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陰陽師 賀茂光栄  作者: 屯田水鏡
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賀茂光栄(かものみつよし)、百鬼と遭遇すること(三)

賀茂光栄かものみつよし、百鬼と遭遇すること(三)


ひとしきり、雪が強くなった。

「おや、若、誰か来ますぞ」

「どこだ」

光栄の背中に緊張が走る。

「また、西京極大路の方からです」

「何、百鬼か?」

「いや、そうではない、女のようですな」

視線の先には、こちらに近づいてくる艶やかな女性の姿があった。

色鮮やかな、うちきの重ね着をして、その上に唐衣からぎぬを頭上にかついでいる。雪を避けるためであろうか。そのためか、顔は、はっきりとは見えない。

白い頬、花のような赤い唇、時々笑みを見せる口からはお歯黒を塗った黒い歯がのぞく。

その姿が雪明かりの中に、艶やかな香りを放って浮かび上がっているのであった。

頼りなげに歩くその姿は、この上なく上品な様で、気品にあふれ、その仕草、趣のあること、一通りではなかった。

危機に瀕し、極度の緊張にさらされていた心の張りがいちどきに緩んでいたせいか、二人は、その美しい姿を見ほれるように眺めていた。

しかし高貴な生まれと思える女性が、なぜこんな夜中に、それに、供の者も連れず一人で歩いているのであろう。通常、怪しいと思うべきであろう。

雪が強くなって、地面にはかなりの積雪があった。

赤色の下駄あしだが真白い雪に埋もれ、足もとが心許ない。

それに、このまま進めば百鬼夜行に行き会うかも知れぬ。

つい手をさしのべたくなるほどその危うげな様子が気に掛かった。

「若、あの身にまとっている衣は、なかなかに見事なものですなあ。高く売れますぞ」

蜘蛛丸はそのぎょろりとした目をさらに大きく見開き、ごくりとつばを飲み込んだ。

「なにを考えておる。控えよ。懲りぬ奴だ、お前は」

光栄は蜘蛛丸をしかりつけた。

女はすぐ側までしずしずと歩いて二人に向かって、腰を深く折ってお辞儀をした。優雅な振る舞いであった。

「いずれ様か存じませぬが、その出で立ち、きっと御名のある方とお見受けいたします。わらわは雪のために難儀しております。どうかお助けください」

消え入りそうな、か細い声で女は言う。匂い袋を袖に潜ましているのか、さわやかな花の香りがそこはかとなく漂い、この上もなく雅な雰囲気を醸し出している。

「あい分かりました。されば、我々は何をすればよろしいか、遠慮せずに申し付けてくだされ」

尋ねる光栄に、女は、ほどよくふくよかな白い顔をあげて微笑んだ。

「我が館までお送りくだされませ」

光栄は、赤い唇とちらりと見えた黒い瞳に、なぜか女の中にたぎる熱い血潮を感じた。

その時、その白き柔肌に触れてみたいという仄かな欲望に駆られている自分を感じたのであった。

「たやすいこと。では、足下に気をつけて、先導する我らの後に続いてお進みくだされ」

光栄は、たやすく女の魅力に惑わされ、百鬼をやり過ごしたばかりの危険を孕んでいる今の状況を忘れていた。

「はい」

女は小さな声で頷き、後ろに付き従った。

「若、やはり、上玉でござるな。思った通り女も衣も上物、こいつは、高く売れますぞ」

蜘蛛丸が光栄の耳元で囁く。

「これ、くどいぞ、よさぬか」

雪は音もなく降って、京の都は静まりかえっている。

「どこまでお送りすればよろしいか?」

尋ねる光栄に、女は慎ましく下を向いたまま答える。

「三条大路までお願い致します」

「三条大路というと、あなたの館は神泉苑の側でござるかな?」

神泉苑の側には主だった公卿の屋敷が散在している。

「はい、左様でございます」

しばらく歩いた時であった。

背後から小さな含むような笑い声がした。

女は、誰かと話しているような様子なのである。

❘もう一人、誰かがいるのか❘

そっと振り返って見ても、女は一人である。

周りを見渡しても人影は見えない、気のせいか。

光栄は嫌な予感がした。

七条通りから羅城門を後ろに見て朱雀通りを内裏に向かって歩いている時であった。

またもや背後から声が聞こえた。

「ふふふ、うまくいったな」

男のような低い声であった。

「しっ、まだ気付かれてはいない。静かに」

また女の声がした。しばらく無言で歩く。

静かな京の都に雪の舞い降りる音が微かに聞こえてくるようであった。

「もし、よろしければ御名をお聞かせ願えまいか?」

光栄は振り返って話しかけながら、そっと気付かれぬように聞き耳を立てた。

女は慎ましく下を向いたまま答える。なんの不自然さも感じない。奇妙な落ち着きさえ感じる。それが不自然といえば不自然であった。

「私の名はたいら・・」

そして、女は口をつぐんだ。

張りつめた冷たい空気が流れる。不穏なものを感じた光栄はさらに尋ねる。

「たいら?たいらなんと申されるか?」

「わが名は忘れました。賀茂光栄様」

初対面の女がなぜ俺の名を知っているのだ。

光栄は、嫌な予感が的中することを悟った。

「なぜ、私の名を知っておられる」

光栄が振り向こうとしたその時であった。

「その肉を食らいたいがためよ。ホホホホ」

突然、背後から大きな手が伸びてきて光栄の両肩をむんずと掴む。

硬い爪が首と肩に食い込んだ。

「うむ」

光栄の顔が苦痛に歪み、呻き声を発した。

ぐいと後方に引く強い力にたまらず、そのまま仰向けにどっと倒れた。そして、頭を路面にしたたかに打ち付けたのであった。

不覚にも油断をしてしまった自分の未熟さを光栄は後悔した。状況から考えて、女にあった当初から用心すべきであった。

意識が遠のこうとするのを懸命にこらえた。

女が音もなく近づいて、光栄の側に屈んで耳元で囁く。

「覚えておらぬか?我が父は平将門。そなたは見ていた。討ち取られた我が父の首が高々と差し上げられて、都の下賤の者どもの好奇の目にさらされるのを、そなたは笑いながら見ていた」

光栄にそんな記憶はなかった。

「私は、そのようなことは知らぬ」

薄れそうな意識を辛うじて保ちながら答える光栄はその女の視線に憶えがあるような気がしていた。

女は光栄の顔を睨みつけ、同時に仄かな笑みを見せて、さらに話を続けた。

「そなたはまだ赤子であった。そなたの祖父、賀茂忠行と父、賀茂保憲の側で、母じゃに抱かれて笑っておった。わらわの恨みの籠った眼を何の屈託もなく笑いながら見返した、幸せそうに笑っていた、うう、許さぬ。そなたの祖父、賀茂の忠行を、そして、そなたの父賀茂の保憲を、そして、幸せそうに笑っていたそなたを許さぬ。ああ、朱雀大路の人混みの中で笑っていたあの顔を思い出して、また、憎しみが湧き出す。ああ、憎しや、賀茂一族。陰陽道の術、いやいや、あれは元々密教の秘術、白衣観音法びゃくえかんのんほうを用いて我が父に呪をかけおった。さもなければ平貞盛たいらのさだもり俵藤太たわらとうたごときに、むざむざと負ける父ではなかった。火雷天神からいてんじんを後ろ盾に東国を縦横無尽に駆け回り、支配し、自らを新皇しんのうと称した父は偉大なお方であった。そして、わらわには殊の外優しいお方であった。皆が父に平伏した。我ら一族は、幸せの中にあったのだ。ええい、我が父、平将門がこの世を支配し、誰もが幸せに暮らす美しい国をつくる偉業が達成されるのはあと一息であったのだ。それをお前の一族は封じたのだ。その偉大な事業の邪魔をした賀茂忠行と保憲を許さぬ。そして、その子光栄、お前も憎い。槍の穂先に突き刺して高く掲げられた我が父の首は腐乱しかけていた。ああ、無残な。悲しや、我が父、平将門は美しい国、誰もが幸せに暮らす国をつくろうとして敗れた。わらわはこの世とこの国を憎んだ。わらわは復讐をするために忍び寄って来た鬼にわが身も心も委ねたのだ」

そこまで話していた女の形相が変わった。目はつり上がり、盛り上がった筋肉、荒々しい息づかいが聞こえた。そこには凄まじい形相の鬼が立っていた。

「がっははは、その生き血と肉、もらい受けるぞ。こうして見ると若いのう。その軟らかき肉、美味そうじゃ。ふふふ」

鬼は素早く光栄の腹の上にまたがって勝ち誇ったように言う。

鬼の顔が目の前に覆い被さって歯をむき出して今にも光栄の首に食らいつこうとする。

「うへえ」

蜘蛛丸は、叫びながら素早く飛び退いて、一目散に近くの屋敷まで走り、生け垣の中に飛び込んで身を潜め、何処かへ逃げ去った。

鬼の形相が和らぎ、またふくよかな女の顔に変って光栄をじっと見つめる。

「もう良いではないか。この美味そうな肉をはやく喰らいたいぞ」

鬼の声がする。

「いや、まだ恨み事が残っておる。この男が死する前に、分からせるのだ」

女は言う。

「ええい、勝手にせい」

また、背後の鬼の声が聞こえた。

女はまた話を続ける。

「鬼は復讐の思いに身を焦がすわらわの背後からそっと近づき、わらわを抱いた。初めは抵抗した。わらわを抱き、凌辱する鬼に抵抗した。しかし、鬼の強い手、燃えるような熱き息にいつしか身を任せていた。苦痛と涙と嗚咽がいつの間にか痺れとなり、快楽となり、わらわは恍惚となった。そして、今では鬼と一緒でなければ生きてはおれぬ。ああ、光栄、そなたの一族を許すことは出来ぬ。憎しや賀茂一族、根絶やしにせずにおかぬ・・・」

光栄には記憶がなかった。それは当然のことである。

平将門が乱を起こした時、彼は未だ赤子であった。

しかし、わが身の悲惨な境遇に比べ、ぬくぬくと幸せそうに母の胸に抱かれていた光栄を見て憎悪を抱く、その気持ちは分からないでもない。

光栄は漠然と遠い昔、自分を見つめていた少女の視線を感じた記憶が自分の中にあることを感じていた。

そう言えば、確かにおぼえがある。光栄の脳裏に遥か昔の光景が浮かんでくる。

朱雀大路を俵藤太の一行が意気揚々と通り過ぎていく。

都の人々のどよめきと拍手。

槍の上に高々とさしあげられている平将門の首は、まるで生きているかのように目をむいて群衆を睨みつけていた。

それを見物する都の人々の中に童女の姿が見える。

母の胸に抱かれた光栄をじっと見ていた。

満足そうに俵藤太の一行を眺めている祖父、賀茂忠行と父、賀茂保憲の姿もそこにあった。

❘そうであったか、あの童女は平将門の娘であったのか。あの童女が今、あの時の恨みを晴らすために目の前に現れたのか。そして、かの姫が夢の中で俺の危機を警告したのはこのことであったのか。然るに俺はそのことに気付かなかった❘

光栄は油断したことを後悔した。

「もう良いか?喰らうぞ」

女の顔が再び鬼の形相となり、突き出た鋭い牙が光栄の首に食い込もうとした、その時である。

小さな黒い影が、どこからか飛んできて、鬼の顔を塞いだ。

「うっ、なんだ、これは」

鬼は驚きの声を発してその黒い影を片方の手で握って取り除こうとした。

が、張り付いたその黒い影はなかなか取れない。

「がおー」

鬼は唸り声をあげて首を左右に振りながら懸命にその黒い影を顔から引き剥がそうとしてもがいた。

鬼はやっとのことで引きはがし、地面に投げ捨てた。

影は、黒い塊となって、ころころと転がった後、ゆっくりと立ち上がって鬼を指さして、甲高い大きな声でけらけらと笑った。

それは、手のひらに乗るほどの小さな童の姿であった。

白い水干を着、青い袴を履いている。

鬼はその童を憎々しげににらみつけた。

小さな童はまた鬼を指さして、口汚く罵っている。

「うおー」

その大きな足で踏みつけた。

童はひょいと跳びはねて鬼の大きく頑丈な足をよけた。

鬼は血相を変えて幾度も踏みつけた。

その度に童は器用に飛び跳ねて避け、鬼を馬鹿にしたように一層甲高い大声で笑った。

と、その時、童は小さな石につまずいて転んだ。

「こわっぱめ」

鬼のかかとが童を捕えた。踏みつけることに成功したのである。

「どうだ、どうだ、これでどうだ」

鬼は、勝ち誇ったように低く唸るような声を発した。

童はかかとの下でしばらく悲鳴を上げていたが、やがて動かなくなった。

鬼は、何度もねじるように踏みつけた後、確かめるように足を上げた。

そこには、童ではなく、蛙が押し潰されて、腹を見せて死んでいた。

鬼に驚きの表情が浮かんだ。事情が飲み込めない様子を浮かべて落ち着きなく周りを見回した。

その時、一瞬ではあったが鬼の力が緩んだ。

その隙に、するりと鬼の手から逃れた光栄は、二転三転と転がって膝をつき、太刀に手を掛けて低く構えた。

「おとなしく、食われてしまえ」

鬼は振り返って、大きく飛び上がり、上から光栄に掴みかかろうとした。

太刀を抜きざま、襲いかかる鬼の手を払うように下から斜め一文字に切り裂いた光栄はその額に血しぶきが降りかかるのを感じた。

血管の浮き出た赤い大きな鬼の手が肘から千切れて大きく宙に舞っていた。

「ぎゃー」

獣のような叫びを上げて、憤怒と苦しみと悲しみの形相を浮かべて鬼はしゃがみ込んだ。

光栄は、素速く鬼の正面に立ち、白鞘の太刀を上段に構え今にも振り下ろそうとした。

「お助けくだされませ光栄様」

その一瞬、鬼の顔が美しい女性に変わった。

鮮血の滴る肩を片方の腕で抱きかかえて蹲り、青ざめた顔で光栄を見上げて悲しげな声を発して震える可憐な一人の女性であった。

「わらわは鬼に取り憑かれ全てを食い尽くされようとしております哀れな女。どうかお見逃し下されませ、光栄様」

悲しき声とやつれた表情で残った片手を頭の上まで差し上げて拝むように訴える哀れな女、その姿は光栄の眼の奥深く忍び入り、心の琴線を掻き鳴らした。

悲しみ、苦しみ、恨み、嫉妬、諸々の人間の性に惑わされ、運命にもてあそばれた果てに、地獄の苦しみに悶える仕草は光栄の胸をえぐる。

助けてやりたいと光栄は心底思った。しかし、助ける手立てがある訳ではない。人生は、その峠が華やかであればあるほど、下り坂にさしかかったとき、坂道を転がり落ちるように転落する。その時、失意と落胆に苛まれる。そこに悲嘆と妬み恨みが生まれる。その隙間にいつの間にか巧みに忍び寄る鬼。

人の魂と肉体は次第に蝕まれ、鬼と化すのである。

目の前に、その哀れな女が、悲しい表情で命乞いをして光栄を見上げて拝んでいる。

切っ先を眉間めがけて振り下ろそうとする光栄の心が一瞬乱れた。

その間隙、鬼は素早く脇に身をかわし、切り落とされた腕を素早く拾い上げた。

「おぼえておれ、光栄」

自分の腕を口にくわえると、頭上高く飛び上がって駆けるように宙を舞い、近くの川の中へ音をたてて飛び込み、暗い水の中に消えた。あれは、既に鬼と化した、平将門の娘の変わり果てた姿であったのか。垣間見えた将門の娘の哀れな姿、鬼に取り憑かれ、畜生道の奈落に落ちて苦しんでいる。

光栄の耳にかの女の怨嗟の声がいつまでも残っていた。

鬼の消えた小川の流れの漆黒の闇を見ながら光栄は立ちつくした。

「みすみす鬼を取り逃がすとは、甘いのう、賀茂光栄殿」

静かな、しかし、はっきりとした口調の声が白い闇の中から聞こえた。

「何者か」

光栄は我に返った。一条戻り橋のたもとに唐傘をさして誰かが立っている。唐傘がくるくると回り、降り積もった雪がさらさらと落ちて、夜目にも赤い唐傘が白い中に浮かび出ていた。

すらりと姿勢よく雪の中に立って、男は降り積もった雪を払いのけることを楽しみ遊ぶかのように何度も傘を回した。

薄緑色の狩衣姿の袖から紅色のひとえがわずかに覗いて、真白い雪の薄明かりに映えていた。

「あなたでしたか、あの童、いや蛙を使って私を救ってくれたのは」

光栄は頭を深く垂れた。

あの助けがなければ、光栄は恐らく鬼との戦いに敗北していたであろう。

小さな落ち着いた声で男は笑った。その白い顔が雪明りに薄っすらと見える。

「なんの、なんの、あれは私の操る式神に一つ。それを飛ばしただけのこと。造作もない」

式神しきがみとは、陰陽師の命令に従い変幻自在にわざをなす精霊のことである。式神の正体は、植物であったり昆虫であったり動物であったり、鬼神であったりする。

陰陽師によって、その用い方は異なるが、この式神というもの、相当に熟達した陰陽師以外は使いこなせない。その上、使い方を誤ると、思いもかけない悪さをして、手に負えなくなることがある。

男は傘を差したまま光栄の近くに歩み寄り、さらに話を続ける。

「しかし、光栄殿、鬼を取り逃がすとは残念であった。都の人々に悪さをする前に成敗せねばならぬ鬼であった。はっきりと言わせていただくならば、その物怪に情けを掛けて太刀筋を乱すとは、光栄殿、まだまだ、甘い。修行が足りぬと言わねばならぬな」

烏帽子を被った男の顔は細面で眉は細く、切れ長の目は涼しげである。鼻筋が通って、赤い唇は薄く、年の頃は三十を少し過ぎたくらいであろうか。美貌の持ち主と言って良いであろう。

光栄は、その男の人を見下すような言い方が気に障った。言われることが的を射ているだけに、いっそう忌々しく思ったのであった。

「私は、その心身に取り憑いておる邪悪な鬼から、かの女を救い出す手立てを講ずることが出来るかも知れぬと考えたまでのこと。それのどこが甘いのでござりましょうか」

男は反論する光栄に涼しい顔でなおも辛辣な言葉を吐いた。

「あの物怪は、既に長い間鬼と化している。今更、成仏は出来ぬと思わぬか?光栄殿、そなたも陰陽師であるならば、幾ばくかの経験はあるであろうに、その位の事を判断する冷静さも技量も無いとは、いよいよ未熟」

切り捨てるようなその言葉は光栄の胸を深くえぐった。危ういところを助けてくれた命の恩人であることは十分に分かっている。

しかし、人を馬鹿にしたようなその言いように、陰陽師としての光栄の誇りは微塵に砕かれ、今までに経験したこともないほどに傷ついたのであった。冷たい笑いをたたえて、男はさらに続けた。

「いやはや、いかにも未熟。光栄殿、迷える魂を救おうなど、所詮、そなたには出来もしないこと。自分が如何ほどのものか、身の程を知ったが良かろうぞ」

光栄は激怒した。言われることが当たっているだけになおさらであった。俺は確かに修行が足りぬ。しかし、それがどうしたのだ。俺は精一杯やっておるのだ、それのどこが悪い。光栄は怒りで自分を見失った。

「無礼なやつめ」

激昂して思わず叫んでいた。光栄の言葉に男は何の反応も示さず、ただ、氷のように冷たい笑いをたたえて、恐ろしく冷静であった。

「ふふふ、修行されよ、光栄殿。今のそなたでは賀茂家の先行きは危うい」

男は小ばかにしたような冷笑を残して、くるりと踵を返して歩き出した。

「我慢ならぬ」

光栄は刀に手を掛ける。

「若、こらえてくだされ」

どこから現れたのか、その手を押しとどめて蜘蛛丸が懇願する。

「離せ、蜘蛛丸」

「いや、離しませぬ。我慢ですぞ若、いずれあの方と戦う時が参りましょう。だが、若、今は我慢ですぞ。あの方は清明様でござりまする」

「キヨアキ?だれだ、そやつは?」

「ご主人、賀茂保憲様の一番の弟子でござりまする。ご主人様も一目おいてござります。若手の中では比べるものなき陰陽師ですぞ。世間では安倍晴明あべのせいめいと呼んでおるようでござります。若、思いとどまりなされ」

「なに、あれが安倍晴明か」

風にそよぐ柳のようにゆっくりと去っていく男の姿にはどこにも隙がない。

その冷笑を浮かべて僅かに振り返った男の背後になぜか白い霊が見えた。

白狐であった。あれはもしや九尾きゅうびの狐か?

凄まじい霊力を駆使して世界をも滅ぼしてしまうというあの伝説の白狐か?光栄はその男に強力な霊力を感じて戦慄を憶えた。巨大な獅子の前にうずくまる子犬のように無力な自分を感じていた。

安倍清明、あくまでも皮肉な笑いを浮かべ、ひょうひょうとした風情で、しかも爽やかな風を残して、ゆっくりと一条戻り橋を渡って雪の彼方に消えていった。そのすっきりとした、あでやかともいえる立ち姿がいつまでも光栄の瞳に残っていた。

「悔しいが、俺はあの者の足下にも及ばぬ」

光栄は肩を落とす。

「若、そんなことはござりませぬ。なんのなんの、かの鬼との戦い、誠に立派な戦いぶりでござりました。蜘蛛丸めは、感服いたしましたぞ。若は素晴らしゅうござりまする」

蜘蛛丸は、いつもの気持ちの悪い笑みを満面にたたえて、手を擦りながら言う。

「お前に褒められても一向に嬉しくはない。それにしても、お前は一体今までどこにおった。肝心なときに姿を消しおって」

「若、何を申されます、蜘蛛丸はずっと側に居りましたぞ。ほれ、あの生け垣の中に潜んでおり申した。若に危険が及ぶときには、いつでも駆けつける準備を致しておったのでござります」

両手を擦りあわせながら蜘蛛丸はにこやかに言う。

「勝手なことを申しおって」

「それに若、そうして私めを叱りつけるだけの元気が残っておれば、まだまだ大丈夫ですぞ。なにも悔やまれることはありませぬ。ともあれ、命は助かったのでござりますれば」

光栄は今更ながら、自分の力のなさ、未熟さを知って呆然とする。

鬼界に迷い、身も心も鬼と化し、地獄を彷徨う哀れな因果、その因果を背負って苦しむ魂を俺は救ってやれなかった。世の中は乱れている。俺は、賀茂家の跡取りとして、今まで、のうのうと暮らし、この世の乱れに背を向けてきた。俺は一体なんのために生きているのだろう。俺はどうしたら飢餓に瀕したこの世の貧しき者たちの役に立つことができるのだろうか?

見上げれば、漆黒の空に不意に現れては乱れ散る雪の花、それは哀れな迷える魂の流す凍れる涙のようであった。深い悲しみが白い結晶となってひらひらと舞い落ちるその中に、光栄はただ立ちつくしていた。

「若、寒いですな。早く帰りましょうぞ」

蜘蛛丸が光栄の狩衣の袖を引っ張りながら言った。遙か遠い山の稜線が明るくなって朝の兆しが見えている。


今回までが、「賀茂光栄百鬼と遭遇すること」です。次回は、「賀茂光栄、霊山に迷うこと」です。

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