三章‐1
三 章
冷たくて固いベッドでも、エリカには十分な睡眠をとることができた。ずいぶんと大切に育てられてきたから、環境の急激な変化についていけるかどうか不安だったが、思ったほどの苦労はなさそうだ。
いつもは、兎の人形であるコーデリアが起こしに来てくれる。だが、彼女はこの場にいない。『月』という信仰教団、それもカルト指定されるほどの集団につかまっている。コーデリアがいなくても自分で起きることができた。エリカは眠い目をこすりつつ、ベッドからむくんと起き上がる。髪はほどいて靴もぬいで、体を締め付けるようなリボンは緩めたが、エリカの着ているものは寝間着でなく昨日の装束だ。必要最低限のものしか置いていないこの場所に、エリカの身長に合うサイズの寝間着は存在しない。
リボンを結んで靴を履き、エリカはベッドから出た。薄茶色の古びた勉強机に突っ伏しているヨハンを起こそうと、彼の肩をゆする。
「ヨハン」
「う……」
「あの、朝よ?」
「あと五日……」
「ダメよ。そんなに寝たら不衛生だわ」
「うん。大丈夫大丈夫……」
「その状態の人の言う『大丈夫』は一番信用ならないわ!」
エリカは最初より強くヨハンをゆする。それでも気の抜けた問答で受け流されてしまうので、少し怒って背中をばしばし叩く。ヨハンは十回目の平手によってようやく身を起こした。
「……へいへい。起きますって」
「やっと起きた」
「君が来る前は、好きに寝て好きに起きてたのに」
ヨハンは立ち上がり、大あくびをしながら伸びをした。背中がばきばきと嫌な音を立てていたが、エリカは聞かなかったことにした。
「ああ、もうこんな時間か」
ヨハンはエリカから渡された懐中時計を確認する。え、とエリカは声を漏らした。ヨハンの声には、わずかに緊張を含んでいたのを感じ取った。
「悪いんだけど、ちょっとまた隠れててほしいんだ。寝室で縮こまってて」
ヨハンはあっちへ行けの仕草でエリカを寝室へ追いやった。エリカは言われた通りにして、寝室のベッドの影にひっそりと隠れていた。まとめていない黒髪やスカートの裾がはみ出ないように注意した。
陰からこっそり覗いてみると、玄関で誰かと会っていた。その者は昨日、「食事」を私に来た子供だった。
「おはようございます。今朝の食事分です」
「はいよ。毎度ごくろうさん」
「それでは失礼します」
短い会話を交わして、子供はすぐに去って行った。ドアが閉まり、子供がここから充分に遠ざかった頃、ヨハンは「もーいーよ」とエリカに声をかけた。
ヨハンの手にあったのは、小さな紙袋だった。
「それ、ごはん?」
「そ。今日の朝の分ね。昼と夜にまたあの子が来るのよ」
「中身は、やっぱり昨夜のと同じのビスケット?」
「うん。一人分しかないから半分こね」
ヨハンは紙袋をさかさまにして机の上にばらまいた。エリカの掌サイズのビスケットが、三枚。一枚を半分に割って、ヨハンは片方を口に放り込んだ。
「一枚とその半分が君のね」
「うん。ありがとう。いただきます」
エリカは少ないビスケットをよく噛んで味わった。自分が極端に甘党だとは思っていないが、無糖の食べ物がこんなにも味気ないとは思わなかった。
「あ、それから水はコレね。こっちにコップあるから、使って」
「うん。……それ、朝の分?」
水の入れてあるボトルは大きいとは言えなかった。
「そそ。水と食料は朝昼夜、一日に三回届けに来るのさ。信徒の子供がね」
「そうなの……」
エリカは簡素な食事を終え、コップ三分の一ほどの水を注いで飲んだ。椅子にちょこんと腰かけて、手を膝に、行儀よくして目を伏せた。
『月』という教団に、エリカの家族は捕まっている。ただでは済まされないことは、なんとなくわかる。何とかして囚われの身となっている三人を救いたいが、自分の力ではどうにもならない。そこでヨハンの力を借りようと頼んだが、ヨハンはそれを拒否した。
このままでは、捕らえられた三人は確実に危機にさらされる。そのことで、エリカは悩んでいた。もし自分一人で行動すれば、負けるのは目に見えている。彼らと同じような目に遭わされるだろう。想像しただけで怖くなった。
怖気つきそうだった。自分の世界では計り知れない巨大さを敵が持っている。知らないということが恐怖を増長させる。
ふと、エイナルの姿が思い起こされた。そこにいるエイナルは、大人の余裕な微笑でエリカをみてくれている。その後ろには、ワトソンとコーデリアがいる。みんな、屈託ない笑顔でいてくれた。
この笑顔が、自分を育ててくれたのだ。それが今、理不尽に消されようとしている。
止めなくてはならない。先のことを考えすぎて不安になるくらいなら、最初から考えなければいい。
エリカは、三人と一緒に過ごす時間を、奪われたくないのだ。
ぱちん、と目を開けた。
「……そうだわ」
思わずつぶやいた。
「うん?」
行儀悪くも椅子にもたれかかって足を組んでいるヨハンは、エリカを見た。
「ヨハン」
エリカは椅子から立ち、ヨハンの前に背筋を伸ばして立った。
「おじさまたちを助けたい。わたしを、助けて」
「やだ」
簡潔な即答だった。だが、エリカもひるまなかった。
「昨日、ヨハンが教えてくれた『月』のことも、わたしなりに理解したわ。そしてその教団がどれほど怖いのか、想像もつかないけれど……とにかく相手は強いってことも承知してる。その上で頼んでるの。決してわかってないわけじゃないわ」
「分かっててなお奴らを助けたいっての? とても理解できてるようには思えんね」
「相手がどんなに強敵だろうと構わないわ。わたしは、『月』を壊滅したいとか痛手を負わせたいとかそういう大きなことを言っているのではないの。ただ、おじさまとワトソンとコーデリアを助けたいってだけなの」
ヨハンは足を戻した。
「君一人でも、俺が君に協力しても、どちらにしても勝ち目はないよ。下手をすれば、君にだって被害が及ぶ。俺はそんなのごめんだね。長い間離れていたとはいえ、旧友の頼みを破りたくはないからね」
「なら、わたしが危ない目にならないように、あなたがわたしを守ってくれればいいのよ」
「ずいぶん無茶言うね、君……。俺は研究者でその道の人間じゃないんだから。言っとくけどね、マラソンしようものならものの一分で息切れする自信だけはあるんだ」
「一つでも自信のあるものがあるなら、いいじゃない」
エリカは続ける。
「わたし、考えたの。もしこのままヨハンと一緒にいて、味気ないごはんを食べて、何もしない時間を過ごして眠ってまた起きて……その生活もきっと悪くはないと思うのだけれど。このままずっと動かずにいて、おじさまたちが殺されでもしてしまったら……もう二度と会えないわ。おじさまたちのいない時間を、一生過ごすことになるの。わたしは、そんなの嫌だわ。ここにいれば自分は安全かもしれないわ、でもおじさまたちのいない生活なんて耐えられない」
エイナルのいない、ワトソンもコーデリアもいない。ヨハンと共に過ごす生活は、エリカにとっては長すぎる時間だ。負の感情があるほど時間は長く感じる。
「相手が強大でも、勝ち目なんてなくても、だったら少しの希望に賭けるわ。このままじっとして地獄のような一生を終えるくらいなら、少しでも抗っておじさまたちを助けるために死ににいった方がましよ」
「それで結局、死ぬことになったとしても?」
「構わない! 大好きな家族が危機にさらされているっていうのに、動かずにじっとしているだけなんて、そんなのレディでもなんでもないわ!」
エリカははっきりとそう答えた。自分が世界も知らないただの小娘でしかないのは、よくわかっている。だが、それでも状況を少しでも動かしたいのだ。
ヨハンは真面目な顔をして、しばらくエリカの強い意志のこもった眼差しを観察していた。目に文字通りの力があるとは思えないほどの半眼だが、ヨハンの目には嘘を見抜く力がこもっているように、エリカは感じられた。自分をじっくり見つめるこの目は、選定している。エリカはひるまず、ヨハンを睨み返した。きゅっと唇を結んで、スカートの裾を握りしめ、息も忘れている。
ヨハンは目を伏せ、椅子から立ち上がる。そしてエリカの頭をぽんぽんと撫でて、電話機に向かった。
「ヨハン! まだ答えを聞いてないわよ」
「はいはい。ちょっと待ってなさいね~」
焦ったエリカに対して、ヨハンは余裕でもって受話器を取る。古い黒電話をかける一方で、おたおた慌てるエリカを片手で止めていた。
数秒して、向こうとつながったようだ。
「もしもし、俺です。……いろいろ突っ込みたいことはあるだろうけど、とりあえず力貸してくんない? いやいや、別にそんなんじゃないからね? うん、分かったから。あ、うん。代わる」
ヨハンは片手であしらっていたエリカに受話器を渡す。エリカは受話器とヨハンを交互に見た。
「電話の相手が君に代わって欲しいって」
「わたしに?」
「そ。大丈夫、俺の知り合いだから」
ほら、と促すヨハンから受話器を受け取り、エリカは電話の相手に話しかける。
「も、もしもし……?」
『もしもし、初めましてエリカさん』
エリカは名を呼ばれてどきっとした。
「どうしてわたしを知ってるの?」
『君のパトロン……エイナルおじさんとは長い間お世話になっていたので。君のことは、君が赤子の時から知ってるんです。……あ、と。申し遅れました。私はイオリといいます。外の世界でのんびり暮らしてる、ちょっとした塾長です』
電話の向こうからは、落ち着いた優しい男性の声が聞こえた。イオリと名乗ったその人は、声からしてヨハンやエイナルとそれほど変わらない年のように思えた。
『私は外の世界にいるからそっちまでは直接行けない。申し訳ないんだけど、その辺の深いご理解をお願いするね。君がヨハンの所にいるという意味は分かっています。そしてヨハンの決断も聞きました。微力ながら、私も協力させていただきます』
「ヨハンの決断って、何?」
『私たちの間で取り決めていた約束ごと。君が、私かヨハンのどちらかに来たときは、エイナルと従者二人が危ないというサイン。そして君が送られてきた方が、エイナル達を救うか見捨てるかを決めるって。それで、ヨハンは、エイナルを救出すると判断した。私はそれに従う。そういうことです』
「え……!」
エリカは思わず後ろをふり返った。その目はきらきらと輝いていて、歓喜に満ちている。ヨハンは無言でうなずいた。さっきまで断り続けていたのに、ヨハンはエリカに協力してくれるというのだ。それを、本人からきちんと告げてもらえなかったのは少し残念だが、希望を見出すことができた。
「じゃあっ、おじさまを、ワトソンとコーデリアを助けてくださるの⁉」
『うん。さっきも言った通り、私は外の世界にいて、そちら側には行けないんだけど、できる限りの支援をします。そういうわけで、ちょっとエリカにご挨拶しとこうと思ってね』
「ありがとう……。これから、よろしくお願いします」
『はい、こちらこそ。悪いんだけど、ヨハンに代わってもらえる?』
「うん」
エリカはヨハンに受話器を渡した。
「はいはい。……わかった。やっとく。じゃ、また」
ヨハンはがちゃんと電話を切った。エリカにふり返って言う。
「まあ、そういうわけだから、気が変わって君のおじさまとワトソンとコーデリアを助けることにしました。よろしくねん」
軽い口調でそう告げた言葉が、どれほどエリカにとって望んでいたものか。
「嬉しがるのはいいけど、これからはちょっと忙しくなるよ。時間との勝負になるからね。あとは……味方の確保か。ちょっと難しいな」
「ううん。やるべきことを確実にこなしていけばいいのよ。もちろん一刻の猶予もないのはわかるけど」
「君、本当に育ちがいいねえ。嫌味じゃなくてさ。あいつら、君のことよっぽど大切にしてたんだろうね」
「そうよ」
エリカはにっこりと笑った。
間章はさみつつ本編です。三章突入。




