第19話 国境の避難民
最初に門を通ったのは、歩けない老女だった。
午前の光が白く照り返すアルヴェーン領の国境門で、治療係が小さな通用口から担架を受け取る。門の外には、乾ききらない外套をまとった故国の被災者が列を作り、内側では領民代表と守備兵が貯水樽を背に立っていた。
昨夜まで分からなかった故国の被害は、泥のついた靴と空の水筒になって目の前へ来た。堤防倉庫を流された人々を今日の配水前に受け入れなければ、病人から水を失う。だからといって人数も期限も決めずに門を開けば、干ばつ領の井戸まで下がり、今度はこちらの暮らしが立たなくなる。
エリナが夜明けから数えた世帯札を握り直すと、濡れた紙の冷たさが、薄くなったはずの手のひらへまた戻ってきた。
「病人と子どもを先に。飲み水と治療分だけ渡してください」
守備兵がうなずき、通用口の脇へ器を並べた。
「待ってくれ」
領民代表の男が貯水樽を叩いた。鈍い音がして、外の列からも顔が上がる。
「うちだって井戸が下がっている。水が欲しいなら、せめて働ける者から入れるべきだ」
「歩けない人間へ先に配ったら、明日はもっと来るぞ」
別の声が重なった。
門外の若い男が、老女の担架から手を離した。
「働く。水路でも石運びでもする。だから家族を入れてくれ」
その返事を聞いた途端、喉まで言葉が上がった。父の領民です。私が責任を持ちます。
言ってしまえば、門の内側にも外側にも、自分一人を差し出せば済む形を作れる。昔から一番よく知っている方法だった。
横に立つサーラが、空の柄杓で貯水樽の縁を一度鳴らした。
「で、誰の水を約束するつもりだい」
エリナは口を閉じた。
樽の隣には、朝の貯水量を示す公開水位板が吊られている。夜間貯水の残量、城下の世帯数、門外で確認した人数を、書記に同じ面へ書いてもらった。
数字の下へ、白墨で線を一本引く。
「ここまでは、誰の労働とも交換しません」
門の内側が静かになった。
「病人、子ども、働けない方を含む最低配水です。故国の方だけを優先する線ではありません。アルヴェーン領の方にも、同じ量を先に確保します」
「その上はどうする」
領民代表の声には、まだ棘が残っている。
「ここにいる全員で決めます。残量を隠さず、仕事を水の条件にもいたしません」
「それでは、働かない者まで同じか」
「生きるための水は同じです。水路を直す仕事には、別に給金を出します」
若い男が何か言いかけ、老女の担架を見てやめた。
通用口から渡された木椀を、外套の裾に隠れていた子どもが両手で受け取った。一口飲むと、残りを隣の幼い妹へ差し出す。治療係は新しい椀を満たし、姉妹の間へ置いた。
門はまだ大きく開かない。
その前で水位板だけが、内と外の両方から読める向きへ掛け直された。
◇
午後の国境集会所には、公開水位板と二枚の長机が運び込まれていた。
片側へ領民代表、もう片側へ被災者の世帯代表が座る。カイルは包帯で固定した右肩をかばい、両方の机から同じ距離に席を取った。サーラは壁際で腕を組み、書記は空欄の多い受入票を前にしている。
エリナの前には、薄い豆のスープが置かれていた。冷める前に一口だけ飲むと、塩が妙に濃い。水を減らした分を味でごまかしたらしい。
サーラも同じ椀をすすり、眉をしかめた。
「これを節水の成果に数えたら、料理番を水路へ回すよ」
張っていた声が少しだけ緩む。
書記が受入票の案を指で追った。世帯ごとの最低配水から十四日後の再確認へ進み、働けない者への同量保障まで読み上げる。紙を送る音を一つ挟んで水路補修を希望する者の賃金へ移り、最後に双方一名ずつが受ける苦情窓口を示した。
「十四日で出て行け、という意味なら署名できない」
被災者側の女性がすぐに言った。
「橋も倉庫もありません。戻れと言われても、戻る場所がない者がいます」
領民代表も机へ身を乗り出す。
「期限がないなら、こちらも承知できない。井戸が下限を割った時、誰が減らすんだ」
用意した言葉が、最初の一項で止まった。
エリナは受入票の「滞在期限」を指で隠して読んでみる。これでは、話し合いの日が追い出す日へ見える。
「再確認日、と書き換えます」
「名前を変えただけでは困る」
「はい。十四日ごとに、水位と必要量を双方が見直します。下限を割る前に、石切場跡の貯水池へ宿営を分ける案も同じ票へ入れます」
カイルが地図を開いた。
「移動が必要になった場合、護衛と運搬費は領が負担する。命令で今ここに決めるつもりはない。距離と水量を、代表者に確かめてもらいたい」
領民代表は、すぐにはうなずかなかった。
「補修をしない世帯の延長は」
「仕事を延長条件にはしません」
エリナは答えた。
「直して増えた水量は、全世帯の判断材料にします。働いた方には給金を支払います。水と賃金は、同じ欄に書きません」
被災者の若い男が俯いたまま尋ねる。
「働けるのに働かなかったら、門の人間は納得しないだろう」
「あなたが決めた仕事を、給金と休みを確認して引き受けるなら記録します。家族の水を人質にして選ばせた仕事は、合意として残せません」
彼は返事の代わりに、補修班の希望欄へ自分の職を記した。石工。その下でペンを止める。
「妻は子どもを見ます。仕事には出られない」
書記が、妻の欄から補修希望の印を消した。最低配水の数字はそのまま残る。
領民代表はそれを見たまま、両肘を机から下ろした。
「こちらからも二人出す。どれだけ増えたかは、この板へ毎夕書け」
「被災者側の者も一人、測るところへ立たせてください」
「数字を読めるのか」
「読めない者へ教えるところからです」
壁際から、サーラの声が飛ぶ。
「水は肩書を見ないよ。測り方を間違えたら、あたしが両方まとめて怒鳴る」
不承不承の笑いが一つ起きる間に、書記は五つ目の修正を書き込み、代表者たちはそれぞれ署名した。
カイルの名は領の負担を保証する欄へ収まり、命令者の欄を空白のまま、守備兵へ門を開く時刻を伝える鐘が鳴った。
被災者の女性が椅子を引き、領民代表へ声を投げる。
「水路の詰まりは、上流からですか」
「下から触ると余計に詰まる。長靴があるなら見に来い」
仲直りした声ではなかった。
それでも代表たちは、同じ出口を選んだ。
◇
夕方の国境水路は、掻き出した泥と葦で足の置き場もない。
住民と被災者を組ませた補修班が、格子へ詰まった枝を外している。サーラは道具の持ち方を見て回り、エリナは水位板の写しと流量桶を見比べていた。
最初の刻より、水が桶を満たす音がわずかに早い。
「板へ一目盛り足せます」
被災者側の測り手が言うと、領民側の青年が首を振った。
「まだだ。泥を流した直後は速くなる。次の刻も同じなら書く」
「なら、次も測る」
返事は短かった。測り手たちは桶の横へしゃがみ込み、滴の間を一緒に数え始めた。
エリナは口を出さず、別の組へ移る。
格子の下で、鍬の先が柔らかい泥とは違う音を立てた。
「布です!」
引き上げられたのは、麻布に絡んだ帳面の束だった。紐は切れ、頁の端が水の中で揺れている。
誰かが日向の石へ広げようとする。
「乾かさないでください」
エリナは浅い桶へ水を張らせ、その中へ束を移した。
「今、擦れば表面ごと失います。見つけた場所と時刻、触れた方の名前を先に」
背後で、木の柄が泥へ落ちた。
振り返ると、補修希望に職を記さなかった初老の男が、桶を見つめていた。集会所では被災者側の列の後ろに座り、一度も発言しなかった人物だ。
「その罫線……堤防日誌です」
「分かるのですか」
「水務院で書記をしていました。辞めたのは三年前ですが、訂正線の位置は変わっていません」
男は桶へ手を入れず、泥のついた膝を地面へついた。
「水位を直す時は、元の数字を残す。消して白くすることはありません」
サーラが人を下がらせて周囲に杭と縄を置く間、さきほどまで言い合っていた双方の測り手が、今度は発見時刻を声に出して確かめ合った。
エリナは責任者の名を尋ねなかった。
「今ここで読めることだけ、教えてください」
男がうなずく。
夕日の角度が低くなり、水の中の頁へ斜めに差した。白く削られた水位欄の下に、細い溝が浮かぶ。
「数字の跡があります」
領民代表の靴が、桶の縁で止まった。
別の被災者が、濡れても残った赤い発行番号を見て前へ出る。
「これ、門へ貼られた安全宣言と同じです。倉庫番が鐘を鳴らした日に見た」
桶のそばでは、直した水路が途切れず流れていた。
元書記は顔を上げず、もう一度だけ番号を読んだ。
「同じです。朝の宣言と、消された水位が」




