ぷつりと切れた糸
気遣わしげに見てくるサニアに、アリスは何をどう答えたかおぼえていない。
それでも、先程までの楽しい気分は一瞬で消え失せてしまった事だけは確かだった。
遠目で見ただけとはいえ、あれがアロルドであるのは間違いじゃなかった。
顔こそ見えなかったが、その近くにいた少女はきっとラリサなのだろう。
体調が悪かったのではないのか。
どうしてあんな風に弾んだ足取りで……
ここであちらへ駆け寄って、それについてアロルドへ詰め寄れるような性格をアリスはしていなかったからこそ、サニアが気遣うような目を向けているのは確かなのだろう。
「きっと、何かの事情があったはずなのよ……」
自分に言い聞かせるようにアリスは言う。
アロルドを見かけてからアリスが自宅へ戻って来るまで、アリスの記憶には残っていなかった。
それでもサニアが一緒にいたから、何か変な事をしたりはしていないはずだ。
「何かって……」
アリスよりも怒った口調のサニアに、アリスはくすりと笑みを漏らした。
どこか自嘲するような笑みだったが、サニアはそれを指摘する余裕がなく、アリス本人は自分がどんな表情をしているかなんてわかっていないのだろう。
「さっき見たのがラリサちゃんなら、今日は元気そうだったもの。
だったら、もしかしたらこの後アロルドは私のところに足を運んでくれるかもしれない。その時に、事情を説明してもらえるかもしれないでしょ?」
声が震えていたのを、果たしてアリスは自覚していただろうか。
怒りを抑えるというよりは、泣きそうになるのを我慢しているといった方が正しかった。
「あんたがそう言うならいいけどさ……だったら、もうしばらく一緒にいようか?
アロルドが来たらアタシも帰るよ」
「いいの。流石にそこまでしてもらうわけにはいかないもの。
サニア、明日はお仕事?」
「え? うん、そうだけど」
「だったら、今日はもう帰って明日に備えた方がいいんじゃない?」
「でも……」
「大丈夫、だから」
先程以上に押し込めたような笑みを浮かべるアリスに、サニアもこれ以上何も言えなかった。
何を言っても慰めにはならないし、余計アリスを惨めな気持ちにさせるだけだろうと判断してしまったから。
「なんかあったら、いつでも相談に乗るし愚痴もきくよ」
「ありがと」
サニアとしてはこのままアリスを一人にしておいていいものかと悩んだが、しかしアリスはサニアがここに残るのを良しとはしていないようだったので、無理に残ってアリスに余計な気を遣わせるのもな……と思った末に心配ではあったがとにかく家を出た。
もしこの後アリスとアロルドが実際に会うような事になったとして、アリスがアロルドをぶん殴ったとしてもサニアはよくやった! と褒めるくらいの気持ちでいたし、もし喧嘩してその勢いで別れる事になった! なんて言われてもサニアとしてはじゃあ嫌な事忘れるためにパーッとお酒でも飲んで忘れちゃいなよ、と店に誘うつもりではいる。
あれに何か事情があったとして、何事もなくアリスとアロルドのお付き合いが継続するようならサニアとしては本人がそう決めたのなら余計な口を挟むつもりはなかったし、しかし何かあったのならサニアはアリスの味方をするだけだ。
今日はもう無理だとしても。
明日、仕事が終わってもし余裕があればアリスの様子を見に行ってみよう……
サニアができそうな事は、今のところそれくらいだった。
――結局アロルドがアリスの家を訪ねてくる事はなかった。
アリスは一晩、眠れずに過ごし翌日職場へ赴き、ひたすらに仕事に打ち込んだ。
難しい薬の依頼がきたとかで、その日は目が回るくらい忙しかった。
寝不足のせいで何度か普段ならやらないだろうミスをしかけたが、どうにかそれらを回避して、一日が終わった時にはアリスはもう随分とぐったりしていたのだ。
家に帰ったらもう何も考えずにベッドに倒れ込んで、そうしてそのまま眠ってしまった。
そして次の日も、その次の日も忙しくて、アリスは余計な事を考える余裕がないくらい仕事に没頭した。
仕事が忙しいのはある意味で救いになっていたかもしれない。そうじゃないと鬱々と考え込んでしまうから。
細かなミスのないように注意して作業を続けていたアリスは、仕事中は少なくとも余計な事を考えずに済んだ。
朝起きて身支度をして職場へ行って、そうして黙々と老夫婦に指示された作業をこなして、家に帰って死んだように眠る。
それを繰り返した。
その間、一度もアロルドと会う事はなかった。
サニアがやって来て「ちゃんとご飯食べてる?」と心配はされたけれど、疲れすぎてあまり食欲もなかったし、お腹が空いたという感覚もなかったから食事はほとんどとっていなかったけれど、それを正直に言えばサニアの事だ。きっと心配してくれるけど、それと同じくらい叱られるのだろうなとはアリスにもわかってしまったので。
それに関しては適当に誤魔化した。
大丈夫。
食欲もないし空腹感もない。でも、集中力もないわけじゃない。
仕事中はちゃんと集中してミスはやらかしていない。
これで細かなミスを何度も繰り返すようならアリスもしぶしぶ食事をしたかもしれないが、そうじゃなかったから。
だから大丈夫だと思っていた。
それに、全く何も食べていないわけではない。
少しは食べていたのだ。フルーツとか、調理しなくてもすぐに食べられる物を。
仕事にも生活にも支障は出なかった。であるならば、何も問題は無いと言える。
そんな生活を数日繰り返して、老夫婦に依頼されていた薬は完成した。
アリスが手伝った事に関して言うのなら、そこまで難しいものではなかった。ただ、細かな作業が多く一つ一つをこなすのに時間がかかっただけで。
そうして準備したものを老夫婦が丁寧かつ正確に調合していっただけ、と言ってしまえばそれまでだ。
その『だけ』が大変であるわけだが。
ともあれ、数種類の薬が完成してそれらは無事に納品できた。
老夫婦は緊急の依頼以外は当分受けるつもりもないようで、しばらくは休むと言っていた。
実際ここ数日大変だったのだ。アリスはかろうじて家に帰れていたけれど、老夫婦は職場と自宅が同じためどちらかが休んでいる間どちらかが作業をしているようなもので。
山場を越えたのだから少しゆっくり休むべきだ、とは老夫婦どちらも意見が一致していたのである。
アリスにも数日纏まった休みができた。
早くに帰っていいと言われて、アリスとしてはなんだか奇妙な感覚だった。
いや、本来ならこれくらいの時間にいつもは帰宅できていたのだから、元に戻った今が本来の姿であるはずなのに、ここ数日すっかり忙しすぎたせいもあって向こうが日常になってしまっていたのだ。
最近はあまり食欲もわかなかったし、お腹もそこまで減ってなかったから家に帰っても食べ物はほとんど残っていない。
それでも、折角のお休みをもらえる事になったのだ。
まだ店だって開いてる時間帯だ。
どうせなら、今日はどこかで食べてから家に帰ろうか……
そう考えて、アリスは以前サニアが言っていた安くて美味しい食堂へ向かう事にする。
アリスが店に入った時はまだ空いていたが、しかし注文をした後徐々に混雑し始めてきた。
他にも仕事を終えたであろう人たちがアリスと同じようにここで食事をして家に帰ろうと考えたのだろう。
賑やかな空気に、なんだか随分久しぶりのような感覚がして。
あ、と思った。
聞き覚えのある声がして、ふとそちらに視線を向ければ同僚と食事にやって来たのだろうか、アロルドの姿があった。
隣にいる男性はお酒も飲んだのか、どこか顔を赤くして楽しそうに喋っている。アロルドはそれに律儀に相槌を打っているところだった。
アロルド、と声をかけようとは思わなかった。
向こうは同僚と一緒のようだし、そこにアリスが声をかけるのもなんだか気が引けたのだ。
仕事終わりだとは思うけれど、それでもまだ仕事の話があるかもしれない。
もしそうなら、アリスが声をかければ邪魔になってしまうだろう。
それでも、気になってしまってついちらちらと視線を向けてしまった。
気付いてくれないかな。
気付いてくれたら、挨拶くらいはできるかも。
明日から数日お休みを貰えたから、もしアロルドと休みが重なるようなら一緒にいたいな……
そんな風に思いながらも、アリスは自分からあの場に行って声をかける事まではできなかった。
自分の食事とアロルドの食事が終わって店を出るのが重なったなら、その時は声をかけても大丈夫だろうか……
そんな風に思いながらも、運ばれてきた料理を口にする。
サニアが絶賛していただけあって、料理は美味しかった。
食べながらも、アロルドたちがいる席の方へと意識は向いていて、ところどころの会話も聞こえてきた。
でも良かったよな、なんて同僚だろう男性がアロルドの肩にぽんと手を置いたのがアリスの視界の隅に入る。
最近忙しかったのがようやく一段落ついて、これで少しはのんびりできるな。
なんて。
そんな言葉が聞こえてきて、アリスは思わず期待してしまった。
仕事はそれなりに面倒な案件が解決したけど、でもまだやる事があるから。
直後にアロルドのそんな声が聞こえて、期待してしまった気持ちは一瞬で萎んでしまう。
あぁ、ラリサちゃんかぁ……
という同僚の声に、アロルドはお仕事が忙しいだけじゃなくて、ラリサの事もあるから今まで自分に会いに来ることもなかったのだ、と思い直す。
アリスはアロルドに会えるのを楽しみにしていたけれど、アロルドはアリスばかりにかまけていられるわけではない。街の治安維持の仕事は疎かになんてできないし、ラリサの事だって彼女は病気なのだから放置もできない。
優先順位をつけるのならば、アリスは間違いなくアロルドにとって一番などではなかった。
そうなのだろう、とは思う。
アリスは成人しているから一人で生活もできるし、病気でもない健康体だ。
だから、親を亡くして病気で大変なラリサが優先されるのは仕方のない事なのだろう。
仕事だって、アロルドはそれで給金を得て生活しているのだから放り出すわけにはいかないし、そうでなくとも仕事を適当にサボった結果、犯罪者を見逃す事になろうものなら、この街に住む誰かが危険な目に遭ってしまう事だって考えられる。
仕事の手を抜くわけにはいかないし、そうでなくともここしばらくは随分と忙しそうだった。
そこにラリサが助けを求めていたのなら、アリスに会う時間なんて無いのも理解はできるのだ。
頭ではわかっている。
わかっているけれど、なんだかアリスは同僚たちの会話が聞こえてくるたびに憂鬱な気分になっていって、美味しかったはずの料理が途端味気のないものに感じられてしまった。
少し余裕が出たのなら、アロルドから手紙とか届くだろうか?
いや、そもそも一緒に出掛ける事ができなくなってから最初の内は手紙でやりとりもしていたけれど、それだってどんどん減ってきて最近では出かける約束をした日のキャンセルの時くらいしか手紙なんて来なかった。
埋め合わせは必ず、なんて書いてあったけど、その埋め合わせすら未だできていない状況だ。
わかっては、いるのだ。
アロルドが忙しい事くらい。
それでも、何と言うべきか。
やっぱり、アロルドの恋人にならないままの方が、もしかしたら今までみたいに付き合えていけたんじゃないかな……なんて思えてしまって。
ただの気の合う友人だったなら、アリスの心だってここまで一喜一憂する事もなかっただろう。
恋人になった時は嬉しくて仕方なかったはずなのに、恋人になった途端二人の時間は思い切り減ってしまったのだから。
で、お前次の休みどうするんだよ?
そんな同僚の問いかけが聞こえてきて、アリスは思わずアロルドの様子を確認するように視線をそちらへ向けてしまった。
「あぁ、そうだな。この際だからのんびり休ませてもらうよ。忙しかったし」
前に買った本もまだ読んでないんだ。
その言葉が耳に届いて。
あ、私、買った本よりも優先順位低いんだ……と思ったアリスは、まだ料理が残っているにも関わらず席を立ってしまった。勢いよく立ち上がったわけではないので、周囲もアリスに注目する事もないまま、アリスはアロルドたちに気付かれる事もなく会計を済ませ、そのまま店を出る事ができてしまった。
店を出る直前で、むしろこちらに気付いたりしてなかっただろうか、とちらりと背後に視線を向けてみたもののアロルドと同僚たちは楽しそうに談笑していて、こちらに気付いた様子は一切ない。
あれ?
もしかしてだけど。
もしかして、私とアロルドってもう付き合ってないとかなのかしら……?
そんな風にさえ思ってしまう。
だって。
恋人になってから出かけたのなんて最初の頃だけで、その後はずっとアロルドはラリサに付き添っていた。
それでもアリスはラリサは病気で仕方ないのだと自分に言い聞かせてアロルドに文句だって言わず、理解者然として振舞っていた。
一緒に出掛ける事も一緒にいられる事も少なくなってから、手紙でのやりとりだってしていたけれど、それだってアロルドが忙しくなってきたからか、アロルドからの手紙はこなくなったし、こちらが出した手紙の返事だってこなかった。
それでもアリスの誕生日を祝おうと言ってくれていたからアリスはまだアロルドと付き合っているものだと思っていたけれど。
それだって当日にキャンセルされて、しかもラリサと一緒に向こうは買い物に出ていたのだ。
食料とか生活用品とかはまだわかる。
でも、アクセサリーショップに行く必要が果たしてあったのだろうか?
アロルドの誕生日を祝ったのに、アリスの誕生日は祝われないまま終わってしまった。
次の誕生日は一緒に祝おう、という言葉を楽しみにしていたのにアロルドにとってはその程度のものだったのだと思うと、やるせない気持ちになってくる。
しかもさっきの会話。
恋人の誕生日までドタキャンする事になった挙句、そこから一切連絡なんてしてないんだから、そこはせめて、休みがとれたら恋人の顔を見に来るとか、手紙を出すとか、なんかこう……あるでしょ!? と思ってしまう。
なに前に買った本もまだ読んでないって。
本なんて別に逃げないでしょ買ったなら。
まだ買ってないなら売り切れるかもしれないって気持ちになるかもしれないけど、買ったんなら家にあるんでしょ!? じゃあ別にいつでも読めるじゃない!
もしかして私の存在忘れられてる?
あまりにも物わかりのいい人でいたからすっかり忘れられてたり、する?
言葉に出さないまま、考え込む。
いっそ今から引き返してアロルドに文句の一つでも言えれば良かったのかもしれないけれど、しかしもしそれを実行しようとすれば、きっとアリスはアロルドに声をかけた時点で泣いてしまうかもしれなかった。
悲しいのと怒りと虚しさと、色んな感情がぐちゃぐちゃになって、支離滅裂に罵ってしまいそうだった。
だって今まで全然会えなかったし、一緒に出掛ける予定を立てたのにそれがだめになった日ばかりで、こっちだってアロルドに事情があるってわかってても寂しかったのだ。
付き合う前にアリスに好意を伝えていたアロルドの、好きとか愛してるって言葉がなんだかとても軽く感じられてくる。
そりゃあ、アリスだってマトモに育ってこなかったから。
普通に親に愛されて親から育てられていたならまだしも、そうじゃなかったから。
周囲の人間から疎まれて、サニアと出会ってダメな部分をどうにかなおしながらやってきたけど、今までのせいで中々人を簡単に信用できなくなっていたから。
そのせいで、アロルドと付き合うまでも時間がかかったのは確かな事実で認めるしかないのだけれど。
あまり我侭を言ったら嫌われてしまうかもしれないと思って、急な仕事が入って予定がダメになった日も、ラリサが体調を崩して助けを求めた事で予定がダメになった日も、仕方ないなと受け入れて諦めてきた。
でも本当の事を言えば、アリスだって簡単に受け入れたくなかったのだ。
楽しみにしていたのに。
この埋め合わせは今度って、その今度っていつ?
今のところその今度は一度も来ていないわ?
ぐるぐると同じような事が何度も頭の中で回って、そのたびに怒りで叫びだしたいやら悲しくて泣いてしまいたいやらで、感情が忙しい。
アリスの頭のどこか冷静な部分で、怒りを覚えるようになったって部分は成長したものね……なんて思う。
昔、まだ母の愛を求めていた幼い頃なら理不尽に暴力を受けても怒りより悲しみしかなかったのだから。
アリスだって、わかっていたら男の子として生まれてきたかもしれない。
でも、両親が求めていたのは女の子のアリスではなく男の子だった。
生まれる前にアリスに意思があってそれを理解していたのなら、もしかしたらちゃんと男の子として生まれてきたかもしれないのに。
いや、わかってはいる。そんなのは土台無理な話だと。
でも、今更ながらにそう思ってしまったのだ。
そうでなくたって、愛されないとわかっていたらそもそも生まれる事をやめていたかもしれない。
ちゃんと自分の事を待ち望んで生まれたら愛して育ててくれる人を親に選んだかもしれない。
幼い頃のアリスには決して考え付かない事でも、今はなんとなくそう思えるようになってきていた。
いつまでも幼い頃のままというわけではない。
ただ、それでも肝心の一歩が踏み出せないのはもうそういう性分なのかもしれない。
人の顔色を窺って、どういう反応をするべきなのか手探りで悩んでいた頃に比べれば、少しはマシになったのだとは思う。
身に覚えのない言いがかりをつけられるような事も今はなくなった。大勢の前で自分から何かを発言するような事になればまだ身が竦むような思いをするかもしれないけれど、でも少人数との対話であればそこまで怯える事もなくなってきた。
かつてのアリスが望んだような『普通の人』に近づきつつあるのだとは思う。
でも。
「…………疲れちゃった」
藻掻くのも足掻くのも怒るのも悲しむのも頑張るのも。全部全部。
その呟きは無意識で。
口から零れ出た事さえ、アリスは気付いていなかった。