四章‐1
四 章
エリカはヨハンの研究記録を、ぱたんと閉じた。そして、ふうっと息をついて、目を伏せる。すべて読み終えた。『月』という教団のことは、一通り頭に入った。あとは、整理するだけだ。
「ヨハン、終わったわ」
「ん、お疲れさん」
椅子から立ち上がってぐんと伸びをして、それとなく窓の方を見上げると、すでに暗くなっていた。集中して、時々昼分の水をちまちま飲みつつ休憩していたが、なんとか今日中にすべてを読み終えることはできた。
「ねえ、わたし、隠れた方がいい?」
「ん? そうね、もうそんな時間か。ちょっと頼むわ」
ヨハンに言われた通り、エリカはベッドの陰にそそくさと隠れた。直後、すぐにベルが鳴り、紙袋を持っている子供の信徒が応対した。
「こんばんは」
「おう。……ん?」
ヨハンは首を傾げた。信徒が食事を運ぶのはいつものことだ。しかし今日の夜だけ、子供が違う。一か月ごとに子供は入れ替わりでヨハンのもとを訪れる。まだ一か月は経っていないはずだ。それに心なしか背丈が高い。前までの子供はエリカよりも低かった。しかも、必要もないのに淡色のコートを目深にかぶって、顔が確認しにくい。
ヨハンは眉をひそめて訊ねてみる。
「君……今月分の信徒とは違うんじゃないの?」
「……」
子供は答えない。
「黙ってちゃ、おにいさんわからないよ~?」
「もうお兄さんと呼べる年じゃない気がする」
軽口に、子供が反応した。子供は周囲を軽く確認し、強引に玄関へ入り込んだ。
「こら! 何すっ……」
大声を出そうとしたヨハンの口が、子供の手によって塞がれた。
「何もしゃべらずドアを閉めて」
ヨハンはとりあえず言われた通りにする。子供の姿を視認していないエリカは、トラブルがあったと察知し、ずっとベッドの陰に潜んでいた。
「かくれんぼはしなくて結構」
エリカはどきっとした。自分のことを言われている。隠れていることが知られているのだ。
「ご心配なく。少なくとも僕は『月』の信徒ではない」
「……信じる証拠が欲しいね。あいにく俺は疑り深いのさ」
「では、これを」
ヨハンの息を呑む音が、エリカにわずかに聞こえた。
「出てきていいよ。敵じゃあないみたいだわ」
ヨハンの声がエリカに届いた。エリカはそっと身を出し、二人のもとへ行く。
信徒のふりをしていた子供がようやくフードをとった。白色と思われていた髪はかつらで、コンタクトも外す。
整った顔立ちで、中性的である。赤交じりの茶髪と緑眼は、信徒ではないことの証拠として成立する。手に持つ紙袋には、ビスケット以外のものが隠されていた。その子供は、紙袋からビスケットと水、それから身分証明になるものを出す。それがその子供の素性を保障する。そこには『リオン・グリニッジ』という名前と、その子の顔写真があり、下には八重垣探偵事務所という社名らしきものが記されていた。
「ヨハン、知り合い?」
「まさか。俺は社交性に欠けることも自慢だからな」
「そんなの自慢したらダメじゃない……」
「あなたがエリカか」
子供は表情のない目でエリカにそう聞いた。エリカははっと目を見開いて、身構える。
「どうしてわたしを知ってるの?」
「『月』に関わる筋の人間のあいだでは、ちょっとした有名人だから」
「どういうことなの」
「それはそこにいる社交性に欠ける研究者に聞くといい。で、ヨハン」
「はいはい」
「外の世界が動き出した。『月』の全滅計画が実行される。その詳細は、あなたが提案した完全な全滅計画になるという」
ヨハンは驚く前に、訝しんだ。
「それ、立案したのはもう十年以上昔の話だろう? 世間からぶっ叩かれて誰もが腫物みたいに、なかったことみたいに扱ったあの案で? 世界はどういう風の吹き回しなんだよ」
「十数年の歳月を経て、技術発達著しい昨今、『月』という危険な集団についての認識が改まったということになったと考えている。やはりあなたの考えは正しかった、本気で対処しなければならない、と」
子供は淡々と語る。
「僕は、ヤエガキという人間に依頼されてこの教団に潜入していた。ヤエガキはあなたの友人であるエイナルとも交友があり、そのつてもあって『月』に関する調査を独自にこなしていた」
「……気に入らないね。『月』の国に住んでる信徒じゃない人間は俺だけだと思ってたのに」
「外の世界とのコンタクトを怠りがちだったあなたに問題がある。僕は、計画実行の旨をあなたに告げ、ここから退去することを伝えるよう、ヤエガキから言付かってきた。あなたに残された時間は七日。それまでに身の回りを整え、七日後の朝に来る迎えと共に逃げよ、と」
「なるほど。ほかに言われてることは?」
「本国に帰ってきたら、特別待遇で迎え、勲章も授けるという政府のことも伝えておくよう言われている」
「勲章? 誰が?」
「あなたが」
「そ。あんだけ報道陣とグルになって叩きまくった割には素敵な優遇でいらっしゃる。掌返しが得意なんだね、あの政府」
「あなたの『月』に関する研究成果と情報は、計画を実行し決断するための重要な資料となったから、それを評価したいとのことらしい」
「人殺しのための情報がねえ」
ヨハンは意地悪そうに笑いながら受け答えしてくる。
「で? 他には」
「特になし」
「じゃ質疑応答タイムといきましょうか。実はね、ヤエガキのお友達とそのおつき二人が『月』につかまってるんだけど、救出はしてくれるんだよね?」
「そのことについては何も聞いていない。恐らく、エイナル、ワトソン、コーデリアの三人の救出は、計画外」
「回りくどい言い方は好かれないよ。つまり見捨てるってことでオッケーですか?」
「問題ない」
「ちょっと待って!」
今まで黙っていたエリカが、割り込んでリオンに掴みかかる。
「どういうこと? おじさまたちを見捨てるって、何?」
「『月』の本拠地であるここを爆破する。もちろん、エイナルたちも道連れに」
「どうして! ヤエガキさん……っていうの、あなたの仕事仲間? おじさまと友だちだったんでしょう? どうしておじさまを助けないの!」
「あなたは勘違いされている。計画を実行すると決断したのは、世界各国の政府関係者たち。ヤエガキはそれを覆す権限を持たない。口添えはできても、最終的な決定権は政府関係者に握られている」
「なんでよ! 目的は『月』なんでしょう? それにヨハンにこうして伝えているってことは、ヨハンを巻き添えにしないってことよね。ならおじさまたちも巻き添えにならないよう助けるのが普通じゃない!」
「政府に関わっていない僕には何も言えない。それに契約のこともあるから、ヨハンの安全は保障されなければならない」
「ヤエガキはおじさまを助けたくないのっ!?」
「ヤエガキではない僕にはわからない」
「それでも友だちなのっ!?」
「友だちじゃないから知らない」
「何でよ……」
エリカは呟いた。リオンにいくらぶつけたところで、何も変わらない。ここで言いあっていても、何も事態は好転しないのだ。
目から涙がこぼれそうになるのを、ぐっとこらえる。悔しさで泣くわけにはいかない。
前向きに考えればいい。七日後の朝が終わりなら、まともな時間は六日しかない。だったら、その期間内に、こちら側でエイナル達を救出すればいいだけだ。




