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ただ、普通でいたかった



 アリスとサニアが過ごしていた町を出て逃げ出すように、故郷と呼べる町から少しでも遠ざかるように移動し続け、そうして港町までやって来た二人はそこから船に乗って隣の大陸へ向かった。


 アリスを買った男があの町でどれだけ幅を利かせていようとも、流石に隣の大陸にまでその手は届かない。

 ちっぽけな町でボスを気取るのがやっとな男だ。

 実際、あの町でアリスを探し回る手下は多かったが、しかし隣の町へたどり着いた時、そこで追手らしき姿はなかった。

 もしあの男がもっと手広く各地に根を伸ばしていたのなら、きっと道中はもっと危険なものになっていたに違いない。


 サニアとアリスは運が良かった。


 いや、親から愛されるどころかどうしようもない男に売られかけたアリスも、生まれて早々捨てられたサニアも、運という点で見れば良いとは決して言えないが、しかし逃亡する事に関してはすんなりいったのもあって、そこだけは運が良かった、と言うべきか。


 あの町から離れてからは、多少警戒しながらも路銀を稼ぎながらの旅だった。

 旅、というより逃亡劇という方がしっくりくるだろうか。


 サニアは孤児院で読み書きを教わっていたし、それでなくとも孤児院から紹介された仕事をしていたので、色々な場所で働いていた。

 アリスも親から教育をされていなくても、サニアが教えてくれたから読み書きに関しては問題ない。


 それもあって、二人はしばらく冒険者ギルドの雑用として働いていたのである。


 わざわざ隣の大陸にまで行かなくとも……とアリスは最初それこそ思ったけれど、しかしいつあの男が手広くアリスを探すような事になるかはわからない。

 そうでなくとも。

 たまたまあの男の知り合いで、あの男に恩を売っておこうと考えるような奴が別の町でアリスを見かけたら。

 そうなったなら、アリスはある日突然あの男としたくもない再会をする羽目になるのだ。


 大陸を移動するような者は限られている。

 あの男がわざわざアリスを連れ戻すために大陸を越えるとも思えないし、ましてや部下に命令して連れてくるように言ったとしても。

 陸続きならともかく海路を移動する以上、誘拐して何食わぬ顔で人を連れていくというのは相当に難しくなる。

 人を集めるのもそうだが、船だって第三者という目撃者を作らないために自ら用意する方が拉致するための成功率は上がると思うが、しかしあの男にそこまではできないだろう……というのがサニアの見立てである。


 それもあって、二人は旅行者を装って船で違う大陸へ出たのだ。

 船賃は決して安くはなかったけれど。


 だが、違う大陸へ来たことで少なくとも追手の心配はもうしなくてもいい。


 アリスはサニアと寄り添うように、手を取り合い生活の基盤を整えていた。


 とはいっても、最初に働く形となった冒険者ギルドには長くいられなかった。


 アリスもサニアもそれなりに美人である。

 最初こそ雑用として働いていたが、読み書きもできるし計算も可能となれば、書類仕事などを任せられるし、ましてや二人とも美人なので。

 それならいっそ、とアリスとサニアは冒険者ギルドの受付嬢として働く事になった。そうなるまでに、それほど時間がかからなかったのは、二人がそれなりに優秀で、また真面目に働いていたからというのもある。


 しかし、それを気に食わないと思う者がいた。


 元よりそのギルドで受付嬢をしていた者たちだ。


 一日中受付をしているわけではないが、ある日任命された新たな受付嬢というのはやはり物珍しさがあったのか、普段からギルドを利用する冒険者たちもなんとなく二人が受付を任されている日や時間帯を狙って訪れるようになった。

 結果として、今まで受付嬢をしていた者たちは多少の暇を持て余す事になった。

 一過性のものと割り切ってしまえばよかったのに、しかしそこで自分の立場が奪われたと思った気の強い受付嬢が、気に食わない新入りに嫌がらせを開始し始めたのだ。


 サニアは問題なかった。

 孤児院で他人と接する事は慣れていたし、取っ組み合いの喧嘩だってしてきたのだ。

 だからこそ、多少の嫌がらせなど鼻で笑って対処できていた。


 しかしアリスは違った。

 彼女は生まれた時から親に愛される事もなく、またマトモに教育もされてこなかった。

 常識を学んだのはサニアと出会ってからだ。

 母親という一番身近な自分以外の人間から暴力や暴言を投げかけられ、近所からも白い目で見られていた。

 アリスは確かに幼い頃から愛らしい見た目をしていたが、それで良からぬ事を企んだとして、親に知られる事で面倒な事になるのはごめんだと思われていたのだろう。

 下手に面倒を見た結果、育児を押し付けられかねないと思ったからか、年上の女性たちは不憫だなと思いながらも自分に面倒が回ってこないよう遠巻きにしていただけだし、可哀そうにな、と思っても年上の男性たちもまた下手に手を出して変質者のような扱いを母親からつけられ慰謝料だなんだと請求されては堪ったものではない。


 アリス本人は知らないが、アリスの母は貴族の愛人をしていただけにその美貌こそ確かなものではあったけれど、だからこそ平民の男などアリスの母は目も向けなかった。利用できそうならしてやろうという思いが透けて見えていたせいで、金のない男たちからすると単なる嫌味な女でしかなかったのだ。

 そんな女が母親であるという時点で、下手に関わればどんな面倒が発生する事か……


 親がいる子供たちはこぞってアリスと関わらないよう親から言われていたのもあって、時折揶揄うような言葉を投げかける子供たちはいても、アリスと一緒に遊んだりはしなかった。


 アリスがマトモに関わる事ができていたのは、サニアだけだ。


 そして少し前に小悪党とはいえ、男に売られかけたせいで、アリスは他の男性にも仄かな恐怖を抱くようになっていた。


 自分に対して友好的ではない女性。

 物珍しさからかじろじろとアリスを観察する男性。


 そういったものに、アリスは内心の不安を露骨に出さないように努めつつも、しかし堂々とは振舞えなかった。


 どこかおどおどとした振る舞いと、儚げな美貌。

 自分が守ってやらねば……と思わせるせいで、冒険者たちはアリスが受付嬢を始めてからというもの、いつもいく時間帯をずらしてまでアリスと関わろうとしていた。


 結果としてそれが、以前からいた受付嬢たちの嫉妬を煽る形となったのは言うまでもない。

 サニアは大抵の事は上手く躱していたけれど、アリスはそうじゃなかった。


 ちょっと強引に押せばデートくらいにはこぎつけられるのではないか……そんな風に思われていたからか、アリスは傍から見れば町一番の人気受付嬢のようになってしまったのである。

 そして、それが面白くない古参の受付嬢が少々きつい物言いをした時に、男たちは新人なんだから優しくしてやれよ~、と軽口ながらもアリスの味方をした。それがますます古参の受付嬢からすれば面白くないもので、表向きはともかく裏では更にアリスへの態度はきつくなっていった。


 これでアリスが誰からも文句のつけようもない仕事振りであれば、古参もそこまできつい態度に出なかったかもしれない。しかし新人で、まだ至らない点も多くあるアリスがそんな風に堂々と振舞う事はできなかったし、そのせいでつけ入る隙があったのもまた事実だ。


 仕事もロクにできていないのに周囲がちやほやしている、というのも古参受付嬢たちからすると面白くない原因だったのは間違いなかった。


 それでも、確かに嫉妬はよくない、と思った一部の受付嬢はアリスに仕事をちゃんと教えて、少しでも仲良くしてみようと試みたりしたのだ。

 だがアリスはそんな受付嬢にもおどおどとした様子で接し、何もしていないのにまるで酷い目に遭わされるみたいな態度だったので。

 何も知らない第三者がアリスを虐めていると誤解するような事にまでなってしまった。勿論、その誤解はすぐに解けたものの、その一件の後もアリスの態度が変わる事もなく、結局歩み寄ろうとしていた者たちはアリスに歩み寄る意思がないと判断し、ゆっくりと距離を取る形となってしまった。



 アリスの過去を知っていれば、人に慣れていないと納得したかもしれない。

 けれどアリスはわざわざ自分が親からも愛されず、幼い頃からマトモに誰かと関わった事がないなんてとてもじゃないが言えなかった。

 不幸自慢と思われるもの困るが、そうでなくともそういう事情があるのだから優しく接しろ、みたいに思われるんじゃないかと思ったらとてもじゃないが言えなかったのだ。

 そうじゃなくたって、ほとんどの人は親からちゃんと愛されて育てられてきた。孤児院の子たちだって、シスターがちゃんとした人生を歩めるように教育してくれているのに、アリスにはそれがなかった。


 自分は普通じゃない。

 他の皆は当たり前のそれが、アリスにはなかったからうっすらとアリスは自分の事をそんな風に思っていた。

 異端者というのはいつだって爪弾きにされるものだ。

 実際、アリスが生まれ育った故郷ではそうだった。


 アリスの過去をここの人たちは知らない。

 だから、きっと普通に接してくれている。


 けれどアリスは、自分がマトモに育てられる事がなくて、周囲から常に遠巻きにされていた事実を知られたら……と考えるだけで、身が竦む思いだった。そうならないように、普通にしなきゃと思えば思うだけ、普通ってなんだろう……? となってしまって。

 どうしても、おどおどした態度が抜けなかったのである。


 ギルドマスターはアリスが人前に出る事があまり得意ではないのだな、とわかった時点で裏方としてそっちで事務仕事をするように取り計らってくれたのだが、しかし冒険者たちがギルドに訪れるたびに「アリスちゃん元気してる?」「また虐めたりしてないだろうな?」なんて好き勝手言って他の受付嬢に絡んだりするものだから、結局またアリスは受付嬢として出る事になってしまった。


 一度や二度で済まなかったのだ。

 そのせいで無駄に仕事が増える羽目になってしまって、結局はアリスを受付嬢として表に出した方が他の者も仕事の手を止める必要がないという事で結局そうなってしまった。


 アリスが何かしたわけではないけれど、アリスのせいで間違いなくギルドの空気はどこか悪くなりつつあった。他の受付嬢たちからすれば、もっと堂々としてればいいのに……と思うのだが、それを言ってもまたアリスが身体をびくつかせるだけだとわかっているので最早何も言わない。


 アリスと一緒にいるサニアに、アリスについて聞いたりもした。

 けれどサニアだってアリスの生い立ちを勝手にべらべら喋るわけにもいかないから、まぁ色々あってあの子人前が苦手なんだよね……と言葉を濁すしかなかった。


 仕事は一生懸命やってるんだろうけど、それでも一部の冒険者たちがアリスを悲劇のヒロインみたいに扱い始めて、してもいない虐めを疑われる受付嬢たちからすればストレスが溜まっていく一方。

 あんたが態度を改めてくれれば、という思いが何度口から出そうになった事か。しかし言ったところで、アリスの態度がすぐに変わるはずもないと察していたからこそ。


 露骨にではなくとも、古参の受付嬢たちとアリスの間には溝ができつつあった。

 それが崩れたのは、とある冒険者に恋をしていた受付嬢が、その冒険者の好きな相手がアリスであると知った時だ。


 ずっと片思いしていた。いつか、この想いを伝えようと思っていた。

 けれど彼には他に目標があって、その邪魔をするかもしれない告白は今はしない方がいい。

 そう思って、秘めたままだった想い。


 けれどある日、仕事を終え酒場に立ち寄ったその受付嬢は聞いてしまったのだ。

 片思いしていた相手が、今まで恋とかはまだ先かななんて言っていた彼が、アリスの事が気になっているのだという話を。

 過去に何やらあったみたいだし、何があったかわからないけど、でも守ってあげたいって強く思うんだ……なんて酒が入っているせいで顔を赤くしながらも語る彼の姿を目撃してしまって、受付嬢は今までは少し面倒な子だなぁ、と思っていたアリスの事を一瞬で嫌いにまでなってしまった。


 なんで。

 なんで彼の心をアンタが掻っ攫ってくのよ。

 そりゃあ、告白もしてない片思いの私が言えた義理じゃないけど、でも。

 でも、彼の事何にも知らないくせに、なんでそんなアンタが私の好きな人の心を持っていくの……!?


 理不尽な怒りだとはわかっている。

 けれども、アリスがこの町に来る前から秘めていた想い。大切に育てていた想いは明かしていないからこそ、彼に知られていないのは仕方がない。

 けれど、もしアリスがいなければ。

 アリスが来る前までは、少しいい雰囲気にだってなった事があったのだから、可能性はあったはずなのに。


 それすら、アリスは――


 そういった話は、この受付嬢に限った話ではなかった。


 他の冒険者たちの中でも、アリスに想いを寄せる者は何人かいたのである。


 いっそアリスが誰かとさっさとくっつくようであるのなら、諦めもついたかもしれない。冒険者たちも、受付嬢も。

 けれどアリスには恋とかそういった浮いた話は一切なかったし、そのせいでアリスに恋をしている男からすれば簡単に諦めきれるわけもない。

 そして、そんな冒険者たちに想いを向けていた受付嬢だって。


 いっそ、あの子がいなければ。


 そう思ったのは果たして誰が最初だったか。


 嫉妬からくる行動。

 一人だけなら心の中で悪し様に罵るだけで済んだかもしれないそれは、しかし他にも同じような事を考えている者がいたせいで。


 最初は、ちょっとした嫌がらせだった。

 書類の不備をあえて大袈裟に受け取ってみたり、備品の消失をアリスがしたのではないかと疑うようにしてみたり。


 そうでなくとも普段からおどおどとした態度のアリスだ。

 自分じゃないとしても、違います! ときっぱり言わず、私じゃありません……と顔を俯かせて消え入りそうな声で言うのだから、周囲はその態度にますます苛立つようになった。

 そうして気に食わない相手を追い出してやるとばかりに、アリスにはいくつかの冤罪がかぶせられる形となった。

 重要書類の紛失。

 期日までにやらないといけない仕事の放棄。

 金銭の横領。

 勿論アリスにはどれも身に覚えがない。

 しかし、どれだけ否定したところで、結託した受付嬢たちからの糾弾に一人で立ち向かえるはずもなく。


 誰しも失敗はするとはいえ、しかし同時に複数仕出かすとなれば致命的だ。

 それもあって、これ以上彼女に仕事を任せておけない、という古参受付嬢たちの訴えに、ギルドマスターも渋い表情を浮かべるしかなかった。



 私じゃないのに……そう言ってぽろりと涙を零してしまったアリスに、古参受付嬢の一人が泣けば済むと思わないで! と思わず叫んだ。

 泣きたいのはむしろこっちよ! とも。


 確かに何も知らない第三者がこの場面を見れば、複数でアリスを責め立てているようにしか見えないし、そうなれば悪いのはこちらだと勝手に決めつけられる。そうでなくたって、アリスの態度のせいで虐めてもいないうちから虐めてるみたいに言われた事もあったのだ。そういう意味では被害者は古参受付嬢だってそうなのだろう。


 けれど本当にアリスには身に覚えがなかった。

 なのに大勢に責められるのだ。


 幼い頃から母親の気分次第で暴力をふるわれる事もあったし、そうでなくとも善悪の区別がつかなかった頃にやらかした事で近所の大人たちからも叱られる事はあった。

 母親に至っては、アリスが別段悪い事をしていなくても叩く事だってあったから。


 何をすれば暴力をふるわれないのか、アリスは今でもよくわからないのだ。


 悪い事をしてもしなくても。

 母の気分次第で叩かれたり、酷い言葉を投げかけられたり。

 この町の人たちはアリスの生い立ちを知らない。だからこそ、普通の人と同じように接しているというのはアリスにもわかるけれど。


 だが、今こうして身に覚えのない事でアリスは責められている。

 そのせいで、また叩かれるのだろうか、とアリスは内心恐怖で一杯だった。


 サニアと一緒にいるようになってからは、サニアが色々と教えてくれたから近所の目もそこまで厳しいものではなくなった。サニアが孤児院で出された食事の一部を分けてくれたから、ひもじい思いはしたものの飢え死ぬような事にはならなかった。

 そうして少しずつ、普通の人と同じようになってきたと思っていたのに。


 懸命にアリスが否定しても、誰も信じてくれなかった。


 怖い。

 どうして。

 嘘なんて言っていないのに。


 怖くて怖くて、また幼い頃みたいに今度は母以外の人たちから暴力を受けると思うと震えて動けなくて、恐怖で涙がぼろぼろ溢れてくる。

 だが、それを同情を買おうとしていると思われたのか更にきつい言葉を投げかけられて――


「あの」


 そんな状況を打ち破ったのは、サニアだった。


「これ、そこのゴミ箱に突っ込まれてましたけど、捨てたらまずいやつなんじゃないですか?」


「あっ!」


 そう言ってサニアが差し出したのは、紛失したとされている重要な書類だった。


 そこからは、サニアの独壇場だった。

 期日までにやらなきゃいけないはずの仕事は、そもそも別の用事が急遽入ったからアリスではなく他の――本日休んでいる受付嬢に割り振られていたし、横領されたと思われていた金に関しては、今月多くの商人から必要な備品を買い付けた事もあって、本来支払う期日よりも前倒しで支払う事になっていた。なくなったと思われていた金額と、その支払いで使った金額は一致していたため、間違いなく横領などではない。


 今月はただでさえ忙しかったのもあって、そこら辺の確認が疎かになっていたのだろう。


 だからといって、それら全てをアリスがやらかしたと思うのはいただけないが。


「……貴方たちがアリスの事気に食わないっていうのは、わかってました。

 けどだからってこれはない。誤解が解けたのに謝罪もなしですか?」


「それは……その、悪かったわ」

「マスターも。彼女の失敗だと決めつける前に、どうしてちゃんと確認しなかったんです?

 まさか今までやってきた仲間が一人だけじゃなく大勢で言うからって信じちゃったんですか?」


「む、まぁなんだ。そう、なるな……

 アリス、すまなかった」


「気に入らない奴を追い出すのにいいネタができたとか思ったのかもしれないけど。

 何も悪くない相手を集団でよく追い詰める事ができたわね。今の貴方たちの顔、醜すぎて見るに堪えないわ」


 こんなんじゃ仕事にならないので、今日は帰りますね、と勝手に決めてサニアはアリスを連れてギルドを出た。


 何一つ身に覚えがなかったのは当然だ。だが、古参の受付嬢たちはアリスの落ち度と決めつけて、嬉々として責め立てた。邪魔な相手がいなくなればいいという気持ちがあったからこそ、落ち着いて確認するどころかそうであるに違いないと思い込んだのは言うまでもない。


 今までは虐めてなんていなかったが、しかし今回の一件で。

 古参の受付嬢がアリスを虐めていないとはもう言えなくなってしまった。


 泣きながらギルドを出てサニアに連れられて歩くアリスを目撃した者は大勢いたのだから。しかもサニアはアリスを慰めながら歩いていた。

 その話が聞こえてきた者たちはその結果、ギルドで何があったのかを知ったのである。



 やっぱ虐めてたのか。

 女って怖……

 自分より可愛い相手に嫉妬とかしたって自分が美人になるわけじゃないだろ……


 そんな風に、思い思いに噂は広がっていったのである。


 はらはらと涙を零すアリスを慰めてあげたい、と思った冒険者もいたようだが、しかしサニアの鋭い眼光に撃沈した。元はと言えばお前らがアリスアリスって持て囃すからお局どもが嫉妬したんだろうがよ、と言わんばかりの眼差しだった。




 ――結局のところ、誤解が解けたとはいえ、古参受付嬢たちとアリスとの間の溝が埋まる事にはならなかった。

 アリスからすれば、次また同じ事がないとは言い切れないし、次の日に仕事に向かおうにもこの一件が原因でいざギルドに行こうとしても足がマトモに動いてくれなかった。


 行かなきゃ、と思っても足が震えてしまって、上手く動いてくれないのだ。


 自分が悪いわけじゃなかったけれど。

 でも、次は?

 あの人たちが私の事を嫌ってるってのはわかった。だったら、嫌いな相手を陥れるために、今度は勘違いや思い込みじゃなくて、陥れるための何かを仕掛けてくるかもしれない。


 そんな風に考えると、怖くて怖くてギルドがある方角へ足を動かそうにも、びくともしないのだ。

 それどころか、行かなきゃと考えれば考えるだけ怖くて震えが止まらなくなって、挙句また涙がこぼれた。

 ひっ、ひっ、と引きつけみたいな音が喉からして、呼吸も上手くできなくなる。


 その様子を見たサニアが、行かなくていいって言ってくれて、そっとベッドまでアリスを連れていって。

 今日はゆっくり休んでいいのよ、なんて言われてようやく呼吸が楽になった。涙はまだ流れたままだが、こうしてベッドの中で大人しくしていれば、そのうち止まるだろう。


 怖くて怖くて仕方がなかった。



 今までアリスにとっての怖いものは、母親だった。

 怖いけれど、でも同時に愛してほしい相手だった。


 次に怖かったのは、近所の大人たちだ。


 けれど、彼らは自分たちに迷惑がかからなければそれでよかったのか、母親ほど怖いものではなかった。


 そんな近所の大人たちよりもギルドの仕事仲間の事が怖くてどうしようもなくなってしまった。

 母親がアリスを売った男とはまた違う意味での怖い存在になってしまったのだ。

 あの男には何をされるかわからないという意味での怖さがあった。

 想像がつくものから、想像すらできない事まで。想像できる部分の恐怖は勿論、何をされるかわからないという恐怖と合わさってただ只管に関わりたくない存在だったが、ギルドの人たちはそれとはまた別の恐ろしい存在になってしまった。


 謝罪はされたけれど、しかしその前の、アリスを見る厳しい目や声がなかったことになるわけじゃない。

 今日はサニアが行かなくてもいいって言ってくれたけど、でもずっと行かないわけにもいかない。

 明日こそ、行かなきゃ。


 そう思うと、なんだか胃の中に鉛の塊を詰め込まれたみたいな気分だった。


 だから――


「辞表突き付けてきた。

 アリス、この町出ましょう」


 帰ってきたサニアがそう言った事で。


 アリスは少しだけ楽になったのであった。

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