幕間 希望のその先
同僚たちとの食事中、ふと見知った相手を見たような気がしてそちらへ視線を向けたけれど、しかしそれを遮るように他の客が通り、その後には見知ったような気がした相手は既に店を出たのだろう。
アロルドの視界に、思っていたような誰かは映る事がなかった。
「それにしてもようやくゆっくり休めるっていうのに買った本とかお前さぁ、そこは恋人のところに行くとかじゃないのかよ?」
程良く酒の入った同僚に言われ、アロルドは思わず白けた目を向けた。
「そりゃあ会いたいけどな。でも向こうだって忙しいだろうから」
「忙しいったって、そりゃあれだろ?
ラリサちゃんの病気の特効薬」
「あぁ」
アロルドはその言葉に頷いた。
ラリサの病気は、体調の良い時は普通に過ごせるけれど、しかしその普通が長続きしないものだった。
ほんの数秒前までは元気に飛び跳ねたりするくらい元気いっぱいだったとしても、しかし次の瞬間突然倒れたりするようなもの。
元気そうだから、で油断していたらバタンと倒れてそのまま意識を失う事だってあるような、おちおち目を離せそうにないものだった。
ラリサもそれをわかっているから普段はあまり動かないようにして、家の中を移動する時も壁際を歩いて、階段を上り下りする時は必ず手すりを掴むように徹底していた。
そうすれば仮に倒れるにしても、まだ被害は抑えられる。
元気な時もあるせいで、これが病気であるとは最初、中々認められなかったらしい。
ただ単にやりたくない事から逃げるために倒れているだけだろう、なんて最初の頃は思われていた事もあったのだとか。
しかし本当に動けない時はどれだけ本人が動こうと思ってもぴくりとも動けないのだ。
そんな状況を何度もアロルドは見てきた。
嫌な事から逃げ出すために病気の振りをしている、なんてよく知りもしないで言う者も確かにいたけれど、しかしラリサは嫌な事から逃げるどころか、楽しみにしていた用事がある日ですら倒れて動けなくなる事が何度もあったのだから、仮病だなんて言えるはずもない。
そんな事を言えば、ラリサは確実に心に傷を負うだろう。
そんなラリサの病気は、患者こそ少ないもののそれでも他の国でも同じ症状に見舞われている者がいたらしく、少し前にようやく特効薬が開発されたらしい。
そのニュースを耳にした時、アロルドはその特効薬の作り方を知る医者とどうにか連絡がとれないかと、苦心したのだ。
成人する前からマトモに動けないラリサは、このままだと大人になった所で仕事など到底できやしないだろうし、それ以前に親の残した遺産で生活するにしたって死ぬまで暮らしていける程金に余裕があるわけでもない。
贅沢をしないのならそれなりに年老いても生活はできるかもしれないけれど、しかし病気のせいで現状人を雇っているし、そうでなくとも健康な者に比べて色々と支出が多くなりつつある。
治らないまま年齢を重ねていけば、年老いたころに財産を無くし野たれ死ぬなんて事だってあり得るのだ。
アロルドが生きていたとしても、流石に老人になっていたらラリサをどこまで助ける事ができるかはアロルドにだってわからない。
どうにか医者と連絡を取る事ができて、その特効薬の作り方を知らされた時、これでようやくラリサも自由に、病気に罹る前のように動き回れるのだと希望が見えた。
だが、その薬は並みの腕前の薬師には到底作れる代物ではない。
この街の薬師で特効薬が作れそうな相手は、本当に少数だった。
少数、アテがあるだけマシかもしれない。
けれども、何件かには断られたのだ。
自分の腕では流石にこれを作るのは難しいと言われて。
どうにか頼み込んだ事で、引き受けてくれたのは夫婦で薬屋を営んでいるところだった。
アリスが働いている職場だ。
老夫婦だけではなくアリスもきっとあの薬を作るのに駆り出されている。
きっとここ数日、とんでもなく忙しかった事だろう。
老夫婦も数日店は休むと言っていたくらいだ。
それだけ神経を使って特効薬を作ってくれたのだと思うと、感謝の心しかない。
店が休みなら当然アリスも休みを貰えたのだろうけれど、しかしここ数日、間違いなく忙しかっただろうし、ならばゆっくりと休んでほしい。
アロルドもここ数日は馬鹿みたいに忙しかったから、疲れ果てた顔のままアリスのところへ行くと余計気を使わせてしまうだろう。
アリスは控えめで優しいから、疲れているところに余計疲れさせるような事はさせたくなかった。
思えばラリサの病気が悪化した事もあって、折角付き合い始めたのにデートに出かけたりできたのは、付き合い始めた最初の頃だけだ。
それでも手紙でのやりとりを重ねていたけれど、それすら難しくなって最近はとんと連絡すら取らなくなってしまった。
だがそれもじきに終わる。
特効薬はラリサの元へ無事届けたし、すぐに治らなくても確実に良くはなっていくのだ。
薬を受け取ったラリサも喜んでいた。
これで誰に迷惑をかけるでもなく自分の事は自分でできると。
数日前に体調悪化の兆候を感じ取ってアロルドのところへ助けを求めたラリサは、アロルドが訪れた時白い顔色をしてふらついていた。
マーサ――ラリサの身の回りの世話をしている老女である――も寄る年波には勝てなかったのか体調を崩し、医者のところへ出かけてしまったので家にはラリサ一人だけ。
そんな状態で放置するわけにもいかず、アロルドはラリサのために食事を作り、そうしてどうにかラリサが食べ終えた頃には、少しは顔色がマシになってきたのだ。
そこから、ちょっと調子が良くなってきた、とラリサが言って、今のうちに買い物に行きたいと言い出した。
いくら体調が良くなってきた、と本人が言ったところでじゃあ一人で行ってこいよなどとはとてもじゃないが言えない。
今はちょっと調子が良くなってきたといえ、いつまた突然バタンと倒れるかわかったものではないのだ。
以前なんて危うく頭から倒れるところだったのを咄嗟にアロルドが支えたからよかったけれど、そうじゃなければどうなっていた事か……
そんななので、当然アロルドは付き添いだ。
買い物に行く元気が出たといっても、荷物を抱えてラリサが移動するのは難しいだろうし、荷物持ちとしてついていく事に文句はない。
むしろそれだけ元気になってるならいい事だとすら。
ただ、この日は本当に久々にアリスと出かける約束をしていたのに、それを急遽キャンセルする事になってしまったから、もし外でアリスと会ったら流石に申し訳ないな……とは思った。
それでもアリスは優しいから、事情を説明すればわかってくれる。
アロルドは職業柄いくつかの施設に見回りに行ったり情報のやり取りをする事もある。そして冒険者ギルドで受付嬢として働いているサニアに紹介されたアリスを見て一目で恋に落ちた。
あんなにも可憐で素敵な女性なのだから、うかうかしていたら他の男に掻っ攫われてしまうんじゃないかと思ってアロルドはそれはもう熱心に口説いた。彼女に嫌われないように、遊びだと思われないように。
そうして付き合う事ができたのは、本当に嬉しかった。
アリスが自分の恋人になったのだ、というその事実だけで天にも昇る気持ちになったくらいだ。
だというのに、今の今まであまり恋人らしい事ができていなかったけれど。
それでも、これから先はそうではなくなる。
ラリサの病気も良くなっていくだろうし、そうなれば自分がしょっちゅう付きっ切りになる事もない。
街の中、あちこちで悪さをしていた連中もある程度捕まったので、今までに比べれば仕事も少しは余裕が出てくる。アロルドは街の中の治安を守る仕事をしているのであって、別に街の外に出て魔物退治までするわけじゃないので。というかそちらは冒険者の仕事である。
勿論、魔物の数があまりにも増えた場合はアロルドもそういった討伐に駆り出されるかもしれないけれど、現在そこまでの危険はない。
ともあれ、アリスとの約束をまた反故にしてしまった事に対して申し訳なさはあるけれど、だがこれからそれはいくらでも挽回できる。
ようやく自由がやってきたのだ。
ラリサの買い物に付き添ったあの日、食料だけではなくラリサは店のショーウィンドウに飾られていたアクセサリーに目を奪われていた。
ろくに外に出る事もできないせいで、ラリサはそういった物をほとんど持っていない。
母親の使っていたアクセサリーはあるはずだが、今のラリサに流石にそれは似合わないだろう。せめてあと数年経ってからならまだしも。
ラリサが見ていたアクセサリーの値段はそこまで高いわけでもない。
この時点でラリサの病気の特効薬に関してもある程度どうにかなりそうだった、というのもあって、アロルドは少し早い快気祝いとしてラリサにそのアクセサリーを贈る事にしたのである。
アロルドは知らない。
その光景をアリスが見ていた事も。
先程まで同じ店にいた事すらも。
店内がもう少し狭ければ、アロルドも気付けたかもしれない。
席がもう少し近ければ気付けただろう。
けれどもそうじゃなかった。
故に、気付けなかった。
これが、アリスがアロルドを見た最後であるという事を。