楽しい時はいつも一瞬
この街に来た時はまだ懐事情が厳しかったのもあって、アリスとサニアは同じアパートの部屋を借りていたけれど。
しかしアリスがアロルドと付き合う少し前にそれなりに余裕が出てきたのもあって、二人は別々の部屋を借りる形となっていた。
だからこそ、サニアとだって会うのは休日が重なった時くらいで、家に帰っても誰かがおかえりと言ってくれるわけでもない。
部屋に戻ったアリスは、もう一度アロルドからの手紙を見た。
何度見たってその一文に変わりはない。
昨日、アリスが仕事から帰ってきた時は入っていなかった手紙。
配達員が手紙を届けにやってくる時間ではあるけれど、アリスが借りているこのアパートに配達員が来るのは普段ならもう少し後だ。
配達ルートがあって、急ぎの手紙は特別料金を払えばその分速く届くらしいが、アロルドがそんな事をしてまでこの手紙を届けたとは考えにくい。
では、きっと。
今日の朝早くに自分でここに来て手紙を投函したのではないか。
実際手紙には切手も何も貼られていなかった。
誰かの性質の悪い悪戯を疑っても、筆跡は間違いなくアロルドのものだ。
力なくソファに座って、アリスはぼうっと天井を見上げた。
今日はとてもいいお天気で。
でかけるにはきっと素敵な日で。
楽しみすぎて早くに起きてしまったから、ちょっと散歩とかしちゃおうかな、なんて思うくらいにはいい朝で。
でも、そのせいで手紙の存在に気付いてしまって。
もう少し後で気付いたところで結局は同じ事なのかもしれないけれど。
それでももう少しだけ幸せに浸っていたかった。
「今日、誕生日なのになぁ……お祝いしてくれるって、言ってたのに」
そう呟いたところで、どうしようもない。
楽しみだった。
楽しみにしていた。
サニア以外にアリスは誕生日を祝われた事がない。
サニアにお祝いしてもらうのだって、充分にありがたい事で、幸せな事だ。
でも、自分の誕生日を知らないサニアにそうさせるのは、なんだか心苦しかった。
だからそういうのがないアロルドにお祝いしてもらえば、きっと一番幸せな誕生日になると信じていたのに。
付き合うとアリスがアロルドに言った時には既にアリスの誕生日は過ぎていて、お祝いしてもらうにしても今更だった。
だから、次の誕生日は祝うと言ってくれたアロルドの言葉と気持ちがどれだけ嬉しかったことか。
この日を楽しみにしていた。
心待ちにしていた。
けれど、アロルドは来ない。
ラリサの体調がまた悪化したというのなら、それは仕方のない事だと思う。
それでも、今日くらいは……と思ってしまうのだ。
だって今日という日は一年でたった一度しかないアリスの誕生日なのだから。
こうして部屋にいてぼうっと天井を見上げていても、アロルドがやって来る事はないし、ましてや今日という一日が無為に過ぎるだけ。
ぎゅっと一度強く目を閉じて、数秒深呼吸をする。
そうしないと、みっともないくらい泣きそうだったから。
アリスくらいの年齢の女性なら、今更誕生日のお祝いくらいで文句なんて言わないのだろう。
でも、アリスにとっては楽しみで心待ちにしていた日で。
人生で初めてこんなに誕生日を心待ちにしていたくらいなのに。
アリスにとっては特別な一日になるはずだったけれど、アロルドにとってはそうじゃなかった。
ただそれだけの話だ。
ラリサを放ってはおけない、というのはアリスにだってわかっている。
それでも、今日だけは体調を崩すような事にならないでほしかった。
ふーっ、と深く息を吐く。
このままこうしていたところで、欝々とした気持ちばかりが募るだけだ。
今日は仕事が休みだから。老夫婦が休みをくれた日だから、職場に顔を見せに行けば何かあったのかと聞かれるだろう。
けれど、事情を説明するのは躊躇われた。
だって、普通の人たちにとって誕生日なんてそこまで重要視するものじゃないはずだから。
子供の頃ならともかく、アリスのように成人した年齢になってまで、誕生日を祝ってもらえなかったからと泣きそうになるなんて、きっとおかしい事だから。
こうなったら、仕事に打ち込んだ方が嫌な事は忘れられるかもしれないけど、でも老夫婦に何かあったのかと聞かれたら、上手くこたえられる自信がない。
サニアは今日……お仕事だったかな。お休みだったかな? どっちだったかな。
アロルドに誕生日を祝ってもらえる事になった、と浮かれて報告した時、サニアは良かったじゃん、と言ってくれた。じゃあ邪魔しないようにしとかなきゃね、なんて言ってたから、サニアはもしかしたら仕事かもしれない。
どっちにしても、冒険者ギルドに顔を出して確認するような事をするつもりはなかった。
家にいても気持ちは晴れないのなら、とアリスはあまり気乗りしないまま、それでもどうにか立ち上がった。
いっそベッドにもぐりこんで眠ってしまえばいいのかもしれないけれど、でも折角の誕生日なのだ。
誰も祝ってくれなくたって、アリスが一人で自分を祝えばいい。
何とかそんな風に思う事にして、アリスはクローゼットを開けた。
服だってたくさんあるわけじゃない。それでも、少しずつ増やしていったのだ。
その中から、本当だったら今日着ていくつもりだった服を取り出す。
朝の散歩をするつもりだった今は、うっかり汚すかもしれない事を考えて普段着だった。
服を着替えて、お化粧もする。
普段なら職場と家を往復するだけだから、そこまでめかし込む事もないけれど、今日は特別だった。
本当だったら、そうやって綺麗に着飾った姿をアロルドに見てほしかった。綺麗だと思ってほしかった。
丁寧に化粧をしていって、少しだけ気分が上向く。
油断してると泣きそうになるけれど。
今日また一つ年を取ったのだから、いつまでも子供のようにめそめそなんてしてはいけないのだと言い聞かせる。
そうして最後にアクセサリーをつけて。
鏡に映るアリスは、沈んだ気持ちとは裏腹にいつも以上に綺麗になって輝かんばかりだった。
「うん、お化粧も、いっぱい練習したもの。ちゃんと綺麗になったわ」
アロルドに見てもらいたかったな、という気持ちはやっぱりあるけれど、無理なものは仕方がないと何度目かの溜息を飲み込む。
折角綺麗になったのだから、沈んだ顔は似合わない。
無理に口角を上げて笑ってみる。鏡の中のアリスは少しばかり歪んだ笑みを浮かべていたが、それがなんだか滑稽で徐々に自然な笑みに変わる。
「――よし。折角だもの、一人でだって素敵な一日にしてみせるわ」
そう気合を入れて部屋を出る。
「あれ、アリス? これから出かけるの?」
アパートを出て少しもいかないうちに、サニアと遭遇した。
「えっ、サニア……?」
「もしかしてこれからデート? あ、じゃあどうしよ……」
「何かあったの?」
「いや、誕生日でしょ? だからプレゼントを届けに」
「私に?」
「誰の誕生日だと思ってるのさ。あんたしかいないっしょ」
やっぱ当日じゃなくて後日の方が良かったかなぁ……なんて呟くサニアに、アリスはぶんと首を大きく横に振った。
「う、うぅん。ありがとう。嬉しい。
あのね、今日は一人だから」
「一人?」
「うん、その、郵便受けにね、アロルドから今日、無理になったって手紙が入ってたから」
「はぁ!? マジで言ってる?」
「うん。でも、仕方ないよ」
「ありえない……! あいつ、今日くらいはそれこそ医者でも手配してラリサちゃんにつけとくとかできたじゃん」
「い、いいよ、流石にそこまではさ、ラリサちゃん、だってお医者様がいたら確かに安心かもしれないけど、でも心細い時にいてほしいのは頼れる人でしょ? だからアロルドに助けを求めたんだろうし……」
「それにしたって……えぇ? じゃあ今日アリス一人? あー、わかった。じゃあこれから。今からアタシと一緒に行こう」
「行くってどこに」
「どこでもいいけど、そうだ。新しくできたカフェとかどうよ? そこのケーキが絶品って評判なの。前から気になってたけど中々行く機会なくてさ。
アタシからのお祝いって事で、一緒にどう?」
パチン、とウインクされて言われたアリスは一瞬ぽかんとした表情をしてしまったが……
「い、いいの? うん、行く!」
じわじわと遅れてやってきた喜びをかみしめるように頷いた。
「あ、その前にこれ、おめでと」
「ありがとう。一回置いてくるね!」
サニアが差し出したプレゼントの箱を受け取って、アリスは踵を返す。
本当は中身を確認したかったけれど、折角だから帰ってからのお楽しみにしよう。
サニアを待たせるのも申し訳ないし、と自分に言い聞かせてアリスは箱をそっとテーブルの上に置くと、急いできた道をまた戻った。
アロルドから来れないという手紙が届いた時はまるでこの世界が終わったみたいな気持ちになってもいたけれど、サニアが祝ってくれるというだけでそんな気持ちも吹き飛ぶのだから現金なものだ。
サニアの事だから祝ってくれるとは思っていたけれど、今年はアロルドと一緒に過ごす予定だったから日をずらしてのお祝いだと思っていたし、てっきり今日サニアは仕事だと思っていた。
もしサニアが本当に今日仕事だったなら、アリスの気持ちは沈んだままだったし、とぼとぼと歩いて何を見たって虚しいだけで気分転換もできず、そのまま憂鬱な一日が過ぎて、そうして次の日になってもそれをまだ引きずっていた事だろう。
それに、とアリスは気持ちが上向いた今、少しの可能性に期待する。
ラリサの容体が少し良くなれば、もしかしたら夕方からでもアロルドと会う事はできるかもしれない。
その時に、一言「おめでとう」と言ってもらえれば。
そんな仄かな期待をしながらも、アリスは今目の前で自分のお祝いをしてくれるサニアへ意識を向けた。
大切でかけがえのない友人。
彼女と出会ったからこそ今の自分はこうして存在している。
もしサニアと出会わなければ、自分はきっと今でも世間一般の常識をわからず周囲に迷惑をかけ続け、そうして母親に売られてろくでもない男の元で飼い殺しにされるか、早々に飽きられて捨てられるか殺されるかしていたのだろう。
サニアがいたからこそあの場所から逃げるという考えを持つ事だってできたのだから。
「せめて、夕方くらいに会えればいいんだろうけどね」
アリスが先程少しだけ考えた事を、サニアもまた口に出した。
アリスがもっと早くアロルドの告白に頷いていれば、今日ではなく去年の誕生日を祝ってもらえる事はできたかもしれない。けれどあの時はまだ、すぐに信用できなかったのだ。
だってアロルドは素敵な人だ。そんな素敵な人がどうして自分なんかを……? という疑いは常にあったし、もしかしたら遊びなのかもしれないという疑いもあった。遊ばれて捨てられる……それこそアリスの母親のように、と考えるとその告白をすぐに受け入れられなかったのだ。
もっと早くに頷いておくんだった、と思えるのは、今だから思う事であって当時の自分には絶対に思い浮かばない事でもある。
ちょっと気を抜くとすぐアロルドの事を考えてしまうので、アリスはもう一度頭を振ってその考えを追い出すようにしてからサニアへ視線を向けた。
「いいよ、もう。今日じゃなくたって、後日でもお祝いしてくれればそれでいいの」
勿論誕生日当日にお祝いしてほしいという気持ちはある。
憧れだった。
自分が主役になれる特別な一日。
生まれてきた事を感謝されて、感謝する一日。
幼い頃のアリスにとっては眩しいくらいの希望の日。
実際幼い頃のアリスが誕生日にお祝いされた事は、サニアに祝われるまでなかったので、どうしたって憧れが拭いきれないのは仕方がないとアリスだって思っている。
けれど、それでもアロルドが。
自分の事を好きだと言ってくれて、アリスもまた大好きだと思っている相手からお祝いされたなら。
きっと、ようやく自分は報われるのではないかと思えたから。
だから今日、会えないと連絡がきた事はとても悲しいし落ち込むけれど。
でも、まだ祝われないと決まったわけではない。
今日である事は確かに重要だけど、でも、別の日だってお祝いの言葉をもらえる可能性はあるのだ。
付き合って少ししてからアロルドの誕生日を迎えて、お祝いをして。
そうしてそこで、アリスの誕生日は? なんて聞かれて答えたら、とっくに過ぎていた事で。
アロルドはだったら次の誕生日はちゃんとお祝いしようと言ってくれた。
その次、が今日であるのはそうだけれども。
ラリサの体調が悪いというのなら、それはもう仕方のない事なのだ。
誕生日を当日以外で祝ってはいけない、という決まりはない。
だから、次にお互いの休みが合った時にお祝いしてもらえればアリスにとってはそれだけで充分だと思うべきなのだろう。
内心で完全に納得したわけじゃない。
でもしょうがないじゃないの。
そう思いながら、アリスは自分を誤魔化すように笑みを浮かべる。
心の中では今までの自分がまだうじうじしているけれど、折角サニアが祝ってくれるというのだから。
そのじめじめした気持ちを表に出すべきじゃない。
少し前までのアリスならそれも難しかったかもしれないが、少しずつでも成長してきたアリスはそれくらいどうにかできるようになっていたのである。
サニアに連れられて行ったお店でお茶とケーキを堪能して、話に花を咲かせて。
それだけでも充分に楽しい一時だったが、折角だからさ、他の店も見て回らない? なんてサニアに誘われてアリスは考える間もなく頷いていた。
だって、楽しかった。
ケーキを食べて、話に花を咲かせて。
でもそろそろこの時間が終わるんだろうな、と考えたらなんだかとても寂しくなって。
楽しい時間が過ぎ去るのはあっという間ね……と惜しんだのだ。
この時間が終わる事を。
時間帯はまだ昼を過ぎて夕方になる前だ。
サニアが誘ってくれなければ、アロルドと早めに街を散策して色んなお店を見て、そうしてどこかのお店でご飯を食べて……夕方から夜にかけては恋人となった以上、そこでお別れではなくどちらかの家か、そういう場所へ行くかするかもしれない、とアリスは想像していた。
朝から晩までずっとアロルドと一緒にいられるだろうと思っていたのだ。
そうしてきっと幸せな気分のまま、次の日を迎えるだろうとも。
けれどそうはならなかったし、その代わりのように誘ってくれたサニアは友人であって恋人ではない。
アリスの事をそれなりに大切にしてくれるアリスにとっても一番大事な友人だけど、だからといって一日中ずっと一緒ではないだろうな、とアリスですら思っていたのだ。
夕方にはまだ早いけれど、それでも日が沈めばすぐ真っ暗になる。そうなればいくら治安が良いこの街でも絶対に安全とは言い切れなくて。
早めに解散して後はのんびり家の中で過ごすのが、きっとお互いにとっての素敵な休日の過ごし方になるのだろうと思っていた。
でも、今家に帰ったところでそうなればアリスはきっと、またうじうじとした考え方に囚われてしまうだろう事もわかっていた。
夕方くらいにでもアロルドが家にやって来てくれればその気持ちも吹き飛ぶかもしれないが、もし来なかったら……? 後日アロルドが誕生日を祝ってくれるかもしれなくたって、そうなるまではこの気持ちを引きずり続けるかもしれない。
それなら、沈んだ気持ちを少しでも遠ざけるように、楽しい事を長引かせたい。
そんな気持ちを見越したからか、サニアがもうちょっと一緒にいてくれるという提案にアリスが頷かないなんて事、あるはずがなかった。
もしここでその提案に頷かず、家に帰るという選択をしていたらどうなっていただろうか。
そう思ったところで、結局は後の祭りである。
いくつかの店を見て回って、これアリスに似合いそうね、だとか、こっちはサニアに合いそうだわ、なんて盛り上がって。
ふと足を止めたサニアの表情が一瞬強張ったのを見て、アリスは何か嫌な予感がしたのだ。
「サニア?」
「あ、ううんなんでもない。
あっちの店見に行こ、アリス」
「え、うん……ぁ」
声をかけた直後には何事もなかった風を装おうとしたサニアに、アリスはなにか変だなと思いながらも特に反対はしなかった。
だが、そうやってサニアが言うあっち、とやらへ足を運ぼうとしたその瞬間、ちらりと見えた気がして。
アリスはそこで足を止めてしまった。
遠くの通りだ。こちらの声が聞こえるはずもない。
こちらが向こうに気付いたのだって、たまたまだ。向こうは気付いてもいないだろう。
けれどもアリスは見てしまった。
少女と共に歩くアロルドの姿を。
その手に紙袋を抱えて、買い物をしたのだと一目でわかる。
そして少女が何やら嬉しそうに弾んだ足取りでアロルドのあいている片方の手を掴み向かった先は――
この街でもそれなりの大きさを誇るアクセサリーショップだった。