一章-2
「別に、おじさまと呼ばれても不思議ではないお年ですわね」
「コーデリア、本当のことを言ってはまずいって」
「言っちゃってるから! 聞こえちゃってるから!」
兎と猫の人形はお互いにひそひそと話している。
「まあ、よろしいではないですか、旦那様。お年を重ねるにつれて素敵になるのが男性と言うものですわ」
「それ……フォローのつもりなのかい?」
「おじさま、何か辛いことでもあったの?」
再びうなだれるエイナルを心配したエリカは食後の紅茶を置いた。
「いやあ、迫りくる年には勝てないよなあって……」
「おじさまはどんなになっても素敵よ?」
エリカの言葉には何一つ下心は含まれていない。全てを悟る従者二人の弁解よりも、エリカの一言はエイナルを立ち直らせるに充分だった。
「ありがとう、エリカ。おかげでちょっと元気出た」
「? よくわからないけど、おじさまが元気になったのならいいわ」
その後、つつがなく朝食の時間は終わり、それぞれの持ち場に戻った。
エリカは歯磨きのあと部屋に戻り、本棚を物色した。背伸びして分厚そうな本を華奢な指で引っ張り出そうと奮闘する。目当ての本は、エリカには届かないような高さの位置に置かれていた。
「うーむぐ……」
自分の限界を二つほど越えた程に腕を伸ばし、足も親指がかろうじて床についているほどの状態でも、本には届かない。あと少しで届きそうなのに……、とエリカは心中で自分の身長の低さと靴底の薄さを恨んだ。
そんな自分に救いの手は差し伸べられた。背伸びも腕を限界をとうに超える必要もなく軽々と目当ての本を取り出したのは、エリカの頭上に登った猫の人形だった。
猫の人形、もといワトソンは、エリカの頭から軽々と降りて、それをエリカに渡す。
「お嬢様、失礼しました」
「いいのよ、ありがとう、ワトソン」
「しかしですね」
言いにくそうにワトソンは目を伏せる。エリカは首を傾げた。
「お嬢様、椅子か何かを踏み台にすればよかったのでは?」
「…………あ」
朝食を終えて軽く休んだら、エリカが待っているのは勉強だ。
教科ごとにワトソンやコーデリアが交代で教え、特別な教科はエイナルがそれを指導する。学校へは行っていない。そういった施設が屋敷の外にあることを、知識としてエリカは知っているが、実際に見たことはなかった。また、彼女が外へ出ることすらまれである。しかしエリカはそれが変だとも浮いているとも思わなかったし、エイナルや従者二人が上手な教育をしていたので学校へ行く必要もなかった。
この屋敷の周囲には、美しい木々や年季の入った古めかしい家がひっそりと建っている。その数は極端に少なく、このあたりに住んでいる者はエリカ達以外に見つからない。エリカと同年代の子供もいない。ワトソンやコーデリアと仲よくおしゃべりをする者もいない。
今日の最初の勉強はコーデリアが見た。女同士だからか、打ち解けていろいろと話をする。が、今のコーデリアはエリカの教師だから、多少厳しく接する。
「よろしいですか、お嬢様。足をぶらぶらさせない、背筋伸ばして」
「は、はい!」
指摘された通りにエリカはきちんと言うことを聞く。
「それでは、始めましょう」
「うん。お願いね、コーデリア」
机の上に立って小さな少女に教育をする兎の人形という光景を、この屋敷の外の者が見たら、異常と思うのだろうか、それとも何も感じないのだろうか。エリカはふとそんな考えを頭によぎらせ、すぐにコーデリアの言葉に集中した。
「立派なレディになるためには、外見だけではなく、中身も重要ですわ。むしろ、その中身が美しければ、自然と外にも表れてきます」
「中身っていうと……好き嫌いなくなんでも食べるとか?」
エリカの返答にコーデリアはくすっと笑った。
「そうですわね。それだけではなく、礼儀正しさ、教養も重要になります。ですから、姿勢正しく、はしたない恰好はしない」
「はいっ」
「お嬢様は、言われたことはきちんと直しますから、充分レディなんですけれどね」
「ほ、本当!?」
コーデリアの最高のほめ言葉に、思わず立ち上がりそうだったが、礼儀正しさを思い出してすぐに思いとどまった。
「コーデリアにそう言ってもらえるのはとてもうれしいけど、わたしとしてはまだレディには程遠いと思うわ」
「あら、謙虚ですね」
「だってわたし、まだ苦手な食べ物あるし、時々慌ててしまって、転んでワトソンの上に倒れてしまうことだってあるし、なんでもないようなことですぐ泣いたり怒ったりするし……これは時々どころじゃないことだけど」
「それだけ分かっているなら、今のところは充分ですわ。次から気をつければよいだけのことですし、お嬢様くらいのお年なら泣いたり怒ったりするのがちょうどいいのです。まったく感情が表に出ない方が却って毒ですから」
「うん。わたし、もっと勉強して、立派なレディに近づくわ。そして大人になったら、おじさまを支えるの。もちろん、ワトソンとあなたのこともよ、コーデリア」
「ええ。楽しみにしていますわ」
女性としての品格を学んだあとは、十数分の休憩を入れワトソンの数学が待っていた。数学があまり得意ではないエリカにはかなり苦痛だったが、ワトソンが教えてくれていると思うとその苦痛も充分和らいだ。
ノートに無数の計算式を書き殴り、問題の答えをどうにか導き出そうと頭を抱える。猫の人形の姿をした執事はそんなエリカにほほえましさを覚えながら、たびたびとヒントを与える。
「お嬢様、ゆっくり計算してください。時間はまだありますから」
「うん……。ワトソンのおかげで、嫌いな数学が少し好きになってきそうよ……」
「光栄です。……ああ、公式はあっていますよ。もう一度計算を見直してみてください。恐らく、どこかでミスがあるでしょうから」
「そうする」
ワトソンに言われた通り見直すと、最初の方で簡単な計算間違いをしていたようだった。それを見つけ出したエリカはもう一度、今度は用心して解いていく。すぐに答えは出せた。脂汗を額に滲ませた顔は先ほどまでノートを凝視していたが、ぱっとワトソンに視線を移した。
「できたわ!」
「ふむ。上出来です」
「やったあ。やっと一問できたわあ……」
エリカはばったりと机に突っ伏する。そしてすぐに姿勢を元に戻した。
「今日はここまでですね」
「うん。次はぜったい二問解けるようにするわ!」
数学がいかんせん苦手なエリカは、時間を目いっぱい使ってようやく一問を解くことができる。物心ついてからワトソンに数学を教わっていたが、今まで二問以上を授業時間内に解けたためしがなかった。
「次は、期待していますよ」
エリカよりも小さな図体のワトソンは、部屋の道具を最大限に活用して器用に教科書や勉強道具を片づけた。
この後は昼食をはさんで、エイナルに勉強を見てもらうことになっていた。昼食は割と質素で、コーデリアの焼いた暖かいパンとコーンスープ、そしてフルーツが少しだった。
いつも通りの昼食のはずが、エリカは敬愛するエイナルがいないことに気づいた。この屋敷では、食事は皆で食べる習慣がある。時間になると必ずエイナルが待っていて、エリカが少し遅れて到着するのがいつものことである。
今日に限って、エイナルが遅れてくるなど、エリカには少し不思議に感じることだった。
「ねえ、ワトソン」
「なんでしょうか」
椅子にちょこんと座ったエリカは、隣に控えていたワトソンの方に上半身だけ振り向いた。
「おじさまは?」
「本日の予定を見る限り、特に急ぎの用事や立て込んだ仕事はないはずですが……」
ワトソンはエイナルの予定表をぺらぺらめくって確認する。
「少し、探してきますね。もしかしたらコーデリアも探しているかも」
「お願いね」
ひょこひょこ歩いてワトソンはいったん食堂を後にする。従者二人の心配をよそに、エイナルはすぐに食堂へ来た。
「いやあ、ごめんねー。待った、エリカ?」
「少しだけね。でも、おじさまがわたしより遅れてくるなんて、ずいぶん珍しいのね」
「うん、ちょっとね」
エイナルは大股で席に着く。ほどなくして、落ち着いた表情の従者二人が昼食を運んできた。食事を運ぶ二人の動作がどこかぎこちなく感じたが、エリカはさして気にも留めていなかった。
のんびりと昼食をとりながら、また他愛のない会話をする。
「あれ、朝はあんなにおてんばだったのに、今は静かだね、エリカ」
「今日の失敗は明日に持ち越さない、がコーデリアとワトソンの教えだから」
「うん。学習意欲が旺盛でいいねえ。そういうの好きだよ、私は」
「おじさまって、人を褒めるの得意ね」
エリカはさっと食べて、ごちそうさまのあいさつを済ませる。コーデリアと一緒に、洗面所へ行って歯を磨く。次の授業はエリカの敬愛するエイナルが先生なのだ。万が一粗相があってはいけない。だから、普段から襟を正している以上に身を引き締める。
鏡の前で自分の顔を確認する。きゅっと唇を引き締めた、まだまだ幼い少女が映っている。それが自分だ。
「コーデリア、わたし、きれいかしら?」
足元に控えている兎の人形に問いかける。
「かわいらしいですわ」
うまい切り返し方だった。きれい、と問われて、かわいらしい、と答える。それはつまり、きれいではないと言っているのと大差ない。エリカは目を伏せ、深く深呼吸する。
「まだ、きれいになるにはもう少し大人になるのを待つしかありませんから、焦る必要ありませんわ」
「そうなの?」
「ええ。お嬢様がお変わりなく育てば、自然に」
さあ、と促され、エリカは部屋へと恭しく歩いていく。
部屋には、すでにワトソンが整えてくれた机に、エイナルが気楽に頬杖をついている。御年三十ほどの決して若くない男性のはずだが、彼は実年齢より少し若く、エリカの眼に映る。筋肉質ではない、貧弱な手足はすらっと長く、エリカと同じ黒色の髪は適当に結ばれている。その目はどうも疲労がたまっているようで、時々半眼になる。
「おじさま」
「うん。じゃ、始めようか」
エイナルは組んだ足を正して、授業開始を告げた。
「昔々のお話なんだけどね。ある所に小さな子供がいたんだ。その子はとても優しくてね、小さな孤児院で暮してたけどそれを恨むことはなかった。どんなに自分が空腹でも、隣にいる子になけなしのパンをあげたりもした。その子はね、みんなが幸せになれるようにって、それだけをお祈りしていたんだ。それでね、その子はただお祈りするだけじゃない。ちゃんと行動に移したんだ」
「行動って、具体的に何をしたの?」
「それほど複雑じゃないよ。困っている人がいたら助けるってこと。例えば、おなかがすかせた人がいたら、自分の持っている木の実をあげたり、暑さに苦しんでる人がいたら扇いで風を送ってあげたり、乱暴されている人を見つけたら止めに入ったりね。最初は煙たがられていたけど、その子に共感してくれる人たちもちらほら見え始めた。その子も成長するにつれて、自分のできることが増えて喜んだ。自分でできる限りのことをして、人を救っていった」
「素敵ね」
「そうだね。ここで終われば、いいお話ですんだんだけどね。残念なことに続きがあるんだ。その子に共感した人はどんどん増えて、数えきれないくらいにまでなった。だけどね、みんながみんな、その子に賛同するわけじゃない。好き嫌いの違いなんていっぱいあるからね。その子の行動や考えに疑問を持つ人が何人かいた。その子はそういう考えがあってもいいと思っていた。だけど、その子の賛同者たちは決してそうではなかった。賛同者たちは疑問を持った人に怒りを覚え、乱暴を働いた。その子に対して否定したり疑問を持ったりするのが考えられないくらいに狂信していたらしいんだよね。その子ももう後には引けなくなった。本当はこんなつもりじゃなかったのに、自分が争いの種になってしまった。その子は争いを止めようと行動したけど、何も変わらなかった。その子は祭り上げられ、少なくない人が無理を強いられ続けることとなった」
エイナルは息を吐いて、ワトソンがいつの間にか持ってきてくれた水を飲んだ。そして、エリカの方を向いて改めて言う。
「さて、エリカはこのお話、どう思ったかな?」
エリカは頭を抱える。
エイナルの授業はいつもエリカには難しい。ワトソンの教える数学とはまた違った難しさを持っている。
エイナルの出す問いには、きちんとした解答というものが存在しない。エリカが出した答えならそれが正解だといつも言う。
「うーん……なんだか、優しい子は報われない終わり方ね」
「そう思う?」
「だって、その子は人を助けたいって気持ちで動いていたんでしょう? 言葉だけじゃなく、ちゃんと行動して。その動きを理解してくれる人がいて、でもその人たちはその子の考えを否定する人たちに意地悪して。これって、なんだか本末転倒じゃないかしら?」
「確かに、人を助けようって考えた子についてって、その子を否定した人たちにひどいことしたってのは、なるほどねえ」
「その子は、どんな気持ちになったかしら」
「うん。いろいろ考えて。答えはないんだから。逆に言えば、エリカがこうだって思ったらそれは正解なんだ」
「分からないわ」
「はい。今日は終わり」
エイナルはエリカの頭を撫でて、一足先に部屋を出た。ドアの閉まる音をよそに、エリカは窓からオレンジ色に染まっていく空を見上げた。今日の日が、終わろうとしている。コーデリアやワトソンだけじゃない、エイナルからも、今日一日がいつも通りに終わることを大切に思いなさいと教わる。エリカには、今の時点ではよく分かっていない。分からないのは、実感がないからで、とどのつまりいつも通りを常に享受しているのだ。
エリカはノートを机にしまい、ベッドにばふっと寝転んだ。近くにあった人形を引っ張り込んで、無性にぎゅっと抱きしめる。
ちっちゃくて素直で感情表現豊かな女の子って……いいですよね(キリッ