賀茂光栄(かものみつよし)、百鬼と遭遇すること(一)
数日の間、眠りつづけた光栄は蜘蛛丸とともに、また京の都を歩き、様々な体験をするのであった。
光栄は今、褥の中にいた。未だ覚醒し切っていない頭と体は、絡みあった記憶の糸にがんじがらめに絡め取られて、身動きができない。糸は、鮮やかな青や紅や割り切れぬ紫の目もくらむ彩りを絡ませて、光栄を悩ませた。
その糸の乱れが深紅の紅葉林を激しく流れる眩しい黄金の水流となったかと思うと、立ち上がるように膨らんで、一人の女性の姿となって光栄の前に現れる。凄まじい鬼の形相であった。
次の瞬間、艶めかしく美しいあの時の姫の姿になって光栄をじっと見つめる。
そして、陽炎のように揺らめき、物言いたげな赤い唇を少し動かしたかと思うと、すっとかき消すように見えなくなった。
「待て、待ってくれ」
夢のなかで呼び掛け、辛うじて残る記憶の糸を手繰り寄せていた。
未だ十分に覚め切らない意識の中で光栄は《先の出来事》を考えていた。
(かの姫ははたして成仏できたのであろうか。この世の醜い現実を知っても無力な俺は何も出来なかった。俺は人に崇められ、恐れられ、それ故に、ある時は蔑まれ、憎まれる陰陽師ではないか。にもかかわらず、愛しい女性を救うことさえ出来なかった)
思いがけず出会った一夜の出来事はこの若者を目覚めさせた。
それは、光栄が一人の女性に仄かな恋心を抱き、心を寄せたことから始まった気付きであった。
思いを寄せた人の行く末を目の当たりにして、初めて理不尽な世の中の有様に気付き、今まで考えたこともなかった不条理への疑問が湧いてきたのである。
現実からほど遠い、ぬくぬくとした巣の中で悲しみや苦しみから目をそらして暮らしている限り、この若者に自分の生き方についての疑問は生まれなかったであろう。
同時に、目の前で起こっている事象が、如何に真実からほど遠いものであるかという現実に目覚めたのである。
それらは全て熱き血潮のなせる業であるといえるのかもしれない。
ただ、それがこの若者にとって幸せなことであったのか、それとも不幸な気付きであったのかは誰にも軽々に判断の下せるものではない。成熟した大人から見れば、真に甘い勝手な思いこみであって、一笑に付されることなのかもしれない。
夢うつつの中でそんな思いにふけっている光栄に、又もや記憶の糸が目もくらむ鮮やかな色を取り混ぜながら彼の心に悩ましく絡み付いたと思った時、どこからか懐かしい鈴を振るような声が聞こえた。
「光栄、光栄、気を付けて」
かの姫の声であった。
「あなたか、今どこに?」
光栄が尋ねる。
「我は今、浄土にいます」
その言葉に、光栄は安堵を憶えたと同時に、痺れる様な甘美な感覚を改めて感じるのであった。
「そうか、良かった」
「それよりも光栄、災いが来ます。遥かな記憶の中から災いがやって来ようとしています、気をつけて、光栄」
そして、声は遠のいて消えた。
どういう災いなのか光栄には分からない。思い当たる節もない。
首をかしげる光栄のまぶたの裏に何かが見えてきた。
朱雀通りの人混みの中であった。幼い光栄は母の胸に抱かれていて、傍には祖父、賀茂忠行とまだ若い父、保憲がいた。
談笑しながら眺めている二人の目線の先には長い武者の行列が朱雀通りを内裏に向かっていた。異様な光景であった。行軍する行列の先頭に、生首が、槍の穂先に突き刺されて高く掲げられている。
「父上、我らが行った『白衣観音法』は功を奏したようでござりますな」
保憲が誇らしげに顔を赤らめて興奮したように祖父に話しかけている。あるいは、何かの祝いで酒が入っていたのかもしれない。
「うむ、その様じゃな、帝もこれで安堵されたことであろう」
忠行が満足そうに頷いている。
「白衣観音」とは「観世音菩薩」の一人で、その姿は密教の曼陀羅にも描かれている。さらに、もろもろの星の中心、北斗七星にも擬されている。もともとは密教の秘術であった「白衣観音法」は陰陽道に取り入れられ「白衣観音陀羅尼」を唱えて兵乱を治め、災禍を祓うための陰陽道の儀式として取り行われた。それは、多分に密教と深く関わって修業した賀茂忠行が編み出した陰陽の術の一つであった。
目の前を通り過ぎる武士の行列は、平将門を討ち取り、東国の乱を平定して意気揚々と凱旋する俵藤太の行列であったのである。朱雀天皇が平将門討伐を命じて、その成功を祈願して摂関家の氏の長者、藤原師輔は、当代随一の陰陽師、賀茂忠行を内裏に呼んで白衣観音法の儀式を行ったのである。その効果があったのであろう、平将門の乱は平定されたのである。西国で起こった藤原純友の乱も鎮静の兆しが表れつつあり、いわゆる承平天慶の乱は終息しようとしていた。
拍手喝采して迎えられる行列の中に高く掲げられている平将門の生首は恐ろしい形相で世の人々を睨みつけているようであった。
都の人々で湧きたつ朱雀大路の中に光栄は、熱い視線を感じていた。
人混みの中から発する、憎しみに燃える強い視線であったが、光栄はその視線の方を眼で追ったが、それらしいものは見当たらない、ただ、そこには、つぶらな瞳の童女が中年の男に手をひかれて立っているだけであった。光栄はその時、赤子であった。母の胸に抱かれてその場にいたのである。
人が思い出す幼い時の記憶は通常幼児期を過ぎる頃、いわゆる物心がつく頃からである。それより早いとしても幼児期の前期を過ぎる頃、せいぜい三歳頃からである。中には、自分はこの世に生まれる時からの記憶があるという者もいる
「母親の暗く狭い産道をやっと通り抜けて、たらいの中で産湯に浸かった時は、本当にほっとした。ひとしきり泣いた後、たらいのなかで笑ってはしゃぐ俺の顔を大勢の女の人が覗いていた」
などと言う者がいるが、それは多分、大人達から生まれ落ちた時の様子を何度も聞かされたために、その時の様子を記憶していると錯覚しているのであろう。
光栄の場合も、祖父や父や母から何度もこの時の話を聞いたのであろう。そして、いつの間にかその時の記憶があると思い込んだのではないかと推測できる。
ともかく今、光栄の精神と肉体は半ば目覚め、半ば眠っている不安定な状態にあったのであるが、少しずつ、意識がはっきりとして、まわりの様子が見えだしてきた。長い眠りから目覚めようとしていたのである。部屋の障子が閉まり切らず、少し開いている。
光栄自身が開けたまま眠ったのか、それとも、光栄の様子を窺うために誰かが開けたのであろうか、
障子の隙間から見える庭は、冬の明るい日差しがいぶし銀のようにまぶしく、目の奥が痛い、午の刻あたりか。
けだるい時の流れに身を任せて惰眠をむさぼっていた光栄の耳に、突然、大声を出しながら、廊下を歩く足音が飛び込んだ。
それは、生ぬるい思考の中を彷徨っていた光栄を鷲づかみにして現実の世界へぐいと引き戻した。
「蜘蛛丸はおるか?蜘蛛丸、どこにおる?」
障子が勢いよく音をたてて開き、そこに父、保憲が厳しい顔をして立っていた。
「光栄、蜘蛛丸を知らぬか?」
「いえ、知りませぬ」
光栄は褥から飛び出し、正座をして答える。
「うむ、知らぬならばそれでよい」
保憲は、しばらくじっと様子を窺うように光栄を見つめていたが、踵を返すと廊下に出て、庭に向かって大声で叫んだ。
「誰か。蜘蛛丸を見かけなかったか」
保憲の後に従って寝所から出てきた光栄の足元がふらつく。ふと光栄は思った。
❘はて、俺はもしかして、何日も眠っていたのか?❘
庭仕事をしていた者、あるいは屋内で家事に従事していた者が物陰から次々に現れ、急ぎ足で保憲の側に集まって跪く。
「ご主人様。きゃつめは先ほどまで庭を掃除しておりましたので屋敷のどこかにおるかと思われますが、きゃつめを見つけたらば、如何致しましょうや」
年老いた使用人の頭が上目づかいに保憲の顔を見上げて答える。
「それでは、近くにおるのだな。探して急ぎ連れて参れ」
「はは」
皆が散ってゆく。
すぐに、数人の使用人に囲まれて両腕を抱きかかえられるようにして蜘蛛丸が現れた。
落ち着かない様子で周りの使用人達の顔を睨み付けていた。
「蜘蛛丸」
保憲のただならぬ声の様子に驚いたように、蜘蛛丸は抱きかかえられていた手を振り解き、転がるように保憲の側に走り寄り、廊下の縁近くで、額を土に擦りつけんばかりにひれ伏した。
「はは、ご主人様、お呼びでござりまするか」
顔色を窺うように保憲の顔を見上げる。
「先ほど検非違使庁の役人が来て申すには、我が館の使用人が死人の亡骸を検非違使庁に届けたと言う。役人の話に依れば、その使用人の風体が蜘蛛丸、そなたにそっくりであるが、届けたのはそなたか?」
蜘蛛丸の肩が小刻みに震えて、額から汗が噴き出している。
「はは、ご主人様、某奴にござります。光栄様の命にござりますれば、某奴が丁重にお届けいたしておりまする」
「光栄、そなたが命じたのか?」
保憲が振り返って光栄をじろりと見た。
「命じたのは確かに私です。亡骸を丁重に扱うよう蜘蛛丸に命じましたが、それが、何か不都合でもござりましたか?」
光栄にはどうして保憲がそんなことを質問するのか不思議に思えた。
❘捨てられた姫の亡骸を検非違使庁に届けて丁重に弔うことのどこに不都合があるのか?❘
光栄にはなんの疾しいところもなが、保憲の声の調子から察するに、どうも何か不満があるらしい。
「ほほう、丁重にのう。腐乱した亡骸を検非違使庁に無造作に投げ入れて、そそくさと帰ったというではないか。それが丁重な扱いと申すか?」
鋭い眼光を蜘蛛丸に向けながら保憲は言う。
「そ、それは・・・」
蜘蛛丸は口ごもり、さらに額をこすりつける。
「その上、身につけている一切の衣類は見るも無残に剥ぎ取られていたと言うではないか、それが本当に丁重な扱いなのか?どうだ、蜘蛛丸、返答せよ」
蜘蛛丸を見据えて言う保憲のこめかみの筋肉が引きつって痙攣している。
「なに、衣類を全て剥ぎ取った?蜘蛛丸、それは真か」
驚きのため、光栄は思わず呻いた。
❘何と言うことだ、あの腐乱した姫の亡骸を裸のまま、検非違使庁に投げ入れた?なぜそのような無慈悲なことをしたのだ。ああ、あれほど丁重に扱うよう頼んでおいたに、蜘蛛丸め、許せぬ。俺は亡骸を大切に弔いたかったのだ。何と言う不覚、俺は下人の言葉を信用して姫の亡骸の扱いを任せてしまった。かの姫が寄せた信頼というものを裏切ってしまった。なんという無惨な、蜘蛛丸め、いや、いや、この俺が悪い。どうして俺は一緒に検非違使庁まで行かなかったのだ。なぜ俺は最期まで見届けなかったのだ。確かに俺は疲れていた。疲労の極みにあった。しかし、それは理由にならぬ❘
悔やんでも悔やみきれない憤りが蜘蛛丸に対して、いや、自分自身に対して沸き起こった。
「死人の衣類をはぎ取り、塵芥のように捨てるとは、なんという人非人、我が館の使用人にその様な所業を行う者が居るとは極めて無念、我が家の名折れ。蜘蛛丸、それになおれ。命はなきものと思え。おのれは生かしておけぬ」
「ご主人様、お許しを」
保憲の剣幕に、身の危険を察した蜘蛛丸は素早く立ち上がり、使用人達の制止を振り切って飛び跳ねるように逃げ出した。
「下郎め」
保憲は逃げる蜘蛛丸を目で追い、睨み付けて懐手に印を結んだ。
「うわあ」
保憲の口から出る呪文の声が聞こえた途端、蜘蛛丸がもんどり打って倒れ込み、頭を抱えてもだえ苦しむ。
『今昔物語集』を始めとする多くの説話には、このように印を結び、呪を唱えて、対象を意のままに操る話がよく出てくるが、それに科学的根拠を求めることは難しい。ただ、熟練した陰陽師は、巧みな技術や権威を利用して感覚や知覚や感情を操作し、対象物を思いのまま操ることが出来たという話が『今昔物語集』には、まことしやかに語られている。
「お助けください、お助けを」
蜘蛛丸が必死の形相で許しを請う。
保憲はふわりと飛ぶように素足のまま庭に降り立ち、縁側に立てかけてある六尺ばかりの棒を掴んだ。
それは、保憲が毎朝、剣術の稽古のため素振りをしている樫の棒である。
ゆっくりと近づいて頭を抱えて悶える蜘蛛丸をしばらく眺めていたが、やがて、ブンと撓らせて棒を振り下ろした。
何度も、何度も蜘蛛丸の体を打ちすえた。
「うへー」
エビのように丸くなり、地面を転がって苦悶の悲鳴をあげる蜘蛛丸。
無表情に棒を振り下ろす保憲の姿を呆然と見つめる使用人達の顔は土色に変わって、保憲に対する恐れの表情がありありと浮かんでいる。
「あなた、もう良いではありませぬか」
母御前が大声とただならぬ物音を聞きつけて、奥から現れて保憲に懇願する。
「奥方様、お願いでござる。ご主人様にご慈悲をお願いしてくだされ。後生でござります」
蜘蛛丸は母御前に向かって哀しげな悲鳴を上げて手を合わせた。
「あなた、お願いです」
母御前が、蜘蛛丸の哀れな様子を気遣って縁側に跪く。
「父上、それ以上仕置きすれば、蜘蛛丸は命を落としますぞ」
光栄は縁側から飛び降りて駆け寄り、棒を振り下ろそうとする腕を掴んだ。
その手を振り解き、さらに何度か打ち据えた後、保憲は吐き捨てるように言った。
「だれか、蜘蛛丸の手当をしてやれ。蜘蛛丸、以後そのような情けを知らぬ所業を行わばその命無きものと思え、打ち殺されることを覚悟せよ。皆も同じぞ」
保憲の激しい剣幕に使用人の一同が皆その場にひれ伏した。
保憲は棒を投げ捨てて立ち去った。
その夜、光栄はぶらりと京の町に出かけた。
出かけようとしたとき、蜘蛛丸がめざとく見つけて駆け寄ってきた。
「若、私めもお供にお連れくだされ」
気持ちの悪い笑いを浮かべ、手をすりながら蜘蛛丸が言う。
「今夜は、一人でよい。お前は体を養生するがよい。父上に打たれた傷が痛むであろう」
蜘蛛丸は走り寄って、光栄の狩衣の袖にすがりつく。
「後生でござりまする、若。いつまた、ご主人様の怒りに触れるか分かりませぬ。今日ばかりは安心してお屋敷に居ることはできませぬ。お仕置きはもう、まっぴらごめんでござります。若、お願いでござる、連れて行ってくだされ」
「ならぬ」
光栄は蜘蛛丸に背を向けて歩き出した。
「若、お願いでござります」
蜘蛛丸は、泣きそうな声を出して少し間を取り、後に従う。
光栄は無言で歩く。
四条通から鴨川沿いに出た時、光栄は振り返って蜘蛛丸を見た。蜘蛛丸は立ち止り、腰を前に屈めて作り笑いをしている。
光栄が口を開いた。
「蜘蛛丸。私はお前に、かの姫の亡骸を丁重に扱うよう、頼んでおいたはずだぞ。お前は私の信頼を裏切ったのだ。分かっておるのか」
光栄は空を見てため息をついた。かの姫の悲しみの声が思い出される。その声が光栄の頭の中に今でも響いている、遠い雷鳴のように。
「申し訳ござりませぬ。若の優しさは分かっております。だからといって、あの衣、あの世に持っていって、なんの役に立ちましょうぞ、まことにもったいのうござる。あの物怪の行く先はどうせ地獄に決まっておりまする。裸で鬼に鞭打たれるのがおちでござります。それならば、あの見事な衣、この世で銭に変えて我らが生き延びるための役に立つ方が余程良いではありませぬか。若、若は世の中のことをご存じではありませぬ。下々の者は、もひもじい思いをしているのでござる。いつ、飢えて死ぬか分からないのござる。若、どうかわかって下され」
蜘蛛丸が言うことは確かに憂き世で生きる庶民の現実である。
あの世で極楽往生を許されるのは寺を建てたり、大勢の坊主を呼んで念仏を唱えさせることのできる貴族か、又は余程の財を蓄えた一握りの富裕層だけであった。
一般庶民の心を救済する仏教が起こるのは、鎌倉時代を待たねばならなかったのである。
腰を曲げ、手を擦って気持ちの悪い作り笑いをして光栄を見上げながら懸命に説明する蜘蛛丸の話を聞きながら光栄は何とも複雑な思いに囚われていた。
「若、お陰様で良い値で売れ申した。これでやっと一息、なんとか年を越せるというもの。あの着物は我が親族が生き延びるために使ったのでござる。許してくだされ、若この通りでござりまする」
蜘蛛丸が前に進み出て腰を折り、手を併せて上目使いに光栄の顔を覗き見る。
庶民は、皆飢えている。富めるものは一握りの貴族だけである。
貴族の中にも生活できず、夜盗になっているものもいるという有様であった。
皇族や貴族の中にも盗賊となって捕らえられる話が『今昔物語集』に登場する。
歴史書『日本紀略』等によると、京の都は実際に夜盗、強盗が横行していた。
村上天皇の御代(光栄が十代から二十代の頃)夜盗が押し入った事件のうち、記録に残されている一部を挙げても次のように多くの記載がある。
「群盗、右近衛府少将(軍事・警察を司る高官)の邸宅に押し入り、妻子の衣装を剥ぎ取る。
群盗、勧学院(藤原氏の教育施設)に入る。
盗、東大寺千手院の銀仏をとる。
盗人、大蔵省に入り鍬鉄などを盗む。
強盗、右獄を破り、囚人を奪う。
強盗、前武蔵権守源満仲の宅に入る」
等々挙げれば切りがない。
天皇の住居である内裏(御所)にも夜盗が出没している。庶民に至っては毎日のように被害を被っている有様である。
勿論、夜盗、強盗による殺人は日常茶飯事であった。
さらに、この頃、大雨により、鴨川が氾濫し、甚大な被害が発生している。
その度に大勢の貧しい庶民が飢え、そして死ぬのである。
庶民がいかに悲惨な生活をしていたのかは想像に難くないのである。
光栄は考える。
生きる糧を得るため、みな、懸命に藻掻いている。
油断をすればたちどころに餓死する。奪わねば生きてはいけない。
この世の中、何かが間違っているのかもしれない。
「衣食足りて礼節を知る」
と古人は言うが、庶民はいつになっても貧しいままである。風が冷たい。
「若、寒うござりまするなあ。そういえば、今日から霜月でござりまする。おお、寒。傷が疼きまする。ご主人様もあんまりではござりませぬか。あれほど怒ることもないではござりませぬか」
「うむ、蜘蛛丸、お前は報いを受けるだけの所業をしたのだ」
「ああ、若までそのようなことをいわしゃるのでござるか。死んだ者は何も文句は言わないのでござるぞ、若、死者の身につけた物は我ら貧しき者には天の恵みでござりまする。ああ、嘆かわしい、分かってくだされ、若」
光栄にはまだまだ言いたいことがあったが、蜘蛛丸に怒りをぶつけても致し方ない。
貴族と下人では世の中に対する感覚が異なるのである。
けなげに生き、献身し、裏切られ、そして身罷った髑髏に同情して涙を流しても、次の瞬間、自分や自分の眷属が生き残るため、その衣類を剥ぎ取り、その屍は打ち捨てることを当然のことと考える貧しい庶民の心の動きなど、光栄には分からない。
蜘蛛丸を初めとする下人に崇高な慈悲の心を説いても到底分かってはもらえぬのである。
例えば、蜘蛛丸に、法隆寺の玉虫厨子に描かれている釈迦の前世の姿を描いた「捨身飼虎図」を見せて、腹を空かした虎を養うためにその身を虎に食わせる釈迦の姿を説明したとて、「そ奴は大馬鹿者でござりまするな」と腹を抱えて笑うに違いない。
ため息をついて見上げる空の月が大きく欠けている。
❘はて、かの姫を見送った時に見上げた月は確か十六夜の月であったが❘
月は見る間に厚い雲に隠れて、光栄の憂鬱な気分のように暗く淀むのであった。
「俺は、何日も寝ていたのか」
つぶやく光栄に蜘蛛丸が話しかける。
「若は三日の間寝ておられましたぞ。心配いたしましてござりまする」
「そうか」
蜘蛛丸の心にもない口先だけの言の葉を聞き流しながら歩く京の都の夜は暗く寒い。
笛のような音を立てて、夜道を冷たい風が吹き抜けていく。
「寒うござる。五体がしびれまするぞ。若、そろそろ帰りましょう」
蜘蛛丸がそう言ったとき、暗黒の空から白い結晶が舞いながら降りてきた。
光栄と蜘蛛丸は七条大路を東市から西市へ向かっていた。
教王護国寺(東寺)からかあるいは西寺からか子の刻を知らせる鐘の音が低く長く風に乗って流れるように響いた。
子の刻とは深夜零時前後の時刻である。
西市は寂れ、昼間でも寂しい。
今や昔の繁栄はなく、まして夜ともなれば、人影は途絶えて、時々風に乗って舞い落ちる病葉の音が幽かに響くばかりであった。
「蜘蛛丸、そなたは帰れ。俺はもう少し歩いて帰る」
いつまでもわがままな御曹司には付き合っておられないわい、とでも言いたげな顔を見せる蜘蛛丸に向かって光栄は言う。
「はいはい、若、致し方ありませぬな。それでは先に帰りまするぞ」
吐き捨てるような言葉を残して帰りかけた蜘蛛丸が暫くして小走り足で戻ってきた。
「どうした、蜘蛛丸」
尋ねる光栄の狩衣の袖を掴んで怪訝な声をあげて顎をしゃくる。
「若、何か来ますぞ」
「どこだ」
「ほれ、西京極大路を見てくだされ」
そこはやや遠く、月明かりは厚い雲に覆われて届かないめ、蜘蛛丸の指さす西京極大路の様子は良く見えない。が、そこには何かがうごめいていた。
それが何なのか良く分からないが、黒い色をした何かの集団のようであった。
不意に寒々とした不吉な気が光栄の五体を走り抜けた。
右に左に波打つように揺れながら、あるいは大きくなり、あるいは少し小さくなりながら、その黒い集団はこちらに向かってやって来る。
うごめく暗闇の中にかすかに赤く光るものがいくつも見える。
様子が段々と見えてくるに従って、蜘蛛丸の顔色が変わった。
「わわわわ、何でござるか若、あれは?」
蜘蛛丸の声はかすれ、光栄の狩衣の袖を掴む手が震えている。
「犬?」
光栄がつぶやくように言った。
暗闇の中で赤く異様に光っているのは犬の眼であった。
その光がその集団のまわりを奇妙に明るくしているのであった。
「蜘蛛丸、落ち着け。あれは野良犬の群れだ」
大きな黒い犬の群れが、百頭近くはいるだろうか、こちらに向かって歩いてくる。
犬特有の病気を患っているかのように目はつり上がり、牙をむき、小さな唸り声を発してぞろぞろと近づいてくる。
「うへ、若、何でござるか、この犬どもは」
蜘蛛丸が悲鳴を上げながら光栄の後ろに隠れる。
黒い犬の群れは光栄と蜘蛛丸を見上げて取り囲み、唸り声を上げながら、二人の足下のにおいをかぎ始めた。
その目は濁った朱色に染まり気味悪く光っている。
次々と集まって来た犬は、気がつくと、二人のまわりを何重にも取り囲んでいた。
そして、今にも二人に襲いかかろうとする様相を呈したのであった。
鋭い眼光とむき出した牙が二人を狙っていた。
地鳴りのような唸り声に、一瞬、光栄の背に冷たい戦慄が走った。
「気をしっかり持て、なんのこれしき、恐れるではないぞ」
蜘蛛丸に言うとともに自分自身に向かって言っていた。小さく、しかし、はっきりとした口調である。萎えそうな精神を自分自身で鼓舞したのである。と同時に、印を結んで呪を唱えた。
その途端、光栄の呪に霊力を感じたのであろうか、犬の群れは、皆一様に恐れをなしたかのように三尺ばかり後ずさりして光栄の姿を不思議そうに眺めた。
光栄は、自分の唱えた呪が功を奏していることを確信した。
ややあって、数頭の犬が光栄を避けるように背を低くして迂回し、背後に隠れた蜘蛛丸にじわじわと近づく。
そして、さらに大きな唸り声を発して蜘蛛丸を見上げる。
らんらんと光るその目は相手の恐怖心を推し量っているように見えた。
次の瞬間、その内の一頭が蜘蛛丸の足に噛み付いた。
「ひえー、若、助けてくだされ。噛まれ申した」
蜘蛛丸が光栄にすがりつく。
「早くなんとかしてくだれ。お願いでござる」
足を振って振り払おうとするが、犬は放さず、唸り声を発して、首を左右に激しく振って肉を食い千切ろうとする。
さらには、ぐいっ、ぐいっと驚くほど強い力で引っ張る。
「うわっ」
たまらず、どさりと倒れた蜘蛛丸を、犬はずるずると集団の輪の中に引きずり込んでいこうとしていた。
「若、早く、早く、助けてくだされ」
身もだえしながら叫ぶ蜘蛛丸に光栄はあくまで静かに言い放った。
「蜘蛛丸、我慢だ。うろたえずにじっとしておれ」
光栄は腰の太刀をすらりと抜き放ち、上段に頭上高く構えた。
「えいっ」
白鞘の太刀が光の筋となって蜘蛛丸の足を目がけて振り下ろされた。
蜘蛛丸は思わず目を閉じる。
「ぎゃん」
断末魔の叫びを残して、犬の頭と胴がすぱりと分かれ、その双方から鮮血が吹き出した。
頭は歯と目を剥き出して蜘蛛丸の足に噛みついたままであった。
胴の手足は痙攣するようにしばらく空を掻き続けていたが、やがて動かなくなった。
様子を窺っていた犬たちは驚き、一時に飛び跳ねて二人から離れ、遠巻きに見ていたが、やがてじわりじわりと後ろ脚に遠ざかって行った。そして、いつの間にか一頭残らずその姿は消えた。
犬の頭を足から取り除き、憎々しげに道ばたにたたきつけ、唾を吐きかけてさらに遠くへ蹴飛ばし、それから、水干の袴を引き上げ、犬にかまれた付近を何度か撫でた後、懐から蛤の貝殻に入った薬を取り出して足に塗りながら、胸をなで下ろすように、蜘蛛丸がつぶやいた。
「やれやれ、とんでもない野良犬どもでござりましたな」
その時、光栄は、どこかに生臭さを感じる奇妙な、それでいて凍るような冷たい風が流れてくるのを感じていた。