変わりたいと望んだ
証拠もなくただ付き合いの長い仲間が言ったから、という理由できちんと調べるでもなくアリスを責め立てたギルドの受付嬢たちやギルドマスターの事をサニアは許していなかった。
アリスが慣れていない相手と接する時におどおどする様子が鬱陶しいと思う気持ちを否定するつもりはない。
サニアだって、アリスの事情を理解しているからそれを受け入れているけれど、何も事情を知らない相手がそんなだったら間違いなくイラついていただろうし。
サニアは周囲の人間関係を波風立てないようにしてきたけれど、アリスはそうじゃなかった。
言ってしまえばそれだけの話だ。
冒険者たちの中にはアリスではなくサニアに想いを寄せる者がいたのもサニアは知っている。
というか、告白されたがそれはあっさりとお断りした。
サニアに告白してきた冒険者たちの何名かには古参の受付嬢が想いを寄せている相手もいたが、サニアはそこら辺も上手く立ち回っていたのでやっかみを受ける事もなかった。
アリスに関してもサニアは手助けをしようと思ったが、しかし下手に介入すると余計拗れそうな予感がしたから、どうしようもなくなる手前までは様子を見ようと思っていたのだ。
ところが、様子見の段階でいきなりトップギアまでやらかされた結果が昨日である。
ギルドにやって来たサニアを見て、気まずそうにしていたのは昨日いた者たちだけで、昨日休みだった者たちは何事かまだ知らない様子だった。
「おはようございます、あれ? 今日、アリスさんも出勤ですよね?」
昨日休みで何も知らない一人がそう声をかけてきたが、サニアは休みよ、と平然と返した。
そのままその足でギルドマスターのところまで行って、颯爽と辞表を突き付けたのである。
「理由は言わなくてもわかりますよね?
昨日の件です。濡れ衣かぶせて集団で糾弾するような相手と仕事なんてできないし、そうでなくともアリスは昨日の事を引きずって職場に行こうとしたら足が竦んで動けなくなるくらいショックを受けています。
真面目に仕事してただけなのにこの仕打ち。酷いものですよね。
アリスはもうギルドに来れない身体にされたし、アタシもそんなところで働けませんから。
この町出ていくことに決めました。つきましては退職金を。慰謝料でもいいですよ」
働いてまだ長くはないため退職金なんて出るはずがないが、しかし慰謝料であれば可能でしょう?
そんな風に暗に仄めかせば、ギルドマスターも昨日の一件は悪いと思っていたのだろう。
しばしの沈黙の後で、少し待ってろ、と言って奥の部屋へと移動して、そうして少しもしないうちに戻ってきた。
そうしてサニアは決して少なくはない金額を手に入れたのだ。
実際その金を受け取るべきはアリスだが、今のアリスがこれを受け取ったところで喜ぶはずもない。
「それじゃ、短い間でしたがお世話になりました」
あっさりとそう言って、サニアは颯爽とギルドを出ていった。
サニア自身はこの事を別に誰彼構わず吹聴したわけではない。
ただ、颯爽と早い時間にギルドを出ていく姿は目撃されていたし、今日休みなのか? なんて声をかけた冒険者に「いいえ、辞めたの」とだけ返して立ち去っただけだ。
それ以上は何も言っていない。別に古参の受付嬢の悪口も、ギルドマスターに対しての不満も、何も。
けれども声を上げずに静かに泣くアリスを連れて歩いていたサニアを見ていた冒険者たちは紛れもなく存在していたし、その翌日にサニアがギルドを辞めたという話が出れば、当然原因は前日の件が関係していると多くの者は思うだろう。
更に数日後には、サニアもアリスもこの町を出ていったとなれば――
綺麗どころが減った、なんて嘆く者や、そんな二人に嫉妬して虐め倒していたんだろうな、という事実無根の噂まで。
面白おかしく、時として正義感から義憤に駆られて。
この町のギルド職員たちは、少しばかり肩身の狭い思いをする事になるのであった。
一つ二つ程度離れた町では、足をのばしてやってくる冒険者と遭遇する事だってある。
だからこそサニアはもっと離れた街へとやって来た。
慰謝料としてせしめたお金で馬車を調達して、あの町の話なんて噂でも聞かないくらい遠くへ。
大きな街だから人の出入りはそれなり。
賑わっているので、仕事は探せばすぐみつけられるだろう。
見れば治安もそれなりに良さそうだし、とサニアは早々にここを新たな拠点と決めた。
アリスは特に希望があるわけでもないので、サニアの決める事に素直に従った。
できる事ならあまり人と関わりたくない……と消極的な願いは口にだしたが、サニアはそれを責めなかった。
サニアも薄々理解はしていたのだ。
故郷の町にいた時だって、アリスは周囲の人との接し方がよくわかっていなかったようなものだ。
それでも、長い時間をかけてサニアと関わったからこそ、多少なりともどうにかなっていたけれど。
だが根本的な部分は未だに親に愛されたくて仕方がない子供のままだ。
そしてその親はアリスの事を決して愛する事はない。
そのせいで、アリスは愛がわからない。
周囲が認める美貌があるのだから、それこそ親に愛情をたっぷり注がれて育っていれば、今頃は誰からも愛される少女になっていたはずなのに。
しかし親からも愛されずまともな教育も受ける事がなかったアリスは、人の顔色を窺いながら、何が正解なのかもわからず迷走するような人間になってしまった。
何が原因というわけもなく暴力を受けて育った事もあって、痛い目をみないように、と立ち回ろうとしていても、しかし正解がわからないままである以上、必要以上に怯えを見せる形となり、それは見る人によっては無駄な苛立ちをもたらす事となる。
アリスが周囲に受け入れられるためには、まずそのおどおどとした態度を直さなければならないのだろう。
それって、一体いつになるのかしら?
サニアはそんな疑問を浮かべたが、答えは出なかった。
故郷からも随分離れて、あの町からも遠い街。
ここを出ていくとなれば、更にまた他の大陸へ行く事を考えた方がいいかもしれない。
けれど、正直サニアは船旅があまり好きになれなかったので、できればそれは遠慮したい。
ここで、落ち着くことができればいいのだけれどもね……なんて思いながら。
サニアはアリスと新たな生活を築く事になるのである。
――このままではいけない、とアリスは考えていた。
他の人と比べて自分は普通の枠組みに入らない、とアリスは把握している。
幼少期は常識を理解できておらず、そのせいで同年代の子供たちは親から関わっちゃいけませんと言われていたのだってわかっている。
あの頃はどうしてそんな意地悪を言うのだろうと思っていたが、しかしサニアと出会って良い事悪い事の区別がつくようになってからは、それが意地悪でもなんでもなく、余計な厄介ごとに我が子が巻き込まれないための、親の愛なのだと知った。
サニアと出会ってある程度普通の人に近づけたとは思う。
思うけれど、これが正解なのか、正しくまともな人間になっているのかアリスにはわからない。
そのせいで自信が持てずそれが態度に出てしまうのは、どうしようもなかったのだけれど。
しかしその態度のせいで、あのギルドでの一件を引き起こしたのだ……という事をアリスも理解はしていた。
私もサニアみたいに堂々と振舞えるようにならなきゃ。
でも、自信が持てないせいであんな風にするのは難しい。
人から話しかけられると、どうして自分に話しかけてきたのかをまず考えてしまって、すぐに反応できない。
あの町で、サニアには友人と呼べる人たちができていたのに自分のせいでその人たちともお別れする形にさせてしまった。
それが申し訳ない。
故郷で男に売られかけて逃げ出した時だって、サニアと出会ったせいで彼女を巻き込む形にしてしまった。
もうあんなことにはならないようにと思っていたのに……
考えれば考えるだけ自分自身の不甲斐なさしか出てこない。
どうしたら、人に迷惑をかけない真っ当な人になれるのだろう。
真面目に仕事をしていただけなのに、なんであんなことになったのだろう。
アリスの思考はぐちゃぐちゃで、考えている事があちこちふらふら迷走するも、それでもハッキリした事は。
このままではいけない。
という事だけだ。
故郷でも、あの町でもない。
ここにアリスの事を知る人は誰もいない。
また一から始めるしかない。
今度こそ、普通の人と同じように。
ここで、どうにかやっていくしかないのだ。
ギルドでもらったお金を移動に使って、残った分でひとまず家を借りた。
家といってもアパートの小さな部屋だ。
サニアと二人で暮らすだけなら充分だけど、でもサニアに友人ができたとして、ここに呼ぶのは難しいだろう。
もう少しお金が溜まったら、もう一つ部屋を借りて別々に過ごすべきなのかもしれない。
そのためには、早く仕事を見つけてお金を稼がなくては。
だが、またギルドで働く、という選択肢はなかった。
あの町とは違う。
けれど、またあの町と同じような事になってしまったら。
それを考えるだけで、アリスはギルドの建物を視界に入れるだけで身体が震えるのだ。
ギルド以外の場所だって、同じような事になる可能性はあるのだけれど。
古参の受付嬢たちだけならまだしも、アリスは冒険者たちに絡まれるのも怖かった。
自分に向けられる目。それが、なんだか少し嫌だった。
好意なのは間違いない。
けれどアリスはマトモな常識を教わる機会がサニア以外なかったのもあって、その好意に下心が含まれている事を理解できていなかった。
ただ、本能的に性的な事柄にわけのわからない恐怖を抱くせいで、それを匂わせるような言動に無意識に拒絶反応が出ているだけなのだが、アリスはそれを言語化できるまで理解できていなかった。
よくわからないけどなんか嫌な感じ……アリスにとってはそういうもの。
できるなら、あまり人と関わらないお仕事がいいな……
そんな風に考えながらも、選り好みできる立場ではない事はわかっている。
憂鬱な気持ちであるけれど、サニアに頼りきりでいるわけにもいかない。
頑張らなくちゃ……とアリスは内心で己を奮い立たせた。
新たな生活の場で、サニアは結局冒険者ギルドで働く事にしたようだ。
あの町よりも大きい分人の出入りもあって、そのせいで冒険者ギルドもまた人手がいくらあってもいいくらいに足りていない様子だった。
元々あの町でもサニアの仕事ぶりは優秀で、それもあったから即座に採用されたのだろう。
あの町での出来事も明確に誰がどうした、という事は言わず、それでも一緒に働いてた人が冤罪ふっかけられて嫌な目に遭った、くらいは話したらしい。
信用できない相手と仕事なんてとてもじゃないができないから辞めたのだと。
この街のギルド職員がサニアの言い分だけを信じるとは思えないので、恐らくはこっそりとそこら辺を調べるだろう。だがサニアは嘘を言っていないし、働きぶりも真面目で優秀にこなすとなれば、あっという間にサニアはこの街の冒険者ギルドに受け入れられた。
一方のアリスは、すぐに仕事が決まらなかったがサニア経由で紹介された仕事に就く事ができた。
収入で言えば以前の町のギルドで働いていた時より少し低いけれど、しかしあまり人と関わる事もなく、穏やかに働くことができる職場。
老夫婦が営む薬屋で、アリスは調合助手として働く事となった。
薬草を煎じたりひたすら細かく刻んだりといった単純作業でとにかく根気がいる。
老夫婦はベテランではあるが、しかし年のせいでそういった作業をずっとやっていると目と肩と腰にくるのだと言っていた。
確かにずっと同じような体勢で作業を続けるので、終わった後アリスの目はなんだか目を閉じてもまだ薬草が見えるような気がしたし、手や肩も強張ってしまうから老夫婦の言い分はよく理解できた。
慣れていないから余計な力も入っているせいもある。
けれど、誰かと相手の機嫌を損ねないよう気を付けて話をしないといけない前の職場よりも、アリスにとってここは良い職場だった。
とにかくひたすら言われた事を黙々とこなせばいいだけなのだから。
指示にない余計な事をしないから、アリスが叱られるような事もなかった。
老夫婦はアリスに冒険者たちのような目を向けてこない。色恋など無縁であるが故に、アリスは早々に老夫婦に慣れて、サニアを相手にするように自然に話をする事ができるようになっていった。
いきなりサニアみたいに堂々とした態度で振舞う事は到底できないけれど、それでもアリスは一歩ずつ、確実に変わろうとしていたのだ。
サニアや老夫婦を通じて、少しずつアリスの周辺の人間関係は広がっていった。
アリスが故郷を逃げ出したのは、十四の時だった。
そこから冒険者ギルドで働いて、あの町を出る事になった時、アリスは十七になっていた。
この街に来る少し前に年をとって十八。
あの町にいた時よりもこの街で過ごした日が増えて、気づけばアリスの年齢は、二十歳を超えて二十二歳を迎えていたのである。
このままここで、何事もなく過ごせていけたら……
アリスはそんな風に思っていたし、実際そうなるだろうと信じていた。信じたかった、というのが正解かもしれない。
今の今までまともな人間関係を構築できなかったアリスは、この年になってようやく遅ればせながら恋愛というものにも興味を示し始めた。
それはサニアの紹介だった。
知り合いなんだけど、アリスと多分話が合うと思うんだよね、なんて言われて。
今まで生活だけで精いっぱいだったアリスだが、この街で暮らし始めてからは少しずつだが彼女の中の世界も広がりつつあって、趣味と呼べるようなものもできるようになっていた。
今までが今までだったせいもあって、下手に何かに興味を示せば母親から叩かれたりするような事になっていたから、今までのアリスは好奇心を殺していた部分もある。
けれども、ここが安全だとアリスも思えるようになって、そうすると少しずつ彼女の中の好奇心が顔を出し始めた。
読書をするのも、絵を見るのも、休日の日にウインドウショッピングをするのも、たまに広場で吟遊詩人見習いが演奏の練習をしているのを聴くのも、全部が全部アリスにとっては新鮮で楽しいもの。
サニアとは職場が異なるせいで休日の予定も合わない事が多いため一人だったアリスに、サニアはお似合いだと思うんだよね、なんて言って。
そうして紹介されたのは、アロルド・ソニマスという青年だった。
この街の警備をしている男性で、真面目そうな見た目で温和な人だった。
そういえば……時々見かけた事があるかもしれない、というのがアリスが最初に思った事だ。
男の人という点で、少し不安だったアリスだがそれでも勇気を出して話をしてみた。
以前の町での冒険者たちとは異なり、最初こそ確かに緊張はしたけれど、しかし思った以上に話が弾んで。
アリスの中で初めてサニア以外の友人だと思える人物と巡り合えたのである。
こちらも仕事が忙しく休みが合う事は少なかったけれど、それでもたまに顔を合わせればアリスはアロルドと会話を弾ませ、時折共に出かけ、楽しい時を過ごす事ができた。
楽しいと思える事がほとんどなかったアリスの人生に、ほんのりとした色が付き始めたのはこの頃だった。