一章‐1
一 章
夜が明けて、すっかり明るくなった朝。どこか辺境の片田舎、それでいて田舎の美しさと風情をきちんと持ち合わせている町に、小さな洋館がひっそりと建っている。
純白のエプロンに紺の制服を着たメイド・コーデリアは、ここに住む小さな少女を起こしに、廊下をすたすた歩いて行った。
ドアを申し訳程度にノックして、少女の部屋に入る。
そこは少女らしさとおごそかさを併せ持った部屋だった。少女の好みの無数のぬいぐるみが、天蓋つきの豪奢なベッドや家具にてんてんとおかれている。人形とやたら派手な装飾品に囲まれた部屋は、持ち主にはいっそ不似合いなものだった。
コーデリアはベッドで気持ちよさそうに眠る小さな少女を、優しく揺する。
「お嬢様、朝ですよ」
ぴょんと、無礼にもベッドに飛び乗る。布団が少し跳ねた。
「お嬢様、エリカお嬢様」
コーデリアが馬乗りになって再び揺すると、お嬢様――エリカは、もぞもぞとベッドに潜る。しょぼしょぼする目をこすりながら、上半身を起こした。
馬乗りになっているメイドと顔をつき合わせたエリカの顔は、まだ眠気が残っている。自慢の黒髪も、少しばかりはねていた。
「おはよう、コーデリア……」
「はい、おはようございます」
エリカが目を覚ましたことを確認したコーデリアは、すとんとベッドから飛び降りる。靴の軽やかな音が、じゅうたんに低く響いた。
エリカはベッドからのろのろと這い出て、エリカには不似合いなほどのきらびやかな箪笥に向かう。コーデリアがそれに続く。箪笥から今日の服を吟味するのだ。この、衣装の厳選の時間ですでに、エリカの眠気は完全に吹っ飛んだ。寝ぼけてその日には明らかにおかしい衣装を選んで恥をかいてしまうことがないように、自然と体が慣れていったのだ。
真剣な目で、エリカはこれにしようかあれにしようかと真剣に悩んでいる。時々、コーデリアの方を向いて、「これがいいかしら?」とか「こっちがいい?」と相談している。エリカの純粋な悩みに、コーデリアは真剣に相槌を打ってくれた。
「そうですね、今日はお天気がいいですし、こちらの明るい色にしましょうか?」
「こっちの黒いのは? 色はきつくないし、リボンがかわいくて気に入ってるの」
「ええ、ではそれにしましょうか。お着替えが終わったら、髪を整えますわ」
エリカは満足そうにうなずいて、いそいそと寝間着を脱ぎ始めた。実年齢はすでに十四なのだが、体はその年に追いついていない。女性らしい体つきはまだ遠く、どこも平べったい。肉付きもどこか貧しく、痩せている。ちゃんとしたものを食べていないというわけではない。むしろその辺は非常に気遣われている。それでこの貧相な体は、年齢に伴っていない。
いそいそと着衣の面倒な衣装をつたない手つきで着込んでいく。胸元のリボンをきれいに結べず、何度も結んではほどいての繰り返しだ。艶の輝く黒靴をそっと履き、コーデリアがすかさず用意してくれたクッションに腰を下ろす。コーデリアから鏡を受け取り、ベッドの側面に背を預けた。お行儀悪くも、床に座り込んでいる形だ。
コーデリアはぴょんとエリカのベッドに乗り、エリカの黒髪に櫛を入れる。こうしなければ、コーデリアはエリカの髪を整えることができない。
コーデリアの身長は、その長いウサギの耳を含めても、エリカの腰ほどまでしかない。せこせこと動く、従者の衣装に身を包んだ兎の人形こそ、メイドのコーデリアであった。身長のハンデを抱えながらも、コーデリアは難なくエリカの世話をする。
エリカは鏡で自分の顔色と髪を眺めながら、床に投げ出した足をふらふらとさせている。コーデリアにそれをたしなめられて、すぐに止めた。
数分もして、したくは終わった。鏡で確認した髪型は、頭の両端の髪を全てではなく少しだけ結ぶツーサイドアップだ。軽くふるふると頭を左右に振ると、きれいにまとめられた髪が続いて揺れた。
「うん! 上出来よ、コーデリア」
すっくと立ち上がり、エリカは従者に言葉をかける。
「ありがとうございます。それでは、すぐに行きましょう。旦那様とワトソンがお待ちですわ」
ちらっと、部屋の壁にかけてある振り子時計を見やると、いつもより少しばかり時間をかけていたらしい。
「大変! 急がないと。これ以上待たせてはいけないわ」
「ええ。ですが、決して焦らず、つつしみをお忘れなく」
「分かってるわ」
寝間着はコーデリアに任せ、エリカはようやく部屋を出る。
だだっ広い館で、いくつもの部屋がある。二階建てではあっても、中はそれ以上の広さを思わせた。迷宮のようなこの館でも、エリカはコーデリアの案内なしでも目的地へまっすぐと向かうことができる。コーデリアは、寝間着を洗濯室に置いてからすぐに来るだろう。
時間が迫っていても、決して慌てず焦らず。しかしのんびりとはしていられない。体だけでなく、精神も幼いエリカは、どうにか焦りを抑えようと必死だった。階段を下りて、食堂へ向かう。玄関に飾ってある花が、昨日見た花とは違っていた。おそらく、もう一人の従者であるワトソンが変えてくれたのだろう。
食堂の扉の前で、エリカは立ち止まる。次に軽く服装の乱れを確認した。襟とスカートの裾ののばし、髪を手ぐしでと整えた。深呼吸ひとつして、ようやく扉に手をかける。
「おはようございます、おじさま」
扉を開けて食堂に入り、扉を閉める。恭しく一礼した先には、エリカの慕う男性と従者がすでに控えていた。
「うん、おはよう、エリカ」
「おはようございます、お嬢様」
おじさま、と言われた男性は少しだけ顔をしかめたが努めて笑顔を作った。隣に控えているワトソンは肩をすくめた。
「あのね、エリカ。『おじさま』はちょっとやめようか?」
エリカは席につく。スカートの裾を気にしながら、背筋をぴんと伸ばす。おじさまと呼んだ男性、エイナルの言葉に、エリカはかわいらしく首を傾げた。
「どうして? おじさまはおじさまじゃない」
「いや、うん、いや違う違う。私はまだおじさまな年じゃない……断じてまだお兄さん……」
「どうしたの、おじさま?」
お行儀悪くもテーブルに肘をつき、手の甲に額をごてんと乗せてぶつぶつと何やらつぶやいているエイナルに、エリカは純粋な心配を覚えた。エイナルはすぐに立ち直って、エリカににっこりと微笑みかけた。自分の心配は取り越し苦労だと分かって、エリカも笑顔になった。
執事のワトソンがてててっとドアへと歩いていく。ドアを開けた先には、食事を運んできたコーデリアが待機していた。
「ああ、コーデリア。運んでくれる?」
「ええ、ワトソン」
ワトソンもまた、コーデリア同様人形の姿をしている。違うところといえば人形が猫であるのと装束が燕尾であることくらいだが、従者にとってその違いはそれほど大きな意味を持たない。猫と兎の人形が、三十代ほどの痩せた青年と十代ちょっとの幼い少女に仕え世話をしているのは、この屋敷では、少なくともエリカにとっては不思議なことではなかった。
香り豊かな紅茶に、ほっこりと焼き上がったパン、とろとろのスクランブルエッグにはブロッコリーが添えられている。フルーツをいっぱい入れたヨーグルトが置かれ、エリカは「いただきます」となるべくお行儀よくそれらを口にする。
が、ブロッコリーだけはためらわれた。フォークで刺して目の前で止まっている。わずかにそれは震えていて、従者にもエイナルにもすぐに分かった。エリカはブロッコリーが苦手だ。好き嫌いがよくないのはエリカ自身も理解している。問題は、それを円滑に解決できないことだ。
「エリカ? 残すのはだめだよ」
エイナルに水を差され、うっとエリカは言葉に詰まる。
「ワトソンとコーデリアが、エリカや私のために、一生懸命作ってくれたんだから、食べずに残すのは二人にも食材にも失礼だからね」
「分かってるわ。分かってるのよ、おじさま。ただね、いつもいつも肝心な時に限って口が言うことを聞いてくれないの」
苦手な食べ物をすぐに食べられないのは、エリカが我が儘だからではない。誰だって苦手なものには弱いし一人では立ち向かえない。エイナルにいつも優しく諭されているしエリカ自身も残すのは礼儀に反すると理解している。
「好き嫌いなく食べることから始めないと、立派なレディにはなれないよ?」
「……うう」
エリカはエイナルの言葉に弱った。
エリカの目指す理想の女性を一言ですべてを表す言葉、それが『レディ』である。心身共に『レディ』に近づこうと、エリカは努力することを惜しまない。好き嫌いをなくしていくのもその一歩というわけである。『レディ』という言葉は、エリカにとってそれほど重要なものだった。
「のどに詰まらない程度に噛み砕いて、あとは紅茶で流してしまえばよろしいですよ、最初の内は」
「じゃ、じゃあ、コーデリアの言うことを聞いてみるわ」
意を決してエリカはブロッコリーを口に運んだ。噛み砕いても味がわからないように、急いで紅茶で一気に流し込んだ。ごくん、と飲み込んで、一息つく。
「はい、よくできました」
「わ、わたしだって、やればできるのよ、おじさま?」
「うん、だから『おじさま』じゃなくてね……」
「おじさまはおじさまでしょう?」
「……ワトソン、ご主人様はいくつだったっけ?」
エイナルは困り顔で猫の人形に助けを求めた。
「御年三十三ですね」
ワトソンは真正直に答えた。それが助け舟になっていないのを自覚しているかしていないかははなはだ疑問が残る。
一章の導入です。ゴスロリっこっと洋館と従者という組み合わせが大好きです。