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陰陽師 賀茂光栄  作者: 屯田水鏡
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賀茂光栄(かものみつよし)、百鬼と遭遇すること(二)

賀茂光栄かものみつよし、百鬼と遭遇すること(二)


先日、あの物怪と出会った時と同じ匂いのする風であった。

風の中に妖しく強い不吉な気を感じた光栄はあたりを注意深く見渡した。

「いや、蜘蛛丸、まだ油断はならぬぞ。我が身に感じるこの邪悪な気から察するに何か不穏なものが近づいて来るという強い胸騒ぎを感じる。あの犬どもは、単なる前触れに過ぎなかったのかもしれぬ」

光栄は意識を集中するため、印を結んで眼を閉じた。風がひとしきり吹いて落ち葉が地を這う乾いた音がして、遠くから犬の遠吠えが聞こえる。雲間から覗くように現れた月がくすんだ様に赤い。

「若、早く帰りましょう。ここにいても好いことはありませんぞ」

蜘蛛丸が光栄の様子に不安を覚えたのか狩衣の袖をとったその時であった。風に乗ってざわざわと何やら騒がしい声がゆっくりと近づいてくる。その姿が見えるのは西京極大路あたりである。何かの集団が塊となって近づいて来る。

獣か?光栄は強い霊気を感じて戦慄した。

「若、あれは人でござりますか?随分大人数でござりまするな、真夜中に何事でありましょうか、ちょっと見て参りましょう」

蜘蛛丸がその集団に向かって歩いてゆく。が、すぐに立ち止って、踵を返して急いで戻ってきた。

「若、どうも人ではないようでござる。人にしては少しばかり大きうござるぞ」

蜘蛛丸が西京極大路から来る集団をを指さして言う。

「若、あれは、馬のようでござる。それにしては妙な。はて、不思議な風体でござる」

「いや、馬ではない。体はまさに人ではないか」

「では、若、次に続いて来るのは牛でござりまするか?こいつも妙な風体でござるなあ」

「いや、牛ではない。良く見よ、阿奴も確かに頭は牛だが、体は人のようだ」

光栄には、事態が既に抜き差しならない状況に至っていることを感じた。だが、ここで騒ぎ立てても何の解決にもならない。事態をさらに悪化させるだけである。蜘蛛丸に悟られぬように、懸命に考えを巡らせて打開策を模索している光栄であった。

蜘蛛丸は合点のいかぬ顔をしてなおも尋ねる。

「次に来るのは蜘蛛でござるか?」

「うむ、あれは土蜘蛛つちぐもであろう。口から糸を吐き、人をからめ捕ってその自由を奪っては絞め殺して喰うという大蜘蛛の化身だ。腹の中には無数の髑髏が詰まっているという」

そもそも土蜘蛛とは大和朝廷に服従しない辺境の民の蔑称である。奉ろわぬという理由によりその殆どは誅殺された。

ここに現れたのはこの世に生きたいという未練を残しながら無残にも滅ぼされた者たちの怨霊なのであろう。

支配者の理論によって、理不尽にも滅ぼされた民の悲しみや憎しみは、怪物となって山深く潜伏し、財物や人の命を奪い、土蜘蛛、物怪あるいは酒呑童子などと呼ばれて恐れられた。

これらの怪物は時折、都に現れては人々を襲って命や財物を奪い、人の血肉を喰らうのである。

「やれやれ、犬どもがいなくなったと思ったら、今度はなんでござりまするか」

蜘蛛丸の顔つきが段々と変わっていく。自分たちが抜き差しならぬ危険な状況に陥りつつあることにようやく気がついたのである。

「若、その後には、赤や青の鬼が続いておりまする。若、これはいけませぬ、あれは、噂に聞く、百鬼夜行ではありませぬか」

ことの重大さ、深刻さがやっと理解できた蜘蛛丸は、光栄の狩衣の袖を掴んで震え出した。既に恐怖に支配された表情がその顔に浮かんでいる。

百鬼はそれぞれ松明を掲げている。いや、松明ではない、鬼火か。

紫の炎が宙を踊るようにゆらゆらと漂っている。一団の辺りがわずかに明るいのは鬼火のせいか。

光栄の体はぶるんと一度、こらえきれない恐怖に震えた。

恐怖は危機回避装置である。例えば犯罪の多発地域に人は近づかない。恐怖という危機管理装置が働くからである。

賢者はそれを「君子危うきに近づかず」とうそぶく。

三半規管を煩う者は、高みに上がると、耳鳴りや頭痛などの変調を来し、平衡感覚を失うことを知っている。高所を恐れるという病状が現れて、高みに上ることを忌避する。即ち、恐怖が危機回避装置として機能するのである。だが、時にはそれらを超越した決断が必要なときがある。予測できる危機であるならば、前もって回避する手立てを準備することが出来る。しかし、予測できずに突然起こる危機もある。まさに今の状況がその時なのである。回避出来ない危機が今そこに迫っている。逃げようのない危機ならば、立ち向かうしかない。だが、闇雲に軽挙妄動に走っても勝算の見込みはまずない。あらゆる策を冷静に講じて危機からの脱出を試みて、運を天に任せる、即ち、人事を尽くして天命を待つのである。一団は既にすぐ近くまでやって来ていた。二人に気が付いたのだろうか、足を止めてこちらをじっと見ている。ぎらぎらと光るその眼から発する視線が痛いように二人に注がれてその身体に染み込み恐怖を植え付ける。人は恐怖に支配されると正しい判断力を失ってしまう。

「若、早く逃げましょう」

どどっと地鳴りを響かせて百鬼の集団が近づき、見る間にその姿が大きくなって迫ってくる。

「蜘蛛丸、逃げるには既に遅い。見よ、我らに気付いている。逃げたとて、到底逃げ切れものではない。捕らえられ八つ裂きにされてしまうに違いない」

「ひええっ、若、若は陰陽師ではござらぬか、何とかしてくだされ。百鬼は八つ裂きにした人の血肉を食らうと言いますぞ。恐ろしや、喰われるのは嫌でござりまする。ああ、神よ、仏よ、我らを助けたまえ」

蜘蛛丸の震えが光栄に伝わる。人はせっぱ詰まると途端に神仏に頼ろうとする。今までに一度たりとも神仏に祈る蜘蛛丸の姿を見た者はいない。折よく二人は古い大きな屋敷の門の側にいた。

 「しめた。若、大きな屋敷でござりますぞ。ここに逃げ込めば、我らは助かりますぞ」

雲が大きく切れて赤い月が大路を照らし出した。百鬼は波が押し寄せるように近づいてくる。

「お助けくだされ、どうか開門してくだされ、お願いでござる」

懸命に月下の門を敲くが返事は無い。誰もいないのか、それとも、耳をふさいで身をひそめているのか、屋敷は暗く静まり返っている。

光栄は覚悟を決めた。腹を括るという作業を行ったのである。

「心を空にして、運を天に任せよ。さすれば助かるやも知れぬ」

蜘蛛丸に言うと共に自分自身に言い聞かせていた。

❘心を空にするとは、何も考えないということではない。自分の中に芽生えた恐怖を洗いざらい摘み取り、破棄すれば、何かの知恵がそこに生まれる。そう、俺は陰陽師なのだ❘

二人はかがみ込んで息を殺し、光栄は目の前で十字を何度も切って呪を唱え、遁甲の術で結界を張ろうとしていた。

結界とは何か。神社の鳥居を思い浮かべれば良い。鳥居をくぐって神域に入った途端、外界とは一線を画すように、空気が変わったことを感じた経験のある人がいるであろう。特に神社信仰の深い人は強く感じるに違いない。神域には強い霊力が働いて邪気は入れないと感じた人も多いであろう。結界とはその様なものである。

光栄は、遁甲の方術書を繰り返し読み、遁甲の術の名人であった今は無き祖父、賀茂忠行が生前行っていたその所作を思い出しながら工夫を重ね自らを鍛錬したが、実際に遁甲の術が自分のものになっているかどうかは、はなはだ疑問である。

方術書なるものを読んで独学で学びそれを実践に適用することは極めて難しい。何故ならば、秘術には儀式が必要なのである。書物に書かれている文字や言葉を超越した伝授というものが必要なのである。

その昔、弘法大師空海は密教の教典を貸して欲しいという伝教大師最澄の願いを断っている。なぜかと言えば、密教を学ぶには教典からだけ学んでも、それは大いなる不足であって、師から弟子へ身を以て伝える密教の行と儀式が必要なのである。実践し、苦しい修行の汗を流さない限り、深遠な密教の奥義を究めることは、到底叶わないことなのである。空海が教典の貸し出しを断った真の理由はそこにあった。

陰陽道においても同じ事がいえる。ましてや遁甲の術は秘伝なのである。方術書にある表面上の文字や文言を読むだけでは学べるものではない。その真の髄を汲み取るには修業が必要なのである。

光栄は、何度もこの遁甲の術で結界を張って身を隠す修行を行ってきたが、術を自分のものにしたかと問われると、きわめて危い。

今回のごとき状況の中で、つまり、必死の場で術を試したことはまだ無いのである。その上、光栄は陰陽道について学び、実践することにはあまり真剣ではなかった。形骸化し、堕落した陰陽道のあり方に疑問を持っていたからである。

特に近頃は法師陰陽師といわれる民間の陰陽師が現れて、地方の土着民間宗教と結びつき、妖しげな儀式を行って人々を操り、弱き庶民から財を盗み取ることも多いのである。

都の貴族は、自分の保身や出世欲を満たすために、呪をかけて、競争相手を殺したり、死霊や生き霊を操って密かに邪魔者を処分するために陰陽師を大いに活用した。そうした陰陽道の在り方と風潮に、若い光栄は疑問を深めていた。

陰陽道を取り巻く風潮がどのように退廃的であっても、いや、そのような風潮であればこそ、俺は俺の信じる陰陽道、迷える魂が拠り所とする陰陽道を求めて真剣に陰陽道の修行に励んでみようと決心したのは《先の出来事》を経験してからである。

その動機は、一人の美しい女性にょしょうに恋をして、その身の上が哀れむべきものであったがため、目覚めたという不純な思いが切っ掛けである。人生の熟練者から見れば唾棄するほどの青さであろう。そう言う訳で、光栄にとって遁甲の方術は完成というには程遠い現状なのである。光栄は悔やんだ。だが、この期に及んで、今更悔やんでも仕方がない。人は大抵後悔する生き物である。光栄も、今回の危機に遭遇することがなかったならば、悔むことも、もっと早くから真面目に修業すべきであったと後悔することも無かったであろう。陰陽師として生きてゆく光栄は、遅かれ早かれ、いつかはかくのごとき危機に遭遇するのである。修行の足らない自分を後悔する時期が思いのほか人生の早い時期に訪れただけのことである。今回の危機をその人生の糧とするためにも、先ずこの危機を乗り越え、生き抜かねばならない。だが、こんなにも強い邪気の集団に遭遇することは全くの想定外であった。

しかし、想定外という言葉で事前の準備を怠ったいい訳をするのは現実を直視していない卑怯な者達の言い分である。現実は想定外に充ち満ちているのである。

ともかく、全身全霊を賭して印を結んでいるが、術が功を奏すという確信がある訳ではない。むしろ自信は無いというのが現状としては当然の認識である。だが、自信がなくてもやらなければならないときがある。

その昔、祖父、賀茂忠行は遁甲の術で結界を張り、百鬼夜行から襲われる危機を回避した。俺はその血を引いている。出来ないことはなかろう。伝統を担う者はその責任があるのだ、それが俺なのだと光栄は自分を鼓舞する。

人々は賀茂家の威光に屈服する。この頃の時代、一人の独創的な考えが広まり、尊ばれることなどはなく、何事も伝統あるいは血統によってその実力は評価された。現代でも同じことが言える。

歌舞伎や能、生け花や踊りなどの芸事はその典型である。

これらの芸事は外部の者が、例え才能があってもその道で成功することは至難の業である。伝統こそが実力である。では、伝統とは何か?それは、世代を超えて伝えられる確たる信念をいうのであるが、伝統には、必ずしも古から存在し、連綿と引き継がれ、既に頑として存在するものではなく、必ず初めがある。つまり、伝統にはその創造者がいる。

賀茂家の場合、伝統を創造したのは祖父、賀茂忠行であり、それを確たるものにしたのはその子、賀茂保憲である。そして光栄はそれを受け継ぐ者なのである。ここは、伝統を受け継ぐ者である自分を信じて居直るしかない。意味もなくなぜかそう思えるのがこの若者の才能である。繊細な精神の持ち主のように見えて、その実、極めて楽天的な性格なのかもしれない。

光栄の狩衣を掴み、ぶるぶると震えている蜘蛛丸をなだめて言う。

「声を出すでないぞ、さすれば、助かる。安心致せ」

ざわざわとざわめく声が次第に大きくなって、どやどやと百鬼の群れが目の前に迫ってきた。

百鬼がそれぞれに恐ろしい形相を振り撒き、あたりを見渡しながら騒ぐ。赤鬼や青鬼の盛り上がった肩や胸や腕の筋肉が赤銅色の光を放って力強く波打っている。蛇とも巨大な毛虫とも見分けのつかぬ怪物が地面をくねくねと動きながら鎌首をもたげてあたりを窺っている。まさに百鬼夜行である。

得体の知れぬ様々な妖怪が集まって、異様な臭いと霊気と緊張が白い靄となって立ちこめて、ゆっくりと渦を巻いている。

「はて、先ほどまでここに誰か居ったはずだが」

馬頭が鼻を膨らませて白い息を吐き、声を弾ませながら言う。

「どこに行きおった?」

牛頭が赤い舌を出して口をなめ、よだれを垂らしながら言う。

「逃げる姿はだれも見ておらぬ。この近くに居るはずだ」

赤鬼が大きな眼を見開き周りを見渡しながら歯ぎしりをして言う。

「さては、どこかに隠れおったに違いない。みなで探せ、探せ、せっかくの我らの馳走、逃すでないぞ」

百鬼の群れが、どんどんと足を踏みならす。地面が揺れる。

「ほれほれ、そこいらで震えて隠れておろう。早く出て来ぬか、怖いであろう、恐ろしいか、出てくればすぐに楽になれる、早く出て来ぬか」

まさかりを担いだ一つ目の巨大な入道が現れて、どんどんと地面を踏み鳴らす。地面が揺れるたびに蜘蛛丸の顔は青ざめて、光栄の狩衣の袖を握りしめる。

「久しぶりに、人の肉が食える、血がすすれると思ったに。ええい、どこだ、どこだ、どこに隠れておる、忌々しい」

光栄と蜘蛛丸が息を潜めて屈んでいるすぐ鼻の先までやって来た青鬼が縮れた赤い髪を振り乱して、鼻をくんくんと鳴らしながら言う。青鬼の膝頭が光栄の狩衣の袴に触れそうなほど近い。

「おい、人の匂いがするぞ、この辺だ。うまそうな匂いだ。近いぞ、近いぞ、血を啜り、食らおうぞ、食らおうぞ」

赤鬼が鉄の棒を肩に担いで近くまでやってきて幅広の巨大な鼻の穴を大きくに広げて、くんくんと鳴らしている。

「ああっ、皮を剥ぎ、肉をつかみ、骨を砕き、臓物を引きちぎるときのあの感触、思い出したら、よだれが流れて、たまらんわい」

百鬼が光栄と蜘蛛丸の側に寄り集まってくる。体臭に惹かれてきているのである。

遁甲の術でどうやら百鬼の目は眩ますことが出来た。息を潜めて音も立てていない。しかし、匂いだけは隠すことが出来ない。

ぎりぎりの緊張は、二人の神経を疲弊させ、疲労は既に限界を過ぎていた。

一方で、探しても、探しても、匂いばかりがして、人の姿が見つからないことに不満を募らせて百鬼が騒ぎ出し始めた。

「匂うのに姿が見えないとは、どうしたことだ」

騒いでいる百鬼の群れの背後から土蜘蛛が顔を出して、光栄と蜘蛛丸が息をひそめて屈んでいるすぐそばまででやって来て、髑髏の詰まった腹を引きずりながらじろじろと二人のいる辺りを見ている。気配を感じているのだろうか。

「さては、陰陽師か。遁甲の術を使って身を隠しておるのか」

馬頭が思いついたように手を打って言う。

「そう言えば、その昔、賀茂忠行とかいう陰陽師が遁甲の術で我ら百鬼の目を眩まして逃げうせたと聞いたことがあるが、今隠れているのはやはり陰陽師か?」

牛頭があたりを注意深く見ながら舌なめずりをして言う。

「ええい、出てきておとなしく我らが餌となれ。優しくその肉と皮を引き裂いてくれるわ」

百鬼がどんどんと地面を踏み鳴らす。

「若、恐ろしゅうござる。恐ろしゅうござる」

蜘蛛丸が耳元でわなわなと唇を震わせて絶望したように小さな悲鳴を上げる蜘蛛丸の身体が大きく震えて揺れている。

「静かにせよ、我らに今出来るのは心静かに耐えることだけだ」

蜘蛛丸のむせるような口臭に閉口しながら、懸命に集中して呪文を唱える。

蜘蛛丸は頷く。だがその目は落ち着かなく動き、焦点が定まっていない。既に体の隅々まで恐怖に支配されているのは明らかである。

「うおおお」

急に青鬼が、堪忍袋の緒が切れたように、恐ろしく爪の伸びた手を辺り構わず闇雲に当たりかまわず振り回す。指先が、一瞬、蜘蛛丸の頬をかすめた。

「ぎゃ」

蜘蛛丸が痛さをこらえて自分の口を塞ぎ、出かかった悲鳴を飲み込む。

「いま、声がしなかったか」

百鬼の群れがざわざわと辺りを見回す。

「いや、確かに声がしたぞ。ほれ見ろ、この爪に引っかかっておるのは、人の皮と肉ではないか?」

青鬼がその手を差し出す。

「なに、その手の爪に下がっているものが人の皮と肉なのか、どれどれ」

赤鬼が青鬼の差し出す手の先に鼻を近づけて匂いをかぐ。

「何だ、これは、これは獣の匂いではないか。こいつは不味いぞ」

赤鬼が落胆して唸るような声を発する。

「久しぶりに人の肉が食らえると思ったが、隠れているのは畜生であったか」

百鬼は青鬼と赤鬼の話を聞いて、嘆息を漏らして、そこらじゅうを歩きまわっては不平を言いって地面を踏みつけはじめた。

「人の肉を食らうことが出来ると言うた奴は、どいつだ」

腹の虫がおさまらぬというように怒号が飛び交い始めた。

「このわしだ、それがどうした、悪いか」

馬頭がまわりの怪物を睨みつけながら高飛車に言う。

「人の肉が食らえるとお前は言った。わしらは皆餓鬼道をさ迷うもの、ひもじいのだ。一度喰いたいと思ったら、もう止まることがない。何かを食わなければ収まりが付かぬ。ええい、こうなったら我慢できぬ。代わりにお前を食ってやろうぞ」

赤鬼がよだれを流しながら馬頭を見る。

「おお、そうだそうだ、こやつを食ってしまおう」

青鬼が馬頭をじろじろ見ながら舌舐めずりをして言う。

「おお、そうしよう。だいたい、お前のその姿が気に入らぬ。観世音菩薩の化身である馬頭観音のような悟りきった姿をしおって、もう我慢ならん」

一つ目の大入道がまさかりを構えて馬頭をじろじろと見る。

百鬼が騒ぎ出して馬頭に押しかける。

「下郎どもめ、やめろ、やめんか」

牛頭の怪物が止めに入ったが、押しかける百鬼を押し留めることはできない。

「お前等、馬とか牛とか、畜生の首を頭に載せておるやつら、気に入らぬわ、食ってやる」

鬼達が騒いで押しかける。

「何を言うか、我等は、地獄の王、泰山府君たいざんふくんの使いであるぞ。我ら牛頭馬頭ごずめずは地獄の獄卒、我らを食らった者どもは地獄の火焔に焼かれるぞ。分かっておるのか」

牛頭が火の出るような形相で百鬼を睨みつけた。

「かまうものか、こいつも牛頭観音ごずかんのんのような悟ったような姿をしおって、気に入らぬわ」

百鬼がいっせいに馬頭と牛頭に襲いかかる。

「やめろ、やめろ、何をする」

百鬼は次々に牛頭と馬頭に襲いかかった。馬頭はいつの間に取り出したのか、赤い房のついた剣を持って並みいる怪物どもをなぎ倒した。一方、牛頭は長い矛を振り回して怪物を蹴散らした。しかし、時が経過するに従って馬頭と牛頭の息は切れ始めた。吐く息が段々と荒くなって動きが鈍ると同時に、頭、足、腕、胴に怪物が襲いかかってすがり付く。遂にはそれを払い切れずに馬頭と牛頭はとうとう倒れた。怪物どもが藻掻く馬頭と牛頭に次々と圧し掛かった。

百鬼はその首を、足を、腕を、耳を、鼻を引きちぎり、目を掴みだし、むしゃむしゃと食べ始めた。馬頭と牛頭の断末魔の悲鳴が響き渡った。

「おお、不味い、腹はふくれたが、つまらんものを食ってしまった。食っても食っても、ひもじい、我らは餓鬼道に住んでいるのだ。まだまだ食いたい。食い足らんわ」

口中を血だらけにして百鬼が呻く。

「ああ、つまらん。不味い、不味い。腹がむかついて戻しそうだ」

牛頭と馬頭を食った百鬼が苦しみ出す。

「おお、苦しい。なんだ、これは。悪いものを喰ってしまったぞ。胃の府が腐っていくようだ。胸がむかつく、ううう」

「誰だ、あいつ等を喰おうと言ったのは」

腹を押さえて嘔吐して赤鬼が言う。

「お前自身ではないか」

青鬼が睨みつける。道のあちらこちらで口からそして下から汚物を吐き出してもがき苦しんでいる。

「助けてくれ、苦しい、これが地獄の閻魔大王の眷属、泰山府君の罰か?苦しい、胸がやけるように熱い。悪かった、悪かった、わしらが悪かった。ああ、閻魔大王、お助け下され」

よろよろと歩きまわっている怪物がいる。地面に横たわって身をよじって喘いでいる鬼がいる。様々な妖怪が苦しみもがく、まさに地獄の風景が広がって道は赤銅色の汚物とその臭いで埋まった。

やがて鬼達が去っていく。倒れているものはよろけながら立ち上がり、立っているものはそのまま力なく重い足取りで去っていく。宴の終わった後のような静けさを残して足音が遠ざかって行った。

百鬼の行列の最後尾に不可思議な怪物が二人の目にとまった。

頭は狒狒ひひ、身体は獣、手足は虎のような縞模様があって、鋭い爪が長く伸びている。くねくねと止まることなくうごく大蛇の尾を付けて、背中には羽を背負っているところをみると空を飛べるらしい。

「若、なんでござるかあれは。奇妙な姿ではありませぬか」

「あれは、噂に聞く鵺であろう」

「ヌエ?なんでござるか、それは?」

『平家物語』や『太平記』という文献に鵺と呼ばれる怪獣が登場する。

近衛天皇のとき、勅によってより禁中に呼ばれた源氏の棟梁、源頼政が、雲の中で気味悪く鳴く、鵺という怪鳥を弓で射落としたという記述が見える。

「若、あやつは、我らに気が付いているのではござらぬか?」

蜘蛛丸の身体がぶるぶると震えて揺れだした。暗闇の中にもその顔が蒼白となってゆがみ、口がわなわなと震えているのが分かる。

「うわあ・・・」

恐怖に支配されて蜘蛛丸の口から悲鳴が発せられようとしたとき、光栄のこぶしがその頬に食い込んでその体が地面に倒れと、鵺は聞き耳を立てるように頭を斜めに傾けた。蜘蛛丸の口を塞いで息を潜める光栄。鵺は、気配を感じているのか、後ずさりしながら、じっと見ている。

❘気付かれたか❘

光栄は呪を静かに唱えるともに、一方で太刀の柄に手を添えて身構えた。

やがて、鵺は踵を返して静かに去っていく。

時々振り返り、首をひねって光栄の方をじっと見つめている。

悲しみを一身に背負ったような悲しい声を発した。

鳴き声は、うす暗い京の都の淀んだ重たい空気をうち震わせて長くそして、百鬼の姿は消えた。それは、多分、一刻ほどの間であったのであろう。しかし、光栄には気の遠くなるほど長い時間の経過であった。

「もう、安心するが良い」

光栄の声に促されて、蜘蛛丸が立ち上がってほっと溜息をついた。

「若、痛いではござらぬか。目から火が出もうしたぞ」

「我慢致せ、蜘蛛丸、鬼どもに見つかって八つ裂きにされるよりも良いであろうが」

「本当に恐ろしゅうござった。くわばら、くわばら、若、早く帰りましょうぞ」

危機が去って安心したのか満面に気持ちの悪い笑みをたたえて蜘蛛丸が言う。

「もう少しこの場に留まるのだ。きゃつめらとは十分な距離を置こう。やり過ごしてまだ間があるまい」

いつの間にか降り始めたのか、雪が積もり通りもその両側の家々の屋根にも積もって見渡す限りぼんやりとした雪明かりに浮かび上がっている。

❘かの姫の亡霊が俺に警告を知らせてくれたのは、百鬼と遭遇することであったのか❘

光栄はまだ《先の出来事》の呪縛から解き放たれてはいないのである。雪景色をぼんやりと眺めながら、足元からじわじわと忍び寄る寒さを気にも留めず、かの姫を懐かしく思い出すのであった。



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