翠緑の司令官と金の指輪 〜戦地へ赴く天才司令官が「もし僕が帰れなくても」と弱音を吐いたので、腰に巻きつく腕を振りほどいて、窓の外にぶん投げました〜
それは、眩しい陽光が降り注ぎ、爽やかな風が吹き抜ける、温暖で豊かな大国の王都で、半年に及ぶ長期公演を行っていた劇団一座の物語――。
各地、各国を旅しながら公演を続ける一座の中で、看板を背負う、十八歳になったばかりのある一人の娘。
名もなき旅芸人の一座へ、宮廷の重鎮でもある高位貴族のお屋敷から、直々にお声がかかったのはそんな折のことだった。
身分なき平民の娘が、高位貴族の屋敷へと夜に呼ばれる――。
それが一体どういう意味を持つのか、そんなことは百も承知だった。
娘は静かに、けれどしっかりと腹を括って覚悟を決め、その豪奢なお屋敷へと向かった。
――だが。
重厚な寝室の扉の先で、娘を待っていた男の姿は、彼女の予想とはまるで違っていた。
十ほども年上に見えるその男には、高位貴族が身に纏うような、人を寄せ付けない張り詰めた鋭さなど微塵もなかったのだ。
そこにあったのは、どこか人懐っこい笑みと――
――月の光を浴びてキラキラと輝く、見たこともないほど鮮烈な、翠緑石の瞳だった。
娘は一座の誇りを胸に、お作法通りに淡々と夜のお世話を済ませると、乱れた衣服を素早く整えて退出しようとした。
「ねぇ、もう帰ってしまうの? 君さ、色んな国を旅しているんだろう? よかったら、その国の話を僕に聞かせてよ」
背後からかけられた男の無邪気な声に、娘は足を止め、振り返る。
「わかりました。――どのような国のお話をご希望ですか、閣下」
軽く膝を折り、ふわりと礼をとりながら、恭しく答えた。
「そうだなぁ……。まず今日は、君の故郷の話を聞かせてほしいな」
男のその純粋な好奇心に満ちた言葉に促され、娘はぽつりぽつりと、激しい吹雪に閉ざされる、遠い北方の生まれ故郷の話を語り始めた。
この温暖な国では、雪という存在そのものが酷く珍しい。
男は子供のように目を輝かせ、真っ白な世界の暮らしについて、次から次へと話を強請ってきた。
よほど娘の語る物語が気に入ったのか、それともまだ話が聞き足りなかったのか。
「君たちの劇団、しばらくこの王都で公演するんでしょう? じゃあ、その間は君、ずっとうちに通いなよ」
男はそう、悪戯っぽく笑いながら強引に約束を取り付けてみせた。
――あんな雪ばかりの退屈な田舎の話を、これほど喜ぶなんて。
――浮世離れしたお貴族サマには、平民の泥臭い生活なんておとぎ話みたいに聞こえるのかしら。
娘はそんな、変な人を見るような少し冷めた心地を抱きながら、劇団の宿舎へと帰った。
しかし驚いたことに、明日からあのお屋敷へと毎晩通うための大金の手回しが、裏ですべて完璧に済まされていたのだった。
それから毎晩、男の寝室では、娘の故郷の話や他国の話が静かに語られるようになった。
時には旅先で見てきた大陸の情勢を聞かれることもあれば、故郷に伝わる古い民話や神話など、男の飽くなき興味はどこまでも尽きることがなかった。
「君の観察眼は本当にすごいね! 君と共に世界を旅したら、きっと何倍も、何十倍も楽しいだろうなぁ!」
ベッドの上で膝を抱え、まるで遠い異国の景色を思い描くように、男はそう無邪気に声を弾ませる。
そして男は、「僕さ、本当はいつかこの国を出て、世界中を旅しようと思ってたんだ」と、今まで誰にも明かしたことのない、決して叶うことのなかった美しい夢をぽつりぽつりと語りだした。
「僕さぁ、うっかり高位貴族の次男に生まれちゃったでしょう?
このご時世だからさ、次男って言っても“スペア”として、兄上と全く同じだけの過酷な勉強が待っていたわけ。
しかも僕の兄上、超絶優秀であり得ないくらいの勉強量だったんだよ。遊ぶ時間はもちろん、寝る時間も全然ないの。
でも僕、兄上しか比べる人が居なかったから、世の中そんなもんだと思って必死に頑張っちゃってたんだよね」
「――高位貴族というのも、色々と大変なのですね」
娘は少しだけ呆れたように、けれどどこか同情を込めて相槌を打つ。
「それでね、ようやく兄上が家督を継いで、兄上のところに男の子が二人産まれてさ。
二人とも凄く優秀だから、よし、これでお役御免だ! もう僕のスペアは必要ないよね! って大喜びして、ウキウキで旅に出る準備をしてたんだよ。
……そしたらさ。
兄上が急に暗殺されてしまってさ。
子供たちもまだ小さいからって理由で、うっかり僕に家督が回ってきちゃったんだよぉ……」
そう言って、男は両手で顔を覆い、子供のような下手くそな泣き真似を始めた。
娘がその不器用な泣き真似を少し冷めた目で眺めていた、その時だった。
不意に男が、ガバッと勢いよく顔を跳ね上げた。
あまりの唐突さに、娘はベッドの上で飛び上がるほど驚いてしまう。
「でもね! あと四年したら兄上の子が大きくなって、無事に家督を譲れるんだ!
そうしたら、僕は今度こそ絶対に世界へ旅に出ようと思っているんだよ。
もう貴族としてのスペアの役目は、十分に、死ぬほど頑張ったからね。
ただの『お金持ちの平民』として、気ままに旅へ行くんだ!
ねぇ、その時はさ。君も一緒に僕と来てくれないかい?
君となら、きっと最高に楽しい旅になると思うんだ!」
男の鮮烈な翠緑石の瞳が、至近距離で真っ直ぐに娘を射抜く。
しかし、そのあまりにも夢見がちで突拍子もない計画に、娘の口からは乾いた苦笑しか出てこなかった。
所詮は、夜を共にする寝所での気まぐれな戯言だ。
「――もしそんな日が来たら、素敵ですね」
娘は心の中でそう切り捨てながら、相手の機嫌を損ねない程度の、適当でつれない返事を返しておいた。
それから半年が過ぎ、劇団一座はあの温暖な国の王都を離れ、また次の国、次の街へと公演の旅を続けていった。
数カ国を巡り、大陸をぐるりと周って、――五年後。
季節が何度も巡り、再びあの懐かしい陽光が降り注ぐ、同じ国の王都へとやって来た。
十八歳だった娘は、今や二十三歳となり、名実ともに劇団のトップを張る大人気の『看板女優』へと成長を遂げていた。
王都での華々しい初日公演を終え、心地よい疲労感と共に楽屋へと戻ると、化粧台の上に一通の手紙が静かに置かれているのが目に入る。
差出人の名はなかった。けれど、それが誰からのものか、娘にはすぐに分かった。
あの鮮烈な翠緑石の瞳を持つ男からの、招待状という名の、夜の召喚状だった。
――五年ぶりの、あの重厚な寝室の扉を開く。
「やぁ! 本当に久しぶりだね!」
扉の先には、時の流れなどまるで無かったかのような、あの五年前と全く変わらないまぶしい笑顔の男が待っていた。
「お久しぶりでございます、閣下」
娘が女優らしく優美に頭を下げると、男は眉を下げて困ったように両手を振る。
「やだなぁ、その呼び方はやめてよ! そんな堅苦しい肩書きは、宮廷での退屈な仕事中だけで十分にうんざりしてるんだ。
それよりもさ! また色んな違う国に行っていたんだろう? 早く、僕にその楽しい話を聞かせておくれよ!」
それからの夜も、五年前と同じように、男の寝室では北方の国にある娘の故郷の話や、他国の話が連夜のごとく語られた。
ある晩は、隣国の活気あふれる市場の話。
ある晩は、旅先で見かけた農家に産まれたばかりの愛らしい仔馬の話。
そしてまたある晩は、娘が自分の目で見てきた新しい産業の息吹の話――。
男の請いに応じて、娘が楽屋から持ってきた楽器を演奏して聴かせる夜もあった。
「やっぱり、君の演奏は本当にいいね。まるで目の前にその異国の風景がありありと浮かび上がってくるような、そんな情緒ある温かい音色を奏でる」
ベッドの上でうっとりと耳を傾けていた男の言葉に、娘はふと、手元を止めて問いかけた。
「閣下は……ご自身では、楽器は演奏なさらないのですか?」
「ん――。一通りなら、何でも人並み以上には演奏できるよ」
男は少しだけ視線を落とし、自嘲気味に唇を尖らせる。
「でもね。僕はどんな曲を演奏してもさ、『譜面通り』にしか演奏できないんだ。だから宮廷の連中からは、正確なだけでちっとも面白くない、なんて評価をされてしまうんだよねぇ……」
まるでそれがひどく不本意で、つまらないことだと言うように、眉をハの字に下げて拗てみせる男。
「――左様でございますか」
宮廷の最高中枢で立派な地位に就いているはずの三十を過ぎた男が、まるで小さな子供のようにふてくされている姿がおかしくて、娘は思わずクスリと笑い、手で口元を隠した。
すると、その白く細い手を、男の大きな手のひらが優しく捕らえる。
「でもね、笛だけは、自分でもそんなに悪くないと思うんだ。……よし、今度までに僕たちのための楽譜を用意しておくから、その時は一緒に合奏をしよう!」
男は子供のように嬉しそうに笑い、娘の手をそっと握りしめた。
――しかし、その夜を境に。
男からの召喚状は、数日の間、ぴたりと途絶えることとなった。
「やぁ! 数日も空けてしまって、本当に悪かったね!」
久しぶりに届いた召喚状に応じて扉を開けると、そこには少しだけ疲れた顔をした男が、いつものように明るい声をあげて待っていた。
「いえ。……劇団の方へは、毎晩、過分なお金がきちんと届けられておりましたから」
「うん、あのお金はね、ちゃんと受け取っておいておくれ。君の夜を独占して予約していたのに、僕の方で急に都合が悪くなってしまったんだ。そのお詫びだよ」
男は少しだけバツが悪そうに、けれどどこか少年のような愛らしさを残して、ニッと悪戯っぽく笑ってみせる。
「……ご配慮、ありがとうございます」
「宮廷の仕事が急にバタバタと忙しくなってしまってさ。君と一緒に合奏するための楽譜を用意することが、どうしてもできなかったんだよ。
だからさぁ、今日はいつものように、また君の楽しい旅の話を聞かせてくれるかな?」
男のその頼みを受け、二十三歳の看板女優は、そっと自分の膝の上に持ってきていた楽器を抱え直した。
「――そうですね。では今日は、私の故郷に伝わる『冬籠りと春の約束』のお話をいたしましょう」
雪に閉ざされたあの遠い故郷で、過酷な冬を乗り越える間、春の再会を祈って古くから人々が歌い継いできたという、あの優しい子守歌のような伝承歌――。
娘がそっと爪弾く、震えるように繊細で静かな音を奏でるその楽器の響きは、冬は雪の中に閉じ込められてしまう故郷の、切ない歌に不思議なほどよく合っていた。
南方の陽光が去った大理石の寝室に、寂しくも温かい、美しい調べが静かに響き渡っていく。
「……やっぱり、君の歌も演奏も本当に素晴らしいよ。濁っていた心が澄み渡るようだね。
――それでね、唐突で本当に申し訳ないんだけど。君にここへ来てもらうのは、明日が最後になると思うんだ」
歌の余韻が冷めやらぬ沈黙の中で、男はぽつりと、あまりにも重大な事実を静かに告げた。
「――お忙しいのですね」
娘は一瞬だけ、楽器を押さえる指先を凍りつかせながらも、看板女優として完璧に取り繕ったまま、静かにそう問い返した。
「――うん、君もね、もう知ってると思うけれど、近く戦争が始まるんだ」
男は少しだけ声を潜め、重い現実を口にする。
――知っている。
――街中を行き交う兵たちの張り詰めた空気、商人の不自然な往来、跳ね上がり始めた物の値段、そして――夜の酒場で飛び交う、不穏な人々の噂。
旅芸人として世界を巡り、常に街の呼吸に触れてきた娘の鋭い観察眼は、男に告げられるよりもずっと前から、近く押し寄せるであろう戦火の足音を、確かに肌で予感していたのだ。
「でね。軍の重鎮である公爵閣下から、直々に総司令官へと任命されちゃったんだよ。
この僕が! 総司令官だよ?
もっと他にいくらでも、適任の血気盛んな将軍たちがいるだろうにさぁ!
そんな物騒な大役なんて、僕に似合わないことこの上ないじゃないか! そう思わないかい?」
男はわざとらしく両手を広げて、大袈裟に肩をすくめてみせる。
「軍学校を首席でご卒業なさったと、おうかがいしておりますよ」
そっと目を伏せながら答えた。
「ええっ!? 一体誰だよ、そんな昔の話を君に吹き込んだのは!
僕としては、絶対に君には隠しておきたかった秘密だったのに!」
男は心底から驚いたように翠緑石の瞳を見開き、それから小さな子供のように、ぷうっと不満げに頬を膨らませてみせたのだった。
「それじゃあ君は、うっかり知ってしまった僕の秘密を、絶対、誰にも漏らさないようにね!」
娘の顔の前で、秘密だからね、と人差し指を立てる男の仕草に、つい笑みが溢れてしまう。
「閣下、これほど王都中で噂されているのに秘密も何もございませんよ」
「あはは、それもそうだね」
男は降参したように声を上げて笑うと、娘の白く細い手をすくうように、優しく包み込んだ。
「――これはね、本当に、ここだけの秘密だけれど。
本当は総司令官なんて大層なものになりたくないし、戦争になんか死んでも行きたくないんだ。
だってね……。どう分析しても僕たちじゃ敵わないんだよ。まともにやったら、ひと月と保たない。
それにさ、僕が総司令官に任命されたのなんて、ほとんどあの一族からの嫌がらせみたいなものなんだ。
実権を握る公爵家の令嬢と争って、僕の家の姉上が王の側妃に選ばれちゃったでしょう?
だから、あんな勝ち目のない難しい任務を、全部僕に押し付けたんだよ! ずっと前の、姉上がまだ若かった頃の話なのにいつまで恨んでるっていうんだ、あのタヌキ公爵めは!
……あ、今の話も、絶対に誰にも秘密だからね?」
男は子供のようにぎゅっと拳を握りしめながら、嫌だ、嫌だ、と本気で言葉を漏らす。
――かと思えば、次の瞬間には不敵に片目を瞑り、悪戯っぽく口の端をキュッと吊り上げて笑ってみせるのだった。
本当によく表情の変わる、掴みどころのない男だ。
これで、冷徹な高位貴族として化かし合いの続く宮廷を渡り歩いていると言うのだから、本当に恐れ入る。
「――誰にも言いませんよ。私どものような旅の芸人にとって、口の堅さと信用こそが何よりも第一でございますから」
娘が一座の看板としての誇りを胸に、真っ直ぐに告げると、男はどこか安心したように翠緑石の瞳を細めた。
「あはは! それなら、僕はこれからも安心して君にだけは愚痴をこぼせるね!」
男は嬉しそうに、楽しげに声を上げて笑った。
「でも、愚痴を聞いてもらうのもいいけどさ。せっかくの夜だから、今は君のあの温かい歌が聴きたいな。
さっきの歌、もう一度だけ僕のために歌ってくれるかい?」
娘は小さく頷くと、手元にある楽器へと優しく指を添え、ゆっくりと切ない調べを奏で始めた。
――この曲が、戦地へと向かうこの人の心を包み込む、優しい子守歌となりますように。
――この愛おしい人の張り詰めた心を、ほんの一瞬でも癒すことができますように。
娘は祈るような心地で、ただ一途に音色を響かせていく。
「……やっぱり、君の故郷は本当に素敵だね。
これまで色々な国の話を聞かせてもらったけれど、僕は、君の故郷の話が一番好きだよ。
――じゃあ、また夜に。会えるのを楽しみにしているよ」
男は愛おしそうにそう告げ、その日の密やかな語らいの時間は幕を閉じた。
星の瞬きは消え、空は白み、それぞれがそれぞれの場所で生活を営み――、王都は夕焼けの色に染まる。
――ただ静かに、いつも通りの時は淡々と流れていった。
そして、――いつもと変わらぬ夜が訪れる。
通い慣れた男の屋敷を訪れた娘は、部屋に通されるなり、控えていた使用人たちの手によって、仕立ての良い婦人用の乗馬服へと着替えさせられた。
「やぁ、お待たせ。うん、やっぱり思った通り、よく似合っているね!」
着替えを終えた娘の前に、自身も動きやすい衣装に身を包んだ男が、ニッと悪戯っぽく笑いながら姿を現した。
「……あの、閣下。これは一体……?」
「うん、今から少しだけ、夜の森へ行こうと思ってね。あ、森って言ってもさ、君からいつも聞くあの北国の鬱蒼とした森みたいな場所じゃないよ。
この近くの公園の奥にね、綺麗に整備された森があって、そこに君の故郷の話によく出てくるあの針葉樹と同じ木が植わっているのを、ふと思い出したんだ!」
男は少年さながらに翠緑石の瞳を輝かせながら、楽しげに語る。
「……もしかして、そこへ馬で向かうのですか?」
「うん、そうだよ。――あ! 心配しないで。僕がちゃんと乗せて行くから大丈夫さ」
「いえ。……馬を貸していただけるのであれば、自分で乗れ――」
娘のその言葉に被せるようにして、男は悪戯っぽく言葉を遮った。
「ダメだよ! 僕と一緒に乗って! お姫様をお誘いするんだからさ、馬には絶対に二人で乗らなきゃいけないんだ」
男はわざとらしく芝居がかった態度で微笑むと、恭しく娘の手を取り、大理石の厩へと優しくエスコートした。
王都の敷地内にあるその広大な公園まではすぐ近く。
奥にある件の森までも、馬を二十分ほどゆっくりと歩かせれば、すぐに到着した。
「――本当に、近いのですね」
二人を乗せた一頭の馬は、カポカポ、カポカポと、静かな夜の闇の中でゆっくりと木々の間を抜けていく。
その場所には、娘の記憶にあるあの北国の森とよく似た、清冽な深緑の香りと、夜露で湿った土の匂いが静かに漂っていた。
娘は、胸がいっぱいになるほどの懐かしい匂いを、深く、深く吸い込む。
「どうだい? 君の故郷の森に、少しは似ているかな?」
「――そうですね。同じ木ですが、私の故郷の森はもっとずっと暗いです。……でも、本当に懐かしい匂いがします」
「そっか。これが、君の故郷の匂いなんだね」
男は嬉しそうに目を細め、手綱を握る腕に、ほんの少しだけ優しく力を込めた。
まるで後ろからそっと抱きしめられたかのようなその腕の温もりに、これまで幾晩も夜を共にしてきたはずの身体が、どうしようもなく切なく熱を帯びていく。
娘がそっと、己の胸に込み上げる愛おしさを噛み締め――これ以上、後ろからの愛おしい温もりにあてられてしまわぬよう、娘は馬の背からそっと降りた。
カサリとブーツが土を踏みしめる音が響く。
娘は歩み寄り、王都の庭師の手によって植えられたというその大木へ、そっと両手を触れた。
掌から伝わってくる、ゴツゴツとした懐かしい木の幹の感触――。
必死に自分の恋心に蓋をしようと、冷たい樹皮の冷気で頭を冷やそうとした。
「――ねえ」
後ろから抱きしめられるように、長い腕が肩越しに伸びてきた。
先ほど、一度は逃れられたはずのその温もりから、再び優しく捕えられ、切なさに身動きが取れなくなる。
「これ、君に持っていてもらいたいんだ」
男は、木の幹に押し当てられていた娘の手首をそっと引き寄せ、手のひらの上へと小さな革袋を載せた。
「これは……?」
娘がそっと首を傾げると、男は革袋の中から、一つの美しい宝石の付いた指輪を丁寧に取り出した。
そうして男はそれをつまみ、梢の隙間から降り注ぐ月の明かりへと、静かに透かしてみせる。
青白い月光を浴びて、夜の森に気高く浮かび上がったのは――綺麗な緑色の、極上の翠緑石だった。
「これね、僕が持っているたくさんの宝石の中でさ。一番、僕の目の色に似ている石なんだよ。ほら、どうだい?」
差し出されたその石は、確かに、目の前で娘を真っ直ぐに見つめている、男の鮮烈な緑色の瞳とよく似た輝きを放っていた。
「――これを見たら、離れていても僕のことを思い出してくれるでしょう? だからね、これを受け取って、君に持っていてほしいんだ」
肩越しに見える、月明かりに照らし出された男の、今にも泣き出しそうな、あまりにも寂しげな顔――。
それを見た瞬間、恋を自覚した娘の胸の奥は、張り裂けんばかりに激しく締めつけられた。
この人の持つ圧倒的な智略があれば、きっと他に行く道など、いくらでも選べるはずなのに。
逃げる道を選ばない覚悟――。
胸が詰まるほどの愛おしさに、娘の涙腺が崩壊しそうになる。
――この人は、行くんだ。
ならば、私は――。だからこそ。
彼の腕の中で身を翻し、先ほどまで背中にあった男の胸板をとん、と押し退ける。
そして二十三歳の看板女優は、あえて凛と顎を上げ、精一杯につれなく言い放った。
「――嫌よ」
「え?」
男が翠緑石の瞳を丸くして、呆然と固まる。
「私どものような平民が、そんな恐ろしく高価な宝石を持っていられるわけがございませんわ。泥棒に怯えて夜も眠れなくなってしまいます。
それにね、閣下。……あなたの瞳の色は、この宝石なんかよりも、ずっとずっと素敵な色だわ」
娘はゴツゴツとした大木の幹を振り返った。
「故郷のね……私のお気に入りの場所に、柊の木があるの。雪が解けたあとの、真っ直ぐに伸びる、あの『柊の新芽』と同じ色よ!」
冬の寒さに耐え、艶やかな緑の葉を空へと伸ばす美しさ。そちらの方がよほど貴方様には相応しいわ、と晴れやかに笑ってみせる。
「だから、そんな高価な石がなくても大丈夫。私が故郷の豊かな緑を思い出すたびに、あなたのそのお顔も、嫌でも一緒に心に浮かび上がってくるのだから」
この人の前では駄目よ、もう少しだから――。
「柊を見るたびに、あなたのこと、一生嫌ってほど思い出してあげますわ」
込み上げる熱いものを喉の奥でぎゅっと堪え、看板女優の名にかけて、完璧な強がりの笑顔を浮かべてみせる。
「――そっかぁ。君のお気に入りの場所に、僕と同じ色があるんだね」
男はしばらく呆気にとられたように娘を見つめていたが、やがて、本当に嬉しそうに、愛おしそうに、ニッとその口元を綻ばせたのだった。
夜露に濡れた静かな森をあとにし、二人は程なくして邸宅へと帰ってきた。
薄手の夜着を身に付け、寝台の上でただ静かに待っていると、同じように夜着に着替えた男が寝室へとやって来た。
男はそのまま、ぽすんとベッドの上に座る娘の膝の上へと頭を乗せ、その細い腰に縋りつくようにして、きつく抱きついた。
娘は何も言わず、男のその実りの季節を迎えた麦の穂のような、美しい金の髪を優しく指先へと絡ませていく。
枕元に灯る蝋燭の淡い光を受け、指先で優しく輝く彼の髪の毛は、まるで『金細工の指輪』のようだった。
高価な翠緑石の指輪より――
――私は毎晩、貴方の金の髪で指を飾りたいわ
胸の奥から溢れ出るその切ない本音と共に、娘は指に絡まった金の髪をそっと解き、愛おしさを込めてその頭を優しく撫でさすった。
男は娘の膝に顔を埋めた体勢のまま、どこか祈るような声で、いつか行くはずだったあの世界旅行の夢をぽつりぽつりと語り続けた。
「……この大変な戦いが終わったらさ。僕は今度こそ、君のあの素敵な故郷で一緒に暮らしたいんだ」
「――私の故郷は、冬の間ずっと、分厚い雪によって家の中に閉じ込められてしまうのですよ。春に雪解けを迎えるまでずっとです」
男の金の髪を優しく撫で続けながら、娘は静かに故郷の厳しい冬の生活を語る。
「それはさ……冬の間、ずっと君と離れずに、二人きりで一緒にいられるってことだろう? 今みたいにさ。そんなの、最高じゃないか! それに、誰も来られない豪雪の地なのだとしたら、僕に無理難題を押し付ける退屈な奴らも、誰も来られないってことだ! やっぱり最高に素敵だよ、君の故郷は!」
男は愛おしそうに声を弾ませ、腰に回した腕に、ぎゅっと切なく力を込める。
「もう貴族としての役目はさ、十分に、いっぱいいっぱい頑張ったからね。今度こそ今のこの重たい名前をすべて捨てて、全く新しい名前で、ただの平民として旅に出るんだ。
もうね、新しい名前だってちゃんと考えてあるんだよ!」
男は、ぱっと顔を上げると無邪気な子供のような笑顔で、君だけに内緒で教えてあげるね、といつか旅に出るための名前を誇らしげに教えてくれた。
――それは古い言葉で『勇敢な友』を意味する名前だった。
「だってさ。知らない世界へ旅に出るには、たくさんの『勇気』が必要だろう?
それに……僕は、僕の大切なお姫様を、どんな危険からも守り抜くための、圧倒的な『勇敢さ』もね」
そう語る男の声は、次第に小さく、震えるようにして湿り気を帯びていった。
やがて、重苦しくも愛おしい沈黙が、静かに二人を包み込んでいくのだった。
「……ねえ、やっぱりさ。この指輪は君に持っていてほしいんだ。もし、僕が無事に帰ってきたら――その時は、僕と結婚してくれないかい? ……ダメかな?」
娘の膝の上で、濡れた睫毛を小さく震わせながら、男はもう一度あの緑の指輪を差し出してきた。
蝋燭はすでに燃え尽き、今はただ、窓から差し込む静かな白い月明かりだけが、寝台で寄り添う二人を照らしだす。
娘はすぐには答えず、ただその月光に揺れる翠緑石をじっと見つめる。
「それでね。もし……僕が帰ってこられなかったとしてもさ。この指輪を売り払えば、君のこれからの生活をずっと守ることができるから。……だからね――」
――そこで、男は言葉を失った。
愛の言葉に蕩ける可愛い恋人の顔を予想して顔を上げた男が、そこに見たもの。
それは、酷く冷徹で、鋭い強い眼差しで自分を真っ直ぐに睨みつけている娘の顔だった。
娘は自身の腰に巻き付いていた男の腕を力任せに振り解くと、膝に乗せていた彼の頭を、立ち上がる勢いのまま無慈悲に跳ね落とした。
「うわっ!?」
その勢いのままベッドの上を転がり、男は寝台の下へとゴトン、と酷く重たい音を立てて無様に転がり落ちた。
男が床に倒れ、床の冷たさと痛みに呻き声をあげている間、娘は裸足のままツカツカと床を踏み締め、窓ぎわのテーブルの上に置いていた小さなカバンの中から、一つの小さな薬瓶を引っ張り出してぎゅっと握りしめる。
そうして、窓からの月光を浴びて冴え冴えとした冷たい表情で口を開いた。
「閣下。そのお申し出、この場にて丁重にお断りさせて頂きますわ」
娘は、王都の劇場で演じてみせたどんな貴族令嬢よりも気高い口調で、一刀両断に断りを突きつけた。
「ええぇぇ……っ!? そ、そんなぁ……!」
床にひっくり返ったまま、男は一国の軍を率いる総司令官とは思えないほど、情けない、涙声のような声をあげたのだった。
「閣下。私、そんな生っちょろい弱気な約束なんて、これっぽっちも欲しくはございませんわ」
娘は言いながら、手にした薬瓶の蓋を力任せに引き抜く。
そのまま、中に詰まっていた避妊薬の丸薬をすべて手のひらの上へとぶちまけ、月の光が差し込む窓の外、夜の暗闇の向こうへと一粒残らず遠くに投げ捨てた。
「生憎と、私は売るための財産など何も持ち合わせておりませんの。私が持つのは、この身に宿る誇りのみ。ならばこの身をもって、わたくしの真実の心を証明いたしましょう。貴方様の、その『平民になって共に生きる』というお気持ちが本当に本物であるならば――その覚悟、この身体に深くお刻みなさいませ!」
娘は一歩も引かず、胸を張って強く言い切った。
「その覚悟がないのならば、私は夢しか語らない男に、興味なんてないわ!」
冷徹な一瞥をくれ、床に落ちたまま呆然とする男の前に逞しく立ち塞がった。
そのまま床へと屈み込み、互いの額がつくほど顔を近づけ、男の頭へと指を突きつけた。
「そしてその、明晰な頭を使って、とっとと勝って帰ってきなさい!」
――そうして、戦争が始まった。
誰もが、この戦いはひと月と待たずに呆気なく終わるだろう、という事前の予想を完璧に裏切り、八ヶ月にも及ぶ、泥沼の激戦が繰り広げられることとなった。
若き総司令官の弾き出す、味方兵の消耗を極限まで抑えるための、奇策に次ぐ奇策。
完璧な譜面をなぞるように冷徹で、けれど誰も見たことがないほど不敵なその戦術に、敵国はただ翻弄され続けた。
――そして、戦争は終わった。
いま――。
かつて天才と謳われたその総司令官は、無能な王族や他の将軍らと共に、王城の外壁にその首と骸を無惨に串刺しにされ、白日の下に晒されていた。
あの、雨上がりの新緑を映したかのような、キラキラと楽しげに輝いていた翠緑石の瞳はもうどこにもない。
その場所にはただ、冷たい虚ろな暗い穴だけが、ぽっかりとあいているだけだった。
娘は、血が滲むほど強く唇を噛み締め、じっとその無惨な姿を見上げ続ける。
「お嬢さん……。いや、ご婦人か。妊婦さんがそんな酷いものを、じっと見るんじゃないよ」
通りすがりの老人に、背後から心配そうに声をかけられた。
けれどその声に、振り向くことも、返事をすることさえも今の娘にはできなかった。
ただ、ただ、己の魂をあそこへ置いてきてしまったかのように、上を見上げ続ける。
いつの間にか、その老人も声をかけることを諦めたのだろう、重い足取りで立ち去っていった
――ああ、もう、あのはじけるような笑い声を聞くことも、あの好奇心に溢れた翠緑石の瞳で世界を見ることすらも、できなくなってしまったのね。
それからのことを、私はあまりよく覚えていない。
気がついた時には、いつの間にか、あの懐かしい男の屋敷の前をふらふらと歩いていた。
かつて美しく整えられていた庭の芝生は、乱雑に歩き回る敵国の兵たちによって無惨に荒らされ、無作法に掘り返された黒い土によって、美しい白い石畳は酷く汚されていた。
あの日、私を前に乗せて優しく走ってくれた、あの馬もまだここにいるのだろうか?
ふと見ると、厩から見慣れぬ兵の手によって手綱を引かれ、どこかへ連れ去られていくのが見えた。
「――あの、もし……」
不意に背後から、年嵩の女性に低く呼び止められた。
「ああ、やはり……。あなたでしたか」
振り返ると、そこにいたのはよく見知った顔の女性だった。
あの男の乳母を務め、この邸宅を長年守り続けてきたという、忠実な使用人の女性だ。
その女性は、私の大きく膨らんだお腹を見た瞬間、ハッと息を呑んで周囲を鋭く見回した。
そうして慌てて自分の外套を脱ぎ、私のその大きなお腹を世間の目から隠すようにして、そっと肩へとかけてくれたのだ。
「ここに居てはなりませぬ!」
耳元に、潜められた声で短く告げられる。
「……さあ、こちらへおいでなさいませ」
冷え切った私の手を、女性は震える手でぎゅっと引き、誰もいない裏手へと連れて行った。
「ご主人様に血の連なる者は、幼子に至るまで全て処刑されました。あなたのお腹に宿る子のことは、私は何も聞きませぬ。――しかし、あなたはもうここへ来てはなりませぬ。いいですね」
私は感情を失った人形の様に、ただこくりと頷いた。
「――最後に一つ、おうかがいしてもよろしいでしょうか」
あの男の乳母だった女性が、ぽつりと冷たい空気の中に言葉を落とした。
「ご主人様は、戦いに赴く時、『夢しか語らない男に興味なんかないって振られそうだから、ちゃんと帰って来るよ』と約束をして、笑顔で家をお出になられました」
「――そう」
「ご主人様のこと、約束を守らなかったとお怒りでしょうか?」
「――いいえ」
あの人は過酷な激戦の八ヶ月の間、命懸けで約束を守ってくれていた。
ただ――果たされなかっただけ。
それだけなのだ。
私との約束を、最期の瞬間まで守ろうとしてくれていたこと。
それが、私にとって、何よりも一番に尊い。
「ならば――。あなたに、主人より言伝がございます。「君の故郷の木の下に僕の心を残しておく」、と。お伝えいたしました。さあ、もうお行きなさい」
女性にぽんと軽く背を押され、その反動のまま、ただ操られるように前へと歩き出した。
てく、てく、てく――。
彼のいう『故郷の木』とは、あの夜、二人で馬に乗って訪れた公園の木であることは、すぐにわかった。
てく、てく、てく――。
あの時、彼の腕に抱かれて馬で来た時は、あんなにも近くに感じられた場所だったのに。
一人では、歩いても、歩いても、彼の残したという心までの距離が遠い。
酷く遠くて、息が詰まる。
てく、てく、てく――。
ようやく公園へと辿り着き、さらにその奥の森へと足を踏み入れた頃には、すっかり辺りは暗くなり、木々は深い闇の底へと沈んでいた。
頭上に浮かぶ細い月が冷たく照らす中、黒く聳え立つ木々は、どれも同じ影にしか見えない。
しかし、緑豊かな北国の森の中で、木を道標にして育ってきた私にとって、たった一本の木を見つけることなど、容易いことだった。
「この木だわ――」
木々の影から、あの時のように「さすがだね!」と子供っぽく驚く彼の声が聞こえてこないだろうか?
――耳を澄ませたが、カサカサと葉が擦れる乾いた音だけしか聞こえなかった。
胸の奥に広がりそうになる、押し潰されそうな孤独を払うため、私は軽く頭を振った。
それから、じっとその大木の根元を見る。
何か埋めたとすれば八ヶ月も前のこと。
地面を掘り返した跡など、とっくに生い茂る雑草達の下に埋もれてしまっているはずだ。
それでも、私は諦めることなく、大木の周りをぐるりと注意深く見つめながら歩き回った。
――その時、生い茂る草むらの中に、刺々とした緑色の葉が見えた。
大きく膨らんだお腹を愛おしく、慎重にかばいながら、私はその葉の前にそっと座り込む。
棘のある葉は、小さな柊の枝だった。
冷える指先でそっと葉に触れると、瑞々しい生命の感触が、確かに伝わってくる。
――八ヶ月もの長い間、枯れずにここにあるだろうか?
彼が残した目印ではないかも知れない。
そうやって自分に半分言い聞かせながらも、私は祈るような心地で、その辺りの雑草をむしり取り、固い土を直接手で掘り始めた。
爪の間には冷たい黒土が容赦なく入り込み、指先は尖った砂利や泥によって、みるみるうちに傷だらけになっていく。
私の故郷では、土はまだ深い雪の底に埋まっている――三月。
年間を通して穏やかな気候に恵まれたこの温暖な国には、当然、雪など積もるはずもないし、降りさえしない。
しかし、夜露を吸って固く締まった地面は、私の指先を凍らせるほどに、冷たかった。
じわり、と指先に赤い血が滲む。
それでも、私は土を掘る手を止めることなど、どうしてもできなかった。
やがて、血の滲む私の指先が、カツリと土でないものに触れた確かな感触があった。
「――あ。……これ、は……薬瓶?」
暗闇の中、必死に泥を退けて土の底から掘り出したのは――あの日、私が閣下の前で、その中身をすべて窓の外へと投げ捨てた、あの小さな瓶だった。
泥に汚れたその瓶を、梢の隙間から降り注ぐ月の光にかざしてみる。
半透明のガラスの奥には、小さく折りたたまれた紙が、二つ。
私は血と泥のついた指の震えを必死に抑えながら、瓶の蓋をゆっくりと取り外す。
そうして、中に大切に収められていた二つの白い塊を、手のひらの上へとそっと取り出した。
小さな紙片から、微かに樹木や森林を思わせる温かみのある彼の香水の香りが、ふわりと鼻腔を揺らした。
――ああ、これは間違いなく彼が私に残したものだ。
私はそっと目を閉じ、その愛おしい香りを胸いっぱいに満たすように、深く吸い込んだ。
それから私は、ゆっくりと一枚目の、小さく折りたたまれていた紙を開く。
そこには、あの夜に私が彼へと聴かせた、雪に閉ざされる領地の伝承歌の歌詞と短い手紙が書かれていた。
おおらかな曲線の読みやすい文字の中に、私は彼の特徴的な筆跡の癖――あの愛おしいハネを見つけて、自然と口角が上がり、目元が緩んでいくのを感じた。
――春が来れば また会える
光の雫が 降り注ぎ
春が来れば また会える
名もなき花が 咲く丘で
それまでは しばしのさよならを
それぞれの場所で 火を灯し
巡る季節を 営みましょう
また笑って 会える日まで
『――僕は君が好きだ。
君の元へ必ず帰る。
そして、いつか一緒に旅に出よう』
文字の一つ一つに、あの柔らかな彼の声が重なっていく。
気がつけば、微笑みのかたちに緩んだ私の目元から、抑えきれないほどの想いが温かい雫となって、ポロポロと頬を伝い溢れ出していた。
震える指で、もう一つの、固く折りたたまれた紙をゆっくりと開いていく。
――ころん。
包まれていた指輪が、私の手のひらの上へと、優しく転がり落ちてきた。
《これね、僕が持っている宝石の中でさ。一番、僕の目の色に似ている石なんだよ。ほら、どうだい?》
あの夜、今と同じこの場所で、耳元に囁かれた彼の少し震えた声が、確かな温度を持って蘇る。
彼が、失った、瞳の色――
王城の壁で見た、あの虚ろな暗い穴の空いた顔。
その顔が、あの時からずっと脳裏に焼き付いて離れず、私は彼の顔を思い出せずにいたのだった……。
けれど、木々の隙間から降り注ぐ月の光を浴び、私の手の上でキラリ、キラリと、表情を変えながら輝く翠緑石――。
私の旅の話を聴いて、純粋な好奇心いっぱいに煌めいていた彼の瞳。
寝床の上で穏やかに笑う優しい顔。
子供っぽくぷうっと頬を膨らませながら、拗ねてみせた愛らしい顔。
一緒に旅に行こう、冒険に出るための秘密の新しい名前を、内緒で嬉しそうに教えてくれた悪戯っこのような顔。
それから――。
やぁ、本当に久しぶりだね、といつものように無邪気に彼が笑う。
温かい涙と一緒に、彼とのまぶしい思い出が次から次へと溢れ出してくるのに――
彼の姿や表情、その仕草すらもどうしようもなく愛おしかったのに――
――どうしてあんな残酷な姿ばかりに囚われて、彼の笑顔を思い出せなかったのだろう。
彼は帰ってくると、最後の瞬間まで約束を守ってくれた。
共に生きると、その覚悟をこの身体に刻んでくれた。
国も、貴族も全てなくなった……
《王宮なんて、貴族なんてうんざりだよ! よし、これでお役御免だ!》
あの人を閉じ込めていた檻はもう、どこにもないのだ。
――きっと、もうあそこに彼はいないわ。
あんなに、旅に出たいと、自由になりたいと願っていた彼だもの――
私だけが、彼を酷い戦争の場所へと置き去りにしたままだったのだ。
愛おしくて、恋しくて、もう胸の奥から込み上げてくる激情を止めることなど、どうしてもできなかった。
それは大粒の涙となり、激しい嗚咽となり、静寂の森へとただボロボロと零れ落ちていく。
その雫を、彼が心を残した地面の土が、優しく、優しく受け止めた。
指輪と手紙を握り込むように包んでいた両手を、ゆっくりと開く。
涙で滲み出した視界の先、指輪の下に隠れていた、彼の書いた文字が映る。
――それまでは、共に。
それは、文字の向こうから確かにあの人の体温が伝わるような、そんな筆跡だった。
――ああ。愛おしいあの人は、ここにいた。
あの夜、髪を絡めた指に、そっと指輪をはめた。
そうして、その手を抱きしめるように。
私は彼の残した心を胸に、静まり返る夜の森で、涙が果てるまでただ泣き続けたのだった。
彼とほんのひと時、確かに心を重ね合わせた森に、静かに朝の光が届き始めた。
静寂を破るように、木々の隙間から、眩しい朝の光が真っ直ぐに差し込む。
その光が朝靄に柔らかな黄金色の線を幾筋も描いている。
その色は、あの人の実りの穂のような金の髪を思い出させ、私の目元からまたしても温かい涙が溢れ出してしまう。
光差す、木の根元。
そこには、鮮やかな緑の葉をつけた柊の小さな枝が佇んでいた。
そっと手を伸ばし、ほんの少しだけ引っ張ってみるが、それは微動だにせず抜ける気配がない。
――もしかして、この固い土の下で、もう根が出ているの?
そう思い、よく見てみると枝の先に、より鮮やかで濃い新緑の芽が力強く息吹いていたのだ。
『――絶対に諦めないからね!』
そんな彼の、悪戯っぽくも絶対に怯まない、少年のような声が耳元で聞こえた気がして、私の胸の奥がカッと熱くなる。
彼の遺した手紙と翠緑石の指輪は、もう一度あの小さな薬瓶の奥へと戻し、絶対に落とすことのないよう、服の合わせの裏側へと、用心深く差し込んだ。
それから、血の滲む指で土ごと柊の枝を掘り起こす。
いつも持ち歩いている手巾を取り出し、掘り起こした土ごと、崩れないように枝の根元を優しく包んだ。
処刑の後、冷酷に晒されている王城のあの場に、戻ることはしなかった。
もうあそこに彼はいない。
あの人の心は、今、私と共に確かに在るのだから――。
私は大きなお腹をそっと撫で、朝日に向かって真っ直ぐに歩き出す。
「――そうね。まずはあなたが見たがっていた、私の故郷の春を、見せてあげるわ」
――君となら、きっと最高に楽しい旅になると思うんだ! さぁ一緒に旅に出よう――




