待ち望んでいたもの
付き合う、とアリスが頷く前までは、アロルドともよく出かけていたけれど。
しかしいざ付き合い始めてからは、そうもいかなくなった。
ラリサの体調が悪くなって、ちょくちょく様子を見に行く事になってしまった、とはアリスも聞いているし、アリスだってわかってはいるのだ。
まだ成人すらしていない少女を放っておいて自分を優先してほしいなど、言えるはずもない。
ない、のだけれど。
でも、それでも羨ましかった。
ラリサにもアロルドにも、お互いに恋心とかそういう感情がないとは聞いていても、どうしても。
確かにラリサは大変かもしれない。
親が死んで、財産があるとはいっても病気のせいで自由に身動きできないとなれば、普通に過ごす事も難しいのだろう。
けれども財産を残して生活面の心配をなくしてくれた両親は、きっとラリサの事を愛していたに違いないし、もしラリサの両親が今もまだ生きていたのなら、きっとラリサが病気になったとしても、やはり甲斐甲斐しく看病されたりしていたに違いない。
それに、アロルドだって。
ラリサを心配して、街の見回りの時にも様子を見に行っているというくらいだ。
アリスのところには顔を見せにもきてくれないくせに。
いや、これもわかっている。
アリスは別に病気でもなんでもないのだ。
わざわざ仕事中に顔を見せにくるだけ、なんてアロルドだって忙しいのだから、そんな面倒な事はできないのだろう。
アリスが買い物に出かけた時に、見回り中のアロルドを見かけた事がある。
その時に少しだけならいいんじゃないか、と思って声をかけようと思った事もあるけれど。
同じ制服を着た別の男性に声をかけられて、あっという間にそちらに行ってしまった。
仕事中だもの。仕方ない。
わかって、いるのだ。
それでも、とふと思う。
それでも、ちょっとくらいこっちを見てくれたっていいのに……と。
アリスの事なんてこれっぽっちも気付きやしないで行ってしまったのだ。
もし、こちらに気付いて目が合っていたら。
声をかける事ができなくても、せめて少しでもこちらに意識を向けてくれたら。
それだけできっとアリスの心は今までの不満なんて吹き飛んでしまったはずなのに。
無茶な事を思っているのもアリスにはわかっているのだ。
それでも、ただひたすらに寂しかった。
サニアとも、最近忙しくて中々顔を合わせる事がないのも寂しさに拍車をかけていた。
アリスが働いているところは、基本的に人がいない。
老夫婦とは、仕事の合間に少しくらい話をする事がないわけじゃないが、話に花が咲くような事もない。
悪い人たちではないけれど、アリスのうじうじとした悩みを聞かされても困るだろうなと思うから、アリスも愚痴めいた事は言えなかった。
わかっているのだ。
ラリサが好きで今の状況になっているわけじゃない事も。
アロルドの仕事が忙しい事も。
疲れているであろうアロルドに、アリスが我侭を言うわけにもいかない。
わかっているから、寂しいなんて不満はそっと飲み込むしかなかった。
付き合うって言うまでは、アロルドもいっぱい顔を見せに来てくれたし、一緒に友人としてでかけたりもしてたんだけどな……
もし、まだ付き合うって返事してなかったら、友人としてでも一緒にいられたかしら……?
そんな事はないとわかっていても、ついそんな風に考えてしまう。
アロルドの告白に頷く前なら、アロルドは一生懸命アリスに振り向いてもらおうとしていたから。
もし、まだ告白に返事をしていなければ、たとえ忙しくたって足繫く通ってくれていたかもしれない。
そんな事はないと思おうとしても、どうしたってそんな考えがよぎる。
病気で生活もままならないラリサの事が、そうなるとアリスはどうしたって羨ましく思えるのだ。
確かに大変かもしれないけれど、あの子は親に愛されていて。
アロルドが気にかけてくれている。
対する自分はどうだろうか。
健康ではある。それは、素晴らしい事なのかもしれない。
でも、親には愛されなかったし、アロルドだって気にかけてくれる様子もない。
いっそ、体調不良を起こして倒れたら、アロルドはお見舞いに来てくれるかしら……?
忙しいとわかっている相手に、それでもそんな風に思ってしまう。
少し前に出かける約束をした日、ラリサの体調が悪化して心配だから、と一緒に出かける事はなくなってしまった。
その連絡をくれたのは、サニアだ。
朝、冒険者ギルドに行ってサニアに手紙を届けてもらうよう依頼を出したらしい。
本来ならその依頼を受けた冒険者の誰かしらが来たのかもしれないけれど、わざわざサニアが届けてくれたのだ。
ラリサの体調だけではない。
最近は仕事の方も忙しくなってきて、次に出かける予定を立てる事も難しくなってしまったから、手紙でのやりとりすらなくなりつつあった。
アロルドから手紙が来る事はないし、アリスが手紙を出しても返事が来ない。
それくらい忙しいのだ、とわかっていてもアリスの心は全然納得してくれなかった。
いっそここらで開き直って、他の男みつけるわ! なんて言えれば良かったのかもしれない。
けれどアリスにはそこまでのバイタリティはなかったので。
いっそ、今からでもアロルドを好きな気持ちが消えてしまえば……とさえ思うようになっていた。
好きな相手だからこそ、会えないのが寂しい。
好きでもない相手なら、こんな風に思う事もなかったはずだ。
けれども、アロルドの事なんてなんとも思わないようにしようとしたところで、結局どうにもならなかった。今の状況は確かにアリスにとって不満ではあるけれど、それだけで好きという気持ちが消えるまでには至らなかったのだ。
それでも、と思う。
それでも、アリスにはまだ希望があった。
アリスがアロルドと付き合った時には、既にアリスの誕生日は終わった後だったけれど。
その事実を知ったアロルドは、来年のアリスの誕生日はお祝いしようと約束してくれたのだ。
アリスにとってそれがどれだけ嬉しかった事か。
今までは誕生日なんて、何も特別な日じゃなかった。
生まれた事すら親から疎まれていたので、ただアリスが生まれてしまった日という認識でしかなかった。
誕生日とはそういうものではない、と知ったのはサニアと出会ってからだ。
生まれてきてくれてありがとう。
そう祝うのだと聞いて、アリスがどれだけの衝撃を受けた事か。
そうは言っても、アタシには関係ない話だよ、とサニアが寂し気に笑うものだから、アリスもまた困ってしまったけれど。
サニアは親に捨てられてしまった孤児だ。
だから、本当の誕生日がいつなのか知らない。
孤児院の前に捨てられていた日を誕生日にするにしても、その時には既にサニアという存在はこの世に生まれ落ちているのだから、誕生日と言うのは少し違う。
それでも、孤児院ではやって来た日を誕生日と仮定して、纏めて祝うのだと言う。
でもさ、やっぱホントの誕生日じゃないから。祝われてもね……
なんてどこか呆れたように言うサニアに、アリスは言い出せなかった。
実際いつ誕生日かわからなくても、サニアの事を祝いたいと言えなかった。
余計な気を使わせてしまうのではないかと思えたから。
それでもサニアはアリスの誕生日を知ると祝ってくれた。
だったら、サニアの事もお祝いしたいと言っても、アタシはいいよと言われてしまって。
それでもどうしても、と言えばもしかしたらお祝いをする事ができたのかもしれない。
けれど、アリスは強く踏み込めなかった。
そうやって自分の要望を口に出せば、我侭言わないでと母にヒステリックに喚かれて叩かれた事を思い出すから。
叩かれると痛いから、叩かれないように母の顔色を窺っていたけれど、結局母のその日の気分次第だったから、アリスにとっては自主的に行動に出る事そのものが恐怖ですらあった。
何かをして褒められる事よりも、余計な事をしないでと怒られて叩かれる。
何もしないと、なんでやらないのと怒られて叩かれる。
母が家にいる時はただひたすらに息を潜めているしかなかった。
母が家にいる時に外に出ようとすると、また勝手に店の商品に手を出すような事があるかもしれないと思われて外に出る事を許されず、かといって家にいても母のお気に召さない状況。
母が家にいない時にこっそりと外に出たりもしたけれど。
幼い頃のサニアに出会う以前のアリスは人間というよりは動物に近しい存在だった。
その頃の記憶がなくなったわけでもないので、サニアに対しても、『何を』『どこまで』言っていいのかアリスにはわからなかったのだ。
老夫婦はやるべき事とやってはいけない事を先に伝えるから問題はない。
アロルドも、自分の意見をハッキリと口にするし、そういう意味ではわかりやすくはある。
昔に比べてアリスも普通の人として生活する事に関して上達したとは思う。
それでも、まだ普通の人と同じだとは思えなかったが。
ともあれ、そんなアリスの誕生日が近づきつつあった。
それは言うなれば、アロルドと付き合い始めて一年になろうとしているのだが、付き合ったという実感は薄い。仕方のない事とはいえ、やはり寂しくはある。
付き合って最初の一か月が、一番付き合っているという実感があった。
そこから徐々にラリサの体調が悪化していって、一緒に出掛ける約束がキャンセルされるようになっていって。
それでもまだ、その頃は手紙でのやりとりだけはやっていたのに。
それもいつしか忙しくて手紙を書く余裕すらなくなったのか、それともアリスの手紙に目を通す暇さえないのか、途絶えてしまった。
そこから数か月。
もう付き合っているというのも疑わしく思えてくるが、しかしサニアの口からはまだアロルドはアリスが恋人だと思っていると告げられたから。
だから、まだアリスもアロルドを恋人だと思う事にしていた。
声をかける事ができなくとも。
街中で見かけたアロルドは仕事中なので、お洒落をしているわけでもなく制服姿だし、一緒にいる人も同じ制服の男性で。
街の人と一緒にいるところを見ても、大抵は困っている人を助けているところなのか、事態が解決すればその場を立ち去っていった。
着飾って綺麗な女の人と一緒にいるような場面を目撃していたら、付き合っているという事実すら疑っていたかもしれないが、そういった事は今までになかったから。
アリスはまだアロルドとの関係が続いていると思う事にしていたのだ。
アリスの次の誕生日は一緒に祝おう。
そう、付き合ってすぐの頃に約束したから。
その約束が、今アリスの心をつなぎ留めていると言ってもいい。
母からは愛されなかった。
でも、アロルドはそんなアリスを好きだと言った。
アロルドなら、アリスの事を愛してくれるかもしれない。
自分を愛してくれる人に誕生日を祝ってもらうのは、アリスにとって一つの夢であった。
サニアだってアリスの誕生日を祝ってくれたけれど、でもどうしても引け目のようなものを感じてしまって、素直に喜べなかった。
勿論折角祝ってくれたからこそ、嬉しいという気持ちは確かにあったのだけれど、内心では全力で喜べなかったのだ。いや、喜んではいけない、と思っていたというべきか。
しかしアロルドなら。
彼に祝われるのであれば、サニアに対する引け目のようなものを感じる事もない。
今度の誕生日にアロルドにお祝いしてもらえたのなら。
そうしたら、今みたいな不安な気持ちは消えてなくなるかもしれない。
母から必要とされなかったアリスだけど。
それでも、誰からも必要とされていないわけじゃなかったと思えるのなら。
アロルドの一番に、アリスがなる事ができるのなら。
そうしたら、きっと今のこんな気持ちを吹っ切る事だってできるかもしれない。
アリスは恐る恐る手紙を書いた。
アリスの誕生日でもある日付を書いて、この日、会いたいと短くはあるが文を綴った。
本当はもっと色々と言いたいことがあったけれど、もしアロルドが忙しいのなら長い文章は逆に今忙しいから後回しにしよう、なんて事になるかもしれない。それならすぐに目を通し終わるような短い内容の方がいいだろう。
そんな風に考えて、丁寧に一文字一文字綴っていって、祈るように封をした。
そうして出した手紙の返事は、思っていたよりも早かった。
なんだったら、最近忙しすぎてアリスの誕生日が終わってから返事がくるかもしれない……なんて思っていたくらいだ。
だがその嫌な想像は実現しなかった。
アロルドからの手紙もまた短い文章だったけれど、それでもその日会える事を楽しみにしていると書かれていて。
「~~~~っ」
アリスはその手紙を胸に押さえこむようにして、声にならない声を上げた。
良かった。断られなかった。誕生日の事、忘れられてるかもしれなかったから、了承してくれたって事はきっと憶えててくれたのね。
まだ誕生日でもないのに、既に嬉しかった。
もうこれだけでも充分だとすら思ってしまった。
誕生日まであと数日。
その数日が。
とても待ち遠しく感じられたし一日一日が輝いているようにすら感じられた。
嬉しい。楽しみ。
そんな気持ちでアリスは日々を過ごしたのだ。
別に盛大に祝ってもらわなくたっていい。
ただ、お祝いの言葉と、あとは一緒に、ご馳走を食べたりできればそれで。
プレゼントだとか、そこまでは望んでいない。
ただ、一緒にいられたら。
そう思いはするものの、それでもやはり期待をしてしまう。
一日が終わって、次の日がやって来て。
刻々と近づいてくる自分の誕生日がこれほどまでに待ち遠しくなるなんて、思ってもみなかった。
早く誕生日にならないかという期待。
同時に、このままわくわくした気分でもう少しいたいな、という感傷のような気持ち。
既に幸せなのに、誕生日当日になったらきっともっと幸せになれそうだと思えてしまって。
だから。
当日の朝に、アリスが借りている部屋のポストに。
アロルドからの手紙が入っていた時点で。
そしてその中を確認したところで。
アリスの幸せな気持ちはパチンと泡が弾けるようにして消えてしまったのだ。
『ごめん。ラリサが体調を崩したから、行けない』
ぐっ、と唇を引き結んで。
どうにか泣くのだけは堪えた。