ブレイク
気がついたとき、俺と弥生は白い部屋の中にいた。そう広くはない部屋の半分よりあちら側に弥生、こちら側に俺。弥生はしばらくきょろきょろしていたが、やがて俺のほうへやってくる。しかし、ちょうど真ん中ほどまで歩いたところで、悲しそうな顔をして足を止めた。
俺も立ちあがり弥生のほうへ行こうとすると、それにぶつかった。見えない何か。ぺたり。手を当てると、指紋が付いてすこし汚れた。
「これは……」
「ガラス?」
声はこんなにはっきり聞こえるのに。間には空気しか存在してないみたいに、姿ははっきりと見えるのに。
ただ一枚のそれが、俺と弥生の間を遮っていた。
この部屋で、ガラス越しに弥生と喋り続けて、だいぶ時間がたっている。
時計はない。腹も減らない。時間の感覚はよくわからない。俺が「2時間くらい経ったかな」と言うと、弥生は「もう半日くらいこうしてる気がする」という。
「ねぇ、私たち、ずっとこのままなのかな」
ふいに不安そうな声色になって弥生が言う。
「そんなわけないだろ」
「でも、もうずっとこうしている」
「……これは夢だよ」
「夢かもしれない。夢だと思うよ。だってここに来る前は確かに自分の家で、夜で、お風呂に入って、歯を磨いて、布団に入ったところまでは覚えているもの。
でも、こんなにリアルな夢、私は見たことがないよ。もしかしたら、ここは本当にどこか別の世界で、もうニ度と戻れないんじゃないかって」
「そんなわけない」
もう一度言った。俺だって考えないようにしてきたのに。そんなこと。この夢を悪夢だと思うようなこと。
「ねぇ春樹、怖い」
弥生が俺のほうに寄りかかってきた。頭がガラスにあたってこつんと音をたてた。
「これ……壊してよ」
「無茶言うなよ」
「壊してよ。ねえ」
弥生の小さな拳が、力なくガラスを叩く。数回叩いて、諦めたように腕を下ろした。
俺が本気で殴りつければ、これは割れてくれるだろうか。そうしたら弥生の不安を取り除いてやれるだろうか。
いやだめだ。怪我をしてしまう。俺も弥生も、破片を浴びることから逃げられず傷ついてしまう。どうすることもできなかった。
「ずっと、こんなふうだったのかもしれないね」
長い沈黙の後、ぽつりと弥生が言った。
「こんなふうって?」
「私たちって、こんなふうに、見えない壁を作り続けてきたのかもしれない……」
お互いの、心の中に。
「俺……弥生のことはよく見えていたよ」
「私も、春樹がよく見えていた」
「お互いよく見えてることはわかってた」
「でも、本当はうすっぺらい何かが間にあって。壊すことなんて簡単なはずなのに、それを恐れて」
そう、弥生が傷つくことを恐れて。自分が傷つくことを恐れて。
本当の本当は――直接触れたいと願っているはずなのに。
「弥生、これは夢だよな」
「そう、夢」
「……夢の中でなら、言ってもいいかもしれない」
弥生は微笑んだ。そっとガラスに両手を当て、俺の顔を覗き込む。
「俺は弥生が好きだよ」
弥生の両手に、自分の両手を重ねた。
「私も春樹が好き」
そして、ガラス越しにキスをした。無機質な感触と、冷たいのに優しい味がした。
「……すごく幸せな夢だな」
「そうね。幸せな……」
そのとき、ぱりん、と頭上で音が響いた。
ひびが入る。ガラスが割れる。
ゆっくりと落ちてくる無数の破片、頭から浴びているのに不思議とちっとも痛くなく、それどころかガラスの破片たちはきらきらと虹色に輝いて舞ってとても美しかった。初めてこの夢を夢らしいと思った。
もう俺たちを遮るものはない、そう思って手を伸ばそうとして、世界が乱れつつあることに気がついた。
「弥生、」
――はるき、遠くから聞こえた。弥生が届く距離にあった手を引いたのが最後に見えた。その手を握るのは、あとでになるだろう。
最後に俺が言った言葉のあと、もう何も見えず、返事も聞こえなかったのに、なぜだか弥生が笑ったのはわかった。
会いに行くよ。
その約束を残して、俺と弥生は目を覚ました。
お題「ガラス」。30分で。