好きの返事は、翌日になります
「昨日、高瀬さんに言いそびれたことがあって」
朝九時半、出勤したばかりの私を一階の廊下で呼び止めた瀬尾さんは、いつもより少し難しい顔をしていた。二週間後の冬の灯り市に向けた打ち合わせで、何か見落としただろうか。抱えていた書類を持ち直し、昨日確認した展示の位置や搬入時間を思い返す。
「はい。何か変更ですか」
「いえ。あの案内、いいと思いました」
瀬尾さんが指したのは、窓際のベンチに置かれた小さな札だった。
『お買い物に疲れたら、ここでひとやすみ』
昨日の午後、私が印刷して差し込んだものだ。それまでは材質と寸法が並んでいた。家具の紹介として間違ってはいないけれど、座っていいのかは少しわかりにくかった。
「昨日、おばあさんが読んで座ってくれたんです。そのあと連れの方も。二人でしばらく話していました」
「よかった。展示品だから遠慮されるかなと思って」
「はい。高瀬さんの言葉があると、ちゃんと使ってもらえるんですね」
不意打ちに書類を抱える手が滑り、慌てて胸に押しつけた。瀬尾さんは私の返事を待っているけれど、うまい言葉が出てこない。
「……それを、言いに来てくれたんですか」
「はい」
「昨日、私たち、ここで話しましたよね」
「話しました」
「案内板の高さを変えたいって言ったら、すぐ台を作ってくれましたよね」
「端材があったので」
端材の話ではない。
作るものには即座に手をつける人なのに、褒め言葉だけ一晩寝かせてくる。昨日の午後ならちゃんと化粧も直していたのに、今朝は遅れた電車を降りて駅の階段を駆け上がってきたばかりだった。
「ありがとうございます。嬉しいです」
どうにか正面から言うと、瀬尾さんはほっとしたように頷いた。
「よかったです」
工房へ戻りかけた瀬尾さんは、ベンチが通り道に張り出しているのに気づいて壁際へ寄せた。
「足、当たりそうなので」
「あ、本当だ。ありがとうございます」
灯町テラスの一階で家具を作る瀬尾直人さんとは、私が二階のイベントスペースを担当するようになってからの付き合いだ。三つ年上の三十歳で、昼食を忘れるほど作業に集中することがある。工房の前を通るたびに奥の作業台へ目が行くのは、その心配だけではない。
せっかく会えたのに、このまま戻られてしまうのが惜しかった。
「瀬尾さん」
「はい」
「灯り市の展示名、まだ仮のままでしたよね。今度、一緒に考えませんか」
「お願いします。木曜の午後はどうですか」
「大丈夫です」
「じゃあ二時に」
約束は三秒でできた。工房の戸が閉まってから階段の途中でスマホを取り出し、予定表に『二時 展示名の相談』と入力する。仕事の予定なのに語尾につけてしまった感嘆符を、こっそり消した。
「ひより、そこで何してるの」
二階から降りてきた同僚の菜月さんに声をかけられ、私はスマホを伏せた。
「予定を入れてた」
「ちょうどよかった。灯り市の案内、最後だけ見てくれる?」
「うん。受付の説明?」
「そう。昨日直したところ」
書類を受け取りながら、私はさっきまで自分が抱えていたものを見た。端が少し折れていた。
褒め言葉には納期がない。あるならせめて、先に連絡してほしい。
*
木曜の二時、瀬尾さんが持ってきた紙には、黒く太い文字が堂々と並んでいた。
『屋内用木製長椅子・試作二号』
「これ、展示用の名前ですか」
「まだ仮です」
「よかった。座る前に申請書を書かされそうで」
窓際のベンチを前に、私は紙と瀬尾さんを交互に見た。瀬尾さんは真剣に頷く。
「相沢にも、工房の棚に貼るならいいと言われました」
「私も棚なら賛成です」
「展示には向かないですか」
「座っていい展示品だと伝わりにくいかなと」
瀬尾さんが紙を見て頷いたので、私はペンのキャップを外した。
「座ってみた印象から考えましょう。座り心地、いいんですよ。こう、立ち上がる理由がなくなる感じで」
「立ってはほしいです。次の人もいるので」
「そこは譲り合いで」
ベンチに腰を下ろすと背中が自然に落ち着いた。隣に座った瀬尾さんは座面を確かめているけれど、私は机を挟まずに並んでいるのが落ち着かない。手元の紙を見るふりをして案を出した。
「『帰りたくない椅子』とか」
「売り場が閉められませんね」
「じゃあ『そろそろ帰る椅子』」
「それなら座らないほうが」
「私の案、寿命が短い」
自分で言っておかしくなり、紙の上に変な線を引いてしまった。瀬尾さんは私のペン先を見て、それからベンチの背もたれに手を置いた。
「『帰宅判断保留』」
「急に役所みたいな椅子にしないでください」
今度ははっきり笑った。瀬尾さんの肩が小さく揺れ、私はつられて声を上げかけた。隣の会議室の扉を思い出して口を押さえると、彼も少し声を落とす。
「今のは、なしですね」
「瀬尾さん、わざと言ってますよね」
「少し」
「少しなんだ」
窓の外では自転車を押した親子が立ち止まり、灯り市のポスターを見上げていた。私は紙に書きかけた「帰宅判断保留」を線で消した。
「ここ、普段は買い物の帰りに通るだけの人も多いんです。灯り市の日は、ちょっと座っておしゃべりしていってほしくて。知らない人同士でも、荷物が多いですねとか、何を買ったんですかとか」
「それなら長椅子でよかったです」
「はい。親子で並んで座れますし」
隣に座る瀬尾さんとの間には、座面一人分も空いていなかった。ついその距離を意識して目を落とすと、間に置かれた紙が目に入った。
彼は紙を取り上げて、私のほうへ差し出した。
「どうぞ。名前、書けます」
「あ、ありがとうございます」
紙が欲しくて見たわけではないけれど、ありがたく受け取って『まちのひとやすみ』と書いてみた。瀬尾さんが覗き込み、服に残った木の匂いがふわりと近づく。
「これ、いいですね」
「それはすぐ言ってくれるんですね」
「今、いいと思ったので」
「いえ。そうなんですけど」
私が笑うと、瀬尾さんも照れくさそうに笑った。
「作るとき、どこかで座った感じを思い出したんです。場所は忘れたんですけど、誰かが横にいても窮屈じゃなくて」
「駅とか、公園とか?」
「かもしれません。何もしないで座っていました」
「それ、いいですね」
瀬尾さんが嬉しそうに座面を撫でるのを見て、私は書いた名前の下に線を引いた。
「じゃあ、決定で。帰宅判断は各自にお任せします」
「わかりました」
確認が終わっても瀬尾さんは席を立たず、私がペンをしまうのを待っていた。もう少しこの暖かい窓際にいたくて、閉めかけたバッグからスマホを取り出す。
「ひとやすみといえば、駅の向こうにいいカフェを見つけたんです。このプリン、見てください」
写真にはクリームとさくらんぼを載せた四角いプリンが写っていた。角のきっちりした姿は小さな建物みたいで、何度見ても可愛い。
「角がありますね」
「あります。そこがいいんです」
「角から食べるんですか」
「まだ食べてないので。今のところ、写真を眺めるだけです」
瀬尾さんが写真を拡大したので、私も横から覗き込んだ。
「カフェの近くに雑貨屋さんもあるんですよ。マグを買いたくて。家のが小さくて、休みの日に何度も立つ羽目になるので」
「大きいのを?」
「はい。淡い黄色がいいなと思ってます。朝から元気な黄色だと、こっちがついていけないので」
「朝は苦手なんですか」
「得意な顔で出勤するのは、だいぶ上手になりました」
つい余計なことまで話してしまったのに、瀬尾さんはまだ続きを待ってくれている。スマホをしまいかけた手を止め、私は彼の顔を見た。
「よかったら、一緒に行きませんか」
思ったより普通の声が出た。
*
瀬尾さんが口を開くより先に、私は反射的に言い足していた。
「あの、展示の参考にもなりますし。お店の見せ方とか。家具も、たぶん置いてありますし」
家具のないカフェのほうが珍しい。余計な一言を足すたびに、誘いが薄くなっていく。
瀬尾さんはコートのポケットからスマホを出した。
「来週の火曜なら休みです」
「私もです」
「じゃあ、その日に」
灯り市の四日前なら準備を一度区切って休める。あっさり決まって嬉しいのに、自分でつけた仕事の口実が今さら邪魔になった。当日は案内板の撮影より先にプリンを眺めたいし、その向かいにいる瀬尾さんも眺めたい。
「その、そんなに仕事っぽいお店では」
「仕事抜きでも行きたいです」
瀬尾さんが画面から顔を上げた。
「高瀬さんと。いいですか」
誘ったはずの私が、バッグを抱き締めたまま返事に詰まった。そこまで言ってくれるとは思っていなくて、頷くだけでは足りない気がした。
「はい。私も、そのつもりで」
「よかった」
瀬尾さんの顔が緩んだ。その表情を見ると、私も笑ってしまう。
「じゃあ、連絡先、交換してもいいですか。仕事の連絡先に、休日のお誘いを送るのも変ですし」
「そうですね。交換しましょう」
画面に表示された名前は『瀬尾直人』だった。毎月の請求書でも見ている名前なのに、自分のスマホの中にあると別のものに見える。
帰宅してから、私はカフェの近くの店を二つ保存した。瀬尾さんが楽しめそうなところを探すうちに、寝る時刻が少し遅くなった。
椅子の背に掛けたニットを見て、まだ一週間近く先だと思い直す。服を決めるには早すぎる。そう考えながら、別の色のニットも隣へ掛けた。
翌朝、歯を磨いているとスマホが震えた。
『昨日、誘ってもらえて嬉しかったです』
歯ブラシをくわえたまま画面を読み返した。その一文を昨日もらっていたら、もう少し早く安心して寝られたかもしれない。いや、かえって眠れなかった気もする。
口をすすいでから『私も楽しみです』と返した。
送ったあと、椅子に掛けていたニットの片方をクローゼットへ戻した。
*
風もなくよく晴れた火曜日、待ち合わせの駅前には十分早く着いた。けれど紺色のコートに灰色のマフラーを巻いた瀬尾さんは、もう広場に立っている。先に着いて顔を落ち着かせる計画は、目が合った時点で諦めた。
見慣れたエプロン姿ではないせいか、近づくにつれて妙にどきどきした。仕事で会うときは、こんなに遠くから互いを見ながら歩いたりしない。
「お待たせしました」
「俺も今来たところです」
瀬尾さんがスマホをしまった。工房では腕まくりをしていることが多い。コートの袖から見える指先に目が止まり、私は自分のバッグの持ち手を握り直した。
「お休みの日だと、ちょっと違いますね」
「そうですか」
「はい。木くずがついてない」
「なるべく取ってきました」
私は笑ってしまった。もう少し素敵な感想を言うつもりだったのに、掃除の確認みたいになった。
瀬尾さんは私の足元から視線を戻し、薄いベージュのコートの襟元で目を止めた。
「その色、似合いますね」
「え」
「ニットの」
「あ、ありがとうございます」
せっかく褒められたところを隠しかけ、コートの襟から手を離した。昨夜もう一度鏡の前に立って悩んだ甲斐はあったらしい。
「カフェ、こちらです」
駅前の広場を出てからも、次の角をどちらに曲がるか気になってスマホを見てしまう。つい半歩先を歩いていることに気づき、瀬尾さんの隣へ戻った。
「途中に雑貨屋さんがあって。少し見てもいいですか」
「はい。黄色いマグの」
「覚えてたんですか」
「朝から元気すぎないやつですよね」
そこまで覚えていてくれたのが嬉しくて、スマホをしまった。雑貨屋さんの場所はわかっているし、少しくらい遠回りしてもいい。
古い建物の一階にある雑貨屋さんは、猫の置物や犬の箸置きで棚のあちこちがにぎやかだった。その中で食器棚の真ん中にいるマグだけが、たいへん眠そうな顔をしている。
「見てください。この子」
私は両手で持ち上げた。薄い水色で、目が二本の横線になっている。口も横線だ。持ち手だけが無駄にきりっと四角い。
「朝の私に似てます」
「こんな顔なんですか」
「この子のほうが、まだ起きてます」
「かなり眠そうですけど」
瀬尾さんは真剣にマグを見ていた。私は隣にある黄色い鳥の形のものも持ち上げる。こちらは大きさが理想的だったけれど、くちばしが張り出している。
「これも可愛い」
「飲むとき、鼻に当たりませんか」
「そこは気持ちで」
「熱いものが入るので、気持ちでは」
もっともなので鳥を戻したけれど、その顔は捨てがたい。名残惜しく眺めているうちに、瀬尾さんは棚の反対側へ回っていた。
「こっちにもあります」
彼が指していたのは淡い黄色のマグだった。水色のものより一回り大きく、ふくらんだ頬のような丸い胴に黒い点の目が二つついている。口がないせいか、何を言っても黙って聞いてくれそうな顔だった。
「大きめですし、持ち手も広いです」
私は持ち上げ、両側から眺めた。
「……この子、何も考えてなさそう」
「そう見えますか」
「見えません? 今日は何曜日ですかって聞いても、わかりませんって言いそう」
「休日用なら、いいんじゃないですか」
その答えが気に入って持ち手に指を通すと、窮屈さもなく手に収まった。私が顔を眺めている隣で、瀬尾さんは無地のマグと底の大きさを見比べている。
「安定してますね。倒れにくそうです」
「瀬尾さんの審査、顔は対象外ですか」
「顔は高瀬さんの担当だと思って」
「では、合格です」
思わず胸の高さまで持ち上げると、瀬尾さんが声を出して笑った。
店員さんに箱へ入れてもらい、私は自分で会計を済ませた。紙袋を受け取るとき、瀬尾さんが脇へ寄って戸を開けてくれる。
「いいのがありましたね」
「はい。名前も決まりました」
「もうですか」
「曜日不明です」
戸を押さえたまま、彼が少しうつむいた。笑いをこらえているのがわかって、私は先に外へ出た。
紙袋を提げて次の店へ向かう途中、瀬尾さんが角の金物店の前で立ち止まった。ガラス越しに並ぶ小さな工具へ目を向けたまま、なかなか動かない。
「気になるもの、ありますか」
「はい。少しだけ見てもいいですか」
「もちろん」
戸を開けた瀬尾さんは棚から棚へ忙しく目を移し、木の持ち手に金属の刃がついた小さな道具を手に取った。用途のわからないものばかりなので、私は彼についていくことにした。
「これは何ですか」
「印をつける道具です。板の端から同じ幅のところに、線を引けます」
「定規と鉛筆ではだめなんですか」
「それでもいいんですけど、これだと何枚にも同じ位置でつけられるので。ここを当てて」
説明を聞いていた店主が試し用の板を出してくれた。瀬尾さんがその端に道具を当てて引くと、すっと細い線が一本ついた。
「まっすぐ」
「はい」
「私がやっても?」
「たぶん。ここを押さえて、こっちへ」
道具を受け取ると、見た目より重かった。私は言われたとおりに持ち、慎重に引いた。最初はまっすぐ進んだのに、途中で板から少し浮いてしまう。
「あ、曲がった」
「少しだけです」
「たぶんって言いましたね、さっき」
「言いました」
瀬尾さんが笑いながら板を押さえ直した。もう一度だけ試すと、今度は最後まで同じ幅の線になった。
確かめたくて顔を上げると、瀬尾さんが頷いてくれた。
「きれいです」
「これ、持って帰りたい」
店主は笑って持ち帰っていいと言ってくれたけれど、さすがに気恥ずかしくてお礼だけ言った。板を戻すとき、まっすぐな線をもう一度指でなぞった。
瀬尾さんは私が道具を返すと、持ち手を指で確かめた。
「ここの丸みが違うんです。今使ってるのと」
「持ちやすいんですか」
「俺には、こっちのほうが。長く使うと違いが出るので」
いつもより弾んだ声に顔を上げると、瀬尾さんは嬉しそうに持ち手を眺めていた。さっきマグを選んでいた私も、こんな顔をしていたのかもしれない。
「買うか迷ってます?」
「同じ用途のものは持っているので」
「でも、こっちの丸みが」
「そうなんです」
店主との話には知らない単語も出てきたけれど、尋ねるたびに瀬尾さんが実物を見せてくれた。持ち方や刃の違いを聞いていると、工房に並んでいる道具も今度じっくり見てみたくなる。
ポケットの中でスマホが震えた。服の店からの通知だったので消す。時刻を見た瀬尾さんが、手元の道具を棚に戻しかけた。
「すみません。長くなりましたね。カフェに」
「もう少し見ましょう。まだ迷ってる顔です」
「顔に出てますか」
「かなり」
席がいっぱいなら少し待てばいいと考えながら、カフェの営業時間を確かめた。その隣で瀬尾さんはようやく決心したらしく、道具を店主に差し出した。
「これ、お願いします」
店を出た瀬尾さんは、小さな紙包みを大事そうに持っていた。
「今日、買ってよかったです」
「私もマグ、買えてよかったです」
「俺はもう少し悩むかと思いました」
「結構悩んでましたよ」
「そうですか」
自覚がなかったらしい。私は笑って、保存していたもう一軒の店を頭の中の予定から外した。残りはカフェでゆっくりすればいい。
そのカフェの入口には、黒板が立っていた。
『本日の四角いプリンは完売しました』
階段の一段目で立ち止まり、黒板を読み直した。まだ午後三時前なのに、楽しみにしていた四つの角はもう一つも残っていないらしい。
「……あ」
後ろから瀬尾さんの声がした。
「すみません。俺が道具を見ていたから」
「いえいえ。そんな。次回の運営に生かします」
私は黒板の下半分を指した。
「チーズケーキもあるみたいですし。見てください、こっちも四角い」
「四角ければいいんですか」
「よくはないですけど、四角いものへの信頼はあります」
瀬尾さんが少し笑ってくれて、私はほっとした。
二階の店内には窓際の席が空いていた。コートを脱いで腰を下ろすと、足先がじんわりした。駅からここまで、思ったより歩いていたらしい。
瀬尾さんはコーヒーだけにしようとして、私につられたのかチーズケーキも頼んだ。運ばれてきた皿を前に、一口ずつ同じ角から食べ始める。
「甘いもの、食べるんですね」
「たまに食べます」
「ブラックコーヒーしか受け付けない人かと思ってました」
「そこまで厳しくしてないです」
フォークを持つ大きな手を見て、私は笑った。工房の瀬尾さんにチーズケーキを足しただけなのに、妙に新鮮だった。
ケーキは美味しかったけれど、隣の席に残ったプリンの器を見つけると少し羨ましかった。瀬尾さんに気づかれてまた謝られるのも嫌で、窓の外へ目を移す。
「灯り市の日、このくらい晴れるといいですね」
「そうですね。外も歩きやすいし」
気の利いた話題が出てこない私に、瀬尾さんは紙袋の中のマグを指してくれた。
「明日の朝から使うんですか」
「洗って乾いたら。休日用に買ったんですけど、たぶん毎日使います」
「曜日、わからなくなりますね」
「責任重大ですね、あの子」
笑っているうちにコーヒーが減っていった。隣の席に運ばれた紅茶がいい匂いで、私は次に来たらそれにしようと思った。次、という言葉を口には出さず、メニューの端にある名前だけ覚えた。
店を出るころには空の青が少し薄くなっていた。買った道具をポケットに収めた瀬尾さんが、私の紙袋へ手を伸ばす。
「重くないですか」
「大丈夫です。私の朝を担うマグなので、自分で持ちます」
「わかりました」
足も大丈夫だと思っていた。ところが駅へ向かう道を歩くうちに、右の踵が靴の縁にこすれ始めた。履き慣れたつもりの靴だったけれど、仕事の日ほど厚い靴下ではなかった。
痛みをかばって歩幅を狭めると、隣の瀬尾さんも速さを落とした。
「足、痛くありませんか」
私は顔を上げた。
「少し座ります?」
彼の視線の先にある広場には、ちょうど空いたベンチがあった。座ればまだ話していられるけれど、私の靴擦れのために引き留めるのは申し訳ない。楽しかった一日の最後に、気を遣わせたくなかった。
「大丈夫です。駅もすぐですし」
瀬尾さんは何か言いかけて、広場からこちらへ視線を戻した。
「じゃあ、ゆっくり行きましょう」
「すみません」
「謝らなくていいです」
そのまま彼は、私と同じ小さな歩幅で歩いた。
改札の前で、今日はありがとうございましたとお互いに言った。彼とは乗る電車の方向が違う。瀬尾さんがホームへ向かう前に振り返ってくれたので、私は紙袋を持っていない手を振った。
電車の座席に腰を下ろし、痛む踵を靴の中で少し浮かせた。膝には一緒に選んだマグの袋がある。ケーキの写真を見返せば向かいで笑っていた瀬尾さんの顔も浮かぶのに、何度も思い出すのは帰り道の空いたベンチだった。
五分くらい、座ればよかった。
今日は楽しかったです、と打ったあとに『もう少し』と続けてみた。けれどその先を書けずに消し、最初の一文だけを送るとすぐに返事が届いた。
『俺も楽しかったです。ありがとうございました』
その文字を見て小さく息を吐き、紙袋を抱え直した。黄色いマグをどこに置くか、帰るまでに決めておこうと思った。
*
翌日、案内図の確認に工房へ降りると、いつものエプロン姿の瀬尾さんが作業台に向かっていた。昨日買った道具が早くも手元に置いてあるのを見つけて、つい声が弾んだ。
「もう使ってるんですね」
「はい。高瀬さんのほうは?」
「今朝、使いました。飲んでも飲んでも残ってました」
「大きすぎましたか」
「いえ。とても満足です」
瀬尾さんが笑って、鉛筆を置いた。
案内図を広げて掲示の位置や借りる台の数を確認すると、五分もかからず用件が済んでしまった。紙をしまう手が遅くなる。昨日の話をしたいのに、楽しかったですの続きがまだ見つからなかった。
「高瀬さん」
先に呼ばれて、顔を上げた。
「昨日の、駅の前なんですけど」
「はい」
「座りませんかって言ったのは」
瀬尾さんは指についた鉛筆の跡を親指でこすってから、私を見た。
「休んでほしかったのもあります。でも、もう少し話したかったんです」
バッグのファスナーを閉める手が止まった。
「あ……そうだったんですか」
「帰りたいのかもしれないと思って、言えなくなって。昨日のうちに伝えればよかったんですけど」
困ったように眉を下げる瀬尾さんを見て、今すぐ昨日の広場へ戻りたくなった。
「私も、もう少し話したかったです」
瀬尾さんは意外そうに私を見た。
「そうなんですか」
「はい。自分で駅に行きましょうって言っておいて、あれなんですけど」
笑ってごまかしそうになったけれど、バッグを持ち直して踏みとどまった。ここでまた二階へ戻ったら、昨日と同じだ。
「じゃあ今日は、五分だけ一緒に休んでもらえますか」
声の終わりが小さくなっても、瀬尾さんはすぐに頷いてくれた。
「はい。お茶、淹れます」
もうエプロンを外している彼に促され、工房の端の丸テーブルへ向かった。
「足は、もう大丈夫ですか」
「今日は大丈夫です。昨日は、ちょっと靴擦れをしてて」
「やっぱり」
「そんなに歩き方、変でした?」
「変というか。高瀬さん、行きはもう少し速かったので」
瀬尾さんはお湯を注ぎながら答えた。
今日は歩き慣れた靴に戻している。昨日の服に合うからと薄い靴下で出かけたことまで見抜かれそうで、テーブルの下へ足を引っ込めた。
「普段はあのくらい歩いても平気なんです」
「はい」
「今日は、とても丈夫です」
「靴が?」
「私も含めて」
笑いながら置いてくれたカップは、業務用らしい白いものだった。持ち手が大きく、いかにも使いやすそうだ。
「これは瀬尾さんが選んだんですか」
「相沢です」
「顔、ないですね」
「全部に必要ですか」
「あると、一人の朝にも仲間が増えるので」
向かいに座った瀬尾さんと、熱いお茶を少しずつ冷ました。昨日は話が途切れると次の話題を探していたのに、今は湯気の向こうで目が合うだけで頬が緩む。
「昨日のカフェ」
瀬尾さんが言った。
「チーズケーキ、美味しかったですね」
「はい。あれ、好きです」
「プリンも、食べてみたいです」
私はカップから目を上げた。
「……私、結構食べたかったです。プリン」
「はい」
「写真、何度も見てたので」
別にいいんですけど、と取り繕いかけた私に、瀬尾さんはあっさり言った。
「次は先にカフェへ行きましょう」
カップを持ったまま頷いた。昨日は言い出せなかった次の約束が、今ならそのままできそうだった。
「行きたいです。今度こそ角から」
「四つありますね」
「全部から食べます」
「真ん中が残りますよ」
「そこは最後のお楽しみです」
一口飲んだお茶はまだ熱く、もう一度ふうっと息を吹きかけた。
「でも、道具のお店も楽しかったです。瀬尾さん、あんなによく話すんだなと思って」
「……うるさかったですか」
「いいえ。また聞きたいです。まっすぐな線も引けましたし」
「上手でした」
「持って帰ればよかった」
笑った瀬尾さんが作業台の端材を指した。
「端材なら、ここにもありますけど」
「今日はやめておきます。五分じゃ帰れなくなるので」
時計を見たらもう七分たっていて、慌てて腰を浮かせた。瀬尾さんはまだお茶の残るカップを見ている。
「飲んでからで大丈夫です。俺も、まだ」
彼が自分のカップを持ち上げるのを見て、私も椅子に座り直した。
「灯り市の日って、何時くらいに終わりますか」
「工房は六時ごろには。高瀬さんは?」
「私も、そのくらいです。片付け次第ですけど」
「じゃあ、一緒に帰りませんか」
「はい。一緒に帰りたいです」
笑ってお茶を飲む瀬尾さんを見ながら、三日後の帰り道を思い浮かべた。
次に二人で帰るときは、好きだと言おう。
*
冬の灯り市の日、灯町テラスは朝から人の声でいっぱいだった。
入口で立ち止まった人に案内を渡し、二階へ向かう人に階段の場所を伝える。午後には近所の子どもが買った焼き菓子の袋を見せてくれた。中身より袋の絵が気に入ったらしく、食べ終わっても取っておくのだと言う。
「わかる。可愛い袋は捨てられないよね」
私が頷くと、子どもは満足そうに母親のところへ戻っていった。
窓際のベンチには買い物帰りの親子が座り、男の子が父親と肩を寄せていた。
『まちのひとやすみ』
あの日書いた名前の札のそばに荷物が増え、瀬尾さんが小さな台を運んできた。父親がお礼を言う横で、男の子が彼の袖を引く。
「これは売ってるの?」
「同じもの、作れますよ」
「うちに置ける?」
男の子が父親へ振り向く。父親は笑いながら、家のどこに置こうかと聞き返した。
案内を揃えていた私と目が合うと、瀬尾さんがベンチの札を見て小さく頷いた。私も笑って頷き返し、入口から入ってきたお客様を迎えた。
夕方、屋外の小さな灯りが一つずつついた。ガラスの器に入れた電池式の明かりが、テラスの端に並んでいる。昼間とは違う色になった会場を、最後のお客様がゆっくり歩いていった。
六時を少し回ったころ、私は事務室で机の上のものを片付け終えた。
「こっちは終わり。ひより、先に上がっていいよ」
菜月さんがパソコンを閉じながら言った。
「入口の確認、私がしておく」
「ありがとう。じゃあ明日、集計の続きやるね」
「お願い。今日はよく歩いた」
伸びをする菜月さんにつられて肩を回した。疲れているはずなのに、バッグを持つと足が少し軽くなる。
階段を降りると、コートにマフラー姿の瀬尾さんが工房の前で待っていた。私を見つけて壁から離れた彼に、最後の数段を少し急いだ。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです。待たせました?」
「いえ。今、片付けが終わったところです」
工房に残っていた相沢さんに挨拶をして外へ出ると、頬が急に冷えた。マフラーへ顎を埋め、瀬尾さんと並んで駅へ向かう。
「いっぱい座ってもらえましたね」
「はい。子どもにも気に入ってもらえました」
「家のどこに置くか、相談してましたね」
「玄関に置きたいそうです」
「帰ってすぐ休める」
「靴を履くときにも使えます」
信号に差しかかるまで男の子の話をしていた。駅はもう向こう側で、電車の音が聞こえる。瀬尾さんが手袋を外してスマホの時刻を確かめたので、私はバッグの持ち手を握り直した。
「高瀬さん」
「はい」
「もう少し、一緒にいたいです」
隣を見ると、スマホをしまった瀬尾さんが照れた顔でこちらを見ていた。
「今日は足、大丈夫そうですけど。それとは別で」
信号が青になって人が渡り始めても、二人とも足を出さなかった。私は彼を見たまま頷いた。
「私もです」
横断歩道を離れて川沿いの道へ入ると、車の音が遠のいた。街灯の映る水面を眺めながら切り出す機会を探しているうちに、瀬尾さんが歩く速さを緩めた。
「このあたりで戻りますか。それとも」
「瀬尾さん、少し止まってもいいですか」
欄干の前で向き合うと、急に手の置き場に困った。コートの袖をつまみながら顔を上げる。瀬尾さんは工房で話すときと同じように待ってくれていて、どうにか最初の言葉が出た。
「私、瀬尾さんと出かけるの、すごく楽しみだったんです」
「はい」
「それで、楽しんでもらいたくて、お店も調べて。話題も、いくつか考えてました」
そこまで準備していたことを自分から明かしてしまい、頬が熱くなった。それでも話し始めた勢いがあるうちに続けた。
「でも、この間、工房でお茶を飲んでたときも、すごく楽しくて」
瀬尾さんが頷いてくれたので、袖をつまんでいた指を離した。
「何もない日にも、会いたいんだなって思いました」
今度はちゃんと目を見て言った。
「瀬尾さんが好きです。恋人になりたいです」
瀬尾さんが目を見開き、私が息を吸い直すより先に一歩近づいた。
「俺も好きです。ぜひ」
返事は、今日届いた。
聞きたかった返事が嬉しくて、口を開いたまま何も言えなくなった。瀬尾さんが少し心配そうに私の顔を覗く。
「……高瀬さん?」
「はい。聞こえてます。嬉しいです」
声は震えたけれど、顔は勝手に笑っていた。瀬尾さんもほっとしたように笑ってくれて、その柔らかい表情をもっと近くで見たくなった。
「俺、昨日から、今日何を話すか考えてました」
「そうなんですか」
「でも、先に言ってもらって」
彼は困ったように笑い、マフラーに少し触れた。
「考えてたのより、今言ったほうが正直でした」
用意していた言葉もいつか聞いてみたいけれど、今ねだったら顔の熱が引かなくなりそうだった。頷いて冷えた指を袖へ戻そうとすると、瀬尾さんがその手に目を落とした。
「手、つないでもいいですか」
「はい」
差し出された手に自分の手を重ねると、指の付け根の硬さが伝わってきた。持ち方を迷う私を待つように彼の指がゆっくり曲がり、そっと握り返すと笑ってくれた。
来た道を戻りながら、隣の腕に自分のコートが触れる近さにどきどきした。瀬尾さんの手も初めは冷たかったけれど、つないでいるうちに温かくなっていく。
「今日は、ちゃんと歩けます」
緊張してそんなことを言うと、瀬尾さんは私の靴を見ずに頷いた。
「はい。でも、ゆっくり行きたいです」
私は笑って、つないだ手に少しだけ力を入れた。
改札に着いても手を離せず、人の流れを避けて端に寄った。瀬尾さんも引き抜こうとはしないので、顔を見合わせて少し笑った。
「また、連絡します」
「はい。私も」
ようやく離した手に冷たい空気が触れた。改札を通って振り返ると、今度は瀬尾さんのほうが先に手を振っている。私もまだ彼の指の感触が残る手を上げた。
*
翌朝、黄色いマグにミルクティーを注いでいるとスマホが震えた。
『おはようございます。昨日のことなんですが』
椅子に座って続きを待ちながらマグを両手で包んだ。何も考えていなさそうな顔が、今日は少し得意げに見える。
『手を握り返してもらえたのが、嬉しかったです』
思わずスマホを伏せた。昨日あれだけ喜ばせておいて、まだ追加があるなんて聞いていない。頬が緩むのを抑えられないまま画面を戻すと、もう一通届いていた。
『今日も会いたいです』
一人でよかったと思いながら、笑ったまま返事を打った。
『私も会いたいです。今日、仕事が終わったら会えますか』
すぐに既読がつく。
『はい。会えます』
予定表に入れようとして、先にもう一つ約束を増やしたくなった。
『あと、次のお休みはプリンを先に食べたいです』
『そうしましょう。角を一つ分けてもらえますか』
大きなマグのミルクティーはまだたっぷり残っていた。一口飲んでから、四つの角を二人で分けるところを想像する。
『半分あげます』
送ってから、もう一通打った。
『今日も好きです』
返事を待つあいだ、私は湯気の向こうで笑っていた。
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