人であることを自覚せざるを得なかった。疲れ切って林の中に倒れこんだ光栄を無数の霊魂が囲んで取り付いて来る。

恐怖と自分の不甲斐なさに苛まれ、慟哭の涙が止めどなく流れ落ちることをどうすることも出来なかった。

光栄は朝の光に目覚めた。病葉の中で海老のように横たわっていた。木々の間を光の筋が白く光っていた。木漏れ日が若者の顔に注ぐ。気だるい身体を持て余すように寝そべる光栄の耳に流れの音が聞こえる。体の神髄から渇きを覚えた。ゆっくりと這うように体を動かす。流れはすぐ近くにあった。駆け寄り、流れに顔をつけてごくごくと水を飲む。冷たいが美味い。生き返るようであった。目の前で魚影が身をくねらした。それを目で追うと人影が水面に映っているのに気が付いた。光栄は、思わず見上げた。その人は何時から居たのであろうか、光栄の様子をじっと見ていた。その顔には慈しむような微笑みがあった。それは光栄だけに対して見せるものではなく、万人に対するもの、いや、生きとし生きるものに寄せる慈愛の目のように見えた。

「誰だ、貴方は」

「誰と言って、ほれ、この姿を見れば坊主以外、何に見える」

 その僧は錫杖を水中にさしてゆっくりと掻き混ぜた。その瞬間、魚の群れが集まって杖の先で激しく回遊し始め、見る間に狭い川が大小の魚で溢れた。光栄は何かの術を使っているのだと即座に感じて身構えた。僧は、魚の群れる光景を楽しそうに眺めた後、光栄に向き直り微笑みかけた。

 「どうした、不思議な顔をして」

「あなたは幻術を使っているのか」

「幻術とな、ハハハ、魚がこうして集まるのは、それなりの理由があるからであって、何の不思議もないのだ」

「貴方は、魚が群がる事象に、俺が勝手に驚き、また、俺の弱さが超常現象を勝手に妄想していると言いたいのか」

「そう言えるかも知れぬのう、だが、それはそなたの弱さとばかりとは言えぬ、豊富な想像力がそなたに備わっているともいえる。その持て余す空想力をどの様にして制御するのか、そこはそなたが見たものをどの様に捉え、噛み砕いて胃の腑に落とすかによるであろう」

そう言った後、僧は屈みこんで魚を素手で掴んだ。目にも留まらぬ速さであった。そして、枯葉を掻き集めて火打ち石で火を起こし、魚を器用に櫛に刺して焼き始めた。芳しい薫りが立ち込める。

「ほれ、若者よ、これを胃の腑に落として、元気を出すのだ。さすれば、又良い考えも浮かぼうというもの、ささ、遠慮は無用じゃ」

初老の僧と光栄は無言のまま魚を食べ続けた。

「それでは、さらばじゃ」

僧はゆっくりと立ち上がり、歩き始めた。

「お待ちくだされ、まだ、我が問の答えを頂いてはおりませぬぞ」

「大した理由ではない、それでも聞きたいか」

「聞きとうござる」

「拙僧は、事あるごとにこの山に篭って修業を積む。その行き帰りには決まってこの獣道を通るのだが、その際いつもその流れの中を錫杖でかき混ぜて乞食こつじきで得た食べ物の残りを水の中に投げ入れるのだが、可愛いではないか、餌を求めて魚が集まってくるのじゃ。その内、この乞食坊主が流れに近づいただけで魚が集まって来るようになったのだ」

「なんだ、そんなことであったか」

訳を知ってしまえば何ということもない。光栄は、思わず唸った。

なぜ不可思議に感じたのであろうかと腹立たしささえ覚えたのである。

「一つだけ言っておかねばなるまい、その可愛い魚の命を喰らって、そなたもこの乞食坊主も命を繋いだのじゃ。そのこと、忘れてはならぬぞ。では、さらばじゃ」

僧は笑いながら錫杖で地面を付いた。杖の最上部に取り付けた数個の金属の輪が触れ合って音を立てた。

「名を、名をお聞かせください」

「拙僧の名は、空也という」

「あなたが市聖いちのひじり・・」

初老の僧は山道に慣れたしっかりとした足取りで、振り向くことも無く去って行った。

光栄は著名な僧、市聖の言うことなどどうでも良かった。この先、俺はどうしたら良いのであろうか、これからどこに行ったら良いのか分からない。いや、考えてみると今自分が何処にいるのかも見当がつかない。先ほどまでの出来事が現実なのか、幻なのかそれさえも分からない。心身は疲れ果て、何を為すべきか、何もなさざるべきか、生きるべきか、それとも生きる資格もないのか。何もかも夢幻なのか現実なのかその区別がつかない。若者の精神は絶望と虚無に支配されていた。だが、一つだけ思い当たることがある、悩み苦しむ自分が今ここにいる、それだけは確かなことではないか。そう感じた、光栄は歩き始めた。当てなどない。ただ留まって何もしないよりも、良くも悪くも、兎に角、動き出してみる、そうすれば何かの結果が伴う、というのが光栄の選択であった。

光栄は歩みを止め、屈みこんで耳を塞いだ。何処からかうめき声が聞こえてくる。また、幻覚が始まろうとしているのか。いや、そうではない、耳を塞いだ時、声は聞こえなくなった。これは幻覚ではない、現実だ。辺りを見回した。樹陰に誰かが屈みこんでいる。

何ものであろうか、注視しながら近づく。白髪の老婆が屈みこんでいる。

「どうされました?」

呼びかけると、老婆は振りむいて苦しそうな顔で光栄を見上げた。

「急に差し込みが」

こんな山深いところに、なぜ人が住んでいるのか、しかもこのような年寄りが、と少しばかり不可解に思ったのであるが、難儀している老婆を放っておく訳にもいかない。

「どうぞ我が背中につかまり下され、遠慮はいらぬ」

光栄の申し出に、老婆は嬉しそうに笑い、背中に縋り付くように張り付いた。

「どこへ参りましょうか」

「このまま真っ直ぐ進んで下され」

老婆は更に山深く進むように示した。上るにつれて原始の木は欝蒼と密集して繁り、昼にも拘らず暗い。かなり歩いたところで光栄は尋ねた。

「まだで御座るかな」

「もう少しですじゃ、ほれ、あの木の先じゃ」

大木を過ぎて暫く行くと視界が少しばかり広がって、そこに粗末な小屋があった。

「ここで御座るか」

「やれやれ、やっと着き申した、どうぞ中に入って下され」

小屋の中に入って、背中の老婆を下ろそうとすると急に彼女はその腕に力を込めて光栄の首を絞めた。

「何をする、おばば、苦しいではないか、離さぬか」

「皆、獲物じゃ」

老婆が叫ぶと同時に、何処に隠れていたのか、屈強な男たちが三人、突然現れて光栄を囲んだ。

「お婆、でかした、久しぶりの獲物だぞ」

男たちは、背中に弓を背負い、手にはそれぞれまさかりや棍棒を握りしめている。

「皆の衆、早く仕留めるのじゃ、この婆の手柄じゃぞ」

光栄は老婆を下ろそうとするが彼女は背中に張り付いたまま下りようとせず、彼の首を絞めつけた。振り解こうとするが老婆の腕力は老人とは思えないほど強く、首に巻かれた腕は解けない。老婆を背負ったまま、刀を抜いて戦うほか仕方が無かった。前後左右から、代わる代わる切り込んで来る男たちの鉞と棍棒を辛うじて避けながら戦う光栄の足元はよろけて危うい。

「ええい、何をしておるのじゃ、早く仕留めぬか」

老婆が叫ぶ。息が切れ出した光栄は、もうこれ以上耐えきれないと覚悟した。もしかしたら、これはいつもの幻覚ではないかと思ったが、現実であろうが、幻覚であろうが、夢の中であろうが、このまま戦いに敗れて命を落とすのは、彼の自尊心が許さなかった。

「おばば、じっとしていろ、いま、そ奴を射抜いてやるからな」

正面の男が叫び、弓に矢をつがえて引き絞った。咄嗟に男に背を向けたとき、風を切る音がした。

「ぎゃあ」

老婆の悲鳴が聞こえて、光栄は肩に痛みを感じた。矢は背後から老婆の胸を貫き光栄の肩に達していた。この痛みは幻覚ではないとはっきりと悟った。腕力が緩んだその隙に老婆の腕を振り解き、彼女を振り落とした。足にしがみつこうとする老婆の腕を太刀で払うと、血しぶきが飛んで彼女の腕が宙を飛んだ。

「よくも、お婆を」

男がまた弓に矢をつがえようとした。その一瞬の隙に間髪を入れず、剣を真横に円を描くよう切りに払った。確かな手応えがあった。

男はゆっくりと前に屈むように崩れ落ちた。横から襲ってくる気配を感じて向き直ると、光栄の眉間を目がけて鉞が振り下ろされてくる。後ろに大きく仰け反った。振り下ろされた鉞の切っ先が光栄の足の指をかすめて土煙を上げた。瞬間に光栄は飛び上がっていた。

男の肩の上を飛び越えると共に太刀を斜めに振り下ろした。大木が倒れるように男は前に突っ伏した。残る一人に向かうと男は怯み、棍棒を投げ捨てて逃げた。生かしてはおけぬ。怒りに燃える光栄は後を追う。もう少しで追いつくと思った時、突然黒い影がよぎった。

何だ、あれは、犬か?

「ひええ」

男は悲鳴を上げて倒れた。黒い影が次々と現れて倒れた男に襲い掛かる。男の身体の周りは瞬く間に狼の群れで埋め尽くされていた。

やがて、手足は食い千切られ、頭も胴も飢えた狼に貪られている。

光栄は思わず目をそむけた。そして、素早くその場から逃げた。

肩に少し痛みを感じたが、大した苦痛ではなかった。

背後で狼の唸り声と男たちの断末魔の悲鳴が聞こえる。

「後生じゃ、この婆を置いて行かんで下され」

老婆の悲痛な声が光栄の耳に届いた。あるいは救うべき老婆であるのかもしれない。だが、到底その気にはなれなかった。

「みな、迷わずに成仏致せ」

光栄は自分でも驚くほど冷静に呟いて刀を鞘に納めた。

少しばかり思うことはあるが、しかし、自分の行動に後悔は微塵も感じなかった。少しでも手を抜けば、こちらがやられた。彼らが、山賊とならねばこの世を生きてゆくことは出来なかったという彼等なりの理由があったのかも知れない。だが、理由は何であるにしろ、彼等の行いは許されるものではない。恐らく何人もの山中に迷う者が犠牲になっているのであろう。彼らの魂はあの世で地獄の責苦を受けねばならぬ、それが報いというものだ。光栄にとってただ一つ救いであるのは、生き延びる為、懸命に闘っている間は、幻覚は現れないと分かったことであった。

疲労は極限をとっくに超えていた。空腹と疲れで、もつれた足はよろめいて滑り、光栄は谷底に向かって転がり落ちていた。落ちながら、心の中に六大を念じていた。六大とは弘法大師空海がその書「即身成仏義」で述べているものである。

あらゆるものは物質的な五大「地水火風空」と「心」、つまり六大からなっており、たがいに混じり合って全てを構成していると教義は説いている。

光栄はかつて羅城門の東にあって都を守るという教王護国寺でその教義を聞いて深遠な密教の力に感服してその術を陰陽の術に取り込むことが出来ないかと密に考えていた。六大を唱えることで何かの力を得ることが出来るような気がしたからである。

光栄にとって死とはもう恐れの対象ではなかった。ただ、願わくは、わが魂は地獄界ではなく極楽に行きたしと思うのみであった。

だからと言って彼の中で確固とした覚悟が定まったわけではなく、揺るぎない信念が生まれた訳でもない。一朝一夕に物事が解決するほど人生は甘くはないし、人間はそれほど強くない、いや、むしろ弱いと言う方が当たっている。揺るぎない心の持ち主などこの世の中にはいないのかもしれない。光栄は薄れる意識の中で、幻覚幻聴の出現を恐れ、それを制御できない自分自身を蔑み、そして、何を頼りに生きていくのか、あるいは潔く死ぬのかそれさえも分からず、迷いに迷う心を持て余すばかりであった。

夢現の中でいつか戦場を歩いていた。そこは草原の真っただ中であった。見渡すと、あちこちで戦いが続いている。しかし、それは大きな戦が終わった後の小競り合いというようなものであった。  

勝者の側が逃げる敗者を捕えて首を刎ねている。やがて、静寂がその草原を支配した。戦いの終わった後には無数の屍が横たわって、多くの傷ついた者達が呻きを上げて蠢き、助けを求めている。

水を求め、次々に息絶えていく死者の群れ。光栄の足に瀕死の者と死して怨霊と化した者たちがすがりつく。無数の鬼火があちこちで揺らめきながら飛び交い、やがて、草原は真空のような静かさに包まれた。

男女のうめき声が騒々しく聞こえる。幻聴か、勿論、幻聴であろう。地の底からか、天空からか、我が身の内からか、それが何処から来るのか彼には分からない。累々と屍の横たわる道、耐えがたい程に冷たい風が吹き抜ける荒涼とした道を当てもなく光栄は歩いていた。

また誰かが呼んでいる。声は、やっと聞き取れるほどの小ささであった。しかも、遠くから聞こえる。だが確かに誰かが俺の名を呼んでいると光栄は感じた。 

沢山だ、幻覚にも現実にも、もう飽き飽きした。誰かは知らないが、もう、俺を放っておいてくれ、と光栄は心底思う。だが、声は若者の思いに関わりなく聞こえて来る。

「光栄、光栄・・」

その上、声は次第に大きくなって、この若者を苦しめる。誰が、何のために俺の名を呼ぶのだ、これは現実ではない、幻聴なのだ、と分かっていながら対処する術を知らない自分に苛立って頭を振り、耳を押さえ、屈みこんで嘔吐するように呻き声を発した。

「甘いのう、光栄。生きとし生けるもの、この世の中の物事を自分の思い通りに取り扱うことのできる者など存在しないのだ。未熟よのう」

声は小さいが、明らかに若者を非難し、侮蔑している。光栄はこの上も無く腹が立った。

「何奴だ、これ以上、俺に構うな」

光栄が大声で叫んだとき、声は途端に、霹靂へきれきのような轟音となって鳴り響いた。

「我が血の末裔である賀茂光栄よ、目覚めよ、本当の自分に目覚めよ。わが名は役小角えんのおづぬ、人は我のことを役行者えんのぎょうじゃ役優婆塞えんのうばそくとも呼ぶ。神という者もいるし、鬼という者もいる。我はそなたの血の祖先であるぞ」

役小角は一般には役行者と言った方が馴染み深い。勿論、平安の時代を生きた光栄とは同世代の人物ではない。三百年ほど前の飛鳥時代から白鳳時代を生きた修験道の開祖であって、葛城山に住み、前鬼ぜんき後鬼ごきを従え、神仙の術を以って君臨した。

金峰山きんぷせんの蔵王権現はこの役行者が祈って現出させた菩薩であると言われている。確かに、その出自は賀茂氏の分出である役君えんのきみであるから、遡れば、同族であると言えるのかも知れない。

「その行者が、俺に何の用がある」

役行者なるものが賀茂家の先祖筋であることは光栄も聞いたことがある。だが、これはどうした現象なのだ、なぜ今役行者が俺に何を伝えたいのだと、若者は不思議に感じるのである。あるいは、これは光栄の資質でもある過敏な神経が作り上げた幻覚なのかもしれないし、また、先祖の記憶から重要なものを学び取ろうとする、光栄自身の無意識な精神的なあがきなのかもしれない。幻覚幻聴が常に害をもたらすばかりとは言えない、それどころか、賀茂家のように陰陽の術を職として、財を稼ぐ一族にとって、それは得難い才能なのである。

例えば、賀茂保憲が幼いとき、小さな鬼神がやって来て、供物を食らった後、舟形の乗り物に乗って帰って行く様子を目撃したという類の話は、実は幻覚であったに違いないのである。

冷静かつ客観的にこの精神障害を制御できるならばそれはこの上なく素晴らしいことであるが、それは至難の業である。安倍清明のように天賦の才に恵まれた者ならば、いとも安く制御できようが、凡夫にはそれも叶わない。ならば、どの様に対処すれば良いのであろうか。光栄の悩みは尽きない。

「光栄、お前は弱い、そして未熟だ。お前は幻覚や幻聴に悩まされる。だが、それがどうしたというのだ。多かれ少なかれ誰にも幻覚幻聴はある。例えば夜半に寂しき所を歩けば、恐ろしげなる怨霊が背後から迫って来るように感じることがあるではないか。そうした心の弱さや迷いは誰もが持ち合わせているのだ。お前に備わった繊細過ぎる神経が幻覚幻聴を多く出現させるにすぎない。それは、言い換えればお前自身の才能でもある。得難いものなのだ。そうは思わぬか」

「うるさい、幻覚幻聴のどこが才能なのだ、俺は単に気の病なのだ。そして、その病を一生背負って生きていかねばならぬ。それが今やっと分かったのだ」

光栄は半ば捨て鉢になって怒鳴っていた。

「まあ、聞け。安倍清明という男は、九尾の狐の血を継いだ鬼神の類であるが、彼の男も、かつて幻覚幻聴に悩まされたに違いない。ただ、奴めは、それを制御する技を会得したに過ぎないのだ。お前は凡庸である。従って、それらを制御する技術を身に付けることは清明に比べたら、極めて難しかろう。だが、出来ぬことも無かろう。ならば、先ず、辛抱強く耐えることを覚えるのだ。そのやりようは、お前自身が考え、工夫しなければならぬ。何となれば、心を開かぬお前の心中を他人は窺い知ることが出来ないからだ。時には、お前の精神の葛藤を隠さずに周りの誰かに告げることは必要なのかも知れぬ。苦しければ苦しいと、悲しければ悲しいと、嬉しければ嬉しいと身体全体で表すのだ。その内、お前はその弱さを制御できるようになるであろう」

「勝手なことを言うな、その内とはいつだ。俺の苦しみを知りもせずに」

「ふふふ、分からぬ奴め、自分の殻に篭ってばかりいてどうする。お前には悪夢の中に閉じこもっている暇などは無いのだぞ。現実と夢幻の区別をしっかりと見分けるのだ。お前に迫った危機はお前自身が解決するのだ。見よ、お前の周りを」

言われて、光栄は自分の周りを見た。何も見えない。彼の周りは濃い霧に囲まれていた。

「何も見えぬ、何も分からぬ、一体ここは何処なのだ」

「光栄、汝の心の内が見える。何たる未熟、何たる不遜、何たる無知、数えればきりが無いわい。情けないぞ、我が血の末裔よ。お前などが、あの安倍清明に及ぶ筈も無かろう。あの者の母は九尾の狐の生まれ変わりと云われておる。九尾の狐とは、からの国で生まれ、何千年も生き続けて遂には変幻自在の術を体得して国をも滅ぼす妖怪になったのだ。その神通力を受け継いだ清明もまた怪物なのだ。凡庸なお前が太刀打ちできる相手ではないのだ」

光栄の脳裏に、一条戻り橋で安倍清明と初めて出会った時の光景が浮かぶ。その時、この若者は強く気高き獅子の前に立ちすくむ子犬でしかなかった。屈辱の思いが蘇ってくる。

「では、俺は、何も出来ないというのか」

「そうだ。そのとおりだ。お前は凡庸な人間なのだ。先ず、それをはっきりと自覚することから始めよ。そこから大いなる悟りに繋がるかもしれぬ。面白いではないか」

「どこが面白いと言うのだ」

その時、光栄は後ろを振り返った。背後に何かの気配を感じたからである。濃い霧に隠れて何者かが様子を窺っている、と感じて身構えた。

「光栄よ、法隆寺にある玉虫厨子に描かれている捨身飼虎図というものを見たことはあるか。自分の血と肉を飢えた虎に食わせる前世の釈迦の姿を描いたものだ。どうだ、光栄、お前はどう思う、そのような芸当が凡夫のお前に出来るか、出来はしまい。それで良いのだ、生身の人間に出来ないのは当たり前のことなのだ。あれは釈迦だから出来ること、この上ない慈悲の心を持った聖人にのみ出来る行為なのであろうよ」

「なんだ、何が言いたいのだ。俺は今、そんな話に付き合っている暇はないのだ」

「そうだ、お前は凡庸でしかも未熟なのだ。だが見所はある」

「そんなことではない、今、俺に何かの危険が迫っている、そんな気がするのだ」

光栄は吐き捨てるように言う。すぐ近くに危険が迫っている気配を察知したとき、こんな訳のわからない話に耳を傾ける気分には、とてもならない。深い霧の中に何かが見えた。だが、そんなことには構わず、声は光栄に語り掛ける。

「その昔、久米寺を建立した、あの久米仙人は長い修業の後、神仙の術を修めた末、体得した神通力を以って天翔るとき、吉野川で衣を洗う若い娘の白き股に目を奪われて、神通力を失い。雲の上から地上に転げ落ちおった。ウワハハ、面白いではないか」  「うるさい、もう何も聞きたくない、俺は忙しいのだ」

光栄は苛立って声を荒げた。霧の中に光るものがあることに気付いた。それが何かわからない。その光るものは見る間に数を増している。人魂か。光は、明らかに若者に近づいて来る。

「光栄、我は地を、ひとっ駆けに幾千里も駆け、天を、ひとっ飛びに飛んで、何処へも容易く現れる。時間と空間を自在に駆けて遊び楽しむことが容易に出来るのだ。我は激しい修業に耐え、仙術をことごとく学び修めた。高僧共が学ばんとする密教をも軽々と身に着けて自在に操るものぞ。我が無尽蔵の力を恐れ、かしこまれ、そして、崇めよ」

「お前の自慢話は分かった。今、俺の前に現れているあの光るものの正体は何なのか見定める手段はないのか」

「なに、まだ、あの光るものの実態を見定めていないのか、何たる凡庸さなのだ。簡単なことなのだ。もっと目を凝らせ、そして、それでも不足ならば、匂いを嗅げ、肌で感じよ。五感の全てを極限まで研ぎ澄ますのだ」

成程、その言い分にも一理ある。霧の先をじっと見ると光は動いている。しかも、僅かな音がする、いや音と云うより、唸り声に近い。匂いを嗅いでみる、気流の中に漂うのは、仄かではあるが、憶えのある獣の臭いであった。もしや、これらは、先ほど襲ってきたあの狼か、それは確信に近い気付きであった。不意に霧の中から二つの光が目の前に迫ってきた。思わず太刀を抜き光の間を下から上に向けて薙ぎ払った。

「ぎやん」

足元に落ちて来たのは、紛れも無く、あの男たちを襲った狼であった。あの光るものは狼の眼であったのか。光栄の全ての肉と皮膚に震えが走った。霧の中に数え切れないほど光がある。狼の群れが俺の血と肉を狙っているのか、若者は慄然として立ち尽くした。

「おい、俺はどうしたら良いのだ、教えろ、お前は俺の先祖であろうが」

それは光栄の悲鳴であった。声は言う。

「光栄よ、よく聞け。生きて苦しみ、喜び、悲しみ、妬み、羨み、ひがみ、悔い、無闇に求め、食らい、そして天に与えられた刹那の生を渾身の力で生き抜く。そうだ。今、そなたが生きようとして、藻掻き喘ぐその生き方。羨ましいぞ。生きよ、光栄。世のため人のため、その術を惜しまずに使え。情に流されてみよ。良いではないか。限られた人生を懸命に生きてみよ。光栄、人間界の五十年はこの世の中心である須弥山の中腹、下天では一日でしかないのだ。人生はあっという間だ。気が付いたときには、白髪の己が居る。そして、光栄よ、人はいつも何かにとらわれて生きる。自己にとらわれ、他人にとらわれ、物欲にとらわれ、思いにとらわれる。それが今のおのが姿ぞ。光栄。ならば、とらわれるが良い。迷って、迷って、迷い尽くして、とらわれ、とらわれ、どこまでもとらわれ尽くして、そのとらわれの中で遊ぶのだ。根源的な嗚咽の涙を楽しみとして生きよ。その肉が朽ち果て、髑髏と化すまで生きて、生きて、生き抜くが良い。学べ、学べ、学び抜くが良い。目覚めよ、光栄、今こそ目覚めるのだ。我を崇めよ、我は我であって我でなきものぞ」

俺は、今、助けを求めているのだ。こいつはおれの必死の頼みを一顧だにせず、相変わらず、いい気になって説教などを垂れている。何を考えているのだ、こいつは。光栄は、驚いて、一瞬、耳を疑うと共に声を荒げた。

「俺が求めている答えは、そんなものではない、いかにしたらこの危機から逃れられるのだ、その方法がある筈だ」

「われに助けを求めるか。ならば、後ろを見よ。我が神通力を以って暫くの間、霧を晴らしてやろう。その間に、周りをしっかりと観察するのだ。後ろに道がある、それを考えて、心して、戦いを有利に進めよ」

光栄は、肩越しに後ろを振り向いた。霧がゆっくりと流れて、細い道が見えた。急いでその道へ逃げ込んだ。その後を唸り声が続く。

背中から飛び掛って来る気配を感じた時、肩に痛みを感じた。すぐに体を振って狼を払い落した。狼は、一度、路上に落ちて跳ね上がり、霧の中に消えた。狼の長い悲鳴が聞こえた。霧が晴れて、周りの様子を見たとき若者は腰をぬかさんばかりに驚いた。細い道の両脇は断崖絶壁になっていて遥か下に石ころのように転がり落ちていく狼の姿が見えた。足がすくむ、なんだ、これは、俺は助けを求めたのだ、だが、これでは、俺はどこに逃げればよいのだ。

「ワハハ、そう悔やむな、若者よ。想像を逞しくして危機を切り抜けるのだ。お前は今、逃げ場所が無いと嘆いている。だが良く観察してじっくりと考えを巡らすのだ。見よ、狼の数は百頭を下らない、だが、狼どもはお前を取り囲むことが出来ない。左右が絶壁の細い道にお前が位置するかぎり、一頭ずつを相手に戦えば良いのだ。状況は、お前に有利なのだ、逃げずに戦え、賀茂光栄、我が血の子孫よ」

光栄は太刀を構えた。狼が牙を剥いた恐ろしい形相で向かって来る。左右に数匹の狼を刀で薙ぎ払った。獣の足が千切れ血が噴き出して突っ伏す身体を光栄は深い谷にけり落とす。今度は上から振り落とす刀が獣の眉間を切り裂く。上から、下から、左から、右から、あらゆる方向へ太刀を振り回す。光栄は囲まれること無く、前方の敵だけを相手にすればよかった。若者は狼の血しぶきを浴びて赤く染まりながらも獣の群れを奈落へ蹴落とし続けた。漸く叶わないことを悟った狼が光栄に対して尻尾を巻いて逃げようとする。しかし後からやって来る狼で、道は埋まっている。無理に抜けようとする狼が次々に奈落に落下していく。狼の群れに混乱が起こっている。

光栄はその狼を次々に切り、突き刺してはまた切った。

狼に最早戦う気力は見えない。恐怖に襲われていることが分かる。

向かって来る敵を倒すのは難しい、だが、恐れをなして逃げようとするものを打ち殺すことは容易である。光栄は切って、切って、切り続ける自分に酔った様に興奮し恍惚とし、喜々として太刀を振るい続けた。

「光栄、もう良いであろう、見よ、恐怖におののく目で、お前を見ているではないか。哀願するものを殺す必要はもうなかろう。許してやれ」

「なぜだ、こいつらは人食い狼だ。殺した方が世のため、人のためではないか」

「奴らは飢えた狼なのだ。食わなければ飢え死にするほかはないのだ。だから、人を襲う。光栄、法隆寺の「捨身飼虎図」を思い出せ、お前は釈迦にはなれぬ。良いか、前世の釈迦は飢えた虎に食わせるため、自分の身を与えた。光栄、お前には、そのような芸当は出来ぬ。あれは釈迦だから出来ること、この上ない慈悲の心を持った聖人にのみ出来る行為なのだ。凡夫のお前に出来はしない。その証拠に、お前は飢えた狼を全て殺すことを選択したのだ」

光栄は、はっとして、思い当たった。思えば、最初の内は、目前に迫る危機を回避するために仕方なく殺していた。だがこちらが有利な状況になった時、殺すことに快感を覚えていた。確かに、言われるとおりだ。これが、俺のさがなのかと若者は割り切れぬ思いにとらわれた。

「だが、それで良いのだ、お前は生身の人間だ。お前の行為の全てが悪いとか、良いとか誰が軽々に言えようか、お前はやれることを精いっぱいやったのだ」

いつの間にかまた霧が出て、周りは全く見えなくなった。光栄には、どちらに向かって行けば良いのか見えない。ここが何処なのかは分からないが、どこかにある霊山であることに違いないだろうことはこの若者にも分かる。過去と現在の修行僧たちに会ってその姿と声を窺えた。だが、何か得るところがあったのだろうか、望む答えを得たとは思えない。光栄には何かが変わったとは思えない。

彼が学んだことと言えば、自分が、弱く未熟で身勝手でしかも凡庸であって、その資質は変えようが無く、どうにも致し方の無い厳然とした事実であって、また、現れる幻聴や幻覚も持って生まれた資質であることを認め、その現実を受け止めなければならないことであった。

現実が変えられないものならば、自分が変わるしかないのだが、光栄には出来る筈も無い。なぜかと言えば、そんなことが実践できる人間は希少であって、自分は怒りや悲しみや後悔の念を制御できない凡夫であると認めざるを得ない。理屈では分かっていることも不器用な光栄の精神は世の中に適応できず、ただ迷うばかりである。

そのことはこの若者自身が嫌と言うほど自覚していた。

「俺は、はたして、何かの悟りを得て苦しみから逃れることが出来るのであろうか」

光栄は呟く。声は何も答えない。修験道の祖と崇められ、神仙の術を自在に使って前鬼、後鬼を従えて縦横無尽に天かけ、何人にも崇められる存在である我が祖先も、苦しみや悲しみや迷いや悩みの解決策も治療の方法も告げてはくれない。一体何だったのだ。いま、俺の周りは濃い霧に包まれて、見晴らしがきかない。俺の心は文字通り五里霧中ではないか。

突然、巨大な両腕が上空から伸びてきて、むんずと光栄の両足を掴むと、そのまま拝むように高々と持ち上げた。

「何だ、俺をどうするのだ」

光栄は驚いて尋ねる。強く圧倒的な力に、若者は、その手から逃れることは勿論、体を動かすことも叶わない

「どうもせぬ、霊山でのお前の旅は終わった。そろそろ帰る時だ。これ以上ここに居ても、学ぶものはない。穢れた現実に戻る時が来たのだ」

「俺は未だ、何も学んではいない、いや、学ぶものがあったとも思わない」

「お前には、それ以上学ぶものなど無い、さて、お前は選ぶのだ、生きるもよし、死するもよし、あとは、お前自身が選択するのだ」

大きな手が光栄を放すと若者は、どさり、と地面に落ちた。相変わらず、濃い霧の中に在って何も見えない。

「悟りは眼下にある。さらばだ、光栄。ウワハハハハ」

雷鳴の様に声は轟き、そのまま遠ざかって行った。真空のような静かさが訪れた。濃い霧のため、辺りは全く見えない。程無く霞がゆっくりと晴れて視界がさっと広がった。眼下を見た時、全身から血の気が、すうっと、引いて意識が遠くなった。光栄はそそり立つ岸壁の上にいた。光栄の立っている場所は三尺四方にも満たない広さであった。一歩でもよろめくと切り立った岩上から千尋の谷底に落ちてゆく。両足の震えが止まらない。眼下には雲がたなびき、その間に剣のように切り立った岩肌が見える。体の奥底から起こる震えに襲われて、もはや、今まで悩まされた男の顔も女の顔もその姿も浮かばない。

高僧の教えも、山賊のことも、狼のことも、今までに関わった何もかもが光栄の脳裏から吹き飛んでしまっていた。ただ、千尋の谷底に落ちれば、万に一つも助かるまいという恐怖だけが募る。岩にしがみつき、懸命に少しずつ、少しずつ震える足で下りようと試みて、下を見ては、震え上がり、また岩にしがみつき、凍てついたように岩に張り付いたまま動けない。惨めな自分の姿がそこにあるばかりであった。この山中で経験したものの全てが頭の中で真っ白になって行った。どこに、悟りがあるのだ。ただ、小心者で未熟な俺がここにいるだけではないか。光栄は自分自身の小ささが心底分かったような気がした。岩にすがり付いている腕は痺れてもうすぐ奈落の底に落ちていく。ああ、腕がしびれる。あの狼どものように、今にも転がり落ちそうな恐怖に怯えて、不様に震えながら「生きたい」と生まれて初めて心底から思い、神仏に祈りすがる光栄がそこにいた。

朱雀門の近くで行き倒れの姿を見つけて蜘蛛丸は喜んだ。

行き倒れがまとう狩衣は相当に痛んではいるが、幾ばくかの金子になるであろうと喜んで飛びついた。

「どけ、どけ、下郎ども」

近づいてくる飢えた物乞いどもを払いのけ、蹴り付けて、行き倒れの着ている衣を剥ごうとして、無意識にその顔を見た時、驚いてしりもちをついた。  「こ、これは、若、若ではありませぬか」  蜘蛛丸は自分でも驚くほど引きつった大声で叫んでいた。  「若、しっかりしてくだされ」  懸命に光栄の体を揺する。遠くから呼び掛ける聞き覚えのある声に光栄の意識はゆっくりと戻り、目覚めた。  「おお、蜘蛛丸、何故お前がここに居る?ここは極楽ではないのか、俺は死んでいるのではないのか」

「若、なにを言っておられますか、周りをご覧くだされ、皆、若が死んだら、若の刀を奪い、衣をはぎ取ろうと待ち構えている連中ばかりではありませぬか。何の極楽でありましょうか、ここは人間界、修羅で御座るぞ」

「ならば、俺は生きておるのか?」

絞り出すようなかすれた光栄の声に答えて蜘蛛丸がいつものぎょろりとした目を剥いて呻くように言う。 「生きておられますとも、若、お懐かしい、会いとう御座りましたぞ」  蜘蛛丸の顔が歪み、その目から大粒の涙が流れだしていた。

「ええい、何を見ておる。そこをどかぬか、どかぬか、道を開けろ、下郎どもめ」

光栄を背中に負ぶって、大声で周りを怒鳴り散らしながら、朱雀大路を踏みしめるように歩く蜘蛛丸の声が通りいっぱいに響き渡った。


(参考)今昔物語集


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