おかしいのは俺か、周りか
「じゃ、飴持ってくるから待っててくれ」
「うん」
俺は玄関の扉を開け、家へ入る。
「ただいまー」
母親に帰宅したことを伝え、台所へ向かう。
「あら、おかえり」
台所では母親が夕食の支度をしていた。
「母さん。ここの飴、数個貰うね」
「いいわよ」
俺は棚を開け、飴を数個ほど掴む。
「一人でそんなに舐めるの?」
「俺が舐めるんじゃないよ。七瀬が喉の調子が悪くてさ。だから、自宅で舐められるように何個か渡そうと思って」
「あーそうなのね」
母さんは納得する。
俺は飴を握りしめ、七瀬が待つ玄関へと戻った。
「ほら、家でも舐められるように何個か持ってきたぞ」
俺は手を開く。
「ありがと」
七瀬は飴を受け取り、一つだけ包装紙から取り出し、飴を口に入れた。
残りの飴は制服のスカートのポケットへと入れた。
「七瀬ちゃん。正道から聞いたんだけど、喉の調子が悪いんだってね? それで、さっき確認したんだけど、喉の薬があったの」
母さんがスプレー式の薬を箱から出し、七瀬に差し出した。
「あ、ありがとうございます」
七瀬は飴を口の端っこに寄せ、口を開けて喉に薬を噴射した。
飴で頬が膨らんでおり、まるでハムスターみたいだ。
薬を塗り終わると、七瀬は薬を母さんに返した。
「それじゃ、お大事にね」
「薬、ありがとうございました。正道もありがとうね」
「お、おう。......あまり無茶するなよ?」
「ふふ、分かったよ。それじゃ、また明日ね」
七瀬は手を振ると、自宅へと向かっていった。
「そういえば、喉の調子が悪いらしいのに、特に喉は痛そじゃなかったわね」
七瀬を見送り、台所へ戻ろうとした母さんが、ふと、そう呟いた。
「あ、そういえば確かに......」
「七瀬ちゃんの喉って、朝から喉の調子が悪かったの?」
「あ、ああ。声の調子がおかしくてさ......」
「ふーん......そうなのね......」
母さんは何か納得したのか、台所へ戻っていった。
俺は手洗いをするために脱衣所に入る。
流し台の蛇口を捻り、石鹸で手を洗う。
その際中、不可解なことについて考えていた。
先ほどなら既に喉が治りかけているので、苦しそうにしていなくても違和感はない。
気になるのは朝の時だ。
俺が七瀬の声の違和感に気が付く直前、七瀬は苦しそうではなかった。
もしかしたら我慢していたのかもしれないが、あの七瀬の反応。
「えっ!? あー......」
まるで、自分の喉の不調に気が付いていなかったかのような、そんな反応。
その後、演劇の練習で喉がおかしくなった、と本人は発言したが、果たしてあれは本当だったのだろうか。
石鹸を水で流し、タオルで手を拭き、自室へと戻る。
制服から着替えて横になり、続きを考える。
七瀬の声以外におかしかったこと。
それは、坂月先生と母さんの反応。
声が明らかにおかしいのに、坂月先生と母さんは、まるで気にもしていないようだった。
ということは、俺だけが声の違和感に気が付いてたことになる。
「......まさか!」
今日の出来事を思い返すと、ある言葉を思い出した。
「もしかしたら先生、耳が悪くなってるのかも?」
あの時は、坂月先生の耳の調子が悪いだけなのかもしれないと思っていた。
しかし、母さんも声の不調に気が付かなかった。
俺だけが気が付いた。
俺だけしか気が付かない。
「俺が......おかしいのか......?」
俺は無意識に耳を触る。
調子が悪いのは、七瀬の喉でもなく、坂月先生の喉でもなく、俺の耳なのかもしれない。
本来なら診療所へ行くべきだが、俺の中で藤波先生は信頼していいか分からない人物となっている。
そのため、診療所へは行かず、このことは誰にも言わないことにした。
「ん......?」
最初は七瀬の喉が枯れており、いつもより低い声なのではないかと思っていた。
しかし、喉が枯れてないという予想をしながら七瀬の声を思い返してみると、あの違和感が正しかったのではないか、そう思えてきた。
声を聞く前は、まるで男性のような声に聞こえた、というのが俺の感想だった。
今思え返すと、あの時の声は聞き馴染みのある男子中学生のような声だった気がする。
「俺の......」
あの声は、俺の声。
七瀬から発せられていたのは、俺の声に似ていた。
その時、俺は数日前に、七瀬の姿が俺自身の姿に見えたことを思い出した。
その瞬間、背筋がゾッとした。
「俺が、おかしいのか......? 俺が......」
俺はおかしいのか。
何かの病気でおかしくなっているのか。
病気だとしても、こんなに急におかしくなるのか。
何故、七瀬と藤波先生は同じ質問をしたのか。
別の人物に見えたか、同じ質問をしたのか。
実際に俺がおかしくて、既に周りは知っているのか。
もしそうだとしたら、何故そんなことを知っているのか。
何故、俺の経験が筒抜けなのか。
七瀬や藤波先生には思考を見透かす能力でもあるのか。
そんなこと、現実であり得るはずがない。
しかし、それがあり得てしまったら。
この世界が本物ではない、俺が知っている世界ではないと証明することは不可能である。
俺が無意識に今までの経験を元に、そうではないと勝手に決めつけている可能性だってある。
おかしいのは俺なのか、周りの人間なのか。
そもそも、この世界がおかしいのではないか。
頭の中に、様々な想像や予想、不安、恐怖が駆け巡る。
今の俺は、幻に包まれ、何もかもが分からなくなってしまっているかのような状態に陥っていた。
第3章 終




