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七章

   七 章


 ヨハンの家に着いても、エリカの不安は消えなかった。あの屋敷にはヨハンとワトソンがまだ残っているのだ。

「お嬢様」

 コーデリアが、人間の姿に戻ることができたコーデリアは、エリカの手に自分の手をそっと重ねる。

「心配性ですわね。ワトソンがついているのですから、何も不安になるものはありませんわ」

「……うん」

 ここにたどり着いて、エイナルはすぐ黒電話に手を出した。イオリの本体か、もしくはヤエガキのところか、はたまた外の世界のどこかの政府にかけているのか。誰かと連絡を取って、自分たちが『月』の本拠地からそちらへ行くことを告げていたのを、エリカは遠く聞いていた。

 電話での会話を終えて、エイナルからすぐに向こうへ帰れると聞いた。一週間ほどの猶予を与えられていたが、その必要もなさそうだ。

 思えば、エイナルたちの救出は、一日二日で終わらせたのだ。たったそれだけの時間なのに、エリカには一週間も一か月も費やしていたような思いだった。この計画を助けてくれたイオリの分身は、今はもう紙に戻っている。やるべきことをすべてやったから、もう人間の体になっている必要もないということだった。少し寂しい気もしたが、外に帰ったらいずれ会えるという、紙媒体のイオリの分身に慰められた。

 ドアが、開いた。エリカはばっと立ち上がって、玄関に駆け寄った。いけません、というコーデリアのお叱りも聞かず、彼に抱き着いた。

「ヨハン!」

 よれよれの白衣の彼と執事の帰還は、エリカの不安を吹き飛ばすに充分だった。

「ただいまー……。いやあ、ワトソン、すまんかったね」

「いえいえ。仲直りできて何よりです」

「仲直り? 何が?」

 エリカはきょとんと首を傾げた。

「なんでもございませーん。それより、……ああ、イオリは戻ったのね」

 ヨハンはエイナルの持っている紙を見て納得した。

「これで、みんなそろったのよね? 誰も欠けてないのよね? みんなで帰れるのよね?」

「帰れるよ。エリカがいっぱいがんばったごほうびだ」

 エイナルはさりげなくヨハンからエリカを引きはがし、エリカの頭を撫でた。

 どちらからともなく、相手を抱きしめた。

「よくがんばったね。私のお姫様」

「そうよ。みんながわたしを守ってくれたから、がんばったのよ。だからお説教はお手柔らかにね」

「そういわれると、甘やかしちゃうなあ」

「それとこれとは話が別ですわ、お嬢様」

「これまでのお嬢様のなさったこと、包み隠さず話してくださいね。叱りますから」

 エイナルに対して、従者二人はその辺をきちんとわきまえていた。

「けちー」

 エリカはぷうっと頬を膨らませた。

 夕食の時間でもないのに、ドアのベルが鳴った。ヨハンが出ると、潜入していたエミリオが訪ねてきた。

「ありゃ、君か」

「引き上げるの?」

「あー。俺は期日まで残ってた方がいい?」

 一週間後には、政府からの使者が来て、ヨハンを保護して『月』を破壊するということだった。ヨハンの身の安全はイオリの脅迫によって保障されており、政府による破壊に巻き込まれないよう、送還させることが決定していた。

 エミリオは首を横に振る。

「すぐに帰って問題ない。僕の雇い主が話をつけたって。あなた方の安全が確保でき次第、進軍すると言っていた」

「そ。んじゃ俺は使者が来るのを待つとしようかな」

 ぼさぼさの髪をがしがしと掻きつつ、ヨハンは気楽にそう言った。慌てたのはエリカだった。

「待って! ヨハンだけ置いて帰れっていうの?」

「ん~。まあそうなるわな。外は俺以外の命は気にしてなかったし、君らだけ先に帰った方がいいかもしれんね」

「だからってヨハンを置き去りにするわけにはいかないわ! もし幹部が恨みを持ってあなたに手を出そうとしたら、あなただけで対処できないわ」

「返す言葉がございません……」

「いいわ。だったらわたしも残る! そしてヨハンと一緒に帰る」

 のんびりしていたヨハンはさすがに慌てた。

「いやいや、君は大好きなおじさまと一緒に帰んなさい。世界政府の連中はね、融通が利かないから君を連れてってくれないかもしれないよ」

「でも残る! みんなと一緒に帰ってくれなきゃ、わたしもここに残る!」

 ヨハンに縋りついてエリカは言う。困った、とヨハンはため息をついて、エイナルの方をにらんだ。

「おまえ……この子にどういう教育してんの……。こんなくたびれたお兄さんのために身を危険にさらすって、守備範囲広すぎでしょ」

「うーん、人として恥ずかしくない子には育てたつもりだけど、正直女の子の好みに口出しできるわけないし」

「おじさまも呑気に話してないで!」

「そうはいってもね、ヨハンにはヨハンの事情があるわけで」

「わたしにも、みんなと一緒に帰るっていうわたしの事情があるわ」

 ヨハンはエリカをいったんひき離して、エリカの目線に合わせた。エリカが駄々をこねたりすねたりするときは、エイナルがこうして目線を合わせてくれていた。

「俺は大丈夫。五日間ちょっと離れ離れになるだけだよ。それに俺の身は安全だから、君はさ、先に帰ってな」

「……本当に大丈夫? 外へ帰ってきてくれるのよね?」

「うん。ちゃんと帰ってくる」

「約束よ?」

「約束する。俺は嘘つかない」

 無事で、外の世界で再会する。ヨハンはそう約束してくれた。質問に質問で返して、答えをはぐらかさない。もしも、のことを考えるとやはり不安なものは不安だったが、エリカはその約束を信じることにした。

「さあ、お嬢様。わたくしたちは一足先に帰りますわよ」

「わかったけど……どうやって?」

「お嬢様がこちらへ来た時と同じです。ヨハン、ちょっと薬品棚借りますよ」

「へーへー」

 ヨハンの寝室にある薬品棚。棚だけで中に薬品は収納されていない。

 エイナルと手をつなぎ、エリカは何の変哲もない薬品棚を眺めている。

「エリカは、ここへ来た時のこと、覚えてる?」

「うん。ヨハンの懐中時計をおじさまから預かって、お屋敷の薬品棚に入れられたわ」

「そ。行きたい場所にゆかりのあるものを持って、薬品棚に入ると、その場所に行ける。私が、全滅計画に協力してくれたみんなとエリカにかけた魔法なんだ。エリカの時は、ヨハンにかかった魔法を頼りに、懐中時計を通してここまで来たんだ」

「そうだったの。でも、今はお屋敷にゆかりのあるものって、ないわ」

「これ」

 エイナルが懐から出したのは、ワトソンとコーデリアがかつて閉じ込められていた、猫と兎の人形だった。エイナルは人形二体を、エリカにそっと渡した。

「ちゃんと持っててね。それを頼りに、屋敷へ帰る」

 エリカは人形を大事に抱きしめた。すると、急に浮遊感に襲われた。まだ薬品棚には入っていない。エイナルが、エリカを抱きかかえたのだ。

「きゃっ?」

「さて、ワトソンにコーデリア。我らが愛しの姫を守ってね」

 言われた従者二人は、失礼します、と一言ことわってから、エリカの肩に触れる。

 薬品棚が開けられた。エリカは、見送ってくれるヨハンの方を見やった。

「ヨハン。約束だからね! 破ったら怒るわよ!」

「ん。またあとで。……エリカ」

 ヨハンはぷらぷらと手を振り、見届けた。

 薬品棚にエイナルが足を踏み入れ、一瞬だけ、エリカは落下していく感覚を味わった。



 行きの時ほどの気持ち悪さはなかった。むしろ、今回は一瞬ですぐに帰って来れた。少しだけ怖くて終わるまで目をつぶっていたが、それも長時間保ち続ける必要がなかった。

「……あら?」

「帰って来たよ」

 エイナルに抱きかかえられ、守られるようにワトソンとコーデリアに囲まれていたエリカは呆気なさに拍子抜けた。下ろしてもらって改めて周囲を見回す。

 エリカの部屋の前に、下り立っていた。目の前には、エリカの寝室のドアがある。

「すぐ、夕食のしたくをしますわね。お二人とも、少しの間お待ちくださいな」

 コーデリアとワトソンは、若干早足で厨房へ去って行った。コーデリアの言葉がきっかけで、エリカは自分が思いのほか空腹だと気づいた。きゅう、と腹の虫が鳴く。

「そういえば、おなかがすいてたのね」

「できるまで、エリカの部屋で一緒に待っていようか」

 エリカはぼんっと顔を赤らめて、首を横にぶんぶん振った。

「ダメよ! レディの部屋に、殿方を入れられないわ」

「あー、そうだったね、ごめんごめん。じゃ、談話室に行こうか。そこで、エリカがどれだけがんばったか、私に聞かせてほしいな」

 エイナルは膝を折ってエリカに恭しく手を差し伸べる。そのさまは、淑女をエスコートする紳士のようだった。

「喜んで」

 エリカは手を取り、談話室まで歩いて行った。

 談話室では、自分の体験したことをいっぱい離したが、中でもヨハンのことがよく出た。イオリにも助けられたが、一番世話になったのはヨハンだったからというものなのだろうか。

 ヨハンのことが思い起こされるたび、エリカは心配でしゅんとした。

「ヨハン、ちゃんと帰って来れるのかしら……?」

「心配性だねえ、エリカは」

「だって、おじさまに負けないくらい痩せてたのよ。それに何だか危なっかしかったし、心配するなと言う方が無理だわ」

「じゃあエリカ、こう考えて見ようか」

 エイナルは続ける。

「ヨハンは約束してくれたよね。ちゃんと帰ってくるって。嘘はつかないし、一度した約束はちゃんと守る人なんだ、彼。だから、あと五日で再会できるって、楽しみにしていればいいんだよ」

「楽しみに」

「そう。約束したでしょう? だったら、何も気にならないよ」

「……そうね。楽しみにする」

 エリカの心配は、不思議と徐々に消えて行った。

 それからは、エリカは楽しそうにヨハンのことを話し、イオリに助けられたことも話し、最後には、ワトソンとコーデリアのお叱りをなるべく軽くしてもらえるよう、口添えしてもらえるよう頼んだ。

「ワトソンとコーデリアに叱られるわ。それは甘んじて受けるけれど、みんなの命がかかっていたんだもの、やむを得ないことだったのよ。だからおじさま、そうなったらわたしの味方になってくださらない?」

「どうしようかなあ……あの二人怖いんだもん」

「お願い」

「まあ、今回のエリカはいっぱいがんばったからねえ。それを考えると、エリカを突き放すのは私としても不本意だ。命に関わる事件だったし……。ん、できるかぎりがんばってみる」

「ありがと、おじさま」

「ただし、あまり期待しないでおくれね? あの二人、怖いから」

「そうする」

 ほどなくして、人間の姿に戻ったワトソンが食事の準備ができたことを伝えに来た。もう人形に戻る必要はないらしく、人間の彼はとても生き生きしているように、エリカには見えた。

「おなか減ったよ~。今夜のごはんはなにかな?」

「腕によりをかけましたよ」

「楽しみね」

 エリカは、弾む足取りで食堂を目指した。



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