六章-3
エリカが後ろを振り向くと、ここに来てから世話になりっぱなしの、やぼったい白衣を着た青年が立っていた。
エリカの目に、生気が蘇った。今までの混乱が解け、自分を取り戻した。
「ヨハン!」
呼ばれたヨハンは、青年の後頭部に銃口を突きつけている状態だった。もともとよれよれだった白衣はすすにまみれ、シャツはところどころ破れている。左手をポケットに突っこんでいるのは、けがをしているとさとられないようにするためか。
「お~、お待たせしました、お姫様。ちょっくら待ってなさいね。今、このペテン師に三発くらい弾ぁぶっ込んで助けてあげるからね」
「……ヨハン。大人しく捕まってくれてはいなかったわけですね」
「おいおい、心外だなあ。おまえさんの要求は、ガタのきてる俺の身とイオリ、そんであっちにいる従者二人だろお? それがここにいるんだから、たとえ銃口を突きつけられて次の瞬間には死ぬかもしれない状態でも、文句は言うんじゃありません」
「監視していた幹部は……ああ、殺しましたか」
「馬鹿言え。殺す価値もない野郎に弾丸くれてやるほどウチは裕福じゃねーんですよ。言ったろ? 俺の懐は寂しいんだ」
「それでどうするというのです? 僕がやれと命じれば、あれらはすべて火中に投じられる運命なのですよ」
「ほぉ? だったら、命令できない体にしてやりゃあいいわけか」
ヨハンはいつもの軽い口調で青年と脅迫の試合をしている。
「……というか、おまえさんの命は別にどーでもいい。俺にとっちゃ価値のない命だ」
ヨハンは青年の背中を蹴っ飛ばし、無理やりエリカとひき離した。いったん銃器をしまい、監視のなくなった状態のエリカを抱きしめる。
「ヨハン……!」
「待たせたな。すまん、俺のミスだ」
「……いいえ。わたしが、ドジを踏んだのよ」
エリカはヨハンの薄い胸板に顔をうずめる。心細さが、ヨハンのおかげで一気に解消された。
「お忘れですか?」
青年の声が、唐突に挟まれた。
「あなたにとって、ヨハンも敵と言うことを」
それなのだ。今のエリカに、ヨハンやエイナルが敵側の人間であるのかどうかを、確かめなければならないのだ。
「ヨハン、わたし……あの人から、わたしはおじさまに洗脳されたと聞かされたの。それは、ほんとうなの……? わたし、分からないわ。どっちが本当なの。どうしたら本当か嘘か分かるの」
ヨハンの胸にすがりついて、答えを請うた。できれば、青年の言葉がうそであってほしい。ヨハンは、エリカの頭をぽんぽんと撫でた。
「あらら、あのアホ、ずいぶん素敵な嘘を吹き込んでくれやがったみたいですねえ。なに? 『月』は毎日がエイプリルフールですって教義でもあるわけ?」
「ど、どっちなの……?」
ヨハンは笑っている。
「だいじょーぶ。俺たちは、君の味方だよ。エイナルはそんな奴じゃない。信じてやんなさい」
「おじさま……」
ふと、ワトソンの言葉を思い出す。
――誰かに何を吹き込まれても、お嬢様の知っている旦那様を信じてください。
「わたしの知ってる……おじさま」
目を伏せ、今までの記憶をたどる。
穏やかで優しい、わたしのおじさま。
美しいものが大好きで、かわいらしいものも大好きで、お気に召したものは集めて愛でた。人形に家具に絵画に小物。その中に、エリカも含まれていた。
三十代という若さの割に、顔立ちは苦労で陰りがあった。しかし、苦労を自ら話すことはしなかった。
おじさまと呼ばれるのをちょっと嫌がった。
普段から優しいひとだったが、エリカのいたらない所は厳しく指導した。それだって、決して怒鳴りつけるような真似をしたことなどなかった。いつでも、諭すように言いつけた。
「やっぱり、おじさまは、わたしのおじさまね。とても、洗脳なんてできるようなひとじゃない」
エリカは微笑んでそう答えた。
「ん。百点満点で百二十点!」
ヨハンはその答えを聞いて満足そうにエリカの頭をわしゃわしゃと掻き撫でた。




