第32話 雲を消した祝福
祝祭広場の上から、雲が消えた。
夕刻の光が城館の白壁へ差し、金の飾り紐を結んだ壇上へ落ちる。広場を埋めた人々が一拍遅れて歓声を上げた。その中心で、ミレーユは掲げていた両手を下ろせずにいた。
西の国境から流れ込んだ三方向の豪雨を城下へ落とすな。水務院にそう命じられ、祝祭広場の空を晴らした。姉の雨帳を読めないと認めたあとも、家族は祝福を使う自分を後継者と呼び続けた。できなければ、姉に代わる雨読みとして見放される。だから両手を上げた。低い通りへ雨を落とすより、空を退ける方がましだと思った。
肩へ掛けられた晴れ色の布が、まだ風にはためいている。雲の端を押し分けた風は、広場を越えて南東へ走っていた。
壇の下では、雨除けにしていた布を商人たちが畳み、濡れた石畳へ椅子を戻していた。母親に抱かれた子どもが、初めて見る青空を指さしている。あの笑顔まで嘘だとは思いたくない。晴らせたことは本当だ。なのに、南東へ走った風の先だけが暗い。
「見たまえ。晴れの祝福こそ、民が望む希望だ!」
トリスタンが両腕を広げた。群衆から名を呼ばれるたび、胸元の金糸が揺れる。
壇の脇では、水務院の書記が祝福記録票を待っていた。術者が開始・終了時刻・風向き・対象雲・自覚症状を書き、あとから影響を追うための紙だ。最上段の「城下晴天」には、もう大きな丸が付いている。
「時刻は夕鐘の四半刻前。風は……」
「成功の時刻だけでよい」
トリスタンが書記へ言った。
また歓声が上がる。その底に、細い音が混じった。
遠い。祝祭の楽鐘とは間隔が違う。以前、祝福のあとに遅れてきた洪水で堤防倉庫が流された時と、同じ増水鐘だった。一度、しばらく空けて二度鳴った。
「今の鐘は?」
「祝福を喜んでいるのでしょう」
笑いながら答えた役人の肩越しで、南東の空が鈍く光った。押し分けた雲の行き先だった。
ミレーユは晴れ色の布を外し、壇の階段を下りた。
「観測塔へ行きます」
「成功の発表が先だ。君はここで笑っていればいい」
「鐘の意味が違います」
返事を待たず、人の間を抜けた。背後では自分の名がまだ呼ばれている。階段を踏み外しそうになり、裾を片手でつかんだ。
下流の鐘は三度目を鳴らした。
◇
水務院の観測塔は、広場の東端に立っていた。
螺旋階段を上がるあいだに日が沈み、最上階の細窓は灰色へ変わっている。観測係が二人、南東の水位札と風向盤を見比べていた。ミレーユが入ると、片方が札を伏せかける。
「見せて」
「ですが、トリスタン様からは城下の記録を先にと」
「下流の鐘が鳴っています。見せてください」
声が速くなった。姉ならもっと静かに言える。そう考えた途端、喉にある言葉がどれも借り物に思えた。
伏せられた札を自分で開く。
下流村の川は、祝福を始めた直後から上がっていた。一枚目は踝、二枚目は水位棒の赤線まで指二本。三枚目には、橋脚へ流木が当たり始めたとある。
観測係は三枚の札を時刻順に置き直した。最初の札には、川岸の洗い場から桶が流されたとある。次には低い畑の畦が見えない。最後の札だけ紙端が破れ、運んだ者の泥が乾かず残っていた。
「上流で新しい雨は?」
「ありません。こちらの塔から見える範囲では」
「風向きは」
観測係が盤の針を指した。南東。広場で雲を押し分けた方向と同じだった。
雲は消えたように見えただけだった。水は残り、南東へ寄せられて、同じ川へ落ちたのだ。
記録票の大きな丸が、ひどく白々しく見えた。
階段を上がる靴音がした。トリスタンと書記、役人が二人入ってくる。
「祝祭を中断して、何をしている」
「下流水位が上がっています。私が祝福を使った時刻と一致します」
「城下は晴れた。下流の雨は別の雲だろう」
「風向きも一致しています」
「推測で成功を汚すな。公表するのは城下の晴天と、祝祭が予定どおり続いたことだけだ」
トリスタンは穏やかに言い、書記へ顎を向けた。書記の筆が「下流」の行を避ける。
あの人は、失敗した自分を庇ってくれている。少し前までなら、そう思ったはずだ。皆が笑うなら、それが正しいと。
窓の外で、南東の空がもう一度光った。遅れて届いた雷は、広場の歓声を震わせた。
ミレーユは壇に背を向ける。
書記の手元から記録票を受け取り、空いていた欄へ祝福の開始時刻を書いた。終了時刻。南東の風。下流の鐘。水位棒の赤線。流木。
「救護伝令を出してください。川沿いの家から高台へ。次の水位札を待たず、橋の鐘も鳴らして」
役人が顔をしかめる。
「命令権は水務院にあります」
「では、私の名で依頼してください。祝福を使った本人が、被害の可能性を記録しています」
「ミレーユ。余計な責任まで背負うことはない」
成功宣言を載せた紙を、トリスタンが差し出した。
受け取らず、広場へ面した窓を開ける。冷えた風が塔へ流れ込み、記録票の端を鳴らした。下では、晴れた空を見上げる人々がまだ壇を囲んでいる。
「記録に、私の名を入れるのですか」
書記が念を押した。
「はい。命じられたことも、私が使ったことも、起きたことも」
書けば、晴れの聖女という席から降ろされるかもしれない。書かなければ、下流で増えた水には誰の手も残らない。
「発表なら、私がします」
窓辺の小壇へ降りた。歓声が近づく。晴れ色の布を着けていないことに気づいた人から、声が細くなった。
「晴れたのは、ここだけです」
広場の端まで届くよう、息を継いだ。
「私が移した雨で、下流が沈んでいます。救護の荷車を先に通してください。祝祭の道を空けて」
沈黙のあと、誰かが笑う。失敗を隠すための演出だという声も上がった。トリスタンは背後から「確認中だ」と繰り返した。
説得される気のない人の顔だった。
それでも広場の荷車が一台、飾り幕を外し始めた。次にもう一台。観測係が橋の鐘へ走る。
記録票を窓台へ置き、最後の欄に名を書く。
ミレーユ・ヴァルクール。
今までその名は、晴れた空の下に置かれてきた。今日は、増えた水位と同じ紙の上にある。
◇
夜、私室の卓には祝福記録票と三枚の水位札が並んでいた。
祝祭用の鏡には布を掛けた。髪から金の飾りを外すと、留め針が一本だけ卓の下へ転がる。拾う間にも、窓の外を救護車が通っていった。
公式便へ出せば、成功宣言だけが残る。エリナへ直接送るなら、祝福の時刻も風向きも、下流の水位も要る。姉には故国へ入る権限がない。この記録さえ届けば、押し出された雨の次の行き先を読めるはずだ。
救護車の戻りはまだない。代わりに、下流へ向かった車輪が泥を跳ねる音だけが、ときおり窓下を横切った。ミレーユはそのたび、札に記された橋脚と赤線を見た。自分が広場に残って笑っていた時間も、同じだけ川は増えていた。
新しい紙へ、数字を写した。
夕鐘の四半刻前、祝福開始。南東の風。二つ目の鐘で水位棒の赤線まで指二本。終了後も増水継続。橋脚へ流木。
許しを求める文は書かなかった。何をすれば許されるかを姉に考えさせるのは、また自分の重荷を渡すことになる。
代わりに、最初の一行へ書く。
『祝福によって移動した雲と、下流被害の観測記録を送ります』
控えにも自分の名を書く。空いた欄は空いたまま残し、見ていないことを埋めなかった。
扉を小さく叩く音がした。昼の観測係が、濡れた外套のまま立っている。救護車と一緒に国境近くまで行くという。
「公式封は使えません。検問で開かれます」
「分かっています」
記録票と水位札を油紙で包み、自分の小さな封印を押した。後継者として渡された印だった。今夜は、成功の証ではなく、自分のしたことを隠さないために使う。
「エリナお姉様へ。謝罪の手紙だとは言わないで。下流を救うための記録です」
伝令は包みの表裏を確かめ、内ポケットへ入れた。
「届けた証拠は、どう返しますか」
「受領した時刻と、あなたの名前を残してもらって」
扉が閉じる。
卓上には控えの記録票が残った。城下晴天の大きな丸を一本の線で消さず、その下へ下流の水位を書き足してある。
窓から見下ろすと、救護車が祝祭の飾りを外したまま城門を通り、その荷台に伝令が乗り込んだ。




