さよならなんて言えない
「はいこれ手紙」
巡回の途中で立ち寄った冒険者ギルドで、アロルドは気怠げな態度のサニアから一通の手紙を渡された。
それを反射で受け取って、アロルドは封筒に視線を下ろす。
「アリスから。あんたってホント馬鹿」
吐き捨てるようにそう言うと、サニアはまるで野良犬でも追い払うかのように手で「しっしっ」とアロルドへ振った。
「あんたにアリスを紹介したアタシが馬鹿だったよ」
「それはどういう」
「さぁね。手紙読めばわかるでしょ。あ、ここで読まないで家帰ってから読みなね。絶対ここで読まれたらあんたの事邪魔になるからさ」
突き放すような態度に、アロルドはなんだか嫌な予感がしたけれど、しかしそれに逆らってまでここで封筒を開けようとは思わず、一先ずは懐へしまい込んで最近捕まった犯罪者一覧のリストをかわりに渡した。
冒険者ギルドでもお尋ね者情報があるが、それを更新しないと既に捕まった犯罪者を探す者が出てしまうので。
刺々しいサニアの態度にアロルドとしては心当たりしかない。
数日の休暇を終わらせて、ようやくアリスと向き合うべきだと思い直した矢先の事だ。
今まで放置していたのは否定しようがない事実。
決して会いたくないわけではないが、お互いに忙しかったのもあって都合がつかなかった。
けれど、特効薬を飲んだラリサはここ数日で完全に治ったとは言えないが、それでも少しずつ快方へ向かっているようではあった。
ラリサの事を診ていた医者も、まだ油断はできないけれどこのまま快復に向かえばいずれは……と言ってくれて、ラリサはようやく見えた希望に瞳を輝かせていたのだ。
ただ、薬はとんでもなく苦いので飲む時だけはうんざりした表情だったが。
それでも、そこを乗り越えればいずれ治ると言われた以上、飲まないという選択肢はなかったようだ。
アリスにはラリサのそこら辺の事情も話そうと思っていた。
詰所へと戻り、報告を済ませる。
今日はこれでアロルドの仕事は終わりだ。
家に帰って渡された手紙を読もうかと思ったが、ふと思い立ってアリスが働く薬屋へと足を運ぶ。
ラリサの特効薬を作るのを引き受けてくれたのだ。礼を兼ねて、ついでにアリスも今日働いているのなら、そろそろ終わる時間だろう。
手紙に目を通してはいないけれど、もしいるのなら食事にでも誘ってそこでお互い今までの事も含めて直接話せばいい。
アロルドはそう考えて、家へ向かうところだった足を薬屋へと向けた。
数十分後、アロルドは足早に帰宅して急いで懐から手紙を引っ張り出した。
薬屋にアリスはいなかった。
今日は休みなのかと聞けば、仕事を辞めたのだと言う。
アリスの家に行くと、既に誰も住んでいなかった。
嫌な予感しかしないまま、とにかくアロルドは家に戻ってから手紙を読む事にしたのだ。
封筒の中から丁寧に折りたたまれた紙を取り出して、はやる気持ちを抑えつつ広げ目を通す。
そこに書かれていた事は、アロルドからすれば衝撃でしかなかった。
まず、既に別れたつもりだろうとは思うけれど、それでも改めて、なんて言葉が見えて。
アロルドとしてはアリスと別れたつもりなんてこれっぽっちもなかった。
確かに忙しかった。けれどアリスには事情を説明してあったし、彼女だってそれをわかってくれていたはずだ。
別れたつもりだろうけれど、改めてこちらからも別れようという気持ちを伝えられても、アロルドとしては否定するしかない。
だがしかし本人はこの場にいない。
とにかく手紙に書かれた文字を読んでいって、下へ視線が進んでいくたびアロルドの表情はごっそりと抜け落ちていくようだった。
アロルドの仕事が忙しい事はわかっている。
ラリサの事も、誰が悪いわけでもない。
それでもやっぱり寂しいものは寂しかったし、ラリサに嫉妬していないわけじゃなかった。
嫉妬するべきではないとわかっていても、気持ちはそう簡単に割り切れない。
会えなくなって埋め合わせはこの次に、と言われても結局その次が訪れなかった事。
手紙のやりとりすら減っていった事。
忙しくなって手紙を書く余裕すらない時もあったから、アロルドには心当たりしかない。
アリスの手紙で指摘されて、そうして思い返す。
アリスに手紙を送ったのなんて、一体どれくらい前の事だっただろうか、と。
一緒に出掛ける約束をどうにか取り付けた時も、ラリサが助けを求めるような事になって結局当日にキャンセルする事が多くなっていって、そういった連絡をする際に手紙をアリスの家のポストに入れた記憶はあるけれど、それ以外の内容で手紙を書いたのはいつだっただろうか。
極めつけに、アリスの誕生日だ。
アロルドはアリスと付き合う事になってから彼女の誕生日を知った。
付き合って少ししてからアロルドの誕生日があって、アリスにお祝いされてその時の話の流れでアロルドもアリスの誕生日はいつ? と聞いたのだ。
既に過ぎてしまったとの事で、だったら次の誕生日は必ず一緒に祝おうと約束した。
それを思い出して、アロルドは弾かれたように壁に掛けてあったカレンダーを見る。
忙しくて目を向ける事もしていなかったカレンダー。
日めくりではなく、月ごとだがそれらは忙しすぎて数か月前からめくる事すらしていなかった。
誕生日だけは、せめて祝ってほしかった。
ラリサの体調が悪くなって、と言われて諦めたけど、でも二人が楽しそうにアクセサリーショップに入っていくのを誕生日当日に見る事になってしまったという一文に、アロルドは慌ててカレンダーをめくる。
確かに、以前からこの日だけはと出かける約束をした日があった。
けれど結局ラリサの様子を見るためにキャンセルしてしまったのは憶えている。
あれは、いつだった。
めくったカレンダーのとある日付が丸で囲まれていて、アリスの誕生日と書かれているのを見てアロルドは血の気が引くのを感じていた。
少し体調が回復してきたからとラリサの買い物に付き合ったのは憶えている。
そして、そこで確かにアクセサリーを買った。少し早い快気祝いだと言って。
あの日が、アリスの誕生日だった。
そしてその光景を、アリスは見ていた……!?
それはアリスから、一体どういう風に見えていただろうか。
あの頃は仕事も忙しくてアリスの誕生日ですら忘れてしまっていた。
もっとゆとりがあったなら、カレンダーをめくって確認できていたはずだ。
……いや、そんな事は言い訳に過ぎない。
今更何を言ったところでアリスの誕生日をすっかり忘れてしまっていたのも、当日に会う事をキャンセルしたのも、ラリサにアクセサリーを買った事も。
全て事実なのだから。
アロルドにとっての私はきっとどうでもいい人になってしまったのだろう、と思うようになってしまったのだと書かれてあるのを見て、アロルドは思わず「違う!」と叫んでいた。
そう否定したところで、その言葉を聞いてほしい人物はこの場にいない。
きっとアロルドはもう私なんか忘れてしまっていたのかもしれないけれど。
それでも、改めてお別れを言っておこうと思うのです。
そう書かれている部分を見て、アロルドの口からはまたも「違う」と同じ言葉が漏れた。
仕事を辞めたと老夫婦に言われてから何となく感じてはいたのだ。嫌な予感というものを。
けれどそれでも、まだどうにかなると思いたかった。
しかし手紙には、もうどうにもならないのだろうと思われる文章が並んでいる。
この街にいたらどうしたって未練がましくアロルドの事を想い続けるだろうから、街を出る事を決めて旅に出る事にしたのだと。
この手紙をアロルドが読んでいる頃、きっと私はもうこの街にいないのだと。
何度見返しても間違いなくそう書かれていて、手紙を持つ手が自然と震えた。
既に仕事を辞めていた。
今日辞めたとかではなく、数日前には既に。
今から追いかけるにしても、どこへ行ったのかすらわからない。
――もう二度と会う事はないでしょう。
さようならアロルド。愛していました。
私は、貴方の一番になりたかった。
手紙は、その言葉で締めくくられていた。
「一番だとも……」
思った以上に強く手紙を握りしめてしまったせいで、危うく破きそうになって咄嗟にアロルドは手紙をテーブルの上に置いた。
アロルドにとって一番愛している人は、紛う事なくアリスだ。
けれど、アリスはそう思っていなかった。
色々な事が一段落して余裕が出始めた今、改めて思い返せば確かにアリスがそう思っても当然だとはわかる。
けれどもあの時は、仕事とラリサの事で手一杯だった。
正直自分の事も若干後回しにしていた部分だってある。
それでも、少しの時間でもアリスに会いに行っていれば何かが変わっただろうか。
疲れ果てた様子の自分を見せたくないという意地があった。
アリスの前ではいつだってかっこいい自分を見せたいという見栄もあった。
そんなものをかなぐり捨てて、疲れ果てていても、アリスにうっかり仕事が忙しくて……なんて愚痴を吐いたりしたとしても、それでも会って話をしていれば、もしかしたら何かが変わったかもしれない。
けれど、もしそんな事をして幻滅されたらと思うと。
そう思うと、今はまだ会うべきじゃない、なんて思ってしまって結局会わないままだった。
職業柄荒事がないわけじゃない。きちんと休まずに仕事に出て、もしそういった荒っぽい事態になったなら怪我をするだけで済めばいいが最悪命を落とす事だってあり得るから、しっかりと身体を休める事は大事だった。
正直に言えば、仕事で疲れてできる事なら家の中で寝て過ごしたい気持ちもあったのだ。
けれどラリサに呼ばれれば無視もできないし、そうなると事情を説明して理解してくれていたアリスとは、会いたい気持ちがあっても無理に会う必要はないと思ってしまったから。
理解のある恋人だと感謝すらしていた。
同僚たちの中には仕事と私とどっちを取るの!? なんて詰め寄られた奴もいたから余計に。
連絡を疎かにしても、アリスは分かって受け入れてくれていると信じ切っていた。
今更ながら理解する。
確かにアリスは事情を説明して、理解はしてくれた。
けれど心の奥底では納得できていなかったのだろう。
行き先はわからない。追いかけようがない。
アリスを追いかけるために仕事を辞めて、各地を転々とするのは無謀だとわかっている。
道中、魔物だっているのだからアリスは大丈夫だろうかと思いながらも、単身で追うのはどう考えても無謀だとしか言いようがない。
せめて、別れ話を直接会ってしてくれれば、誤解を解く事だってできたかもしれないのに。
「アリスにとって、俺は手紙一枚で別れを告げるだけで済むような相手だったのか……」
勿論付き合い始めの頃はそうじゃなかったはずだ。
けれど、忙しさを理由にアリスの事を後回しにし続けた結果、そういった存在に成り下がった。
頭ではわかっている。
それでも、最後に会って話したかったと思う。
旅に出るなんて、大丈夫だろうか。
心配したところで、既に旅立った後だ。
アリスならきっと、旅先でもなんとかやっていくのだろう。
ここじゃないどこかで、いつか自分の事を忘れて幸せになっているかもしれない。
むしろもう忘れていたっておかしくはない。
貴方の一番になりたかった。
手紙の最後に書かれていた一文。
再び手紙を手に取って、その文字を眺める。
はは、と乾いた笑いが出た。
一番だった。いや、今でも一番だ。
アリスの事を愛している。手紙で別れを告げられても、すんなり受け入れたくないと思っているのだ。
今でも自分の中の一番はアリスなのに、アリスの中では自分は一番ではなくなってしまった。
一番であるのなら、こんな風に別れを切り出したりはしなかったはずだ。
「あぁ、俺も、一番になりたかったよ……」
遠い空の下、きっとどこかで幸せになっているであろうアリスに向けてそんな風に言ったところで、声なんて届くはずもない。
それでも、アロルドは祈るように呟いて――結局手紙はくしゃくしゃになってしまった。
気付けば頬を涙が伝っていた。