第一話 「天寿の果てに、世界は戻りて」
虚ろ、虚ろ……。
このまま眠れば永遠に目覚めない確信があった。
(長く生きたもんじゃ……)
込み上げる念は、長い歳月を数えるもの。
感情の向かう先は解らない。
この争いの絶えない世界でしぶとくも生き抜いてきた、自分に対する賛辞だろうか。
それとも……心の奥底に封じ込めた筈の寂寥感の、蓋が密かに開いてしまったのだろうか。
どこか遠く。
心の拠り所を探すかのように、天井を見上げていた。
(どこにいようとも、どんなものであろうとも、必ず終わりは訪れる。……世の真理であるな)
死を間近にした人間というものは、皆こういう心境になるのだろうか。
やけに静かで、穏やかだ。
齢を感じさせる白髪に、脂の抜けきった長身。すっかり痩せこけてしまった。
その老体を、静まり返ったベッドの上にひっそり横たえている。
(結局、戻れなかったのう。それも今更か……)
世界の枠をとっぱらえば、自分のような人間は他にもいよう。
……いや。
その幸せな考えを否定する。自分の環境は特殊と言える。
同類を求めたところで何の慰めになろうか。
(自分が不幸だからといって、他人を不幸にして喜ぶなんて。ソレは間違っている)
せめて最後まで気高く生きよう。例えそれが心に秘めた想いだろうと。
彼は弱きな心を拭い去る。
想えば波乱に満ちた人生だった。
何の因果か、生涯の半分以上をこの世界で過ごしてきた。
生まれ落ちた世界は願えど届かず、どこかの空の下で、今も変わらず在り続けていることだろう。
(母は長生きしただろうか。妹は幸せに過ごせたのか。儂のことで幸せを放棄するようなマネだけは辞めてほしい)
友達と歩いたアスファルトの街並み、色鮮やかなイルミネーション、家族で行った遊園地。
テレビ、漫画、小説、パソコン、インターネット。
怠かった学校の授業すらも。
その全てが愛おしい。
焼き付いた景色はいつも、目を閉じればソコに在る。
既に帰る気はなくなっていた。
故人である父はともかく、母はもちろんのこと、妹や幼馴染、友人でさえも、生きているかは賭けに近い。
自分を憶えているかも怪しいものだ。
そう、今更だ。
(過ぎ去った時間は巻き戻らない。淡い夢の欠片。それでも……未練であろうな)
一風変わった仲間達と、旅をした。
長く不思議な幻想の旅。地に足がついたのは、いつの頃だったろうか。
この赤く錆び付いた世界は、現実と非現実が融合したような世界だった。
下々の住人と神々が共存し、双方の垣根が低い強者の世界。
強さこそが絶対のルールだった。
よくこの歳まで生き延びたものだ。
出会い、別れ、月日を超える。
最後に腰を落ち着けたのが、この小さな小屋の中だった。
――全てが夢だったのではないか。
そんな人生を駆けてきた。
ある日前触れもなく異世界へと迷い込み、死にたくない一心で生きてきた。
誰かに召喚された訳でもなく、ただ偶然が作り出しただけの、一つの不幸な物語。
使命なんてものは何一つなかった。
目的もなく、しかし帰る方法もないままに……。
力もなく、信念もなく、ただ生きるしかなくて。
そこはファンタジーの世界だった。
想像上の化物共が跋扈する、地獄のような世界だった。
(住めば都、とは良く言ったもんじゃ。慣れとは恐ろしくもある)
生きるために力を求め、泥にまみれてあがき続けた。
最初の頃は惨めなものだった。
弱さは罪。誰にも見向きもされない。ひ弱な現代人など、野垂れ死にするのが関の山だった。
――だが生き延びた。
そしてどんな理不尽にも屈することのない力を手に入れた。
そこから先は気持ちを切り替えた。
未知なる好奇心を満たすため、旅をして、やがて世界でも屈指の冒険者となった。
今想えばそれは、寂しさを紛らわせるための方便だったのかもしれない。無我夢中で生きてきた。
それだけだった。
妻や子供どころか、彼女すらできたことはない。
人外萌っ子生物。そんなものは夢物語だ。現実は残酷なものだ。
この世界はグロテスクのオンパレード。罰ゲーム? 笑い話にもならない。
龍、蟲、魚、四足の怪物、歪な悪魔、天使っ子は只の光の塊……。
人間は皆無だった。
そんなので愛が芽生えようか?
――否。恋愛など考えられない。精々が友人止まりだった。
それでも数々の冒険を通して、楽しいことはいっぱいあった。
悲しいことも同じくらいたくさんあった。
友を失った痛みは、今でも忘れることはない。
嫁探し。
それが二十代後半になって芽生えた旅の理由だ。
そんな動機で冒険するのは自分だけだった。
戦友は、戯け笑いながらも付き合ってくれた。
子孫を残すとしてもせめて人を、愛せる生物と交流したい。
そう思い、一生の大半を旅に費やした。
結局、期待に添える人材は見つからなかった訳だが……。
目的はさておき、
龍の巣に妖精卿、海王神殿や魔界、天上界……他にも色々見て回った。
この世界で知らぬ場所など、もう存在しないのではないか。
それほど長い旅だった。
今や世間で賢者とまで呼ばれていた。
獣耳を発見できなかったことだけは残念だ。
(学力テストの成績も下の下だった儂が、よもや賢者などと。日和辺りが聞いたら絶対に冷やかされるであろうな)
気の合う友人でもあり、密かに恋慕の情を抱いていた幼馴染の日和。
彼女はどんな人生を送ったのだろうか。
好きな人ができて恋をして結婚して、その男と共に幸せな一生を謳歌したのかもしれない。
そんなことを想像すると、老いぼれの分際で未だに胸が締め付けられる。
彼女の隣にいるのが自分以外の誰かだと、考えるだけでも悔しいのだ。
(初恋、か。未練タラタラ、情けない男じゃ。それにしても……この世界の方が長いのに、最後に浮かぶ光景が元の世界のことばかり、とはな……)
この世界の想い出もたくさんあった。
走馬灯の如く想い起こされるのは、人生の宵、冒険の数々。
そんな中でも一番を考えると、いつも同じ答え――元の世界での日常、高校生活に辿り着く。
朧げながらも懐かしい故郷の空。
決して消えない望郷の念。
最後に残ったのはホームシックだった。
頑なに否定してきた孤独感。
半世紀以上経った今、それでも故郷は切なく愛しい。
……それも今やどうでも良いことか。
生命の枯渇が刻一刻と迫っている。
(ああ……ダメじゃ……眠い……)
今この時、彼は天寿を全うしようとしていた。
思考の海が霞んでいき、精神が微睡んでいく。
この世界の生物の寿命は自分――つまりは人間と変わりがないらしい。
かつて共に駆けた仲間達は、既にこの世を去っている。
(お前達ともお別れじゃな……)
この場に集まったのは使い魔や騎獣、森の住人達で全部になる。
人々の生活圏から離れた閑散とした小屋の中。
皆が別れを惜しみ何かを叫んでいるが、その音を、彼の耳が拾うことはない。
もう何も見えず感じず、聞こえない。
(皆、元気でな……自由に生きよ……)
人は死んだらどうなるのか。どこへ向かうのだろうか。
この想いも記憶も魂でさえも、もしかしたら消えてしまうのかもしれない。
それだけが彼の脳裏を捉えて離さない。
このまま永遠の無を迎えるのが怖かった。
輪廻転生。
そんな言葉が頭をよぎる。本当に実在するのだろうか。
できることなら元の世界に生まれ変わりたい。
そう願いながら……。
眠るように彼は逝った。
◆◇◆
……………………。
…………?
(ここは……)
気が付いたのはどこかの室内。
長年住み着いた小屋の中とは匂いが違う。
澄んだ森林が生み出す新鮮な空気――染み渡るようなソレとは違う、もっと汚染された、だが懐かしい濁り具合。
いや、そうではない。そうではないのだ。
薄汚れた勉強机、マンガで溢れかえった本棚、縦置きの鏡。テレビの前にはゲーム機に、やり尽くしたゲームパッケージが乱雑に散らかっていた。
自分がいるのはベッドの上だ。窓から見える公園では、子供達がはしゃいでいる。
何年経っても忘れはしない、この光景。
――そうだ。元の世界の自分の部屋だ。
しかしどうして。
(いったい何がどうなって……)
何故こんな場所で寝ているのだ。
自分は老いて死んだ筈だ。
死後の夢でも見ているのだろうか。
それにしてはやけにリアルだ。それに身体も軽い。
(身体が軽い……?)
手、足、胴、腹、ついでにお尻。
所々触っていくと、脂の乗った力強い肉感がはっきり解る。
肌は瑞々しく、そして若々しい。
確かな感触が伝わってくる。
慌てて跳ね起き、駆けるように走り出す。鏡を見たい。
(これは……!)
顔に手を持っていき、何度も何度も確かめる。
(間違いない! 高校時代の儂の顔じゃ!!)
老いもなく、未だ成長期真っ只中の玉の肌。ボサボサの黒髪には、白髪など一本も生えていない。
混乱、困惑、疑問。尽きることない思考の渦。
数瞬パニックに陥るも、異世界で培った経験が、彼に冷静な状況分析を開始させる。
(今までが夢? いやじゃがリアルすぎる。今が夢? いいや感触がある。痛みもある。夢じゃない!)
死んで元の世界の自分の部屋にいる。
この場所から異世界へと飛ばされた。
若返っている。
そこから導き出される一つの可能性。
(……戻っ、た?)
まるで長い夢を見ていたかのよう。
ともすれば、本当に今が夢の最中とも想えてしまう。
しかしその身に染み付いた戦士としての感覚が、どちらも現実だと訴えている。
「我願いて、赤き真実はこの手に小さく点る――『火種』」
点らない。
いやそうではない。魔法が使えないのは当たり前だ。
もっと違う、気の運用で……。
「発火!」
今度は点った。
試しに火を熾してみると、右手人差し指から赤く噴出した。
これも幻覚だろうか。
ごちゃまぜの感情に、夢現のような曖昧さ。境界線がまるで解らない。
試しに左手小指を揺らめく火の中に入れてみる。
「あちゃぁっ!!」
火傷した。リアルに痛い。
咄嗟に指を引き抜くも、残った痛みが主張する。
――両方現実だ。
今ので一気に目が覚めた。
現時点の年齢は記憶の中では十六歳。
恐らく異世界へ飛ばされた直後だろう。そんな気がする。
向こうの世界で生きた時間の半分にも満たない、天寿の五分の一しかない、僅かな人生。
それが今の自分だ。
想いが通じたのだろうか。
哀れな自分に神様が見兼ねて、願いを叶えてくれたのかもしれない。
(神様、ありがとう……ありがとうございます……)
ふいに落ちた奇跡に胸が震え、嬉しい筈なのに何故か涙が溢れ出る。
怖かった。
死んで自分が無くなるのが怖かった。
自分が自分という意識のまま、この場所に帰ってこれたのだ。
こんなに嬉しいことはない。
彼は拭うように目元を覆った。
手元の携帯電話を開くと、日付は八月三十一日。異世界へ飛ばされた日――夏休み最後の日だ。明日から学校らしい。
時間はもう昼過ぎ――午後十二時半頃だった。
(異世界へ飛ばされる前に最後に見た時間が十二時くらいじゃったから、やはり直後に戻ってきたんじゃな)
しばらくボーっと座っていると、
「こうすけーーーっ、早く降りてらっしゃい! ご飯よ! いつまでも寝てんじゃないよ!」
階段下から二階のこの部屋まで、懐かしい声が届いてきた。
恋しくて、でも決して届かなかったモノ。母親の怒鳴り声だ。怒られているのに何故か温かい。堪らなく嬉しくなってしまう。
昔は鬱陶しかった筈なのに、不思議なものだ。
だけど今日からは優しくなれる。
「オフクロ様のお怒りの声がこれほど嬉しいとは……これはヤバいのう。儂は……俺はМに目覚めてしまったのか? ……なんてのう」
皆からは変に思われそうだが、こればかりは仕方がない。
友達からはマザコンと言われてしまいそうだ。
「では行くとするか」
腰を上げて立ち上がる。
いつまでも呆けている訳にはいかない。
自分は誰だ? 今の状況を整理する。
名前は倉石康介。十六歳。高校一年生。
未来ある若人だ。
「早く降りてらっしゃい!」
また声が飛ぶ。
「ああ、今行くよ。母さん」
この居場所に戻ってきた。
本来、序章のみを短編として投稿する予定でしたが、
書いているうちに連載してみたくなり……。
ヤッちまいました。
よろしくお願い致します。