二章-1
二 章
果てしない闇の底へ落ちて行く。どこまで続くのかわからない。ただ、エイナルに渡された懐中時計を小さな両手でしっかりと握りしめながら、エリカはじっと縮こまっていた。この懐中時計が、エリカを助けてくれる人とつないでくれるという。今は、その人に会えることを祈るしかない。
ヨハンという人に会って、エイナルとワトソンとコーデリアを助けてもらう。その思いが、エリカを支えた。
本当は泣きたい。悲しい時や怖い思いをしたときは、エイナルにしがみついて泣いていた。だが、そのエイナルも今はいないのだ。エイナルを助けなければ。ワトソンを、コーデリアを助けなければ。
ばふん、としんなりした布の上に、エリカは叩きつけられた。なるべく身を丸めて縮こまっていたためか、痛みはそれほど感じない。最低限の布団しかない簡素なベッドの上に落ちたらしかった。
おそるおそる身を広げて上半身だけ起こしてみれば、見たことのない世界が視界いっぱいに広がった。小さな手の中には、エイナルから渡された懐中時計が握られている。うろうろと、周囲を見回せば、淡白な色に包まれた簡素な部屋と、よれよれの白衣を着た男性が目に映った。
その男性は、しわだらけの白衣の下にはくすんだシャツを適当に着ている。褐色の髪はぼさぼさで、何度も掻いている。姿勢も猫背でよろしくない。こんな状態では、コーデリアとワトソンに叱られる。
「……なんだあ?」
覇気のない無気力な声が、彼から漏れた。エイナルは言っていた。これから自分が飛ばされた所に、ヨハンと言う男がいると。エリカはベッドからさっさと降りて、なんだかやる気のなさそうなその男性に問い詰める。
「あなたが、ヨハン?」
エリカの身長の倍もありそうな男性は、一瞬だけ目を見開いた。
「……どうして俺の名前を知ってる? どこかで会ったかい?」
「わたし、エリカというの。エイナルおじさまがわたしをここまで連れてきたの。そしてヨハンという人を頼れと言われたわ」
ヨハンは苦い顔をした。
「野郎……」
ぼそりと呟いた一言は、恐ろしくエリカの腹の底に響いた。相当の恨みがこもっている。
「ところで確認するけど、お嬢ちゃんの言ってることに嘘はないんだよな?」
さきほどとは打って変わって普通の声色だ。
「嘘じゃないわ。……あ、そうだ、これを」
エリカはずっと握りしめていた懐中時計をヨハンに差し出した。受け取ったヨハンは、わずかに顔をしかめる。
「嘘だったらどんなによかったか……」
「嘘じゃないわ」
「うん、わかってるよ。痛いほどにね。まずちょっと話を整理させてもらおう。お嬢ちゃん、君はエイナルの手によって、ここへと来たわけね」
エリカはうなずいた。
「俺のところへくるために、この懐中時計を君に渡した。そして、ここへきて君の保護を頼むよう言い使ってきた、ということでいいのかね」
「そうよ。でも本題はここからなの」
「本題?」
「おじさまと、ワトソンとコーデリアが、おかしな人たちにさらわれちゃったの! おじさまたちはその人たちからわたしを逃がすためにお屋敷へ残ったわ。きっと、三人とも無事では済まされない……だから、ヨハン、わたしを助けて。おじさまたちを助けたいの!」
対面しておよそ五分ほどの間柄であるが、エリカはそんな些末なことを考えている余裕がない。エリカだけの力では絶対に太刀打ちできない。家族三人を助けるためには、どうしても人手が必要だ。
エイナルとの間柄など詳しくは知らないが、エイナルが自分を逃すために頼った相手と言うことは、相応の深い関係であることは間違いない。きっと、エイナルたちを助けるために手伝ってくれる。エリカは、何の根拠もなくそう信じていた。
「お嬢ちゃん、悪いけどその頼みは聞き入れられないなあ」
ところが、エリカの期待は大きく外れた。苦笑しながら答えるヨハンが、今はとても恨めしい。
「どうしてっ? おじさまとはお友達じゃないの?」
「友だちねえ……それもどれくらい前までのことか」
「もし、失礼なことを言ったら謝るわ」
「や、君はなんも悪くないよ」
「おじさまのこと、嫌いなの?」
「嫌いでも好きでもないなあ。強いて言うなら呆れてる」
「それって、嫌いとどう違うの……?」
会話が長く続いたせいでうだうだと進まないことに気づいたエリカは、ぶんぶんと頭を横に振り、もう一度ヨハンを見上げる。
「助けてほしいの! わたし一人じゃ、おじさまたちを助けられない」
「んー、言葉が通じてないのかなあ? 俺は無理だって言ったんだけど」
困り笑いを浮かべて、あくまで穏やかに答えているが、ヨハンの気持ちに揺らぎのないことは明白だ。
「どうして?」
「俺は奴に君のことを頼まれた。それ以上のことは頼まれていないからね」
「じゃあわたしが頼んだら助けてくれる?」
「ないなあ。俺は昔昔の知り合いってよしみで君を引き受けただけだ。君は俺とは何のかかわりもないからねえ」
それに、とヨハンは付け加える。
「ここで下手な動きをしたら、俺どころか君も、大好きなおじさまと同じ末路をたどることになるよ」
無気力で抑揚のない声で告げられた最大の理由に、エリカの背筋が凍りついた。
末路ってなに? 今現在、エリカの大切な家族は無事ではないことくらいは理解できている。自分たちを追っていた、おかしな淡白な人たちは、明らかに歓迎とは無縁のものだった。そんな彼らが、追っていたエイナルを捕まえた後に何をするか。……具体的なことはおそろしいから考えない。だが、エリカたちにとってはよろしくないことが起こるのは確実だろう。
ヨハンはそれを言っている。うすうす身の危険を感じていたエリカは改めて恐怖を味わった。
「末路? 殺されるの?」
「そっちのがまだ慈悲深い気もするけど」
室内に、不似合いなブザーが二秒ほど鳴った。エリカはびくっと肩を震わせた。ヨハンの方は別段気にすることもなく、エリカへの興味も失せたらしく、玄関の方へと向かっていった。あれは呼び鈴だったらしい。
ヨハンはドアに手をかける寸前、エリカの方を向いて、小声で促した。
「悪いけど、ちょっとそこに隠れてて」
「え?」
「見つかるとそのあとが怖いかもよ」
相変わらず無気力な声だったが、恐怖はひしひしと伝わった。エリカは無言でうなずいて、そそくさとベッドの影に身を隠した。
「はーいはーい」
確認したヨハンは、めんどくさそうにドアを開けた。そこには、エリカとそれほど変わらない身長の子供が立っていた。衣装も淡白で、白にほんの少し、申し訳程度の青を混ぜたくらいの薄い色だ。目はぱっちりと明いているが、妙に生気を感じられない。半眼で眠そうなヨハンの方がよほど生気に満ちているほどだ。髪も白く、肌も白い。手に乗せられているのは、小さな紙袋だ。
「本日の分をお持ちしました」
「はいよ。毎度ごくろうさん」
「では」
子供の声は中性的で、男か女か判別しかねる。あいさつ一つ交わすことなく、その子供はさっさと消えてしまった。陰からこっそり観察していたエリカは、あの子供が不気味でならない。
あいさつもしない、同じ年ほどでまだ成長途中なのを差し引いても、あの子供には男らしさ女らしさがまったくないのだ。そして、目が死んでいる。見た目だけでなく、子供そのものも淡白だった。
「いいよ、出てきて」
ヨハンの少しだけ優しい声に、エリカは従った。
「それ、なに?」
エリカはヨハンの持っている袋を指さした。
「あ、これ? 今日の分の飯っすよ」
「……ごはん? それだけで足りるの?」
中身を確認したが、そこには六枚のビスケットとふた瓶の飲料水しかなかった。
「一日に摂取するべき栄養素はこれに全部入ってるからね。味はしないけど」
「そんなんじゃ、おなかがいっぱいにならないし、食べるのが楽しくないじゃない」
「ここではね、食べるって行為は生存のために必要最低限やってりゃいいのさ。……ってのが決まりごとなんだよ」
「何それ。つまらないじゃない」
「うん。つまらないねえ。俺も好物のたい焼きを食ったのはいつが最後だったか……」
嘆息してビスケットを一枚かじって、ヨハンはそうぼやいた。一枚をゆっくりかじって、こくんと飲み込む。もう一枚をエリカに差し出した。
「これは君の分」
「いいの?」
「ここではこれだけが食いモンだからな。ないよりはましだよ。一人分を二人して分けっこだから少ないけど、辛抱してくれな」
「うん。……いただきます」
エリカはビスケットをかじる。コーデリアの焼いてくれたビスケットはほんのりとした甘味があったが、ヨハンのくれたものは味すらしなかった。せめて何度も何度も噛み砕いて、甘みを引き出すしかなさそうだ。
文字通りの味気ない食事を終えて、ヨハンはエリカを小さな椅子に座らせた。あの子供もそうだったが、この部屋も淡白だった。目が痛まないように、純粋な白色は少ない。家具も最低限をクリアしていればよいものばかりだ。
エリカはちょこんと姿勢よく腰かけた。それに向かうようにして、ヨハンもどっかりと椅子に座る。机に頬杖をつき首を傾げた。
「いい子だねえ。あいつらよっぽど大事に教育したんだな」
「あいつらって、おじさまとワトソンとコーデリアのこと?」
「そ。教育ってのは大事だってことを改めて痛感するよ。……まあ、それはさておき、いろいろと話をしとかなきゃならないようだね」
ヨハンは足を組みなおした。
「さて、君の言葉を整理すると、まず君は追われているわけだ」
「うん」
「追っている相手がどんなものなのかは分かってるか?」
エリカは首を横に振る。ヨハンの目が少し険しく細められた。
「あいつから何も聞かされてないのか?」
「おじさまたちは、彼らに追われてて、ひっそり隠れるようにお屋敷で暮らしてたってことしか言ってなかったわ」
「そっか。んじゃ、おじさまとやらは俺についてはなにか言っていた?」
「ヨハンという人を頼れって。友達だからって」
「なるほどね……」
ヨハンはふうっと息を吐いて、座りなおした。
「それじゃ、君から俺に聞きたいことはある?」
「どうしておじさまたちを助けてくれないの?」
「さっきさんざっぱら言ったじゃんか……」
ヨハンは苦笑して髪をがしがしと掻いた。
「納得できないわ。それにわたしは、何があってもおじさまたちを助けたいの」
「じゃあ、その質問に答える前に、俺から質問しよう。質問に質問で返さないでってのは勘弁してね。君にとってあいつらはなんなの」
「家族よ」
エリカはよどむことなくきっぱりと即答した。膝の上に置いた手に、自然と力がこもる。口元はきゅっと結ばれ、目はまっすぐとやる気のないヨハンを見据えている。
「ふむ。わかった。それでは君の質問に答えよう。ここはね、君たちを追っている敵の本拠地だからさ」
エリカは黙って言葉を待った。
「君たちを追っていた集団は『月』と呼ばれる信仰教団。ここは一つの国みたいなもんだ。ここには『月』の信徒以外は暮らしてない」
「ヨハンも、その『月』っていう教団の信徒なの?」
まさか、とヨハンは肩をすくめる。
「俺はあちらさんと合意の上でここに住まわせてもらってる。信徒じゃないけどね」
ヨハンはけだるげに椅子から立ち上がって本棚へ向かった。そこだけは淡白な点が見当たらない。
持ってきた冊子は、ぼろぼろでいろいろな言葉が走り書きされていた。
「このノートには、俺が『月』という教団について調べて研究した結果と資料が入ってる。もう事典レベルかもな」
「……字が汚くて読めないわ」
「すんません」
ヨハンは申し訳なさそうにそういった。
「『月』についていろいろ説明すると長くなる。その辺理解しといてね」
エリカはうなずいた。ヨハンはそれを見て話し始めた。
二章め突入です。