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一章‐3

 ベッドに寝転がると眠くなるのは当然のことで、自然にエリカはうとうととし始めた。レディとしてあるまじき姿とは分かっているが、睡魔には勝てない。夢の入り口に一歩踏み込みそうになったとき、


「エリカ!!」


 ドアが荒々しく、開かれた。


 驚いてばっと起き上がり、エリカは目をこする。夢の世界から現実へ引っ張り出され、眠気が消えて行く。

 改めてドアの方へ目を向けると、何か焦っているエイナルが息を切らしてこちらをにらんでいた。焦っているエイナルなんて、珍しいどころか見るのは今が初めてである。

「お、おじさま……? そんな血相変えてどうなさったの……?」

 さっきまで睡魔と遊んでいたというのに、エリカの目はすっきりと覚めていた。

 エイナルはずかずかと大股でエリカに近づいて、有無を言わさずエリカの小さな腕をつかんだ。

「エリカ、ちょっとこっち来て」

 いつもの紳士的な人ではない。眉間にしわを寄せて、指で額をおさえて、怖い顔をしたこんな人を、エリカは今まで見たことがない。恐怖心とわけのわからなさに辟易しながら、強引に引っ張られるがままだ。

 エイナルの無駄に細く長い足は大股で歩き、エリカは半ば小走りで彼の歩幅に合わせる。

「おじさま、おじさまっ? 一体どうしたの?」

 エイナルは答えない。前をにらんでいる彼の顔は、鬼気迫るものがある。いつもの『おじさま』ではない。エリカは背筋が戦慄するのを覚えた。握られている手首が痛い。

「おじさまっ!」

 大声で呼ぶ。一瞬だけ、エイナルの足が止まった。そしてすぐに歩き始めるが、さっきより歩調は穏やかになった。結局エリカの方を向いてくれることはなかったが、

「ごめん、もうちょっと待ってて」

 と、いつも通りの声色で一言よこしてくれた。エリカはそれ以上何も言わず、エイナルの言うとおり、もうちょっと待つことにした。

 最初に向かったのは従者の寝室で、ワトソンとコーデリアがそこにいた。兎の猫の人形は、表情こそ変わっていないのにどこか緊張した面持ちなのがわかる。従者二人は、エイナルが何を語りたいのか、言葉を欲さずとも理解していた。その「何を」がエリカは知りたかったが、ぐっとこらえた。

 エイナルに連れられ、エリカはまた別の場所へと移動させられた。その後ろを振り向くと、エイナルの速度にぴったり合わさるように、人形二人がついてきていた。

 エイナルが立ち止まった場所は、エリカには見たことのない部屋のドアだった。ドアには『no enter』のボードがかけてある。エイナルはそれを裏返して、そこに張り付けてあった鍵をはがす。鍵は、ノーエンターの部屋の鍵だった。

 開かれた部屋の明かりはつけられない。廊下の明かりだけが頼りだった。エイナルはようやくエリカの手を離し、暗がりの中を慣れた足取りでつかつか進む。立ち止まった先には、二つの棺がきちんと並べられていた。埃だらけの部屋の中で、その二つだけはきれいに手入れがなされている。錆び一つなく、埃一つかぶらない、新品のような美しい棺。

 エイナルはそれを開ける。廊下から零れている明かりを頼りにエリカは中をのぞいた。

 そこには、男女二人の人間が眠っていた。衣装は、灰色の簡素な薄着だ。腐敗など見当たらない。ただ眠っているだけに思える。

「二人とも、今の段階で、どれくらい持つかな」

 人形二体はエリカの足元をするりと通り抜けて、棺の前に立った。

「一時間でしょうか。ただし、ちゃんと動ける時間はそれより短いですよ」

「それだけあれば充分ですわ。お役目を果たすには、むしろ長いくらいですもの」

「うん。じゃあ、お願いね」

 エイナルはエリカに手招きする。てってってとエイナルの背後に立つ。

「時間がないから手短な説明で我慢してね。今、私たちは狙われてる」

「狙われてるって、誰に? どうして?」

「私たちはね、ある団体さんから目の敵にされてて、彼らから隠れるようにしてこのお屋敷で暮らしてたんだ。このお屋敷も、彼らに見つからないよういろいろと細工してね。でも向こうも学習能力はあったみたいでね、ついに見つかっちゃった。まあ、いつかはそうなると思っていても、まさかソレが今日だとはねえ」

 人形はぴょんと棺に飛びこんだ。

「彼らは、人の魂を人形に移すという魔法を使う」

 エイナルは棺二つにそれぞれ手を片方ずつかざす。その手から淡く白い光が生まれ、一瞬エリカの視界を奪った。思わず目を両腕でかばったが、エリカに危害が加わることはなかった。

「その被害者が、ワトソンとコーデリアと言うわけ」

 エリカに危害を加えようとしていたのは、ワトソンでもコーデリアでもはたまたエイナルでもなく、いつの間にか背後に迫っていた全身白色で埋められた人間だった。エリカは背後の気配に、本能的に振り向いた。あれは、エイナルの言う『彼ら』なのだろうか。姿かたちこそエリカにとっては不思議なものだったが別段異彩を放っているわけではない。それなのに、彼らから感じる恐怖感に、エリカは足がすくんだ。

 彼らの伸ばす手は、確実にエリカを求めている。後ろへ逃げるなり振り払うなりしなければ捕まる。でも体は震えるだけで言うことを聞いてくれやしない。苦し紛れにぎゅっと目をつぶる。

 直後、ひゅん、と風を切る音が耳元をかすり、何かを鈍器で思い切り叩くような音と共に、埃が舞い散った。

 エリカは咳き込み、目が慣れるのを待った。

 埃の晴れたノーエンターの部屋、エリカと彼らの間に割って入ったのは、メイド服に身を包んだ、人間の女性だった。砂色の、肩までふわりと伸びる髪が少しだけ揺れている。彼らをまっすぐ睨み付ける瞳は、深緑色で美しく澄んでいる。その手に持つのは、ただのモップだ。それで彼らを叩きのめしたというのか。

「ご無事ですか、お嬢様?」

「え?」

 女性は横目でエリカを確認する。この女性は、棺の中で眠っていたあの女性だ。呆けているエリカの肩に、優しくエイナルの手がかかる。

「少し、下がっていようか」

「え? え?」

 ぐいぐいと後ろまで下がらされ、エリカは状況を飲み込めず、彼女の背中を見つめる。

「あれが、コーデリアの本当の姿。もともとは人間なんだけど、長いあいだ人形にされてたから、一時間くらいでまた人形に戻らなきゃいけないんだけど。今はあれで精いっぱい」

「コーデリアは、人形じゃないの?」

「人の魂を人形に移す魔法を受けて、兎の人形にコーデリアの魂が閉じ込められてたんだ。コーデリアもワトソンも、もともとは人間だよ」

「じゃあ、ワトソンは……?」

 コーデリアはモップを横にひと薙ぎし、部屋の前を立ちふさがっている彼らを一掃した。モップで払いのけたとは思えない轟音が耳をつんざく。

「開きましたわ!」

 エイナルはさっとエリカを腕に抱きかかえ、部屋を出る。改めてエリカは現状を目だけで確認した。

 全体を淡色で埋め尽くした人間が、無数にいる。コーデリアによって倒された者もいた。彼らはまた起き上がってコーデリアに立ちふさがる。彼女の前方には、彼らが無数に現れる。

「旦那様、お嬢様をお願いします」

 エリカの前を横切ったのは、燕尾服の青年だった。おそらく、ワトソンだろう。土色のつんつんした髪に菫色の瞳が麗しい。

「頼むね、二人とも」

「お任せを」

「お気をつけて」

 二人の声を聴いて、エイナルはまた走り出した。

 次に向かった部屋で最後らしい。エリカを下ろす時、「ここで終わりだからね」と言ってくれた。これまでの道のりは、エリカは初めて通る。こんな場所があったなんて、思わなかった。エイナルや従者の二人が、ここから先は立ち入らないようにときつく言いつけていたのだ。

「……ここは?」

 廊下をずっとずっと駆けて、階段を下り続けた。地下何階にたどり着いたんだろう。エイナルがともした蝋燭だけが明かりだ。

 その一室には、器具をきちんと入れた薬品棚と冷えた机で埋め尽くされていた。エイナルが何本かの蝋燭に火を写し、視界を少しだけ明るくした。

「ここはね、もしもの時のための部屋」

「もしもの時って、今みたいな時?」

「そ。エリカは呑み込みが早いね。偉い偉い」

 エイナルは笑ってそう答える。エリカの目線に合わせ、エリカの肩にまた手を置いた。

「さて、エリカ。ここからが本題。今からいうことを、よっく聞いてね? こっからは、君は一人だ」

 どういうことなの、と言いかけてぐっと息をのむ。代わりに、無言でうなずいた。

「君はレディだから、これから私のする無礼を大きな心で許してくれると信じてる。いい? 私はこれから、君をある場所へ連れて行く。そこに、ヨハンという私とそう変わらない年くらいの男がいるはずだ。その人に、助けを求めること」

 左手に、何かを握らされる。そっと開くと、古びた銀の懐中時計が静かに時を刻んでいた。

「それは、絶対に無くさないようにね。それを途中で手放したら、ヨハンの所へ行けなくなってしまうからね」

 エリカはうなずいた。それに満足したエイナルはすっと立ち上がる。

「さて、じゃあ、無礼を許してね?」

 エリカは慌ててエイナルの袖をつかむ。

「待って。おじさまは? コーデリアとワトソンは? 大丈夫よね? ちょっとの間のお別れよね?」

 さっきから不安と恐怖が心を支配している。もしかしたら、エイナルとコーデリアとワトソンは、ここに残り続けるのだろうか。

 エイナルは一瞬言葉を止めて、またエリカに目線を合わせる。

「エリカは、レディだから、私の言うこと、ちゃんと聞いてくれるよね?」

 うんともううんとも言わない。嘘はついていない。答えてすらいないのだから、嘘が生じようはずもない。質問で質問を返しただけだ。

「……うん。レディだもの」

 エイナルの言葉に、エリカは律儀に返す。それこそが、エイナルが求めていたエリカの返事だ。

 ――おじさまは、ずるい。エリカが『レディ』という言葉に背かないことを知っているから、あえてそう聞いた。恐らく、エイナルもワトソンもコーデリアも、自分たちが無事であるはずがないことを、覚悟の上でエリカをここまで連れてきたのだろう。

 無数の足音がそう遠くないところから聞こえてくる。時間は、もうない。決断を、迫られている。

 エイナルは、そっとエリカを抱きしめた。

「エリカ。私のかわいいお姫様」

 エリカも、思わず抱きしめ返した。納得はできない。自分独りきりになるのも、エイナルともワトソンともコーデリアとも離れ離れになるのも、ちっとも納得できなかった。

「大丈夫。ヨハンはいいやつだから、きっとエリカを助けてくれるよ」

「おじさまのことも、ワトソンのこともコーデリアのこともも助けてくれる人よね?」

 エイナルはエリカを離し、また抱きかかえた。

「レディ、無礼をお許しください」

 エイナルはそのまま、エリカをそこに投げた。そこは、大きな薬品棚だ。華奢とはいえ決して小さくはないエリカが、本来ならばその薬品棚に入るわけがない。だが、エリカはすっぽりと収まり、吸い込まれるようにどこかへ落ちていく。

 エイナルの背中だけが、一瞬だけ目に焼き付けることができた。それ以上は、真っ暗闇に閉ざされ、何も見えなくなる。

「おじさま――!!」

 無駄だと分かっていても、手を伸ばさずにはいられなかった。エリカは暗がりの空間を、静かに落ちて行く。


次は二章にいきます。

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