賀茂光栄(かものみつよし)、怨霊と出会う
賀茂光栄は陰陽師家の嫡男として生まれた。
祖父、賀茂忠行も父、保憲も何れも当代随一の陰陽師として誉れ高い。
長月のある夜、父保憲に伴われて貴族の館で方違えや物忌みの儀式とその手ほどきを行った帰り道、神泉苑のそばで、月光のもと、牛車の中に美しい姫の姿を垣間見て心ときめかした。
一月後の神無月、十六夜の月の美しい夜、下人蜘蛛丸を伴って京の都をそぞろ歩いていた光栄は、神泉苑までやって来た時、物々しいいでたちの武士の一団に囲まれた。
一団の長、源満仲によると、彼らは間もなく現れるであろう怨霊を退治するためにその場にいるという。
しかし、やって来たのはさきの長月の夜出会ったあの麗人の乗った牛車であった。
武士達はその場を通り過ぎようとする牛車に戦いを挑むが、ことごとく失敗に帰した。
武士団の長、源満仲も通り過ぎる牛車を討とうとして倒れた。
光栄は、落命寸前の源満仲を陰陽の術で蘇生させた。
満仲は、近くの屋敷の生け垣の後ろに隠れ、姿を見せない「中将様」と呼ばれる「雇い主」思しき者から事態の首尾を激しく叱責される。
光栄は、源満仲とその兵士、並びに「中将様」と呼ばれる得体のしれない者達を後に、牛車の跡を追った。
牛車の轍の跡から、それが鴨川の流れへ降りて行ったことを確信した光栄は、薄の穂の茂る、荒涼とした四条河原に分け入って行き、地獄からやって来た鬼と出会う。
若き陰陽師は陰陽の術を駆使して邪鬼によって鬼の中に捉えられ、怨霊と化した姫を救い出すため、戦いを繰り広げるのであった。
一、賀茂光栄
賀茂光栄は東京極大路を漫ろ歩いていた。
東に、たおやかな峰が連なり、山際高く上った十六夜の月が鴨の流れに揺らめいていた。
比叡の寺々を巡って下り来る高嶺颪が鴨川を波打たせ、河原の薄を揺らして土手を駆け上り、草笛のような音色を響かせながら若者の狩衣を吹き抜けて行った。
光栄は、足を止め、ほつれた髪をかき上げて物思うように月を見上げた。
その横顔には、少年から大人に成長しようとする若者が持つ憂鬱と瑞々しさが見える。
「『光陰矢の如し』というが、気がつけば、元服を過ぎてはや五年、成程、時の流れは速く、しかも、齢を重ねるほど速くなるものらしい。この俺もいずれ年老いて髑髏を野に晒すのだろうが、それまで、この憂き世をいかに過ごそうか」
今を無為に生きていると思うとき、何故か感情が高ぶり、漠とした心にさざ波が立って光栄を悩ます。
かと言って、この若者に青雲の志がある訳ではない。
光栄の生きた平安の世は律令制度の下で政治や経済は天皇の外戚や側近である一握りの上級貴族に支配され、下級貴族や庶民は夢や希望を抱いても決して報われることはなかった。
それどころか、庶民にとっては生きることさえ難しかった。
光栄は上級貴族の子弟ではないが、伝統ある陰陽師家の嫡男として生まれ、何不自由なく平穏に暮らしていた。
飢えと貧困に苦しむ庶民に比べると極めて恵まれた境涯にあった。
陰陽師とは陰陽道という方術で国家・社会・個人の吉凶禍福を占い、予見した災厄を避けるため、呪術作法を執り行う宗教家である。
この時代、人々は皆、日々の行動の指針を、陰陽道に求めた。
例えば、陰陽師が理論的根拠とする陰陽五行説では、丙午の丙は火を表し、午は暖かい真南を示す。
それ故、丙午の年は火災の発生に注意を要するとされた。
時が下って徳川の世になると、どういう訳か、丙午の年に生まれた男女は火の気性を持っており、特に女は気性が激しく、夫を早死にさせるという、根も葉もない俗信が生まれて社会に根強く浸透したが、これは迷信であって、陰陽道に基づくものではない。
父、賀茂保憲は従五位下という位階を持つ下級貴族であったが、天皇と国家の未来を占う陰陽寮という役所の長官で、しかも、著名な陰陽師であった。
そのため、藤原氏、在原氏、大伴氏、源氏、橘氏といった宮廷貴族に招かれて、災厄を避ける方違え(かたたがえ)や物忌み(ものいみ)などの呪術、あるいは、泰山府君祭といった寿命を操る儀式などを執り行った。
その謝礼として受ける財物は賀茂家の台所を大いに潤していた。
二、月光の下で
光栄は父の供をして、然る、やんごとなき貴族の館を訪れた日のことを思い出していた。
館の床下で八つか九つばかりになる童の屍が見つかったので、汚れを祓う儀式を行って欲しい、という依頼を受けたのである。
童の屍は野犬に喰われて傷みが激しく、死因は特定できなかった。
当時の貴族にとって童の死因が何であるのか、事故なのか殺人なのかなど、その原因はさして重要な事ではなく、むしろ無頓着といって良かった。
彼らにとって最大の関心事は、屍によってもたらされろ穢れを如何にして祓うか、であった。
庶民の死は、取るに足らぬ事柄であって、事件として扱われることは稀有であった。
貴族の館で儀式を終えて退出すると、すっかり夜は更けて空高く上った十六夜の月が、煌々と地上を遍く照らしていた。
「あれは長月の夜であったな」
目を閉じて回想の糸を手繰る光栄の脳裏に、その夜のことが鮮やかに蘇って来る。
舘で振る舞われた酒の酔いも手伝ってか、火照った頬に晩秋の風を心地よく受けながら、
神泉苑まで歩を進めた時であった。。
神泉苑とは桓武天皇の御代、長岡京から平安京へ遷都する際に大内裏の南、二条大路に接するところに設けられた皇室の遊興の場である。
日々、雅な遊びが繰り広げられ、宮廷女官の貴やかな笑いさざめきと知的な詩歌管弦は天皇や貴族の心を和ませたが、光栄の生きた十世紀の中頃には、すっかり寂れて、往時の面影は既に無かった。
手入れの行き届かない苑内には雑草が生い茂り、都大路に行き倒れて引き取り手のない屍が投げ込まれて放置されることもしばしばあった
その為か、蒸し暑い夏の夜は鬼火が飛び交うという噂が立つところとなっていた。
ゆっくりと叢雲が月を覆い、奇妙な静けさのなか、遠くで野犬の遠吠えが聞こえていた。
「はて、何かがこちらに近づいて来る。聞こえるか?」
そう言って、保憲は光栄を振り返った。
「父上、如何しましたか」
「うむ、どうも奇妙だ、音はするが、姿が見えぬ」
父のもとに歩み寄ろうとしたとき、光栄は、強い風圧と首筋にひやりとするものを感じて立ち止まった。
「光栄、気を付けよ」
突然、前方にいた保憲が、大きく脇へ飛び退きざま叫んだその時、闇の中から黒い影が現われて目の前に立ち塞がった。
「何だ、これは」
咄嗟に身を翻した光栄の狩衣の袖を何かが掠めた。
「物の怪か」
よろける足を踏ん張って身構える光栄。
雲が途切れて、冴え冴えとした月明かりが地上を照らしたとき、その姿が明らかになった。
車軸の軋む音と伴に月影の下に現れたのは牛車であった。
「牛車?暗闇のなか、明かりも灯さず、供もつけず、一頭の牛が引くに任せている、何と危うい」
呟く光栄を掠めて牛車は擦れ違った。
「このような不埒な振る舞いをするのは何者ぞ。無礼であろう。待て、挨拶もなく過ぎる気か」
気色ばんで牛車の簾に手を掛けようとする光栄を、鼻から白い息を吐いて、じろりと牛が睨み付けた。
その時、小石にでも乗り上げたのだろう、ごとり、と音がして牛車が揺れた。
「あれ」
小さな悲鳴が聞こえた。女の声であった。
「明かりを灯さず、供もつけず、夜の都大路を行くとは、危険極まりないではないか」
大声で咎めたが、返答は無い。
月光が簾をなめる様に這い、その隙間から舌を差し込むように奥を照らした。
そこに女性の立ち姿を見た時、光栄は、はっと、息を呑んだ。
朱色の袿に包まれた美しい立ち姿があった。
白い顔、赤い唇、そして、潤んだ瞳。光栄の心は揺さぶられた。
呆然と佇む若者を置き去りにして、牛車は過ぎ去った。
父、保憲はしばらくその後を見やっていたが、牛車が大路の角を曲がったのを見届けて、おもむろに口を開いた。
「うむ、あの牛車、現れるまで気配がなかった、剣呑なことよ。光栄、何か不吉なものを感じはせぬか」
はっと、我に返った光栄は保憲の問う言葉の意味が、すぐには理解出来なかった。
月明かりに垣間見た女性の立ち姿に心を奪われ、彼の姫が何者で、牛車の行き先とその目的が奈辺にあったのか、そんなことには毛ほども考えが及ばなかった。
修行中の陰陽師としては、あるいは、迂闊であると叱責されても致し方ないのかもしれない。
だが、と光栄は思う。
「牛車には美しき女性が乗っていただけではないか。それのどこが剣呑なのだ」
合点がいかぬ顔つきで、保徳を見ると、彼はなおも暗い大路の先をじっと見ていた。
光栄の父、賀茂保憲は陰陽師である。
しかも、比肩する者のいない陰陽道の達人であった。
「で、どう感じた?」
保憲が光栄に向き直って問い質した。
「はっ、それは・・・」
光栄は知識を掻き集めて理屈を捻り出す。
だが、保憲の期待に沿うものであるのか否か、確たる自信はない。
「牛車は二条大路の先を南に曲がり、五条大路を進んだ後、東に折れて鴨川を渡るか、あるいはそのまま南へ向かうか、察するに、方違えのため、この二条大路を進んだのではないかと考えます」
「うむ、そのように読んだか。だが、こんな夜更けに方違え所を出るとは妙ではないか」
確かに、方違えは午前中、あるいは日の高いうちに行い、夜に行う例は少ない
保憲は、自宅までの道すがら、何かをしきりに考えている様子で、一言も言葉を発することは無かった。
三、光栄の憂鬱
光栄には近頃気になることがあった。父は賀茂家の嫡男である自分ではなく他の誰かに陰陽道の奥義を伝授しようと考えているのではないか。
そして、そ奴に賀茂家の未来を託そうとしているのではないか、という疑念であった。
父、保憲は、このところ頻繁に、安倍清明という陰陽師の名を口にする。
安倍清明は保憲の弟子の一人である。
光栄よりも二十歳ほど年長で、天文を見ては未来を言い当て、式神という鬼神を自在に操って危難を未然に察知する特異な技の持ち主であるという。
「父上は、この俺の、陰陽師としての資質を疑っているのかもしれぬ、そして、凡庸なこの俺を見限ってしまうつもりなのかもしれぬ」
そんな疑念が脳裏を過ぎり、言い知れぬ不安に襲われることがあった。
彼が陰陽道を学ぶ上で他に先駆けているものといえば、賀茂家の嫡男という恵まれた環境下に生まれたことである。
陰陽道を学ぼうとする学生等から見れば、優位な環境に胡坐をかき、何の努力もしないこの若者は、妬ましさと侮蔑の対象でしかなかった。
だが、光栄は彼なりに、人知れず修練を積み、もがき苦しみながら、それなりに努力を重ねてきた。
陰陽師家に生まれた以上、道を究めて名人といわれる存在になりたいと願っていたのである。
「考えるのはもう止めよう。思い惑っていると、片頭痛と耳鳴りがする」
吐き捨てるように呟いて空を見上げると、十六夜の月が煌々と輝いている。
「あの時も、今宵のように、月の美しい夜であった。あの女性に、もう一度、会いたいものだ」
脳裏に牛車の中に見た麗人の立ち姿が浮かぶと、抑えようもなく、胸が疼いて溜息が出る。
同時にそんな女々しい自分に腹立たしさを覚える光栄であった。
都を南北に真っ直ぐ断ち切るように走る朱雀大路の東を左京、西を右京と呼ぶ。
右京は遷都後、さほど経過せぬうちに寂れてしまったが、左京は賑わいを保ち続け、上皇や親王や貴族の屋敷が並び立っている。
「なあ、蜘蛛丸」
ふり向いて、少し距離を置いた所で白張の前袋に両手を入れ、肩をすぼめて歩く男に声をかけた。
蜘蛛丸と呼ばれたこの男、年は四十前後であろうか、夜の闇に同化しそうな黒い顔を面倒臭げに上げてぎょろりと白眼を剥いたが、光栄と視線が合ったと気付くと急に猫なで声を上げて皺だらけの顔をほころばせた。
「若、何で御座りまするか」
賀茂家には厄払いや疫病退散の儀式の依頼者が頻繁に訪ねて来る。
多くは皇室や貴族であったが、速やかに儀式を受けてもらうには、手際良く接待する必要がある。それには、多くの使用人が必要であった。
蜘蛛丸もその一人であるが、この男、極めて胡散臭く且つ気味が悪い。
その風貌からして、蜘蛛丸という名は云い得て妙だ、と誰もが言う。
そればかりではなく、使用人の間では、蜘蛛丸の実体は当主、賀茂保憲が手先として使う式神で、その名と風体から、大蜘蛛の化身ではないかと噂されている。
仕事ぶりは、真面目な風を装ってはいるが、肝心な時は姿を隠し、やっと現れたかと思うと母御前〈使用人達は光栄の母のことを母御前と呼ぶ〉の側で媚び諂っているという具合であった。
楽をしようという心根が透けて見ると同僚の評判は芳しくない。
「今宵の月は美しい。そう思わぬか」
光栄は足を止めてしみじみと空を仰ぎ見る。
「はあ、左様でござりまするか。私めには寒々しく見えまする。若、今は神無月で御座りますぞ。従って、風は冷たく、しかも強うござる。こんな寒い夜に京の都を散歩をするなど、どこが面白う御座りますか。蜘蛛丸めにはどうにも合点がゆきませぬ」
腰を折り、手を擦りながら近づいて作り笑いを浮かべて言う。
「さようか、ならばそなたは帰れ。夜が深まれば益々寒くなる、早く引き上げるが良いぞ。それに、そなたに供をせよと命じた覚えはない」
「何を申されますか、若の身に何かあれば賀茂家の一大事ですぞ、蜘蛛丸めは若の身を案じればこそ御供を致しておりまする。そろそろ、お屋敷にお戻り下されませ、母御前様も若のことを気遣って御心痛の様子で御座ります」
「ふむ、お前が俺のことを案じているだと、心にもないことを言うではない。己が帰りたいだけであろうが」
「若、今何と申されましたか、情けない。この蜘蛛丸、誠心誠意、賀茂家に仕え、また、心底、若のことを案じておりますものを」
光栄は蜘蛛丸が自分の行動を、逐一、母御前に注進しているのを知っている。
今夜も館を抜け出す間際に母御前に呼び止められて小言を聞く羽目になったのは、蜘蛛丸が知らせたに違いない。
鬱陶しいものよ、と心の内で舌打ちをしたのであった。
「光栄、待ちなさい、こんな夜更けにどこへ行くのです。夜の都は夜盗や鬼が出没する怖い所ですよ。ついこの間も、誰ぞが盗賊に会って、身ぐるみ剥がれた上に命を落としたというではありませんか。そなたの身に万一のことがあったらどうするのです。『君子危うきに近付かず』と言いますよ。賀茂家のためにも、少しは慎みなさい」
母御前は外出を思い留まるように説得するが、光栄にその気はない。
「母上、分かっております。危ないことは一切致しませぬゆえ。それに、念のためでは御座いますが、この通り太刀を帯びております。どうぞ、ご安心下さい」
光栄の言い様には少しばかり反抗的な響きがあった。
「母の言うことが聞けないのですか、その開き直った言い様はいったい誰に似たのでしょうか、ねえ、蜘蛛丸」
怒りと愛情の入り混じった感情が破裂しそうになるのを抑えて母御前はため息をつく。
「そうですとも、若、母御前様のご心労を少しは察して今夜のお出かけは控えられては如何でございましょうや」
いつの間にか蜘蛛丸が薄気味の悪い笑みを浮かべて手をすり合わせながら腰をかがめている。
やはり、こ奴が、俺の行動を母上に漏らさず告げていたのか。
光栄は確信した。
しかし、それを咎めようとは思わない。
蜘蛛丸は、彼なりに、心底、母御前に尽くしている、と光栄は思うのである。
「それにしても、母御前様、若は立派になられましたなあ、ほれぼれするではありませぬか。蜘蛛丸めは思っておりますぞ、そのうち、若は、誰にも真似のできぬ立派な仕事をやってのけられることでしょうて、その日が楽しみでございます」
更に腰を折って手を揉みながら歯の浮くような言葉を並べ立てて母御前にすり寄る。
母御前はたわいなく表情を崩してく微笑む。
「そうですね、時の流れは速いもの、いつの間にか立派な若者になりました。そなたの狩衣、この母の見立て通り、よく似合っています。仕方ありません、今夜のところは、これ以上申しますまい。ですが、光栄、早く帰って来るのですよ」
それから、と言って蜘蛛丸に命じた。
「そなた、光栄に危害が及ばぬよう一時も目を離すではありませぬぞ。身を挺してでも守るのですよ」
「承知いたしました、母御前様、安心してこの蜘蛛丸にお任せくだされ」
ついこのあいだまで、あとを追ってすがって来た我が子が、いつの間にか距離を置くようになって、近づこうとすると嫌がる素振りを見せる。
それが自立なのであるのだが、親は誰しも我が子の行動に過干渉する。
黙って見守ることが出来ず、つい注意や訓示を垂れてしまうようだ。
そんな母御前の心の隙間に素早くにじり寄り、歯の浮くような甘言を弄す蜘蛛丸。
それがこの男の生きる術であるが、その見え透いた行為を咎めようとは思わない。
主の機嫌を損ねた者は職を失い、路頭に迷う現実が容赦なく立ちはだかり、妻子共々餓死を覚悟せねばならない。
生きる事よりも死ぬことの方が遥かに楽な憂き世を、庶民が生き抜くには、例え、どんなに蔑まれようと、媚び諂ってでも生きる糧を得る術を身に付けなければならないのである。
そんな生き方に、光栄は逞しさと同時にある種の潔ささえ感じるのであった。
四、源満仲
光栄は、都の東を南北に走る東京極大路を北に向かって歩いていたが、二条大路と交わるところで足を止めた。
「うわ、若、危ないでは御座りませぬか」
急に立ち止まった光栄にぶつかりそうになった蜘蛛丸がよろけながら叫んだ。
佇んで、暫らく月を眺めていた光栄は、意を決したように二条大路の闇の中へ歩を進めた。
「お待ち下され、何処に行かれるのです、若、そちらは暗うござりますぞ」
蜘蛛丸が小走りに光栄の後を追う。大路の両脇には貴族の屋敷が点在するが、この時刻、灯りが消えて足元は暗い。
油断をすれば蹈鞴を踏みそうになる。
枯れ草の臭いがするのは、手入れの行き届かない庭が散在しているからであろう。
「致し方御座いませぬ、どうしても行かれるのなら、暗うございますゆえ、この蜘蛛丸めが先導をいたしますぞ」
自分のことしか考えぬ蜘蛛丸が先導すると申し出たことが妙に可笑しかった。
「ふふ、左様か、良し、前を行け」
「若、なにか可笑しゅう御座りますか」
「いや、何でもない、気にするな」
夜の静寂と闇の向こうに薄っすらと神泉苑の木立が見えた。
時折、野犬の咆哮が遠くで響いた。
神泉苑は平安京遷都の際に造営された皇室の庭園であるが、暫くすると、天皇の遊興の場だけではなく、御霊会や雨乞いの儀式が行われた。
桓武天皇は、平安京遷都の十年前、長岡京を造営した。
だが、造営の責任者、藤原種継が暗殺され、その企ては頓挫した。
暗殺事件に関わったとして罪に問われたのは天皇の弟、早良親王であった。
親王は無実を主張したが聞き入れられず、淡路に流された。
激怒した親王は流される途上、食を断って憤死した。
以来、天皇の寝所に早良親王の怨霊が現われるようになった。
早速、親王の霊魂を鎮め申し上げようと、神泉苑で何度も御霊会を催したが、その甲斐もなく、天皇は生涯、親王の怨霊に悩まされ続けた。
下って嵯峨天皇の御代、近畿地方はひどい旱魃に見舞われた。
勅命によって神泉苑で雨乞いの儀式を行った空海が請雨経の法を念じると、すぐさま、水の神と言われる八代龍王の使いとされる大蛇が現われて神泉苑の大池に入ると、瞬く間に黒雲が湧きたって雨が降ったという。
「うわっ」
前を行く蜘蛛丸が、突然、驚きの声を発した。
何かに躓いて、二度三度と転がった後に素早く起き上がった。
闇の中に誰かが蹲っている。
「そこにいるのは何者だ?夜盗か」
光栄は太刀を握りしめ、腰をかがめて息を呑んだ。
「若、私めにおまかせくだされ」
光栄を制した蜘蛛丸は地を蹴って黒い影に飛び掛った。
いつの間に用意したのか、棒切れを握っている。
多分、道端で拾ったのであろう。
「ひえー」
人影が影絵のように逃げ惑うのが見えた。
蜘蛛丸は、影に飛び掛って押し倒し、馬乗りになって殴り続けている。
その時、叢と思しき陰から黒い影が走り出て、蜘蛛丸の背中を蹴飛ばした。
「わわわっ」
もんどり打って転がる蜘蛛丸の鼻先に太刀の切っ先が突き付けられた。
「ひぇー」
虚を突かれた蜘蛛丸は腰を落として鶏のように目を丸くしている。
「下郎、その命、もらい受けるぞ」
月影に浮かんだ武者姿の男が不敵に笑った。
「私の従者に何をするか」
太刀の柄に手をかけたまま、武者の前に走り出て、身構える光栄。
気迫にたじろいだのか、男は一二歩後方に退いた。
暫く睨み合いが続く。
甲冑の擦れる音がして、闇の中から続々と武者姿の男たちが現れて、光栄と蜘蛛丸を取り囲んだ。
「そなた達は何者か、盗賊か」
光栄は後退りしながら容易ならぬ事態に陥ったと感じていた。
男たちの息遣いが、獣の唸り声のように、鳴り響いていた。
多勢に無勢、由々しき事態に立ち入りつつあった。
だが、陰陽道の秘術を使えば、乗り切れるという自信が光栄にはあった。
「若、助けてくだされ」
背後から蜘蛛丸が縋り付いてくる。
「気をしっかり持て。何とかここを切り抜けるぞ」
と言って、印を結ぼうとしたとき、
「盗賊では無いわ、無礼者。お前らこそ何者だ。我らを検非違使庁の役人と知っての狼藉か」
突然、野太い声が轟き渡った。
掻き分けるようにして、後方から、鎧姿の容貌魁偉な大男がぬっと現れた。
不敵な面構えが、月光に照らし出され、光栄を睨み付けた。
検非違使庁とは京の警察・裁判を司る役所である。
「御館様」
男達が太刀を納めて鎧武者の周りに駆け寄って跪いた。
「なに、検非違使庁の役人がこの夜更けに何をしている」
男の視線に強い圧力を感じた光栄は思わず身震いを覚えたが、歯をかみしめて、ぐっとこらえた。
弱みを見せれば、即座に襲われると感じたからである。
「そなた等にことの理を話しても詮方ない。詮索せず、早々に立ち去れ。それとも、何かな、我らの邪魔を致すつもりか」
「何を言う、我らは通りすがりのもの、邪魔立てをした覚えはない。邪魔だて致したのはそちらであろう」
光栄は居丈高に人を見下ろすような男の言い草に腹が立った。
「若、逆らってはなりませぬ。相手は検非違使ですぞ」
蜘蛛丸が光栄の背後から狩衣の袖を引く。
「生意気な事を言う若造め、名は何と云う」
「人の名を尋ねる時は、先ず己の名を名乗るのが礼儀であろう」
光栄の不遜な態度に、男達が気色ばんで身構える。
「若、口に気をつけなされ、争いはなりませぬ、母御前様との約束ですぞ」
背後から蜘蛛丸が狩衣の袖を握る手に力を込めた。
「者ども、騒ぐな」
男は手を上げて、いきり立つ配下を制し、光栄に向き直った。
「なるほど、そなたの言うことは理である。わしの名は源満仲と申す、これで良いか。では若いの、そなたの名を申されよ」
源満仲という男、この数年後、藤原氏の氏長者と手を組み、時の左大臣、源高明が皇太子の廃位を企んでいると密告して失脚させた、世に言う「安和の変」の立役者である。
この事件を足掛りに、満仲を棟梁とする多田源氏は勢力を伸ばして鎌倉幕府へと続く武家政権の礎を築いた。
「私の名は・・、賀茂光栄」
名を名乗ることに、少しばかり躊躇があった。
父が今夜の成り行き、つまり、検非違使庁とに諍いを聞き知った時、その眉を顰めることを慮ったからである。
「なに、賀茂とな?もしや、そなたの父上は、彼の高名な陰陽師、賀茂保憲殿か」
「いかにも、我が父は賀茂保憲だが・・」
「おお、やはりそうであったか、これは吉兆な」
月明かりにニヤリと笑う満仲の顔が見えた。
その笑いが何を意味を示すものか定かではないが、兎も角、争いはひとまず回避できたと密に安堵の胸を撫で下ろした。
「この御仁はあの高名な陰陽師、賀茂保憲殿の御曹司である。皆、武器を収めよ」
「ははっ」
満仲の声に呼応して、あちこちの陰から武者姿の男達が現れて満仲の側に集まって片膝を付き、頭を垂れた。
一糸乱れぬ、きびきびとした動きであった。
太刀、弓、槍など、みな得意の武具を身に帯びていた。
五、怨霊
「光栄殿、これから、我らは怨霊を迎え討ち、退治する。じっくりとその様をご覧あれ。万が一、我らの手に余るようであれば、陰陽の術で助勢願いますぞ」
「いま、怨霊と言われたか?」
「いかにも怨霊と言った」
「それは面白い」
光栄は、未だ怨霊というものに出喰わしたことが無かった。
怨霊が出現すれば面白かろう、ぜひ対峙して、この世への怨みつらみを聞いてみたいと思うのだが、光栄自身は、怨霊の存在には懐疑的であった。
鬼神や怨霊の憑依を払う陰陽師という職を生業とするにも関わらず、である。
怨霊とは、己の過去の悍ましい行いを後悔するとき、心理作用が無意識に作り出すもの、つまり幻だと考えている。
先に述べたように、その昔、桓武天皇の弟、早良親王は、藤原種継の暗殺に関わった罪で淡路に配流された。
親王は流される途上、失意と激怒のあまり食を断って憤死した。
以来、桓武天皇の寝所には早良親王の怨霊が現われるようになった。
早速、親王の霊魂を鎮め申し上げようと、神泉苑で何度も御霊会を催したが、その甲斐もなく、天皇は生涯、親王の怨霊に悩まされ続けた。
我が子を皇太子の地位に就かせたいがため、既に皇太子の地位にあった親王に無実の罪を着せて、その地位をはく奪したのは桓武天皇である、という噂が流れ、その噂を否定するものはいなかった。
桓武天皇が早良親王の怨霊に、生涯悩まされ続けたのは、早良親王を罪に陥れた己の行為の罪深さに苛まれた末、病んだ心が生み出した幻覚なのであろうと光栄は考えていた。
だが、いま天空を眺めると、叢雲が湧き立って月を覆い始め、同時に、漆黒の闇と神無月の凍るような寒さが空から舞い下りて地上に降り積もりだした。
「霊魂がそばに寄ってくる時は凍るような寒さを感じるのだ」
と、父、賀茂保徳から聞いたことがある。
そういえば、今夜は殊の外寒く、悪寒を感じるほどだ。
あるいは、この寒さが怨霊の出現を予見させるものなのだろうか。
ならば、今夜は未知の体験をする良い機会かも知れないと、密かに心躍らせる光栄であった。
叢雲の間から再び月が現れた。
「赤い月だ」
そう呟いた源満仲は、拳を握り、肩を怒らせて、上空を見上げていた。
僅かに震えているのが分かった。
「不思議なことよ、先日も、今夜と同じように月は滴る血のように赤かった。怨霊がその姿を現す前触れぞ。みな、抜かるな。今度こそ奴めをみごと退治してくれよう」
満仲の声が冷気を震わせた。
「ははっ」
武者たちが身構える。
「何?」
光栄は呟いた。
怨霊とまみえるのは今日が初めてではないのか?。
満仲の言い様から察するに、怨霊は以前にも現れたに違いない。
言葉の端々に、その時、撃ち漏らしたという悔しさがにじみ出ている。
月が天中にあることから、子の正刻を過ぎた頃であろうか。
光栄と満仲、その配下の面々は朱雀門のすぐ脇に屯していた。
朱雀門は、大内裏の正門である。
そこには、天皇の住まいである内裏があり、官僚が儀式や事務を執り行う、大蔵省や宮内省を始めとする八省、つまり。国家の中枢機関が居並ぶ。
朱雀門から南に向かって真っすぐに朱雀大路が伸びて、その先に羅城門がある。
その両脇には東寺と西寺があって都への入り口を固め、災厄の侵入を仏法によって防いでいる。
羅城門を一歩出ると、そこは都の外、魑魅魍魎や土蜘蛛の蠢く所となる。
朱雀大路の左右には家々が軒を連ねているがひっそりとして物音はしない。
いずれも深く息を潜めているのであろうか。
不気味な静けさが霧となって朱雀大路を埋め尽くし、じわりと都を包む。
言の葉に宿る神秘の力が口を衝いて出た途端、そのとおりの災いが起こるのを畏怖するかのように、武士たちは誰もが無言で、ただ固唾を呑み、事態の推移を見守っているようだ。
緊張と重圧が男達の吐く白い息とともに嫌が上にも高まる。
「おや?」
光栄は辺りを見廻して呟く。
蜘蛛丸の姿がいつの間にか消えていた。
「うむ、あいつめ、逃げおったな」
思わず舌打ちをした。
だからと言って蜘蛛丸を責めるつもりはない。
彼ら、下人の置かれた立場が分かっているからである。
危機に陥った時、最初に犠牲になるのは下人などの庶民である。
貴族や武士は、庶民を捨て駒に使うことはあっても、守ろうなどとはまず考えない。
単なる消耗品として扱い、例え、死んだとしても顧みることは無い。
庶民が生きのびる唯一の道は、危険から速やかに逃げ去ること以外にないのである。
そんなことを考えているとき、不意に、どこからか、ざわめきが起こった。
それは、さざ波のように兵士の間に伝播した。
「どうしたのだ」
誰かが囁いた。
屈強な男たちの表情に恐怖の影が見える。
「なんだこの音は」
誰かが、たまらず叫び声を漏らす。
「恐れるな」
満仲の声が響く。
どこからか、女のすすり泣く声がした。
酉の方角からのようだ。
緊張は更に高まる。
すぐ側まで気配が近づくが姿は見えない。
誰もが立ち尽くし、戦々恐々と、薄氷を踏む思いで耳を澄す。
「おおっ」
急に、どよめきの声が弾けた。
それは瑠璃が粉々に砕け散る音に似ていた。
深い闇の中から何かがゆっくりと現れた。
六、武者たちの必死の攻撃
「なに、あれが怨霊か」
闇の中から黒い牛が、続いて牛車が現れたとき、若者は思わず呻いた。
女のすすり泣きに聞こえたのは牛車の車輪の軋む音であった。
「これは、どうしたことだ。長月の十六夜、月影の下で見た、あの牛車ではないか、この俺を魅了した麗人は怨霊であったのか、いやそんなはずはない」
動転した光栄は息を呑み、黙然として立ち尽くす。
その脇を一頭立ての牛車がしずしずと通り過ぎていく。
あの夜と同じように、鼻から白い息を吐いて、牛がじろりと若者を睨みつけたとき、一瞬ではあったが、牛車の中に佇む、懐かしい女性の姿が垣間見えた。
「姫、あなたは何者なのだ」
思わず光栄は呼び掛けていた。
一瞬、麗人は、問いかけに振り返ったように見えたが、返事は無かった。
「現れおったぞ。皆の者、抜かるな、即刻、打ち取れ」
満仲の野太い声が轟いた。
誰かが天に向かって鏑矢を放った。
風を吸った矢は天空でけたたましい悲鳴をあげて冷気を震わせた。
「それ、掛かれ、掛かれ、皆のもの、一気に打ち滅ぼすのだ」
また叫んだ満仲の声を合図に、屈強な男達が太刀を抜き放ち、あるいは槍を構えて、牛車を目がけて次々と突進した。
しかし、どうした訳か、跳ね返された、目に見えぬ壁でもあるのか?
あるいは空中高く舞い上がっては落下した。
何度も襲いかかってはその度に跳ね飛ばされた。
また、ある者は突進するが、牛車をすり抜けて地面に倒れ込む。
牛車には供も同乗者もいない。どうしたことなのだ。
「ええい、何を手間取っておる」
満仲は拳を固く握りしめ、仁王のように肩を怒らせて憤怒の形相で立ち尽くす。
「矢を射かけよ」
満仲が号令する。
武士の一団が満仲のそばで一列になって構え、牛車に向かって一斉に矢を放った。
矢鳴りが風の唸りとなって周囲の家々に響き渡った。
矢は、雨あられのように牛車に降り注いだが、どれ一つ命中すること無く、牛車をすり抜けて空しく地に落ちるばかりであった。
牛車は、揺らめく陽炎の中を行くがごとく、悠々と二条大路を過ぎて行く。
「ええい、これでは埒が明かぬ。だれか、わしに弓を持て」
「ははっ、御館様、これに」
歯軋りをして叫ぶ満仲に兵士の一人が駆け寄って跪き、弓と矢を差し出した。
それを鷲掴むと、満仲は牛車の前に進み出て大きく両手を広げ、道を塞いだ。
「ここは通さぬ」
弓に矢を番えると満月のように引絞って吠えた。
牛車は何事も無かったかのように真っすぐ進んで来る。
「おのれ、怨霊め、我が矢にひれ伏し、迷わず成仏致せ」
放たれた矢は、風を切る音を残して、見事に牛の眉間を射抜いた、かに見えた。
だが、何の手応えもなく空を貫いて、牛車の背後から襲い掛かろうとした兵士の胸板を貫いた。
「ぐわ」
血飛沫をあげて宙に舞う男の断末魔の叫びが響いた。
「うぬ、外道め、逃がすものか」
次の矢を番えようとする満仲の身体を包み込むようにして牛車は通り過ぎた。
牛車と満仲が衝突する音は聞き取れなかった。
まるで、牛車が、満仲の体を飲み込んで、すぐに吐き出したように見えた。
「ううっ」
崩れるように片膝をついて屈み込んだ満仲の顔から血の気が引き、顔面は見る間に蒼白となった。
ゆっくりと崩れるように倒れる姿が月光に照らし出された。
「御館様」
兵士たちが駆け寄って懸命に助け起こそうとしたが、満仲は呼びかけに応えず、体が痙攣をし始めた。
目は落ち窪み、呼吸は荒くなった。
光栄は、二条大路を何事もなかったように悠々と去って行く牛車の後姿を漠とした思いで眺めていた。
七、中将
光栄は嘔吐を催した。
目の前で起こった一連の出来事に奇妙な違和感を覚えて、胃の腑が落ちつかず、胸のあたりに蟠りを覚えたからである。
「なぜなのだ。なぜ、あの女性が怨霊なのだ」
若者には合点が行かなかった。
怨霊とは、激しい遺恨をもって、この世をあるいは人を、呪い続ける邪悪な霊魂ではないか。
こともあろうに、あの麗人がその怨霊であったなどとはどうしても思えない、いや、考えたくない。
「ああ、姫よ、私はあなたを愛おしく思う者、あなたは本当に怨霊なのか」
呟く光栄、だが、強く声に出して叫びたい気持ちは抑えた。
目の前に多くの武者が傷付き倒れている現状を慮ると、大声で叫ぶことは差し控えねばなるまい。
思えば、あの長月の夜、神泉苑で、牛車に出くわしたとき、簾の奥を覗き見て、麗人の立ち姿に心奪われてしまった。
あの美しい女性がこの世に怨みを抱いている?
どんな事情があったのだ。
あの時、怨みに燃えた邪悪な景色は窺えなかった。
むしろ、悲しげな様子で、この俺に助けを求めている様に思えた。
光栄の目には、あの夜と同じように、姫の姿は寂しそうに映った。
気になるのは満仲の言である。
先刻、「先日も、今夜と同じように月は滴る血のように真っ赤であった。怨霊が姿を現す前ぶれぞ」と、彼は言った。
どういう意味なのだ。
もしや、あの夜、神泉苑で牛車に出くわしたのは、満仲の率いる武者が戦いを仕掛けた後であったのか。
だから、牛車がこの二条大路を通ることをあらかじめ知っていて、待ち伏せていたのか?
ならば、姫の乗る牛車は、武士の一団が待ち受けていることを知っていながら、なぜ敢えてこの二条大路を通ったのだ。
もしかしたら、万難を排してでもこの二条大路を通らねばならぬ事情があったのか?
疑問が光栄の頭の中を止めどなく巡る。
「賀茂光栄殿。御館様をお救い下され、この通り伏してお願い申し上げる」
武士の一人が目の前に跪き、狩衣の袖にすがっていることに気付いて、ようやく若者は我に返った。
断ることは許さない、断ればその命、もらい受ける、と武者の目は訴えていた。
「分かった、そなたが言う通り、満仲殿の命を救わねばならぬ。それが、陰陽師であるこの私の仕事であろうな。詮索は後にしよう」
「えっ、詮索と言われましたか?」
「いや、何でもない」
光栄は満仲のもとへ歩み寄った。
「方々、うろたえるではないぞ。誰か、満仲殿をしっかりと支えてはくれぬか」
若き陰陽師の凛とした声が響いた。
兵士たちが素早く駆け寄って満仲を抱き抱えると、すぐさま、光栄は満仲の肩に手を置き、もう一方の手で印を結び呪を唱えた。
彼の身振りは大仰であったが、その所作は、陰陽の術の効果を大いに発揮するための戦略でもあった。
光栄の陰陽の術は未だ、熟達の域に達してはいない、むしろ未熟であると言って良かった。
父、保憲の補佐をするうちに、術の体裁を整えることは出来ても、実質が伴っているかと問われれば、極めて疑わしく、有体に言えば、修行が不足しているのは明白である。
そんな自分の技の未熟さを光栄は百も承知している。
最善を尽くしても、万が一、満仲の命が尽きたとなれば、「役に立たぬ、陰陽師め」と、武士たちが怒りだし、光栄の命は危うくなる。
一方、光栄にとっても、陰陽道の名家と持て囃される賀茂家の嫡男として陰陽の術に失敗する訳にはゆかなかった。
光栄には満仲を蘇生させる自信があった。
なぜなら、光栄の見立てでは、満仲は気を失っているだけのように見えたからである。
「方々、聞かれよ、我の唱える呪に合わせて満仲殿に向けて精魂込めて気を放つのだ。良いか」
そう言うとさらに大仰な身振りをし、声を張り上げた。
賀茂家の祖先が行った陰陽道にまつわる偉業が巷で語り継がれている。
例えば、祖父、賀茂忠行は、真夜中の都大路で鬼に出くわした時、身を隠す秘術を使って、危難を逃れた。
また、父、賀茂保憲は白衣観音の霊力によって、平将門の乱と藤原純友の乱を静める儀式を行った等の話が言い伝えられている。
しかも、父、保憲は、当代随一の陰陽師であって、陰陽寮の長官にまで上り詰めている。
祖父や父の持つ天賦の才が光栄の血中にも、脈々と受け継がれていることを世人は固く信じて疑わない。そのことが術の効果に大いに影響を及ぼす。
誰が行っても効果がある訳ではない。
賀茂家の嫡男が行うという大いなる信頼が術の威力を高めるのである。
結果はすぐに現れた。
満仲の体から邪気らしきものが湯気のように立ち上り、顔に赤みが射して生気が戻ってきた。
満仲の意識が戻るのを見届けて二条大路を見やると、牛車の姿は既に何処かへ消えていた。
「ううっ、者ども、牛車を追え」
苦しい息の下から、呻くように満仲の声が漏れ出た。
「はっ」
武士たちが後を追って走りだそうとした、その時であった。
「もう遅い、無駄なことだ」
近くの屋敷の庭から甲高い声がした。
男たちは立ち止り、その場で片膝をつき、屋敷に向かって頭を垂れた。
声の主の姿が見えないのは生け垣の陰に身を隠しているからであろう。
満仲は跳ねるように起きあがり、生け垣のそばににじり寄った。
生垣の向こうから満仲を叱責する神経質そうな声が漏れ聞こえる。
「申し訳ありませぬ。中将様・・・」
地面に両手を突き、ひれ伏す満仲に罵声は執拗に浴びせ続けられた。
「口ほどにも無い奴め、あれほど自信ありげに嘯きおって。満仲、この仕儀をどう言い繕う・・・」
中将というのは恐らく雇い主なのであろう。
この時代、上級貴族は役人、特に武士を私的に利用することがあった。
勿論、その見返りとして相応の謝礼や政治的な便宜を図った。
一方、暴力を生業とする武士は人前で語ることを憚るいわば裏の仕事を引き受けてその見返りに貴族の庇護を受けた。
武士が政治的に貴族を凌ぐ力を持つに至るのは、平清盛が政治の表舞台に躍り出る平安最末期の保元の乱以降であって、この頃の武士は、貴族の威光に逆らうことはなく従属的に仕えていた。
弱々しくさえ聞こえる小声に平伏し、身を固くして震えている満仲の背中を、光栄は別人を見るような思いで見ていた。。
これが、つい先ほどまで、不遜で傲慢で威風堂々とした態度で屈強な武士たちを手足のように使っていた男の姿なのか。
光栄は苦笑を禁じえなかった。
八、光栄、牛車を追う
もはや、その場に留まる理由はなかった。
若き陰陽師は立ち上がると、牛車の後を追って走り出した。
あの長月の夜も牛車はこの二条大路に現れた。
その目的は何だったのだろうか、確かめたい。
今思うに、物忌みや方違えのためなどでは勿論なかったのであろう。
そしてまた、あの夜の愁いに満ちた濡れたような瞳はこの俺に何を訴えていたのだ。
かの姫と源満仲そして背後に見え隠れする「中将」と呼ばれる人物。
彼等の間に一体何があったのか?
隠れた秘密の臭いが、そこはかとなくするではないか。
思索をめぐらしながら、歩く光栄は、いつの間にか、二条大路から東京極大路に出て南に向かっていた。
鴨川べりに広がる枯れ薄の穂を揺らして、冷たい風が口笛のような音を立てて衣を吹き抜けるばかりで、求める牛車の影はどこにも見当たらなかった。
想いを巡らす光栄の脳裏に、ふっと、父保憲が常に口にする言の葉が浮かんだ。
「心眼を開き、真を見よ。真実の姿は、なかなか目には見えぬものぞ」
弟子たちを集めて講義する際に使う常套句である。
常日ごろ、光栄は、睥睨して昂然と言い放つ父、保徳に反発を覚えていた。
そもそも心眼とは一体何だ、そんなものでこの世を見渡したところで何が分かるというのだ。
真実を見るには、両の眼を大きく見開いて眼前の事象を冷静に観察すれば、それで充分ではないか。
だが、と光栄は考える、成程、今夜の出来事を鑑みるとき、五感の一つである眼に映る事象とは異なったものを洞察するもう一つの眼を以って達観するとき、隠れた因縁が炙り出るのかも知れない。あるいは、それを心眼と呼ぶのか。
地位と権力、それぞれの利害関係、つまり、世俗の垢を洗い流したとき、縺れた因縁が解れ、背後に潜む事実が浮かび上がる。
保徳の教えをすべて受け容れることを良しとする訳ではない。しかし、一理はある。
思えば、あの牛車に、戦いを挑もうなどという意図は見えなかった。
その一方で、満仲と兵士らは有無を言わさぬ必死の攻撃を仕掛けた。
牛車は、待ち伏せを予知していたにも拘らず、敢えて二条大路を進んだ、なぜだ。
二条大路には上皇や親王、更には、上級貴族の屋敷が建ち並んでいる。
もしや、牛車はその屋敷の一つを目指していたのではないか。
源満仲は「中将様」と呼んで平伏したのは「中将」という官職を持つ貴族の屋敷なのか?
そこに、避けては通れない強い因縁が潜んでいるということか。
うむ、そう考えれば、胸につかえた靄靄のような疑問が少しばかり晴れて、胃の腑に落ち付く気がするが、何とも剣呑な匂いがするではないか。
陰陽師の胸中を様々な疑惑が交差する。
怨念という深い恨みを持った魂の匂いを嗅ぎつけた邪鬼という鬼は、瞬く間にその体に取り付き、深い闇に誘うという。
光栄の思う麗人も、恨みを抱えるが故に鬼に囚われているのであろうか。
また、「中将」と呼ばれる貴族と姫との間にはいかなる因縁があるのか。
考えるほど、謎は深まるばかりであった。
月影が清かに東京極大路を照らし、鴨川の流れは変わらず一定の旋律を奏でている。
痩せた野良犬の群れが、風に追われて、小走りに通り過ぎて行く。
その目は光栄を威嚇するように赤く光っていた。
一見したところ、いつもの都の夜の情景であった。
九、四条河原
光栄は歩みを止めた。
路傍の隅の土の跳ねた跡と雑草の乱れが目に留まったからである。
「これは?」
小さく陰陽師は呟いた。
どうやら、牛車の轍の跡らしい。
夜の帳を透かすように辺りを見廻す。
耳を澄ますと口笛のような風の唸りの中に、微かに、鴨の流れの旋律が聞こえる。
「あれは?」
視線の先に、四条河原のなだらかな坂を揺れながら鴨の河原に向かう牛車の姿が見えた。
今の姿ではあるまい、恐らく、一刻ほど前の残像に違いない。
なぜならば、牛車が二条大路を離れてから、かなりの時間が過ぎている。
今頃はもっと遠くまで行っているはずである。
陰陽師の技の一つに、少し前に起こった事象を想い浮かべる秘術があるにはあるが、光栄の技術は未だその域には達していない。
「わざとその姿を見せて、この俺を招き寄せているのか?」
若き陰陽師は、吸い寄せられるように、その後を追っている自分に気が付いた。
「何をしている、牛車の跡を追えば危険に遭遇するぞ、それでも行くのか」
光栄の中で、もう一人の光栄が問い掛ける。
若き陰陽師はしばし悩んだ。
このまま見過ごせば、何事もなく今日が終わり、いつもの日常に戻って、そこに埋没してしまうのだろう。
だが、あの長月の夜に出会った麗人を寔に知る良き機会ではないか、危険と好機は背中合わせ、虎穴に入らずんば虎児を得ずと言う。
神無月の今日、月に誘われて夜の都に迷い出た光栄は彼の姫との思いも寄らぬ邂逅の機会を得た。
満仲とその一味に襲われるという、歪な状況での再会ではあったが、天が、我が想いを聞き入れた証しに違いない。
ならば、かの女性の行く末を見届けねばならないではないか。
ここで引き返すわけにはいかない。
そのような義務感に似た感慨が光栄の中に芽生えていた。
衝動に駆られるように鴨の流れへと続く牛車の轍の跡を辿った。
「もはや、これが、邪悪な怨霊の罠であったとしても構わぬ。とことん付き合ってみよう」
と、光栄は決心した。
牛車の轍は、鴨川を覆い隠さんばかりに繁る枯れ薄の中に消えていた。
陰陽師は薄の原のそばで立ち止まった、奇妙な気が薄の茂みから湧きたって漂っていたからである。
尋常ではない邪悪な気配を感じ取った陰陽師の総身の毛は、じわりと弥立って、自然と足が竦竦む。
「怯むな」
声を出して、自分に言い聞かせる行為、それは、呪といえる。
即ち、内にも外にも意思を明確に示し、覚悟を決める行為なのだ。
十、蛍火
薄の原に足を踏み入れたその途端、風がぴたりと止み、真空の静けさに包まれた。
鴨川の律動が消えて、枯草の臭いが鼻孔をくすぐり、危うく、くしゃみが出そうになった。
同時に針で刺すような気を肌に感じた。
薄と夜の闇が牛車の車輪の軌跡を消していたが、仄かに女性の放つ媚薬の香りが残っていた。
牛車がこの辺りを進んだのは間違いなさそうだった。
「はて、それにしても、もう随分、薄の原を進んだ気がするのだが」
光栄は呟く。
とっくに鴨の流れに行き着いても良い頃であった。
少なくとも、水音は聞こえて来そうなものだが、その兆しはなく、薄の原は益々深く光栄の身を飲み込む。
視界が途切れて暫く経った所為であろうか、方向感覚の鈍化を覚えた陰陽師は呟いた。
「俺は、どこに向かっているのだ」
暗くて何も見えなかった。
「冥界に踏み込みつつあるのか」
危険を感じて立ち止まり、目を薄く閉じ、呪を唱えて智拳印を結んだ。
智拳印とは、大日如来が結ぶ印で、左手の人差し指を右手で握って悟りの境地を体感し、宇宙の中心から、エネルギーを吸収する秘術である。
本来は、密教の術であったが、いつからか、心の平穏を保つ術として陰陽道に取り入れられたものである。
暫くして目を開けた光栄の鼻先に粟粒ほどの紫の灯が一つふわりと浮んでいた。
「蛍か?」
光の粒は若き陰陽師を誘うかのようにゆったりと円を描いていた。
「はて、この光はどこから飛来したのか?」
歩みを止めて左右を見渡した。
月明かりも星の光も、茂った薄に遮られて、内部には届かない。
にも拘らず、先ほどとは打って変わって、奇妙に明るい。
「何かがおかしい」
足を止めた若き陰陽師の肌は、何かの気配を感じ取っていた。
だが、見廻しても、彼の辺りを包んでいるのは枯れ薄の匂いと深い沈黙だけであった。
「誰か居るのか。居るならば姿を見せよ」
試しに呼び掛けてみたが、返事はない。
しばらく間をおいて、何かが弾ける音がした。
目を凝らすと、薄の穂先が揺れて、紫の光がまた一つ飛び立って、ふわりと目の前に浮かんだ。
「やはり蛍か、冬の蛍とは何と優雅な・・」
改めて廻りを見渡して気が付いた。
薄の穂先が、皆、夥しい数の光の粒を帯びている、道理で明るいはずだ。
「薄に鈴なりの光が纏わり付いている。何の験なのだ」
そっと手を伸ばす。
反応するように小さく揺れた穂先から、光の粒が二つ三つ飛び立った。
それが合図であったのだろうか、彼方こなたの薄から、光の粒が一斉に飛び立った。
美しい光景であった。
「春風に舞う花吹雪のようだ。何という鮮やかさ、涅槃を思わせるではないか」
いつか光栄は、妖しく幻想的な夢想の世界にさ迷う心地良さに包まれていた。
悩みや不安、悲しみや苦しみ、憂き世の柵から解き放たれて、恍惚の中に耽溺〈たんでき〉しつつあった。
「うむ、この抵抗し難い誘惑は何だ。もしかしたら、怨霊のなせる業か?」
これは何かの罠かも知れない。
頭の片隅にそんな疑惑が生じた時、光栄の中のもう一人の光栄が、語り掛ける。
「埒も無い、未熟者め、何をしておる」
一つのことに捕らわれて自分を見失いそうな危機に瀕したとき、叱咤(しった〉する声が、天から、地から、あるいは内から聞こえるように陰陽師は修行する。
冷静に自分を見直す為の技である。
どこからか聞こえてくる声に操られて思わぬ事態に陥る心の病もあるが、陰陽師の技はその発声の時と場を自在に制御出来るのである。
「己を見失ってはならぬ」
激しい叱声に漸く夢見心地から醒めた光栄は、改めて光の粒を観察した。
美しく可憐にさえ見える光の粒に隠れた邪悪な意思を見たような気がした。
生まれたての子犬は皆一様に可愛い。
しかし、成長した途端、恐ろしい牙をむいて襲い掛かる猛犬となる。
何れにしても、警戒をするに越したことはない。
そうこうするうちに、光の群れは、ゆっくりと回転をし始めた。
「うむ、蛍ではなかったか。もしや鬼火か?」
回転の速度は次第に速くなり、巨大な渦巻となって動き出した。
身をくねらせて、鱗を起伏させながらとぐろを巻く大蛇の姿となって、光栄に襲い掛かろうとする様相を呈した。
陰陽師は反射的に身構え、太刀の柄に手をかけて、もう一方の手で印を結び、呪を唱えた。
それをあざ笑うかのように眼前で大きく翻った光の群れが薄を押し倒すと、光栄の前に獣道のようなものが現れた。
道の先で、大きな塊となった光の集合体は何かの体を成し始めた。
「牛?」
全貌が現れた時、光栄は思わず唸った。
十一、薄林の怪
「うむ、面妖な」
現れたのは、やはり、あの牛車であった。
黒い牛が、あの時と同じように白い息を吐いて、光栄を睨み付けていた。
おやっ、と思った。
あの時の牛にしては、どこか変だ、という違和感を覚えたからであった。
漸くして、やっと気付いた。
牛の頭から、見覚えのない二つの角が突き出ている。
「長月の夜に出会った時、あのような角は無かったはずだが?」
なぜか、腐肉の匂いが鼻孔を刺激して、光栄は顔をしかめた。
群れ集まった怨霊の臭いか?
それは煉獄の炎の中で地中に蹲っていた牛が牛車と周りの光を飲み込みながら、ゆっくりと立ち上がように見えた。
気付いた時、それは、狩衣を着た巨大な鬼となって上から若き陰陽師を見下していた。
嫌悪を催すほど醜悪なその姿に圧倒された光栄の驚きと恐怖は一通りではなかった。
強い妖気と殺気が刺すように降り注いで、蛇に魅入られた蛙のように、慄然と佇む若き陰陽師の背中を、冷たい汗がどっと流れ落ちて狩衣を湿らした。
身構えて一歩足を踏み出した時、なぜか、つんのめって倒れた。
慌てて起き上がろうとする光栄は何かの力に押し留められて身動き出来ない。
「どうしたのだ」
気が付けば、目の前に無数の骸が転がっていて、空洞の眼がじっと見ている。
「うわあ」
反射的に顔を背け、思わず悲鳴を上げた。
「気をしっかり持って」
自分を鼓舞して立ち上がろうとするが、地中から、あるいは薄の陰から、無数の手が伸びて来て、足と手を掴んでいた。
すっかり色を失った若き陰陽師に為す術などなかった。
そんな時、もう一人の自分の声が肉体の奥底から語り掛けてきた。
「未熟者め、何を恐れておる?」
消え入りそうな意識の中で、若き陰陽師は内なる声に耳を傾けていた。
「思い出せ、お前が反発を覚える父、賀茂保徳の言の葉を。覚えておるか?『心眼を尽くして真を見よ』と言っておったな。悔しかろうがようく慮ってみよ。真実は眼には見えぬと自覚せよ。しっかりせい、未熟者め・・・」
聞くうちに、腹が立って来て思わず叫んだ。
「うるさい」
父、保徳の言葉を持ち出すとは、鼻持ちならなかった。
だが、内なる声に反発するうちに、恐怖心が少しばかり取り除かれていた。
光栄の心に自分の置かれた状況を顧みる余裕が生まれた。
心を落ち着かせるよう呪文を唱えて智拳印を結び、大日如来の加護を乞うた。
東寺で両界曼陀羅を初めて見た時、雷に打たれたような衝撃を受けたことを覚えている。
曼陀羅の中心に大日如来があって、そこに、無限の氣が内蔵されていることがひしと感じ取れた。
真言宗の開祖、空海という僧は稀代の天才であると光栄は舌を巻いた。
光栄のように、恵まれた環境に生まれながら、勉学に身を投ずることを厭い、安逸な日々を貪る輩にも、容易に仏の教えが理解できるよう、巧みに描かれている。
「大日如来、我に力を与えたまえ」
無心に祈った。
未だ恐怖に支配されていた。
だが、心静かに見回せば、手足を掴んでいるのは人の手ではない、枯れ薄が絡まっているだけであることに気付いた。
薄を振り解いて、改めて見渡せば、眼前に広がるのは、寒々とした風景であった。
冷たい風が薄の穂を揺らして吹き抜けて、足元に転がっている髑髏と骨が月光に白く浮き上がって、時折、紫の火が揺らめいていた。
この世に未練を残して身罷った魂は、極楽へも地獄へも行けず、この世と冥土の縁をさ迷うという。
「もしや、この俺は、今、魔界に足を踏み入れているのか?では、あの鬼の姿をした化け物は、一体何だ」
呟きながら上空を見上げた時、唸る風の音と暑さを顔面に感じて、反射的に身を伏せた。
灼熱の炎の塊が頭上を掠め、背後で轟音と共に火焔が弾け散った。
巨大な鬼が上から睨みつけている。
「何ゆえに牛車を追う?」
雷のように響く声と伴に、凄まじい妖気が若き陰陽師の身に降り注いでくる。
鬼はその掌に赤い炎を弄んでいた。
「ええい、返事をせぬか」
鬼の手を離れた火炎が、ごうッという音を伴って向かってきた。
咄嗟に狩衣の袖で防いだ。
腕に激しい衝撃を感じて、陰陽師は二三歩後方に下がった。
気が付けば狩衣の袖が燃え上がっている。
「熱い」
素早く袖を引き千切って傍らに投げ捨てた。
「ふふ、生意気にも避けおったか。だが、今度は逃さぬ」
鬼の雄たけびが轟いた。
足元の髑髏と同じく荒涼たる薄の原に亡骸を曝すのか?
心の奥底から震えが湧き上がって、まさに、死の縁にいることが感じられた。
十二、餓鬼
「何か策は無いか?」
自身に問いかける。だが、彼の中にいるもう一人の彼の声は聞こえてこない。
「先ほどは聞こえたのに、なぜ今度は聞こえない?」
裕福な陰陽師家で甘え育った光栄には、耐え忍ぶという経験はない。
何事につけ、手取り足取り、教えられて、苦も無く、思いは遂げられた。
陰陽道の修行においてもしかりであった。
此の期に及んで、まだ、だれかに頼ろうとしている。
だが、事ここに至って、誰かの助けが得られよう筈もない。
己の才覚で窮地を切り抜ける以外に生き延びる方策はなかった。
だが、光栄は恐怖で凍り付いたように動けなかった。
まさに、絶体絶命の状況にあった。
「どうしてやろうか、先ず己を引き裂いてやろう。血を啜ろうか、肉を食らおうか、それとも、骨をしゃぶってやるか」
雷鳴の如く響く鬼の恫喝に委縮して、光栄の意識は動転の極みにあった。
圧倒的な迫力の前に、自分を完全に見失って、立ち向かう気力は萎えていた。
「なぜ、俺は、もっと、真面目に修行を積んでおかなかったのだろう」
悔やんでも後の祭、助かる見込みは万に一つも無さそうに思えて、ただ、絶望的に逃げまどうばかりであった。
強い熱風を感じた。
気付けば、火の玉がすぐ鼻先に飛来している。
咄嗟に頭を傾けて、間一髪で躱したが、耳先が焼け、髪が焦げて匂った。
精神は恐怖に支配されていたが、身体は勝手に反応していた。
背後で炎が砕け散って、背中に灼熱を感じた時、奇妙な声が聞こえた。
「その柔らかそうな肉を喰らいたい」
振り返ると、三つの影が、這うように、ゆっくりと近づいて来る。
髪の毛が抜け落ち、鋭く目を剥いて光栄の身体を嘗めるように見ている。
ひどく痩せこけて手足は骨が浮き出るほどに細いのだが、腹だけは奇妙に膨れている。
その醜い化け物の姿に背筋が凍るほどぞっとした。
と、その時、その一つが、跳びかかって、光栄の腕にすがり付いた。
鋭い爪が二の腕に食い込んだ。
「痛い、何をする、放せ」
慌てて振り払ったが、腕の肉が削がれて、若者の顔は苦痛に歪んだ。
「うまい、若者の赤き血は甘いぞ、甘露、甘露」
左右に目配せして化け物が笑った。
「何だ、こ奴らは?」
自分では気が付かないが、多分、恐ろしさのあまり、悲鳴を上げたに違いない。
光栄は懸命に逃げた。
「逃げるか、小童。食わせろ、食わせろ、お前の肉を食わせろ、待て待て、逃げても無駄なことよ。そうれ、もうすぐお前の肩に手が届くぞ」
背後から、気味悪い声と息が耳元に届くのを感じながら、薄の間を縫うように走った。
だが、化け物は執拗に追ってくる。
「お前らは何者だ」
叫びながら、太刀を引き抜き、後ろ手に払いながら逃げ続けた。
「危ないじゃないか。わしらは餓鬼じゃ、腹が減ってならぬ、喉が渇いてならぬ、お前の血を呑みたい、お前の肉を喰らいたい。そんな危ないものを振り回さずに、大人しく食われてしまえ、小僧、もう、逃げられぬぞ」
次第に息が切れて足が縺れ始めたと感じた途端、枯れ薄に足を取られた。
倒れ込む光栄に餓鬼どもが襲い掛かってくる。
二転三転と転がった後、素早く起き上がって太刀を振り回すが、餓鬼に取り囲まれて、もう逃げられそうになかった。
「我ら邪鬼は、喰らっても喰らっても、飢えと渇きが治まらぬ。お前の肉を食らわせろ、血を啜らせろ」
光栄は、鋭い牙を剥いた餓鬼に腹や喉を食い千切られる我が身を想像して恐怖に慄いた。
人は、悲惨な現実を受け入れた時、覚悟が生まれるものなのか、もう駄目だと観念したとき、光栄は、漸く自分を冷静に見ることが出来た。
自分は、なぜこの場にいるのか、思い返してみた。
無論、後ろ手に太刀を振り回しながら、疾走しながら。
自分に問いかけて自分で答えていた。
「お前は、なぜここにやってきた?」
「俺は、彼の麗人の真実の姿が知りたくてこの場に足を踏み入れたのだ」
「手向かうこともせず、命果てるまで、ただ怯えているのか。人は誰も例外なく、やがて死ぬ。だが、今、この場で、何も抵抗せずに、懦夫のまま果てて、この世に未練はないのか」
「未練はある。嫌だ、嫌だ、簡単に死んでたまるか」
「ならば、どうしたら良い?」
「このまま逃げ続けても埒はあくまい」
「では、何か思案はあるか?」
「無論、立ち向かうしか道はない」
「そうだ、その通りだ」
若き陰陽師は自分に言い聞かせ、納得したような気になった。
やっと、印を結び、十字を切って精神を集中させる作業を試みる気になった。
「では、どのようにして立ち向かう?俺は陰陽師、弘法大師空海や伝教大師最澄のような聖でもなければ、俵藤太のような天下無双の武者でもない。太刀を弄ぶ術は少々心得てはいるが、この俺が戦いの場で使う武器はそれではない。陰陽の技をおいて他にはあるまい。その術さえ、今までに学ぶ機会は十分に有りながら、迂闊にも磨くことを疎かにして来た。我ながら不甲斐ない、その末路がこの様だ。何一つとして、人に勝るほど練り上げた術はない。だが、この俺の体内には、祖父、賀茂忠行、そして、父、賀茂保徳の血が流れている。何れも天皇や貴族を初め、やんごとなき方々を災いから救い、絶大な信頼を得た高名な陰陽師ではないか。しからば、そのを血を受け継ぐこの俺にも陰陽の術を自在に駆使する力が潜んでいるはずだ」
理屈としては、我田引水の、あるいは、得手勝手なものではあるかもしれないが、何とか自分を奮い立たせようとする試みは、それなりの覚悟と勇気の片鱗を若者の中に醸造しつつあった。
「ひゃあ、危ないじゃないか、何をする」
戦おうと腹を決めて振り向きざまに太刀を突き出した時、餓鬼が、のけ反りざま叫んで倒れた。
手応えがあった。
太刀の切っ先が餓鬼の胸を抉っていた。
餓鬼が仰向けにゆっくりと倒れるのを見るや否や素早く馬乗りになってその突き出た腹を太刀で貫いた。
「ぎゃあ」
断末魔の悲鳴が響いた。
思わぬ展開であったのだろう、残った餓鬼は驚いたように目を見合わせて立ち止まった。
一瞬たじろいだように見えたが、すぐに陰陽師を挟んで左右からじっと睨みつけて、隙を伺っている。
「ふふふ、これでお前の血と肉は、わしら二人だけのもの、ゆっくり喰らってやろうぞ」
左右からじりじりと近づいて来る餓鬼の気迫に押されながら、光栄は、更に腰を深く屈め、馬手に太刀を持ち、弓手に印を結んで構えている。
「それ、行くぞ、小僧」
餓鬼の脅しの言葉にびくんと身構える光栄。
暫く、互いに目配せをしながら小さく獣のような唸り声をあげていたが、突然、
「うきき、怖いか、もうお前はわしらの馳走よ」
と叫んで左右から同時に飛びかかって来る餓鬼に対して、光栄は、呪文を唱えながら、さらに腰を低くして、自分を軸に円を描くようにくるりと一回転して、太刀を振るって薙ぎ払った。
どさりと目の前に落ちた餓鬼が叫んだ。
「わし、一体、どうしたのだ」
と、呻く餓鬼の胴は真っ二つに切り裂かれ、それぞれ、足と手が空を掴む様に蠢いている。
「お前は、この俺に退治されたのだ」
そう言いうと、若き陰陽師は、まだ動いている餓鬼の胸を太刀で串刺しにした。
「うわわ、何ということをする」
最後に残った餓鬼が驚いて悲鳴に近い呻き声を発した。
痩せこけて鋭くむき出た眼には恐怖の色が浮かんでいた。
一人では戦えぬと見たのだろう、餓鬼は翻って跳ねるように逃げ出した。
陰陽師は、間髪を入れず、その後を追った。
「待てい」
左下段から斜め上に向けて太刀を切り上げると、餓鬼の足の一方が千切れて宙に飛んだ。
倒れ込んだと見るや、その腹の上に素早く跨って、その胸を貫かんとした。
餓鬼は悲しげな声で許しを請う。
「許してくだされ、助けてくだされ、どうか、慈悲を持って、見逃してくだされ」
仰向けになったまま、絞り出すように悲しげな声で、光栄に向かって、手を擦り合わせている。
「この俺を、喰らおうと、襲っておきながら、今さら、見苦しい奴め」
「分かってくだされ。我ら餓鬼はいつもひもじくてならぬ。食っても食っても、このひもじさは満たされぬ。どうしようもないのだ。何の因果か知らねども、かく、生まれた悲しみ、可哀そうと情けをかけて、どうか、どうか、許してくだされ」
「なんと勝手な言い草だ、ものを喰らいたいならば、最初から、素直に頼めばよかろうに。懇願すれば食い物を与えたものを、この俺を襲って喰らおうとしたことは、断じて許せぬ」
光栄は、餓鬼の身に生まれた不幸を訴える言葉に、一瞬、同情しかけたが、餓鬼は、懸命に許しを請いながらも、時々、光栄の身体を嘗めるように見る。その目には、隙あらば喰らいたいという気配が見え隠れしていた。
「この俺は大宇宙の真理を極めた聖ではない。従って、大いなる慈悲などは持ち合わせぬ。身の安寧を図り、後日の愁えを断つには、悪いが、その息の根を止めねばならぬ、許せ」
言い終えると、餓鬼の胸板を貫き、続いてその首を刎ねた。
断末魔の悲鳴が悲しく響いた。
辺り一面に、顔をそむけたくなるほど、生臭い匂いが充満した。
十三、遁甲
一連の首尾を上空から覗いていた鬼の雷鳴に似た声が響いた。
「餓鬼どもめ、仕損じおったか。小僧、なかなかやるのう、だが、お前の生殺与奪の権は全て我が掌にある。どれ、その身の始末をつけてやろうか」
言い終わると、腕を振った鬼の手から真っ赤な炎が次々と飛び出して、雨霰の如く光栄の頭上に降り注いだ。
その一つ一つをまさに間一髪で避けながら、若き陰陽師は薄の原を懸命に逃げ惑った。
地獄の炎が狩衣をかすめ、苛烈な熱風が彼の身を襲い、その度に皮膚が焼け焦げるような痛みを感じた。
次第に疲労の色が濃くなって動きは危うく心許なくなった。
「なぜだ、なぜこんな理不尽なことをする。そなたに危害を加えようなど、微塵も思ってはいないものを」
「お前は懸想した」
「なに、懸想だと?」
「そうだ、お前は我が姫に思いを寄せた。身の程知らずめ、覚えがあろう」
「どこに、その証拠がある?」
「証拠だと、このわしが気付かぬと思ったか、この眼でお前の一挙手一投足を見ていた。惚けても無駄だ」
やはりそうであったかと光栄は得心した。
「そなたは、牛車を引いていた、あの牛であったか」
「今頃気付いたか、あの夜、そなたは姫に懸想した。姫はこのわしが、やっと手に入れた玉なのだ。我が宿願を果たすには、匂うようなあの美しさと深い悲しみに秘められた怨念が必要なのだ。我は地獄から遣わされた鬼、今こそ、この世に蔓延る汚濁に塗れた奴原を打ち滅ぼして、我らが支配する怨霊の地とするのだ。それには美しき怨念がどうしても必要なのだ。そして、小童よ、我が姿を見、我が宿望を知ったからには、この世の見納めと心得るが良い」
「待て、待ってくれ、私は確かに彼の姫に心を奪われた。そのことを否定しようとは思わぬ。だからと言って、命を奪うことはなかろう。そなたのことを他人に漏らすことはしない」
「ふふふふ、今さら命乞いをしても遅いわ。先ほど己が吐いた言の葉を憶えておるか。そう、『後日の愁えを絶つためには、そなたの息の根を絶たねばならぬ』のだ。問答無用、さっさと地獄へ行けい」
火炎が前にもまして激しく降り注いで来る。
このままでは、どうやら、この厳しい責め苦から逃げ果せそうもない。
諦めかけた。
だが、陰陽師の体は、その意図とは関わりなく、五感、つまり、視、聴、嗅、味、触を極限状況の中で勝手に作動させて危機を回避していた。
這い蹲って逃げる若き陰陽師の頭の片隅で遁甲という文字が踊っていた。
「ただ、逃げるばかりで、何の抵抗も試みず、むざむざと鬼の餌食になってしまうのは、いかにも口惜しい。ならば、叶わぬまでも、手向かってみよう。試しに、今思いついた、賀茂家に伝わる遁甲の方術でも使ってみるか」
当の光栄でさえ、すっかり忘れていた陰陽道の方術である。
遁甲とは、戦場における兵術の一種でその技の一つが、敵の眼から身を隠す術である。
西暦六〇二年、推古女帝の御代、聖徳太子が摂政の職にあった頃、朝鮮半島の百済から渡来した高僧、観勒によってもたらされたという記録が『日本書紀』に見える。
天智天皇の子、大友皇子と天皇の弟、大海人皇子との間で皇位を巡って争われた「壬申の乱」に於いて大海人皇子は遁甲の方術を自在に使って戦いを勝利に導くと皇位に就いて天武天皇となったと『日本書記』に記述がある。
その方術が、どのような経過を経て賀茂家伝来の秘術となったのか定かではない。
光栄は、遁甲の方術を、祖父、賀茂忠行から学んだ。
忠行は、かつて、京の都で、深夜、鬼と遭遇したとき、遁甲の術をもって身を隠し、鬼をやり過ごして難を逃れたという陰陽道の達人である。
だが、光栄は面倒臭い方術の習得よりも双六や蹴鞠などの遊びを好んだ。
この様な光栄の修行態度を父、保徳は、苦々しく思い、ときに激しく叱責することがあったが、忠行は、父の叱咤に、どこ吹く風と耳を傾けずに修行をなおざりにする孫を厳しく躾けることなく、ただ、目を細めて見守るだけであった。
そんな訳で、光栄の遁甲の術の修行は極めて未熟のままで終わったのである。
今、ここに至って、修業をなおざりにしたことが悔やまれる。
だからといって、修行を全く怠ったという訳ではない。
それなりの呪法は習得していた。
つまり、その作法と体裁だけは何とか整えることが出来た。
ただ、精魂込めて学んだかと問われれば、無論だ、とは言い難く、むしろ御座なりであったと白状せねばなるまい。
だが、若き陰陽師は腹をくくった。
「兎に角、修業で獲得した術の有りっ丈を彼奴めにぶつけてみよう。必死の戦いは何かを生み出すかも知れぬ」
そのように決心したものの、事態を打開する自信などあろうはずもない。
取り敢えず、茂みの奥深く身を伏せて印を結び、呪文を唱えた。
鬼は、獲物を追い詰めた獣のように舌なめずりをして、炎を掌で玩んでいる。
陰陽師は、長い呪文を唱え続けながら何度も十字を切って、さらに強く印を結んだ。
その上で、太刀の柄を握りしめて、戦う準備を整えた。
呪文は冷静沈着に精神を保つための法であり、印を結ぶのは、意識を極限にまで集中させて、自分自身を鼓舞するための法であって、更に、太刀を握るのは、現実に起こる彼我の行動に対処する技に他ならない。
陰陽の術は、いわば、意識を高揚させて信じて行動する方策であって、また、他者の精神に働きかけてその心を支配する術なのである。
だが、頑強な精神を有するもの、あるいはまったく心を有しないものには、まるで方術が通用しない場合もある。
そんな時には、太刀をもって、戦うのみである。
次々と飛来する火炎の雨を避けながら地を這うように薄の間を移動していた陰陽師は呟いた。
「やはり、未熟な技では通用しないのか、ならば仕方がない、叶わぬまでも、一太刀浴びせてやるか」
光栄は半ば自暴自棄になって、次々と飛来する火炎の海に飛び出そうとした。
と、その時、光栄を目がけて来ているはずの火炎の軌跡が微妙に外れていることに気が付いた。
「どうしたことだ」
陰陽師は軽挙妄動に走ろうとする我が身を押し留めて、薄の原に深く身を潜め、鬼の様子を注意深く窺った。
鬼の眼の動きは、先程の自信ありげな様子とは異異なり、明らかに動揺の気配が見えた。
あの眼は、俺の姿を正確に捉えてはいない。焦点がずれているではないか。もしや、遁甲の術が功を奏しているのか?
一縷の光明であった。だが、未だ我が身が危険な状態であることに変わりはなかった。
今ここに至って、何をなすべきなのか?
凝然とこの場に蹲っていても、事態は打開しない、そのうちに発見される。
遁甲の術が鬼を幻惑している隙に局面の転換を図らなければならない。
「反撃に打って出るか」
恐怖と奇妙な居直りの狭間にあって、体内の血液が逆流するような興奮と恍惚を覚えた。
勿論、しくじれば、所在を察知され即座に命を失うだろう。
だが、手をこまねいていれば、やがて鬼の放つ火焔の餌食となり、身を捩りながら焼け焦げてしまう。
「我が命は風前の灯火、ということか、ならば、伸るか反るかやってみるしかあるまい、だめで、もともとではないか」
開き直った光栄は、そっと、太刀の柄に手をかけた。
激しくのどが渇き、頭髪から足のつま先まで、全身が制御できない震えに見舞われていた。
十四、霊魂
震えが漸く治まった時、若き陰陽師の五感は前にもまして、痛いほど研ぎ澄まされていた。
身を伏せ、地を這うように移動しながら敵の様子を窺っていると、鬼の周囲に滞留するものがあることに気が付いた。
「あれは何だ」
鬼の体から何かが噴き出ている。
「怨霊の塊?」
研ぎ澄まされた陰陽師の第六感はそのように感じ取った。
「怨霊の欠片が鬼の体内から噴き出している?」
唸って呟く光栄は、旅の沙門の話を思い出していた。
あるとき、その僧は、光栄の館を何の前触れもなく尋ねて来て、数日、滞在した。
当主保憲は修行中の僧を歓待した。
なぜならば、仏教と陰陽道の呪法の間には、相通ずるものがあるとして、陰陽道の技に仏教の呪法を取り入れる工夫をしていたからである。
その事が窺えるのは、光栄が生まれた頃、関東では平将門の乱、西国では藤原純友の乱、所謂、承平・天慶の乱が勃発した頃のことである。
時の権力者であった、藤原氏の氏の長者、藤原師輔に賀茂忠行、保憲親子は白衣観音法を行うべきことを奏上している。
白衣観音は諸星の母、北斗七星の変身であって、白衣観音陀羅尼を唱えると兵乱は収まり、災禍を祓うとされ、陰陽道的色彩の強いものであった。
かくの如く、陰陽師は仏教の呪法を巧みに取り入れてその技の権威付けを行うことに余念がなかった。
沙門は、旅立ちの前夜、泊めて頂いたお礼にと言って、念仏を唱えた後、旅のまにまに見聞きしたことを話してくれた。
その時、眠い目を擦りながら聞いていた幼い光栄は、身の毛が弥立つ程恐ろしく、また興味の尽きぬ話に聞き入っていたのを思い出した。
その中で、特に印象深く心に残ったのは、地獄からやって来た鬼の話であった。
沙門は時に怪しい眼つきでじろりと皆を見廻し、口元に気味の悪い笑みを浮かべて掌で数珠の音を響かせながら静かに語った。
「娑婆と冥途の狭間には強い怨念を抱いたまま成仏できずにさ迷う霊魂が蠢いておりまう、御存知かな。それら怨霊どもは、誰から見送られることも、祀られることもなく、捨てられ、忘れ去られるのです。その寂しさに霊魂の悲しみは例えようもなく深く、我が身の不幸を呪い、耐えられずに、この世に強い遺恨を抱いて、時には怨霊となって、あるいは、火球となって、夜な夜な現れてはその苦しみを訴えるのでございます。それだけのことならば、どうと言う事もないのですが、京に都がおかれて、はや三百年、もうすぐ末法の世となる昨今、世は乱れ、夜盗は闊歩して庶民は飢えと疫病に苦しめられ、一方で貴族や受領どもはどこまでも貪っております。そこでで御座います。かく世の中が汚辱に塗れた今、地獄から邪鬼と言う鬼がやって来るのです。邪鬼は、迷える霊魂を捕えて喰らい、霊魂が抱く怨念という怨嗟を滋養として成長し、やがて、この世の闇に君臨すると言われております。そして、この世を怨霊の支配する世となすので御座います」
僧はそんな話を残して旅立ったのであった。
「まさに今、眼前に立ちはだかる恐ろしき鬼の姿は、沙門の話にあった邪鬼そのままではないか。それに、あの体から噴き出しているのは、恐らくは霊魂の欠片」
光栄は呟いた。
邪鬼は霊魂を喰らって成長すると沙門は言った。
ならば、その霊魂を解き放てば、邪鬼の威力は削がれるのではないか。
陰陽師は、この恐ろしい鬼の手から逃れる示唆を得たような気がした。
火炎がまた鬼の手を離れ、空気を切るような音を立てて飛来した。
だが、その軌跡は、光栄から大きく外れていた。
それを見て、陰陽師の恐怖は少しばかり薄らいだ。
「確かに、遁甲の術が、効を奏しているようだ」
体内に、少しばかり、力がみなぎってくるのを覚えた。
「小童、諦めて姿を現せ。安心せい、その命、奪いはせぬ」
鬼は、炎を玩びながら猫撫で声を出す。
それが、口先だけのことであり、身を晒せば瞬く間に火焔に焼かれ、黒焦げにされることは百も承知である。
一方で、彼奴は俺の姿を見失って当惑している、あの猫なで声がその証拠だ。
若しかしたら、ここは攻撃を仕掛ける好機なのかも知れない、という考えが若き陰陽師の頭の中を駆け巡った。
だが、決行する踏ん切りは、なかなかつかない。
行動に移そうとする意志とそれを押し留めようとする意志が互いにけん制し合っている。
反撃に転じたとしても、それが十分でなかった場合、あるいは攻撃が失敗に終われば、鬼に所在を知られて、この身は地獄の炎に焼け焦げて屍となり、屍は瞬く間に灰になってしまう。そんな恐怖心が光栄の満身を包み込んでいた。
「彼奴がこの俺の正確な居場所を突き止める前である今なら、この場から一目散に脱出し、何とか逃げ切れるかもしれぬ。どうする?」
と、自分に問いかける。
だが、若き陰陽師は自答する。
「今、逃げだせば、あるいは逃げ果せるかもしれない。だが、それで良いのか、この俺は、何のために牛車の後を追ってきたのだ。今さら、命が惜しいからといって、遁走するのか」
更に問い、そして、答える。
「長月のあの日、夜陰に紛れて現れた牛車が、神無月の今夜、またもや二条大路に忽然と現れた。思いかけず、牛車の中にあの麗人の姿を目撃して、眷恋の情を抑えきれずに、この俺は、牛車の後を追って来た。そこに、勃然と現れた鬼が行く手を遮ったからといって、女々しく引き下がるのか、しかも、逃げ切れるとは限らないというに。否、雄々しく立ち向かってこそ男の子ではないか」
光栄は決心した。
愛しい人のところまで辿り着くには彼奴を凌駕せねばならない。
だが、成長して鬼となった邪鬼を打ち負かす秘策などあろうはずがない。
まして、未熟な光栄の技量では絶望的なほど至難の業であることは明らかである
「さて、この危機を如何にして乗り切れば良いのだ」
光栄は、太刀の柄に手をかけ、印を結び、呪文を唱えた。
十五、一太刀
若き陰陽師は、身を低くして鬼の背後に回り込み、息を潜めて反撃の機を窺う。
後ろから見る鬼の姿には正面ほどの迫力は窺えない。
だが、肩の怒り具合から力のほどが分かる。
正面から立ち向かって何とかなる相手ではなさそうだ。
左右に首を幾度もひねっていることから、光栄の姿を視界に捉えてはいないと思えた。
遁甲の術が功を奏しているうちに、一撃を与え、反応を見てみようというのが陰陽師の唯一の作戦であった。
鬼の行動を暫らく観察した後、ゆっくりと立ちあがり、太刀をすらりと抜き放った。
暫く呼吸が整うのを待って、「えい」という気合とともに、激しく地を蹴った。
体が蹴鞠のように高く宙に飛び上がって、最高点まで達したとき、間髪を入れず、太刀を横へ一文字に払った。
「ぎゃあ」
鬼の発する悲鳴と共に陰陽師の掌には強い衝撃が残った。
つい今しがたまで、とても太刀打ちできる筈も無く、瞬く間に、焼き払われると覚悟していた。
ところがどうだ、太刀の切っ先が相手まで確かに届いたという、手応えがあるではないか。
この手に残る衝撃が如実にそのことを示している。
若き陰陽師はその余韻に浸る間もなく、再び、薄の茂み深く身を潜めて次の手立てを模索する。
振り返った鬼の形相は憤怒に燃えている。
だが、そこに驚きと戸惑い、更に微妙ではあるが、恐怖の色が垣間見える。
「おのれ、小僧」
唸り声が、傷ついた獣のそれのように響いた。
鬼は次々と火焔を投げた。
一撃がどれだけの痛手を鬼に与えたのか分からない。だが、火焔が闇雲に放たれていることから、光栄の影を捕捉できず、狼狽と苛立ちをおぼえているのは明らかであった。
「さて、これからどうする?」
光栄は自分に問い、そして知恵を巡らした。
雨霰のように降り注ぐ火焔の下で、この場は直ぐに焦熱地獄と化すであろう。
だが、この場を逃げ出して体勢を立て直す余裕などありそうもない。
背を向けた途端、遁甲の術の効果は薄れ、狙いを定めた火炎にこの身を撃ち抜かれてしまうであろう。
やはり、逃げずに立ち向かって血路を切り開くほかない、と決心した。
若き陰陽師には、もう一つ、気に掛かることがあった。
ここは鴨川の傍、にも拘らず、どういう訳か、流れの音がしないのはなぜか。
それは、この世と冥府の交わる処に誘い込まれているのではないか、という疑惑が光栄の頭をよぎる。
であるならば、戦いの舞台とするには、冥界を闊歩する鬼に有利、娑婆に住む若き陰陽師にとって不利なのは明らか。
だが、光栄は、気分が高揚し、恍惚とした気分に浸る自分を感じていた。
それは、危機に際し、極度の緊張に見舞われたとき、恐怖を甘美な思いに変えるある種の物質を血中に生み出す何かが人体には潜んでいるからではないか、と陰陽師は考えた。
とはいえ、精神が高揚しても戦いが有利に傾くとは言い切れまい。
思案に耽る若き陰陽師の脳裏に、ふと、麗人の悲しげな面差しが浮かんだ。
「彼の姫に会って、その胸の内が知りたい、という熱い思いに背中を押されて、俺はこの場にやって来た。もう引き返すことは出来ない」
と呟いたとき、若き陰陽師の胸に甘酸っぱいものが込み上げた。
思いを寄せる女性を思う純な心情に突き動かされた若者は、時に蛮勇を振るう。
その心根は大人には分別できない。
青き情熱は、世俗の垢に塗れて、加齢とともにいつか冷める。
だが、光栄は今、青春の只中にあってその身には、若く熱い血が奔流となって流れている。
若き陰陽師は渾身の気を込めて秘かに叫ぶ。
「我が思う人よ、我はあなたの憂いを癒し、その悲しみを歓喜に変えんとするもの。あなたの笑みは、我が勇気とならん。我に力を与えよ」
冷静に考えれば、憧れる麗人が、助けを求めていると感じるのは、光栄の揣摩臆測でしかないのかもしれない。
印を結び、呪を唱えながら、鬼の背後に回った陰陽師は、その背中から、竈に乗せた大きな器から湯気が噴き出すように、何かが漏れ出てるのに気づいた。
「あれは何だ」
思わず呻き声を漏らす。
霊気のほとばしりを強く感じて体が痺れた。
あの噴き出るのは、霊魂の欠片なのか?
鬼の中に閉じ込められた霊魂があまりにも犇めいて窮屈さを覚え、解き放たれることを望んでいるのではないか。
中にひときわ赤く輝く光源を見つけた時、陰陽師は息を呑んだ。
「あれは、懊悩する姫の意志、怨嗟に苦しむうちに邪鬼に取らまえられ、身動きできなくなった姫の心の叫びではないか」
まるで、絶望の蔓延する闇の世界に小さな希望の灯を掲げて舞う可憐な蝶のように見えた。愛おしかった。
やはり、この俺に助けを求めているという、確信めいたものを覚えた光栄の胸は震えた。
「姫よ、今こそそなたを助けるため、命をかけよう」
若者は、叫び、渾身の力で地を蹴った。
鳥になったように体がふわりと宙高く舞い上がったのを感じた。
そして、右から左へ袈裟懸けに太刀を振り下ろした。
「ぐわ」
鬼の悲鳴がして、光栄の掌に衝撃が走った。
またしても確かな手応えがあった。
振り返って光栄の気配を探す鬼の目は怒りに燃えていた。
「ふん、蚊に刺された程にしか感じぬわ。だが、もう許せぬ、そのままには捨て置かぬぞ、小僧。卑怯者め姿を見せい」
怒りに任せた咆哮が響き渡って、薄の原が一しきり揺れた。
卑怯だとか正々堂々だとか言ってはおれぬ、生き延びるには、勝たねばならない。
鬼に、苛ついた様子、つまり、心の動揺が見える。
畢竟、遁甲の術が功を奏しているの証拠である。
僅かだが、幾つかの有利な材料が見えたことは、若き陰陽師を大いに勇気付けた。
薄の原の陰深く身を潜め、火炎の反撃を避けながら、次の攻撃の機会を模索する。
同時に、陰陽師は、慎ましく輝く紅の光に向かって、気を送り、懸命に話しかける。
「姫よ、心を解き放って我が問いに答えよ」
気という文字は、古くは氣と書き、古代中国では配給米という意味があった。
それは活力の源という謂いである。
気には、発する者の強い念が込められている。
「煉獄の苦しみの中から、この俺に向けて必死に呼びかけているその思いに応えるには、どうすれば良い」
なぜか、陰陽師の脳裏に浮かんだのは、易という占いの法であった。
十六、哀しき獣霊
易は、乾、兌、離、震、巽、坎、艮、坤という八卦を操る。
乾は天、兌は沢、離は火、震は雷、巽は風、坎は水、艮は山、坤は地という自然界の事象を表し、それぞれが持つ性情の組み合わせによって決まる吉兆を占う。
「なに、易だと?」
光栄は自らに問い質す。
なぜこの緊急時に占いなどという悠長な法が脳裏に浮かんだのか解せなかったが、考えようによっては、思案が手詰まりであるいま、起死回生の方策を考え付くことが出来ないとなると、何でも良い、心に浮かんだものを試してみる、これもまた一興、と妙な納得をした。
若き陰陽師は、印を結んで八卦をみる。
八卦は頭の中でぐるぐると回転を始め、次第に二つの文字に収斂した。
それは、乾と坤であった。
「どういう意味だ?」
暫く考えた末、心に浮かんだ言葉は、乾坤一擲であった。
「乾坤一擲?つまり、伸るか反るかあるいは一か八かやってみよ、という言うことか、いや、待てよ、それとも、乾坤一擲は避けよ、軽挙妄動は慎めということか」
若き陰陽師は大いに悩んだ。
一般的に、陰陽師は、八卦によって運気をみるに当たり、まず、依頼者を注意深く観察した上で巧みにその心裡を探り、過去を言い当てて驚かせ、心酔させることから始める。
過去は、相談者から聞き取ったこと、あるいは事前の調査から推し測る。
相談者は陰陽師の霊力によって過去を言い当てられたと信じ込み、その尋常ならぬ力に畏敬の念を抱く。
後は簡単である、未来に待ち受ける災厄を回避する方法を厳かに伝授すれば、相談者は、一も二も無く信用し、喜んで高額の見料を支払うのである。
光栄は、そのやりようを時に苦々しく思うこともあったが、同時に心の迷いを拭い去り、生きる希望と自信を齎す効果があることも認めていた。
あながち悪いとばかりは言えず、要は、その占法を悪用するか善用するかにあった。
易が示した方策は、鬼との問答を重ねて解決の糸口を探せということなのだろう。
若き陰陽師はそのように理解した。
果してそのような卑近なやり方で事が上手く運ぶとは思えないが、かと言って、他に思いつく方策もない。
鬼に声を掛けた途端、潜むところを悟られ、火焔を撃たれて命を失うかもしれないが、乾坤一擲、先ずは試してみよう、と腹をくくった。
「私は、そなたに危害を加えるものではない。どうだ、先ず話を聞いてはくれぬか」
鬼に向かって、話しかけた。
畢竟、それは姫に向かって放つ言葉でもあった。
薄の茂み深く身を伏せたままであることは言うまでもない。
声が上擦っているのが自分でも分かる。
小さく呪を唱えて心の乱れを抑えようとするがなかなか収まらない。
兎に角、全身全霊で祈る。
「姫よ、我が思いを、受け止めよ」
強く願いを込めた気が彼女に届くかどうか確信は持てない。
だが、暫く経ったとき、鬼のそばで紅の灯が明滅するのが見えた。
その刹那、足先からつむじにかけて、雷電のように衝撃が走り抜け、光栄は思わず叫んだ。
「今すぐそこに飛んで行って、その悲しみと苦しみを伴にしようぞ。あなたのためなら、この命、打ち捨てても構わぬ」
五体を熱き血が駆け巡って切なく甘美な思いがその身を包んだ。
「おのれ、そこか」
ふりかえった鬼が目を吊り上げ、辺りを見回して唸る。
放たれた火焔が光栄の足元で破裂して薄を焦がした。
低い唸り声が聞こえた。
放たれた火焔に乗って何かがやって来たらしい。
唸り声は一つではない。
陰陽師は、薄の根元に低く身を屈めて、辺りを注意深く見渡した。
薄暗い、薄の原の中に、めらめらと光り、蠢くものが見えた。
「眼か?」
「ぐるるる」
また、小さな唸り声が聞こえた。
唸り声と共に、光栄に向かって光る眼がじりじりと近づいて来る。
影は四つであった。
「野犬か?」
光る眼は陰陽師の影を捉えきれないのだろう、喉と鼻を鳴らして匂いを嗅いでいる。
それが犬の霊魂であることを陰陽師の第六感は感じ取った。
なぜならば、印を結んだ若き陰陽師の瞼の裏に、痛ましい死を迎える、生前の犬の姿が映ったからである。
骨が浮き出るほどに痩せ細った犬が四匹、棍棒を持った屈強な男たちに取り巻かれている。
犬は、尻尾を巻いて、震えながら哀願の目で男たちを見上げていた。
魚を口にくわえている。
「畜生めらが、この俺の食い物を盗むなど、許せぬ」
男が叫んだ。
「殺せ、殺せ」
取り囲む男らがはやし立てる。
「桂女から買い求めた鮎をかっさらいおって、ええい、この外道めらが」
男は棒を振り上げて怒鳴り散らす。
「殺せ殺せ、やってしまえ」
見物していた周りの面々も興奮して叫び声を荒げる。
「助けて、助けて、ひもじくてたまらず、つい、魚の匂いに引かれて食い付いた。悪うございました、助けてください、お願いだ、生きたい、死にたくない」
嗚咽して哀願する犬の声が陰陽師には聞こえた。
だが、男たちのたくましい腕が、容赦なく棍棒を次々に振り下ろした。
犬の頭は次々と砕かれ、手足が痙攣して宙を掻いている。
「死にたくない、もっと生きたい、人間どもめ、ああ、恨めしい。おのれ、おのれ」
激しい呪いの呻きを漏らしながら息絶えた野犬の怨霊が屍から黒煙となって立ち上っていった。怨嗟の声が陰陽師の耳の中で響いている。
「ぐるるるる」
光る瞳がじわりと光栄の匂いを求めて近づいて来る。
鼻を鳴らして近づいて来る犬どもが霊魂となった経緯を知れば同情を禁じ得ない。
だが、降りかかる火の粉は払わねばなるまい、と陰陽師は自分に言い聞かせる。
太刀の柄をそっと握り、呪を唱えて卍を切った。怨霊を成敗する力を太刀に込める儀式である。
その時、陰陽師は小さなミスを犯した。
「しまった」
不覚にも、足元の小さな木片を踏みつけてしまったのだ。
踏み割った音がしたとき、怨霊の燃える目が光栄に向けられ、爛爛と輝いた。
激しく牙を剥きだして四頭の野犬の霊がじわじわとにじり寄ってくる。
「うおー」
唸り声を発して剥きだした牙が一斉に襲い掛かって来た。
辛うじて体を躱し、黒い影に向かって切り結ぶ光栄の太刀が闇の中で二度三度と光を放つ。
呪を唱え、気を込めた太刀は二匹の犬の胴を裂いて腸を抉りだすと、更に一匹の犬の霊魂の頭を絶ち割った。
断末魔の悲鳴を発して悶絶する犬の怨霊の姿が若き陰陽師の前で蠢いていた。
「冥土に迷わず、浄土へ向かえ」
悲惨な境涯を思うとき、憐憫の情が、自然に光栄の口をついて出る。
最後の一匹に向けて太刀を振り下ろそうとしたとき、鬼の放った火焔が飛んできた。
思わず怯んだ。
気付くと、犬の霊は姿を晦ましていた。
「怨霊どもめ、頼りにならぬ奴らだ」
上から覗き込んでいた鬼の顔は歪み、いきり立って光栄の影を探している。
又しても火炎を礫のように飛ばした。
だが、炎の軌跡は相も変わらず闇雲であった。
鬼の形相に戸惑いと混乱が読み取れた。
「奴は、この俺の姿が見えていない」
遁甲の術が功を奏しているという手応えに、若き陰陽師は密に留飲を下げた。
鬼が苛立っている今こそ、付け込む隙はあるという確信めいたものが芽生えていた。
十七、鬼との対峙
光栄と鬼との間合いは三間ばかり、思い切って、鬼に話しかけてみようか、さすれば、新しい手掛りを掴めるかも知れない。
声を発すれば、こちらの居場所が知られてしまうだろうが、今こそ、姫のことを探り出す良き機会なのだ、恐れてばかりいては先に進めない。
「そなたは、そもそも、何者か」
試しに、薄の陰から声を掛けてみた。
こちらの問いかけにうまく乗って来るかどうか半信半疑であったが、すぐに返事が返ってきたのは驚きであった。
「ふふ、我に素性を聞くか。我は鬼、六道輪廻を旅する者、腐りきったこの濁世を、お前ら虫けら同然の人間どもから奪い返し、怨霊の闊歩する世とするために地獄からやって来たのだ」
鬼は話しながらも光栄の影を求めて鋭いまなざしを薄の原に注いでいる。
「その鬼がなぜ、姫の魂を捕えて虜にする?」
陰陽師の作戦は当たり前のことを当たり前のように聞き質し、先ずは相手の反応を見ることにあった。
「分からぬか、痴れ者め。人を信じ、心から尽くして裏切られ、何もかも奪われた魂は、強い遺恨に満ちておる。怨念を晴らすには、我ら鬼に頼る以外に道は無いのだ。人間界には救いの手を差し伸べるものは誰もおらぬ。お前如き青二才に怨霊どもの怨嗟の嗚咽は分かるまい。権力をかさに、弱きものの生き血を啜り、欲しいままに貪る輩を滅ぼし、我ら鬼が差配し、秩序ある世を具現するのだ。良いか、邪魔をするでないぞ」
鬼の言い分は、一見、筋が通っているように聞こえる。
確かに、特権階級は、弱き者を貪欲に搾取した後、塵芥のように捨て去る。
虐げられた末に生を全う出来なかった亡者の遺恨は成仏出来ず、怨霊となってこの世と冥界の狭間をさ迷っている。
だが、良く聞けば、鬼の目的は、そ奴らに代わって、この世を鬼の支配する処にしようと目論んでいるだけであって、その理屈は正に我田引水にしか聞こえない。
「そなたの言い分は分かった。もっと話を聞きたい。危害を加えぬと約束すれば、姿を現すが如何か」
吉凶を占う易の達人である陰陽師が最も得意とするのは話術である。
言の葉を、舌先で上手に転がして心理を読み、深層に潜む因縁に肉薄する作業は、名人である祖父、忠行や父、保憲には及ばぬものの、光栄の得手とするところである。
秘密はそれ自体、明らかになることを望んでいる。
それが、抱える秘密の重みに耐えきれず、洩らしたいという誘惑に駆られる所以なのだ。
ここだけの話だが、という枕詞に誘引されて明かされる秘密は多い。
一方で、秘密は厳に守られなければならないという縛り、云わば呪が掛けられている。
その縛りを解くために、陰陽師は、流暢に言霊を口先に乗せて、相手を納得させる術を学ぶのである。
この時代、美しい言語、心を打つ言葉は、貴族など、一握りの教養人にしか操れなかった。
「小童、安心せい、生かしておいてやろうぞ、大人しくその姿を見せれば、何もせぬ」
そう言う鬼の掌には火焔が準備されている。
不用意に身を晒せば、即座に火球に打たれ、命を危うくするのは明らかだが、
「虎穴に入らずんば虎子を得ず」
と、呟き、鬼の心裡に飛び込む覚悟を決めた。
「小僧、何か言ったか?」
醜悪な鬼の形相が陰陽師の影を目で追っている。
眼球から邪悪な霊威が放たれて、光栄は激しい胸苦しさを覚えて咽た。
脅せば誰もがその威に平伏して懦夫となると思い上がっている。
だが、俺は負けぬと、気を引き締め、印を結び、心の波紋を静めた。
姫の魂が鬼の掌にある間、状況は鬼に有利である。
だが、眼、耳、鼻、舌、身の五感を研ぎ澄まして鬼の話に耳を傾ければ、言葉の端々から思う人の息吹を嗅ぎ分けることが出来るに違いない。
「もう一度そなたに問う、なぜ姫の心を弄ぶ、もう、十分であろう、自由にして差し上げてはどうか」
「それはならぬ」
その言には強い苛立ちが感じ取れた。
陰陽師は、鬼の周辺に漂う霊魂の群れに目を転じた。
紅の灯が前よりも大きさを増して輝いている。
姫は俺の助けを待っている、という確信が光栄の中で膨らんだ。
陰陽師は鬼に問う。
「姫はそなたの束縛から解放されたいと願っているのではないか?」
「何を拉致もないことを。姫の悲しみと遺恨は深く蟠って、その強い怨嗟が我が力の糧となっておる。お前などが口を差し挟むことではないわ」
遂に陰陽師は姫の魂に直接話しかけることを試みた。
「姫よ、しっかり聞いてくれ、我はあなたを愛しく想う者。あなたを救うためにこの場にやって来た者、渾身の力を振り絞った我が言の葉を心して聞け」
言霊を発すると同時に滅する光に向かって強い念を送った。
「愚か者めが、我が中にある怨霊にお前の言葉などが容易く届くはずはない、無駄なことと知れ」
瞬間、妖怪の目が光栄に向けられた。
声の出所から、身の所在を知られたと察知した陰陽師は、音を立てぬように素早く移動した。
案の定、妖怪の手から火焔が発せられた。
間一髪、身を翻したとき肩先に強い熱風を感じた。
背後で噴煙が立ち上り、爆発音が耳を劈く。
陰陽師は鬼の背後に回り込んで太刀を下から上に向かって切り上げた。
「ぐわっ」
またも手ごたえがあった。
獲物を追い詰めた獣が反撃を喰らって、自分を見失っている感触を得た。
一瞬ではあったが、哀願する表情が窺えた。
だが、悲哀を誘う面相に騙されてはならない。
人間の持つ憐憫の情を引き出し、矛先を鈍らせ、戦いを有利に導く戦術として古から用いられているからだ。
油断は禁物であるが、何れにせよ、今、反撃の好機が訪れている。
十八、麗人の声と死の影
「姫よ、そなたの名が知りたい」
陰陽師は熱き思いを抑えて冷静に話しかける。
名前を聞き出せば、それを冠する人物が内蔵する情報を得ることが出来る。
「ふふ、我に名を聞くか。我は邪鬼、人の心を喰らう鬼・・・」
「そなたに訪ねてはおらぬ、姫に問うておる」
「未熟者め、まだ分からぬか、我と姫とは一心同体、我が姫であり、姫が我であるのだ。最早、元には戻れぬ」
何ということだ、鬼と姫が既に一つだとなれば、鬼を討てば姫も傷つくということか。
ことの深刻さは抜き差しならぬところにある、どうしたら良いのだ。
呪を唱えて千々に乱れる心を鎮めようとするが、動揺は治まらない。
想いを巡らすが見当はつかない、問答の経緯を踏まえて、方策を思案する外なかった。
「姫よ、御身に、一体、何があった?胸中の苦しみを我に向かって吐き出して見よ」
「ああ、なにもかもが恨めしい」
姫の苦しみと怨嗟の声が聞こえた気がした。
同時に、柔らかな胸に触れたような切なさを感じた。。
「悲しみと苦しみがいかほどのものか、そなたの思いの糸車、私にその縺れを解させてはくれぬか」
陰陽師は畳みかける。
「なにを小賢しい。お前ごとき若造に何が出来る」
猛り狂った鬼の声がする。
「姫よ、邪鬼の言葉に惑わず、この私に何ができるか試せば良い」
暫く無言の時が過ぎる。
鬼と姫との間に意識の差が生じて魂の鬩ぎあいが始まった兆しか?
「よかろう、ならば、先ずお前の名を聞こうか」
予期せぬ問いかけに、光栄は、はたと困った。
名を名乗れば陰陽師であることを悟られる。
だが、名乗らねば疑念を抱かせ、信用されない。
少なくとも、誠意をもって相対するという姿勢を示さねばならない。
光栄は姓名を明らかにする覚悟を決めた。
「我が名は賀茂光栄」
「なに、賀茂とな。さては、あの賀茂保憲の小倅か」
「いかにも」
鬼の総身から激怒の気が炎のように立ち上った。
「謀りおったな、我を陰陽の術で討ち果しに来たか」
「騙してはおらぬ、この場にいるのは偶然のこと、気を静めよ」
「黙れ、姿が見えぬのは陰陽の術の所為か、小面憎い奴め」
名乗れば、激昂すると、予見できた。
身の安全を図りつつ、いかにして鬼の気を鎮めるか、思案のしどころだが、身を晒すことはこの上なく危うい。
若き陰陽師の脳裏に様々な案が浮かんでは消えた。
思い切った策を講じて戦おうとする意志と、しくじりを恐れて逡巡する心が交互に顔を出して光栄を惑わす。
決断を下すべきときに躊躇する性癖は生まれついてのもの、今まで幾度も正そうとしたが出来なかった。
その軟弱な精神がこの期に及んで改善されるかといえば、そんな奇跡が起ころうはずもない。
ただ、今は左手の人差し指を右手で強く握り印を結び無念無想の境地に入る陰陽師。
漸く、心身の落ち着きを取り戻して客観的に状況を読む余裕が生まれた。
「少なくとも、奴に俺の姿は見えていない。弱気の虫に取り憑かれているこの心を知るまい。一方で、こちらには奴の様子が手に取るように観察できる。冷静に考えれば、此方が優位な立場にあることは明らかではないか、あるいは、この戦い、勝機があるかもしれぬぞ」
自分に言い聞かせるうちに、波打つ心の動揺が収まり、青白い光栄の頬に赤みが射した。
そんな時であった。
「我に何ようか?光栄」
突然、鈴を振るような、心地良い響きが若き陰陽師の耳に届いた。
紛れもない、長月のあの夜の麗人の声であった。
虚を突かれた若者の心は大きく揺れた。
「しまった」
心の動揺は一瞬であったが、遁甲の術に僅かな亀裂が生じた。
油断をしたという自覚はない。心の乱れを立て直す作業が少し遅れただけであった。
「小童め、見つけたぞ、そこだ」
声と共に、すっと伸びてきた逞しい手が光栄の首をむんずと掴んだ。
不覚であった。鋼のごとき硬い爪が首筋に食い込んだとき、恐怖は光栄の中で沸騰した。
「わっはは、捕えたぞ、苦しめ。その骨を粉々に砕き、肉を喰らってやろうぞ」
勝ち誇った鬼の哄笑が響き渡る。
気道を塞がれて喘ぐ光栄の手が二度三度と空しく空を掻いた。
「私の話を聞け」
苦しい息の下から哀願するように呼びかける光栄を、若木を引き抜くようにぐいと宙に持ち上げて、勝ち誇って睨みつけ、さらに強い握力で首を絞めつける。
頸椎が音を立てて軋み、塞れた気道が草笛のように呻吟の声を漏らしている。
景色が霞み、体から気力が剥げ落ちて、目の前に、暗い死の淵が迫って来た。
冥府に赴く恐怖と不安が波のように押し寄せる一方で、甘美で痺れる感覚がその身を包んでいた。
「おれは精一杯戦った。もう良い、すっかり疲れてしまった、俺が死んでも悲しむ者は誰もいまい。これでつらいこの世の柵解き放たれてやっと楽になれる」
そんな、安堵感ともとれる思いに満たされ、来し方が、さながら、回り灯籠のように脳裏に浮かんでは消えて行った。
痛哭の涙を流す母御前の姿が瞼に浮かんだが、その表情は空疎であった。
「何を、埒も無く納得しているのだ。この世は所詮、修行の場、苦難に溢れている。されば、生きるのは辛く、死ぬは容易い。だが、心せよ、病や事故で或は彼の野犬の如く、生きたくとも生きられぬ命があるのだ。不憫と思わぬか。陰陽師であるそなたは、この世の理不尽に苦しむ命を癒すために生を受けたもの。さりながら、安逸な死を選ぶとは、何たる裏切り、卑怯者めが恥を知れ」
想いも寄らず、光栄の意識の中にもう一人の光栄が不意に現れて檄を飛ばしたとき、陰陽師は夢からさめたような気分になった。
「うむ、往生際悪く、じたばたしてみるか。己の魂を闊達に活動させ、霊魂と感応、あるいは、感化して心理作戦を挑んでみよう。邪鬼に支配されて鬼の中で蠢く霊魂を混沌へと導くのだ」
と自分に言い聞かせる。
薄れる意識を引き戻し、小さな光に向かって印を結び、懸命に気を送った。
術が功を奏する前に息絶えてしまったとして、それも運命、ここで始末をつけようと覚悟を決めた。
邪鬼は怨念を抱く人間や動物の霊魂を集め、そこに秘めた憎悪を滋養とし、巨大な鬼となって、この世を破滅に導き、魑魅魍魎の支配する処とすることを目論んでいる。
あの迫力は、集めた霊魂の怨念を力に変えているからに他ならない。
はて、怨霊は皆、それで良いと思っているのか、いや、そうとばかりは言えまい。
そろそろ、鬼の束縛から自由になりたいと望んでいる霊魂はきっといる。
我が思う麗人が赤き火を灯してこの俺に訴えているではないか、と思ったその刹那、紅の灯が眩く朝日のごとく輝いた。
一瞬、鬼の顔が歪んだように見えた時、その手の握力に僅かな緩みが生じた。
「好機」
紫電一閃、抜き放った太刀は鬼の腕を斬り裂いていた。
「ぐわっ」
天を劈く唸り声が響いて光栄の身体は薄の原に落ちて転がった。
鬼の腕は猶も光栄の首を掴んでいた。
素早く腕を引き剥がして投げ捨てると薄の茂みに潜り込んだ。
鬼はもう一方の手で、切り取られた腕を探して薄の茂みをまさぐっている。
その時、その眼に飛び込んだ光景の凄まじさに思わず光栄は後ずさりした。
「犬・・なに、犬の霊魂か?」
先程姿を晦ました野犬の霊が激しい唸り声で威嚇し、鬼の手に齧り付いている。
「我が手を喰らうとは。ええい、この外道め、離さぬか」
鬼は、屈強なもう一方の腕でむんずと犬を掴んだ。
「がるるる」
なおも、鬼を睨みつけ、渇いた咽喉を潤すように貪り続けた。
鬼は犬の霊を頭上高く持ち上げて激しく地面にたたきつけ、巨大な足で踏みつけた。
「ぎゃいん」
断末魔の叫びをあげて犬霊は砕け散った。
「おのれ、よくも我が腕を切り落としおったな」
光栄に向き直った鬼は猛々しく吠えた。
だが、賀茂光栄と言う若き陰陽師が思いのほか卓越した技を使うことに驚愕してか、すぐに襲い掛かる気配はない。
情勢は自分に優位に傾きつつあるかも知れないという僅かな希望に後押しされて、陰陽師は静かに語り掛ける。
「そのように猛らず、先ずは、我が言の葉を聞け」
鬼は目を剥いて火炎を投げる機会を窺っていた。
十九、麗人の生い立ち
陰陽師はかまわず語りかける。
畢竟、それは鬼に捉えられた麗人に言霊を届ける試みであった。
「あなたの名が知りたい」
名を聞き出すのは陰陽師が仕掛ける巧妙な呪である。
先刻は名を聞かれて狼狽えた。
今度は光栄が名を聞きだす番である。
名を聞けば敵の素性を知ることが出来、素性を知れば、その弱点を知ることが出来る。
その上で、己の力量を考慮すれば、「百戦危うからず」なのだ。
人はそれを、孫子の兵法と呼ぶ。
捉えられた怨霊のそれぞれが辛い過去を引きずり、晴らすことの出来ない怨みに苦しんでいる。
鬼はその怨嗟を力に変えて、この世を滅ぼそうと目論んでいる。
怨みの源を聞けば、苦しみを癒す手掛かりに行き着くかもしれない。
苦しみを癒せれば事態を大きく変える何かが起こるのではないか。
「今一度聞く、そなたの名は何というか、また、何ゆえ鬼に捕らわれた」
「相手になるではない」
会話を遮る鬼の声が響く。
「いや、聞いてみたい」
と答える声がした。
しばらく重苦しい静けさが流れた。
「我の名、我の名とな」
くぐもった声がした。
「うう、分からぬ。なぜだ、なぜ我が名が思い出せぬ」
その身に起こった健忘という現象に初めて気付いて戸惑っている。
仕掛けた呪が功を奏し始めた兆しと捉えた陰陽師はここぞとばかりに語りかける。
「急がずゆるりと思い出すがよい」
鬼に捕えられた魂は、邪悪な垢に染まり、腐食し、過去を忘れ去る。
思い出そうとすれば激痛を伴う。
だが、苦痛を耐え忍ばなければ、善良な魂を取り戻すことは叶わない。
「鬼は薄の原に迷い込んだ輩の肉を引きちぎり、骨を砕いて喰らった。その血肉は鬼の中の我にも届いた。肉は甘露、血は美酒のように咽喉を潤し、我は恍惚となった。だが、その度に記憶を失っていたとは思いもよらなかった。ああ、自分の出自を思い出せない。我はいったい何者なのだ」
鬼の形相に、苦悩する姫の姿が垣間見える気がした。
陰陽師は懈怠なく鬼の表情を観察した。
「過去を思い煩ってはならぬ。そこにあるのは悔しき遺恨だけではないか。我らは弱き者を虐げ、生き血を貪る奴め等を打ち滅ぼしてこの世の八紘まで我ら異界のものが支配する処とするのだ。その時こそが甘美の極みではないか。陰陽師ごときの策に乗るでないぞ」
魂の鬩ぎ合いがいよいよ大詰めに至ろうとしている、と若き陰陽師は確信した。
姫は漸く自分が何者なのかを考え始め、鬼という邪悪な霊の呪縛から我が身を解き放とうとし始めた。
「あなたは無垢な心と麗しい姿という優れた資質を持ってこの世に生を受けた。いつまでも邪悪な鬼の支配に甘んじてはならぬ」
呼びかける光栄の言葉を遮り、激しく叱責する鬼の声が響く。
「陰陽師の口車に乗ってはならぬぞ、恨みを忘れたか、そなたを怨嗟で苦しめる輩への恨みを晴らすのだ。我らと共にこの世の支配者どもを滅ぼすと誓ったことを忘れたか。殺せ、陰陽師を殺すのだ」
鬼は動転している。
悪夢から目覚めようとする姫の魂を激しく叱責するのがその証であろう。
陰陽師は印を結び、姫に向かって叫ぶ。
「この私が必ずそなたを救い出す。迷わず勇気を持って踏み出すのだ」
光栄は全霊を傾けて愛しい人に語り掛け、強く念を送り続ける。
「思い出したぞ。我は貧しさに耐えて生き、あの方を心から信じて愛した。そして裏切られた。ああ、狂おしく、愛しく、憎い」
あの長月の夜に聞いた懐かしい声だと感じた光栄は、間髪を置かず叫ぶ。
「いま、この私は全霊を傾けてあなたの話を聞いている。心に蟠っている何もかも全てを吐き出すが良い」
いよいよ正念場が訪れたと陰陽師は感知した。
「もうすぐ、人の心をなくし、身も心も鬼となる。どうしたら良い?」
陰陽師の瞼に、騙され、弄ばれてぼろ切れのように捨てられて嗚咽する白い顔が浮かぶ。
怨嗟の気配を嗅ぎつけた邪鬼は甘い言葉で近づき、魔手を伸ばして搦め捕る。
逃れようとしたときは既に遅く、蟻地獄のように、怨念の深みに引きずり込まてしまう。
今、姫はその地獄から逃れようとしている。
何としても救ってあげたい。
光栄の頬を涙が零れ落ちた。
陰陽師は如何なる状況に陥っても激情に流されてはならない。
だが、流す涙は、恋しい人を思う若者の熱き血潮のなせる業なのだ、押し留めることは出来ない。
「私は、あなたのために、もてる技のすべてを傾けよう。三万六千神を呼び出して祈り、泰山府君に訴えよう」
三万六千神とは、森羅万象にある八百万の神々で、泰山府君は人間の寿命をつかさどる冥府の王である。
思わず口をついて出た言葉は単なる慰めでしかなかった。
光栄にはこれらの秘術を施す技量も実践経験も乏しかった。
その上、泰山府君の霊力で命を蘇らせるには代わりに若い命を捧げる必要がある。
絶望した魂に接するとき、陰陽師に出来ることは、心を空しくして、ひたすら、苦悩する魂の叫びに耳を傾けることだけである。
非難することも勇気づけることも訓辞を垂れることも教え諭すこともしてはならず、ただ、傾聴に徹しなければならない。
「我が恨みは大きく、この世の全てが破滅すれば良いと思っていた。しかし、今、それは我が本意ではない」
「そうか、それで良い。あなたは今、自分を取り戻そうとしているのだ」
「だが、我が名が思い出せぬ。なぜなのだ、ああ、苦しくて胸が張り裂けそうだ」
「心穏やかに我が身を顧みるが良い。この私が、陰陽の技をもって、念を送ろう、きっと思い出す」
「おや、、闇の向うに何かが見える。そこには陽だまりのような温かさがある。おお、懐かしい、幼き我と双子の妹がいるではないか」
「ならぬ、ならぬ、そこまでだ、それ以上、話すことはならぬ。陰陽師に騙されてははならぬぞ」
鬼の罵声が響く。だが、構わず姫の声は語り続ける。
「青い山々が連なり、我らは花咲く野辺を駆けた。転んでは立ち上がり、駆けてはまた転んだ。花を摘み、寝転がって訳もなく笑った。楽しい日々であった。飢饉に見舞われたのはそんな折であった。受領は皆が飢える姿を一顧だにしなかった。ただ、暴利を貪るばかりであった。我ら姉妹は人買いに売られた。いや、親を恨んだりすまい。我が子を餓死から守るためには致し方なかったのだ。我ら姉妹を見送ってすぐに父母は飢えて死んだのだ。我は幾人もの人買いの手を渡った末に鴨川近くの神社の権禰宜に買われた。妹は気性が激しく反抗的であったため、毎日、人買いに殴られていたそうな。噂では、人買いを殺し、財を残らず奪って山に逃げたという。荒くれどもを集めて配下にし、意に染まぬ者は情け容赦なくその手にかけて恐れられ、今では盗賊の頭となって荒くれどもを牛耳っているそうな。我は神社を参拝する公達の前で歌と舞いを披露する白拍子となった。化粧をして、烏帽子を被り、直垂を着て白鞘の太刀を佩いた男装で舞を舞った。優雅に、艶やかに舞うことを求めらた。時には春を売った。その一人があの方であったのだ。あの方の名は・・、そうだ、中将様、我に情けをかけ、慈しんで下された。雨露をしのげる館に住み、毎日を飢えることなく過ごすことが出来た。春は野に出て若菜を摘み、夏には美しい星空を眺めた。秋には月を愛で、冬は褥で互いの思いを確かめ合った」
鈴を振るような声で語り続ける。
「何時しか、我はあの方と未来永劫に、いや、せめて空蝉の世にある間、幸せに暮らしたいと夢見てしまった。そんな叶わぬことを望んだこの我は、愚かで身の程知らずなのか、教えてくれ」
「幸せになりたいと望むのは誰しも同じ、あなたは何も間違ってはおらぬ」
「だが、女が現れた。その女は中将様の妻となった。女の父はやんごとなき公卿。左大臣にまで上り詰めた、帝の覚えめでたき、一族の氏の長者。中将様は公卿に逆らえぬ、生きるためには舅殿の機嫌を取らねばならぬと、苦々しく呟いておられた。我を決して捨てはせぬ、幸せにする、と約束して下された。我はその言葉を信じた。しかし、あの方の足は遠のいた。我は、寂しくて、牛車であの方の館に出かけのだ。それを、あの女が武士に命じて我を襲わせた。我は、恐ろしく胸つぶれて何の抵抗もできなかった。男たちに凌辱されながら、ただ震えていた。その余のことは憶えておらぬ」
二十、哀しき落涙
「そうか、そうであったか」
この世の理不尽に引き回され、裏切られ、虐げられてもなお、信じようとする心根に胸が震えた。
光栄の魂は何時か身体を離れて遥か大空に遊んでいた。
眼下に光栄自身の姿が見える。
薄の原の中で醜悪な鬼に向かって話しかけている。
その上空を飛び過ぎて、鴨川の岸辺に向かっていた。
無性に喉の渇きと空腹を覚えた。
流れの側に烏が群れ集まっている。
バサバサと舞い降りてその中に割って入り、腐りかけた肉片を嘴でつつき鴨川の水を啜り喉を潤す。
そしてまた、肋骨に付いた肉片を貪り食う。
「なに、これは人肉か、一体、俺は何をやっているのだ」
思わず、呟く光栄は羽根を広げて宙に舞い上がり、改めて下界を見た。
烏が骸に群がっている。
その隙間から長い黒髪と鮮やかな錦が見える。
あれは女房装束・・女の屍か・・・。
光栄の気持ちは暗く沈んだ。
「我は、一体、どうしたら良いのだ、光栄、教えてくれ」
悲痛な叫び声が耳に飛び込んで来た時、若き陰陽師は我に返った。
我が思う女は既に手の届かない時空にある。最早、救う手立てはない。
無念の涙が両の眼から溢れ出て頬を伝った。
「光栄、そなた、我のために泣いているのか」
懊悩する魂を救えなかったという思いに、張り裂けるほど胸が疼いた。
同時に、健気に生きようとする無垢な心を弄び、飽きれば容赦なく捨てる貴族の身勝手さが我慢ならなかった。
「すまぬ、あなたに、何もしてやれない。この私を許してくれ」
厳然たる事実の前に呆然とする光栄をあざ笑う鬼の咆哮が響き渡った。
「今頃気付いたか 青臭き奴め。この世に帰るべき場所など、もう、姫には無いのだ」
光栄の身体から戦う気力が失われようとした。
そんな時、安堵したような姫の声が聞こえた。
「光栄、そなたは、我の話を聞いてくれた。命を賭けて我の心を開いた。礼を申しますぞ。
ああ、霧が晴れるように何もかも思い出す、懐かしい」
「何を言う、姫、陰陽師の口車に乗るでないぞ、怨みを燃やせ。この世にのさばる悪しき者どもを滅ぼして、我ら妖気のものが支配し、闊歩する良き世とする野望を忘れたか」。
「いや、もう、良い。怨念は消え失せた」
「うう、陰陽師め、あと少しで我が悲願は遂げられたものを。邪魔しおって、許さぬぞ」
激怒した鬼の手が光栄に伸びてくる。
「おっと、今度は、やすやすとは捕まらぬ」
攻撃をかわして、右へ左へ薄の陰を走った。
走りながら陰陽師は、最後の戦いを挑もうと決めた。
呪を唱え、印を結び、五芒星を切ると、振り返って鬼の股を潜り抜け、背後に回ると、地を蹴って高々と跳びあがり、その広い背中に太刀を浴びせかけた。
「うおお」
顔を歪めて鬼が呻く。
光栄は、何匹ものバッタが草原で次々に跳ねるように飛び上がっては、後ろから、前から、横から、あるいは下から上から斬り付けた。
その度に鬼は悲鳴を上げ、その全身に無数の刀傷ができた。
傷口は亀裂となって大きく広広がり、そこから、何かが続々と這い出して来る。
「何だ、あれは?」
陰陽師の心眼にはっきりとその正体が見えた。
鬼の活力の源である怨みに燃えた怨霊であった。。
飢餓で息絶えた人間、撲殺された畜生、無数の怨霊が、鬼の体から這い出て、次々と宙に飛び立って行く。
「うう、どうした、我が身に何が起こったのだ」
鬼は、平衡感覚を失った百歳の老人のようによろめき、ぐらりと揺れて倒れた。
「おのれ陰陽師め、要らぬことをしおって。ええい、お前さえ邪魔せねば、うまくいっていたものを。恨めしい、その息の根を止めてやろうぞ」
鬼の怒号が轟いたとき、大きな火球が鬼の体内から飛び出してきた。
「邪鬼が来ます。光栄、気を付けて」
姫の叫びが光栄の鼓膜を叩いた。
鬼の形相をした火球は凄まじい勢いで光栄に向かって飛来してくる。
反射的に太刀を正眼に構えて呪文を唱えて念を込める。
太刀は火球の真ん中を貫いた。
手応えはあった。
鬼の悲鳴が聞こえたような気がした。
激しい熱風が光栄を包み、焦げ付くように体が熱かったが、ややあって収まった。
「おのれ、憶えておれ、ああ、憎しや陰陽師め」
闇の中で怨みの声がしたがそれもすぐに途絶えた。
鬼の姿は消えていた。
そこには、麗人の姿があった。穏やかで柔和な顔つきであった。
まさに長月の夜、清かな月影に見た、あの妍なる女性の姿であった。
光栄は話しかける。
「やはり、あなたでしたか」
立ち姿が神々しく輝いている。
「我は既に死んでいるのか、光栄」
突然の問いかけに若き陰陽師は絶句した。適切な言葉が浮かばない。
慰めの言葉を吐いても空疎に響いて、残るのは後悔だけである。隠さず答えるしかない。
「いかにも、あなたは、既にこの世のものではない」
「やはりそうか・・。光栄、これで楽になれる」
すっきりとした晴れやかな笑顔の女は、その胸に赤子を抱いていた。
「その子は」
光栄は尋ねる。
「この子か、この子は我が胎に宿りて、この世を見ずに生を終えた不憫な子、一度で良い、あの方に抱いて欲しかった」
愛おしそうに赤子を見やる。
そうか、今少しで生を得た我が子を、一目、中将に見せたかった、それが、この世への未練であったのか、何と痛ましい。
憐憫の情が矢となって光栄の胸にささる。
震旦を過ぎ、天竺を越えた遥か西方の国では赤子を抱き、くるす、というものを掲げる観音菩薩がいると聞く。かくのごときであろうか。光栄は見入っていた。
そんな時、麗人の頬を伝って、花が散るように、涙が零れ落ちた。
涙は小さな炎となった。
それが合図であるように、姫の身体は、篝火のように足もとから燃え上がり、渦を巻き、巨大な竜の形となって、うねりながら真っ直ぐ天に昇って行った。
「さらばです、光栄」
姫の美しく優しい声が聞こえた。
炎は、やがて、細い光の筋となって星空に吸い込まれて行った。
「思えば、あの長月の夜以来、俺は恋に落ちていた。だが、あの麗人は、霊魂となってなお中将と呼ばれる人物への恋慕が断ち切れなかったのか。哀れな。胸が疼いてならぬ」
光栄は空を見上げて呟く。
「俺は愛しい人を救えなかった」
思えば牛車の後を追ってこの四条河原に辿り着いた時には、姫はすでにこの世のものではなかった。
それでも、何とか救う手立てはなかったのかと、光栄は何度も自分に問いかける。
すでに夜明けは近い。
残月が冴え冴えと西空に輝き、荒涼とした薄の原を乾いた風が音をたてて吹き抜けて行った。
二十一、狙われる
ふと、人の気配を感じた光栄は無意識に耳を澄ました。
「いたか」
誰かが小声で話している。
「しっ、静かにしろ、気付かれるではないか」
声に振り返ったその瞬間、しゅっという風の音がして、何かが光栄の頬をかすめて鞭で打たれたような痛みが走った。
「仕留めたか」
誰かの声がした。
なに、俺は今、命を狙われているのか?
頬を触ると血液が流れる感触があった。
光栄は薄の原を疾走した。
無意識の行為であった。
なぜ走らねばならないのか、走ることが危難を避ける最善の策なのか、それは分からない。
だが、ただそこに突っ立っているよりも危険を回避することが出来ると反射的に行動したのは動物的な本能なのであろう。
背後から足音が聞こえる。
無言で誰かが迫って来る。その足音と息遣いが迫ってくる。
恐怖が光栄の顔を歪めた。
なぜ俺が狙われねばならぬ?
ふと一つの可能性が彼の脳裏をかすめた。
事の次第を目撃したからか?
また、放たれた矢が唸りをあげて耳元を掠めて飛び去った。
咄嗟に身を伏せ、太刀の柄に手をかけて息を凝らす。
太刀を引き抜きざま、脇を走り抜けようとした黒い影の足を払った。
「ぎゃあ」
鋭い悲鳴と共に甲冑を帯びた武士の影がもんどりを打って転がり、膝を抱えて悶えている。
立ち上がった光栄は、男に止めの一撃を与えようと太刀を上段に構えた。
その時、目の前の薄の茂みの陰から鈍く光る槍の穂先が光栄の胸を目がけて突き出された。
その瞬間、地を蹴って、天中高く飛び上がり、薄の原を遥か上から見ていた。
標的を見失った武者が驚いた表情で、あんぐりと口を開けて見上げていた。
男の見上げる天空には十六夜の月が煌々と輝いていた。
男には、月を飛び立った大鳥が翼をげて頭上から舞い降りて来た、と見えたであろう。
それは、太刀を上段に振りかざして切りかかる光栄の姿であった。
月あかりに煌めいた太刀は、武具を切り裂いて男の肩深く食い込んだ。
「ううっ」
悲痛なうめき声を発して男は蹲る。
光栄は太刀を持ったまま、苦痛にもがく男たちを見下ろす。
「そなた達は、何者か」
尋ねながら、男たちに見覚えがあることに気付いた。
「お助けくだされ、光栄様」
男たちが必死の形相で光栄に手を合わせている。
「なぜ私の命を狙った」
切っ先を男たちに突きつける。
「我らはただ命令に従ったまでのことで御座ります。お許しくだされ」
男たちは怖れと苦痛の入り混じった青白く血の気の失せた顔を向けて震えている。
光栄は彼らが満仲の手のものであることを察した。
「満仲の命令か?己の失態を目撃したこの俺の口を塞ぐ為か」
男たちは覚悟を決めたのか無言で大きく頷き、拝むように手を合わせて震えている。
人には言えぬ闇の仕事を皇族や貴族から依頼されて生業を立てている武士にとって、引き受けた事を成し遂げることが出来なかったという評判を立てられれば、顧客の信用を失う。
そうなれば、仕事の依頼が途絶え、収入の道が閉ざされる。
失態の一部始終を目撃したこの俺の口を塞ぎに来たのか。
「去れ」
太刀を鞘に収めながら吐き捨てた。
男たちは深く頭を下げ、互いの肩を抱き合って立ち上がり、よろけながら去って行った。
頬をなでながら男たちの後姿を見送っていた陰陽師は、呪文を口ずさみ、印を結び卍を切った。男たちに呪をかけたのである。
男たちは、傷が癒えるとすぐに、光栄を始末するよう命じた主に立ち向かう。
ことの結末がどうなるかは定かではないが、いずれにしても、数日の後、満仲と中将の周辺で事件が起こったという噂が光栄の耳に届くであろう。
頬の出血は止まっていた。
目を凝らして辺りを窺うが他に人の気配はどうやら無い。
鴨川の流れの旋律が聞こえるだけであった。
「げに、醜悪なものは怨霊などではなく、この世に生きる人間という悪鬼であったか」
空を見上げ、嘆息して呟く。
若き陰陽師の心は暗澹たる思いに包まれて深く沈んだ。
体力と気力を余すことなく使い切った光栄は計り知れぬ疲労感に襲われていた。
ぐらりと足元が揺れて崩れて落ちるように倒れ、意識が遠のいた。
このまま死ぬのかも知れぬ、と薄れる意識の中で光栄は思った。
どのくらいの時が過ぎたであろうか、誰かが身体を強く揺すっている。
「若、しっかりしてくだされ」
光栄の顔をギロリとした目玉がのぞき込んでいる。
「おお、蜘蛛丸か」
「気づかれましたか、若」
蜘蛛丸は皺だらけの顔を歪めて笑いかけている。
「俺は生きているのか」
「生きておられますとも、若、心配致しましたぞ」
顔を近づけて、にたにたと笑う蜘蛛丸の口臭が咽るように匂う。
「蜘蛛丸、何処にいたのだ」
「ずっと、若の側におりましたぞ」
「嘘を申せ。お前は俺の側のどこにいた、ついぞ見かけはしなかったぞ」
「何を申されますか、若、少しばかり離れたところではありますが、りっぱに若の側に控えておりましたぞ。私めを信じて下され」
「そうか、まあ良い、一緒に参れ」
光栄は蜘蛛丸の手を借りて立ち上がった。
先ほど天空から見た光景を確かめねばならない。
薄をかき分けて鴨川の流れに辿り着くと、ばさばさと数羽の烏が飛び立った。
横たわる屍、たわわな黒髪を保ったままの髑髏がそこにあった。
空洞となった虚ろな暗い眼が悲しくも痛ましい定めを光栄に語りかけていた。
艶やかな錦が幾枚も着せ掛けてあるのは、「中将様」と呼ばれた男の懺悔のなせる業か。
神仏に祈り、姫が極楽浄土に到ることを祈らずにはいられない。
哀れな姫は屍を鴨川に曝され、その一方で、中将とその指図で手を下したであろう源満仲はこの世を謳歌している。
しかも、怨霊に悩まされることがなくなった今、彼らは枕を高くして眠り、益々おごり高ぶる。
この世は何という不条理に満ち満ちているのだ。
弱き者は報われず、悪しき者がこの世を謳歌する。
「ああ」
若き陰陽師は深いため息を吐いた。
底知れぬ虚しさがその身を包む。
鴨川の流れは静かな旋律を奏で、そこにはもう、邪気の気配は感じない、寒々とした寂寥が漂っているだけであった。
光栄は寒さと疲労のためによろけた。
最早自分の体を支える気力も失せようとしていた。
「若、どうか、しっかりして下さりませ。若は、早くお屋敷に戻られたがよう御座います。亡骸の始末と検非違使庁への届けはこの蜘蛛丸めにお任せ下され」
「分かった。蜘蛛丸、くれぐれも丁重に頼むぞ。この姫は、俺にとって大切な御方なのだ、手を抜くことは許さぬ、きっと頼んだぞ」
蜘蛛丸の普段を知っている光栄にはこの男のことを心底から信じることは出来なかった。
姫の亡骸を粗末に扱うのではないかという不安が脳裏を過る。
だが、疲労が極限まで達している光栄には事の次第を見届ける気力は残っていない。
最早、歩くことさえままならなかった。
「若、この蜘蛛丸めは、若の気持ちを何もかも承知致しております。諸事万端、若のお望みのままに滞りなく取り計らっておきますゆえ、どうぞ安心してくだされ」
「そうか、その言葉、違うことはないな」
念を押したものの、儲けのためなら、約束を違えることを意に介さない蜘蛛丸の言葉を無条件に信用することは出来ない。
だが、これ以上この場に留まる気力も体力も限界を超えていた。
「勿論でございますとも、この蜘蛛丸を信頼して、お任せくだされ」
天空を仰ぎ見れば、月は沈もうとし、明けなずむ山の端が神々しく輝いていた。
何れ、源満仲や中将とかいう貴族との戦いも始めねばなるまいと思いながら、よろける足で屋敷に辿り着き、崩れるように床に就くなり、昏々と眠り続けた。
賀茂光栄、怨霊と出会う 完