悪意なんてないけれど
アロルドから告白されたのは、そこから案外早かった。
けれどもアリスはすぐに頷く事ができなかった。
アリスもアロルドの事を好ましく思っていたけれど、しかしまだ自分の中にある恋に踏み出せなかったのだ。
恋が必ずしも報われるものではないという事をアリスは知っている。
母だって好きな相手と一緒にいたはずなのに、しかしそれはアリスがアリスとして生まれたせいで崩れ去った。
アリスが男として生まれていたのなら、今頃はきっとこんな風に故郷から遠く離れて暮らす事もなく、またきっと、母と父と共に生活できていたはずなのだ。
家の中にほんの少しだけの食料を置かれて放置される事もなく、人のコミュニティの中で生きていくために必要な事だって教えてもらえていたはずで。
母の恋はアリスの誕生と共に終わりを迎えた。
愛だったのかはわからない。
恋にしろ愛にしろ、どのみちそれらはアリスの誕生で壊れたものなのだから。
アロルドは素敵な人だ。
アリスも一緒にいて何度もときめいて、あぁ、好きだなぁ……と自覚するような事はあったのだから。
だからこそ、アロルドの告白に頷いてしまいたかったけれど、しかしその先を考えてどうしても躊躇してしまった。
だってアロルドは素敵な人だ。
職業柄多くの人から頼りにされていて、彼を素敵だという人もたくさんいる。
そんな素敵な人が、親からも愛されずに育ってきたアリスを好きだというのがどうしても信じられなかったのだ。
これならまだ、仲間内で性質の悪い遊びとして嘘の告白をしている、と言われた方がまだ納得できた。
アロルドからすればアリスの態度は相当煮え切らないものだっただろう。
しかしそれでもアロルドは根気強く、アリスと接した。
ゆっくりと時間をかけて、アリスの心を溶かすように。
そうして、アロルドの事は信じていいのかもしれない……とアリスが思って彼の告白に頷いたのは、アリスが二十三になってからだった。
やっとくっついたの?
なんてアロルドとお付き合いをする事になったと報告したサニアからは呆れられてしまったけれど。
それでもサニアはなんだかんだ幸せになりなさいね、なんて祝福してくれた。
今まで暗い灰色の空みたいな人生だったが、ようやく雨が上がり雲間から光が差し込んだみたいにアリスの人生は輝き始めたのだ。
私が言えた義理じゃないけれど、サニアはどうなの? と聞けばサニアは妖艶な笑みを浮かべるだけだった。
誤魔化すような笑いではなく、なんだか意味深で。
もしかしてサニアにも好きな人ができたのかもしれない。
詳しく聞きたいけれど、でも余計な口出しをするのもな……と思って、アリスはサニアも上手くいくことを願っているわ、なんて応援した。
いや、アリスじゃあるまいし、サニアならこの人と決めたならさっさと相手を落としているだろう。
そうしていないのは、恋の駆け引きを楽しんでいるからかも。
サニアは相変わらず冒険者ギルドで働いていて、今では受付嬢として高嶺の花のような扱いをされているらしい。アリスは未だに怖くて冒険者ギルドに足を運べないけれど、街の中で聞こえてくる噂からサニアに関してはそう聞いていた。
冒険者ギルドには不似合いな、高貴な身分であろう人が何度か足を運んでいるという噂も。
もしかしたら、サニアは私の母親のように貴族の男性に見初められるのかもしれない。
でも、サニアはきっと母と同じような事にはならないだろう。
アリスの生い立ちをサニアは知っている。
サニアが、アリスの母と同じ過ちをやらかすとは思えなかった。
けれど、もし不毛な関係であるのなら。
そう考えると、忠告とか、した方がいいのかな……?
そう思うも、間違いなく余計なお世話だ。
下手な事を言って、サニアに嫌われたくはなかった。
そんなつもりはないけれど、自分に恋人ができたから浮かれて調子に乗ったと思われるのも嫌なので。
あるかはわからないけれど、もしサニアが相談したいことがある、なんて言い出すようならその時は、アリスも自分にできる限りの事をしてサニアの助けになろう。
それまでは、余計な事は言わない。
アリスはそう決めたのであった。
そこからのアリスの生活は、とても充実し始めた。
生活に大きな変化があったわけではない。
仕事のある日にやるべき事はそこまで変わらないし、休みの日だってサニアと休みが合えば彼女と過ごすし、アロルドとの休みが重なるのなら共に過ごした。
ただ、サニアは他にも付き合いがあるからか、アリスとサニアの休みが同じ日になったとしても、毎回必ず顔を合わせるわけではなくなったくらいだろうか。
それでも、その分アロルドと会って過ごす事が増えてきたから、アリスは孤独を感じる事にはならなかった。
恋人とも、友人とも、どちらとも仲良くやっていたのだ。
毎日が幸せだと感じられるようになってきて、老夫婦にも雰囲気が明るくなったなんて言われて。
アリスを知る人たちもアリスに何かいい事あったの? なんて聞いてくるようになった。
ただ、その幸せに陰りが出始めた。
アロルドには家族ではないが、家族のように、妹のように思っている幼馴染がいると話していた。
年の少し離れた少女は、両親を亡くし、病気にかかり一人でマトモに外に出るのも苦労するような状況になっているらしい。
少女の名をラリサといい、彼女の親はラリサに莫大な財を残した。
まだ幼い頃に両親が死んだ事で、ラリサの周囲には彼女の知らない自称親戚が多く集まった。
そうして家族なのだから、などと言い自分がラリサの面倒を見ると言って詰め寄った。
親が死んだばかりで悲しみに暮れたラリサの事などお構いなしに。
彼らの目的が、ラリサの親の遺産であることは一目瞭然だった。
幼いラリサが断ったところで「そう言わずに。本当に君の事を心配して言っているんだ」などと言って引く様子もない。
このまま押し切られれば間違いなくラリサは親の遺産を根こそぎ奪われてしまうだろう事は、透けて見えていた。
誰もかれも、ラリサの心配など心の底からしていなかった。彼らの目にラリサは、金の卵のようにしか見えていなかったのだろう。
それを追い払ったのがアロルドである。
ラリサが幼い頃、まだラリサの両親が生きていたころからアロルド一家とは親交があり、ラリサにとってアロルドは血縁でなくとも頼れる兄のような存在だった。
そんな彼が、ラリサの事を守るべく一喝し、ラリサの受け継いだ遺産を毟り取ろうと目論んでいた連中を追い払ったのだ。
アロルドの父も今のアロルドと同じように街の治安を守る立場にあり、アロルドとその父によってラリサは事なきを得た。
アロルドが助けてくれなければ、幼いラリサなど大人の口先にまんまと乗せられてあっという間に身ぐるみはがされていたに違いない。
幼いラリサにアロルド一家は色々と手を貸して、そうしてラリサは簡単に財産を奪われないように知識を身につけた。頼れる人材を雇い、家には少ないが人を雇った。
そうする事で、幼いラリサは両親の残した家で生活できた。
だがその後で、ラリサは病に倒れてしまった。
死に至るものではないが、難病と言われるものであまり長い時間起きていられなくなった。
調子の良い時なら少しくらい外を出歩く事もできるが、不調は突然訪れるのでほんの少し前までは元気だったのに突然倒れるなんて事もあって、一人で出歩くのは難しくなってしまった。
日用品や食料などの買い出しは雇った人に任せられるが、そうではない外出までつき合わせるわけにもいかず、そういう時はアロルドが休みであれば彼が付き添うようになったのは、ある意味で当然の流れだったのかもしれない。
ここ最近はラリサの体調もそこまで悪化する事がなかったのだが、また悪化する事が増えてきたらしくちょくちょくラリサからは鳥が飛ばされてくる。
家が近所とは言えラリサが自力でアロルドの家に来るまでの体力は無い。
それ故に、何かあった時、雇いの人を遣わせるか、そうでなければアロルドの家にはラリサの家で飼っている鳥に手紙を括り付けて飛ばされてくるのである。
人に頼むより鳥に頼んだ方がラリサの精神衛生上気が楽なのか、最近はよく鳥が飛んでくるのだとか。
病に倒れてからのラリサは自由に出歩く事もままならなくなってしまったのもあって、友人らしい友人もおらず、頼れるのはアロルドくらい。
アロルド自身もまた、年の離れた妹のような存在であるラリサの事はなるべく助けてやりたいのだと言っていた。
以前であればアロルドの両親がラリサのところへ行く事もあったけれど、父も母も数年前に亡くなってしまったのもあって、今はアロルドしか頼れる人がいない、と言われてしまえば、アリスだってラリサよりも自分を優先して! などとは言えなかった。
一人でいる事の心細さをアリスは知っている。
サニアに出会う前までの孤独であった頃を思い返せば、ラリサの気持ちは少しだがわかる。
それに病気で自由に動けないとなれば、心細さは尚更だろう。
体調が良い時はそれなりに動けると言っても、その良い時の方が少なくなれば不安に押しつぶされそうになったっておかしくない。
たまにアロルドとの休みが合って、一緒に出掛けようなんて約束をしていても、その前日にラリサの家から鳥が飛ばされてくれば、アロルドは様子を見に行くしかない。
ラリサの家で雇われているのは、家事などをする少しばかり年を召した老女と言っていい相手だ。
もう一人、それよりは若いがアロルドよりも年上の――それこそアロルドの父が生きていたら同年代だろうか――男も雇われてはいるが、そちらは毎日ラリサの家にいるわけではない。
彼は定期的に生活に必要な物を買って運んでくるだけだ。
この二人はアロルドの両親が信頼できると言って雇う事を勧めた二人だ。
実際ラリサを子供と侮らず、家の中の金になりそうな物を盗むような事もせず、真面目に働いている。
老女の方はラリサの境遇に同情している部分もあるから、もう少し親身に接してくれるとは思うけれど。
しかし老女も体力的に元気いっぱいというわけではないのであまり無理をさせるわけにもいかない。
男の方は仕事を掛け持ちしている状態なので、こちらも無理にラリサの元に留めておくわけにもいかなかった。その場合はもう少し給金を上げる必要が出てきてしまう。
それでも問題ないとは思うが、しかしラリサとしても実際肉親でもない年上の男がずっと自分の家にいるのは息が詰まるだろうから、基本的にそちらとの関わりはあまり増やしてはいない。
ラリサの家とアロルドの家が近い事もあって、治安に関してはアロルドの近所の人たちが何か不審な事があれば即座に連絡を入れてくれる。
とはいえ、不審な人や物があればその時は連絡が来るかもしれないが、ラリサの体調不良如何に関してはラリサ本人が助けを求めるしかできない。
アロルドに恋人ができた、という話はラリサもアロルド本人から聞いてはいた。
だからこそ祝福しはしたものの、頼れるのはアロルドだけなのだ。
悪いと思いながらも、どうしても体調不良に陥った時、雇いの老女だけでは手が回らないとなればアロルドに助けを求めてしまう。
ラリサはあくまでもアロルドの事を年の離れた頼りになる兄のようにしか見ていなかったし、アロルドもまた手のかかる年の離れた妹としてしかお互い見ていないと断言できる。
アリスはラリサと会った事はないが、アロルドがそう言う以上は、何も言えなかった。
そうでなくとも、アロルドがまだアリスと付き合う前、ラリサはアロルドにあまり頼りすぎるのもよくない……と気を使って我慢して呼ばない事があったのだが、その時意識を失って昏睡状態にまでなった事があったので。
たまたまその時アロルドがラリサに用があって家に訪れたからすぐさま医者を連れてくる事ができたものの、下手に遠慮されてそれで知らず死んでたなんて事になるよりは、と何かあったら遠慮なく呼ぶようにとアロルドはきつく言い聞かせたのである。
もう少し、人を雇い入れた方がいいのかもしれない、とはラリサも成長するにあたって考えた事はある。
あるけれど、しかし不安なのだ。
親が死んだ時の親戚と名乗る人たちみたいなのが来たらと思うと、簡単に雇う人を増やすわけにもいかない。
ラリサはあまり人と接する事がないせいで、人を見る目が確かだとはとてもじゃないが言えないし、一見善人だと思える人でも心の中までわかるはずもない。
新たに雇った人が、もしラリサを騙すような事になったなら。
そう考えてしまうだけで、ダメだった。
ラリサの周囲にいる信用してもいい大人たちが、この人なら……と思った相手を雇うのであればまだ、大丈夫かもしれない。
けれども時間を持て余しているだとか、気軽にラリサのところに足を運べる自由があるだとか、そういう都合の良い相手などそういるはずもなく。
今の仕事を辞めてラリサの家で働くにしても、だとすれば前職と同じくらいの給金は必要になってくる。
親の遺産があるとはいえ、ラリサの体調は良い時と悪い時の波がありすぎて医者にかかる回数だってこの先減るどころか増えるかもしれないのだ。
そうなれば、後先考えず雇う人間の給金を上げるわけにもいかない。
軽い人間不信に陥っている自覚がラリサにはあった。
そのせいで新たな人脈を築こうとするよりも、今いる頼りになる相手にどうしたって頼ってしまう。
アロルドにも負担をかけているとわかってはいるが、現状をすぐに変えるような事は、ラリサにはできなかった。
せめて症状がもう少し軽くなるか、成人すれば。
今よりは少し状況が変わると思うけれど、しかしどちらにしてもそれはすぐどうにかなる問題でもない。
あ、と思った時にはまた眩暈がして、ラリサは身体の向きを少しだけ変えてベッドの中で目をぎゅっと強く瞑った。起きて、まだ調子が悪いようならまたアロルドに助けを求める事になるかもしれない。
せめてそうならないように、と思いながら。
ラリサの意識はゆっくりと沈んでいったのである。