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一番近い他人に愛されなかった少女の話

 全体的にじめじめしている。



 アリス・メイアーの人生を色で例えるのならば。

 今にも雨が降り出しそうな、重苦しい曇天の空のような――暗い、灰色であった。


 アリスの母は、貴族の愛人だった。

 いつか、日の目を見ると信じていた愚かな女だ。

 アリスの父はその貴族の男だが、しかしアリスもアリスの母も、貴族の家に入る事はできなかった。


 貴族といってもそこまで裕福でもなかったらしきその家は、跡取りを欲していた。

 親にいい加減結婚相手を決めろとせっつかれていた男は、しかし当時まだアリスの母を愛していた。


 そのせいで結婚を渋っていたのだ。

 アリスの母は平民であるが故に、男の両親は結婚を許さなかった。

 だが、もし。

 もしアリスの母が男との子を産んで、それが男児であるのなら。

 その時は認めよう、と条件を出されたのだとか。


 しかし生まれたのはアリスだ。

 男に似たわけでもない、母親譲りの外見。

 男児を産めなかった事で男は両親に強制的に結婚相手をあてがわれ、そうしてアリスの母と引き離された。


 跡取りにもなれない子を産んだアリスの母の事を、その家が何かしてくれたかと言えば何もない。

 強いて言うのなら、これ以上我が家とは関わるなという忠告と警告くらいだ。


 その気になれば男の両親はアリスの母を始末しようと思えばいつでもできた。

 ただそれをすると息子が面倒な事になるとわかっていたからこそ、時間をかけて説得し続けていたに過ぎない。


 けれどいつまで経っても別れる気配もなければ、男は家を継ぐ気もないのかいつかは認められると夢を見ていたのかはさておき、そろそろ男に嫁を見繕うにも年齢や世間体的な事から難しくなり、だからこそアリスの母に男児を産むことができたなら、などという条件を出した。


 だが生まれたのは女児だ。


 男にはまだ未練があったようだけど、しかし結局最終的に親に逆らえなかった男は、それ以降アリスの母と会う事はなかった。


 愛する男との子ではあるが、しかし望まれない子供。

 それがアリスである。


 母親は、男と結ばれる未来を信じていた。

 しかしそれは、アリスの誕生により崩れ去った。


 そうして二度と会う事ができなくなった最愛の男性。


 アリスが。

 アリスが生まれてこなければ。


 この子が男として生まれていれば、私たちは結ばれる事ができたのに――


 母は、それ故にアリスを愛さなかった。

 いや、愛せなかった、が正しいのかもしれない。愛そうとしなかった、とも言える。


 母親は全ての不幸の元凶はアリスにあると信じて疑う事はなかったし、だからこそ幼い頃からアリスの面倒なんてほとんど見なかった。


 今までは男が生活資金を工面してくれていたけれど、強制的に別れる事になった以上その援助も消えた事でアリスの母の生活は一気に転落した。

 なるべく汚れる事のない仕事で稼いでいたけれど、しかし母はアリスの面倒を見るつもりもなかった。


 家の中に放置して、いっそそのまま死んでくれれば……とでも思っていたのかもしれない。


 時折、酒に酔ってアリスに対してあんたなんか産むんじゃなかったと泣き喚いたりしていたし、酔って感情が昂って手をあげる事だってあった。


 幼い頃のアリスはどうして母が泣いているのか、どうして母に叩かれているのか、意味を理解するまでに時間は少しばかりかかったけれど、自分の出生時の話を聞いて理解できる頃には母から愛される事を諦めた。


 どれだけ母からの愛を願ったところで、彼女がアリスに微笑む事はきっとこの先一生無い。

 そう理解してからは、アリスはどうにか外で小銭を稼いで飢えを凌いだ。


 死ねばいいと思われていたであろう事は疑いようがないが、しかし家の中で死なれると後片付けが面倒だとも思われていたのか、家の中には最低限の食料はあったのだ。

 それを食べて、それでも足りなければ外に出て。

 店の物をそうと知らず手を出しかけた事もあった。

 アリスの母はアリスの事などどうでも良かったので、生きていくうえで必要な知識など何も教えてこなかった。

 だからこそ、買い物をしたらお金を払うなんて当然の事も最初の頃のアリスは知らなかったのだ。


 知らず、悪い事をした場合文句の行き先は当然アリスの母である。

 そこでアリスへ物事の善悪を教える事になるのであればまだしも、そうなった時大抵アリスは遠慮も何もなく力いっぱい叩かれた。

 叩かれた事で自分が何か悪い事をしたのだと理解はしたが、それだけだ。

 何が悪かったのか、どうすればよかったのか。それについては教えてもらえなかった。


 アリスは見た目こそそれなりに整っていたが、母から疎まれ常識もどこかずれていたせいで、近所の大人たちからも遠巻きにされていた。

 見た目がそれなりに整っていたからといっても、身形はそうでもない。ボロボロの服、自分で整えたからこそボサボサになりがちな頭。

 ちゃんとすれば可愛らしい女の子であるはずのアリスは、しかし周囲からはスラム育ちの浮浪児のような認識であった。



 アリスがそれでもどうにかやってこれたのは、その後知り合った友人と呼ぶべき存在のおかげである。


 孤児院で生活している孤児の一人。

 サニアという少女はアリスに常識を教え込んだ。

 別にサニアは面倒見が良かったわけではない。ただ、何となく自分の境遇と似通っていたから放っておけなかった、とは言っていた。


 捨てられてこそいないが、親に愛されないアリス。

 捨てられて、親の顔も愛も知らないサニア。


 気づけば二人は一緒にいる事が多くなっていた。



 幼少期から少女と呼ばれる年齢になるあたりまでは、サニアのおかげでどうにかアリスもマシな人間になりつつあったけれど。


 年頃の娘と言われる年齢に差し掛かった頃、アリスは母親に久しぶりに話しかけられた。

 罵声などではない。マトモな言葉だった。


 それがアリスにとって嬉しくて。

 ようやく母親が自分の事を見てくれるようになったのかもしれない、と淡い期待すら抱いた。


 だがしかし、その希望はすぐさま打ち砕かれた。


 アリスの母は、アリスの事を売ろうとしていたのだ。

 若く美しい娘に、それなりの金を払うと言った男はアリスが思わず戸惑うくらい、いっそ醜悪な外見をしていた。


 どうして、と母に助けを求めるように縋る目を向ければ、母は冷たい目を返した。

 どうせならもっと早くにこうすればよかった、なんて言葉と共に。


 最初から最後まで、アリスの母にとってアリスの存在はいらないものでしかなかった。

 アリスのせいで好きだった男と引き離され、アリスのせいで生活が苦しくなった。

 邪魔で邪魔で仕方なかったけれど、殺したら罰を受ける。だから放置していたのに、外に出て悪い事をすればアリスの母が責められる。


 母親なのだからそれは当然の事なのだが、アリスの母にとってそれは当たり前ではなかった。


 殺さないであげただけマシだと思ってほしい。

 なのに勝手に余計な事をして私に迷惑をかけたのだから、最後くらい少しは役に立ちなさい。


 そんな風にアリスへ言い放った。


 気持ちの悪い笑みを浮かべた男は、一切の下心を隠す事なくアリスへ手を伸ばした。


 捕まったら、何をされるかわからない。


 言葉にできない、言いようのない嫌悪感。

 頭の中か、心臓の近くかはわからないが、自分の内側で警鐘が鳴っているような感覚。

 ぞわりと背筋から忍び寄る寒気に、咄嗟にアリスは母と男から距離を取ってその勢いのまま逃げ出した。


 無理だと薄々わかっていた。それでも、いつか母が自分を見てくれて、愛してくれると信じたかった。

 期待をしていないといえば嘘になる。無い、と思っていてもそれでもその希望を完全には捨てられなかった。


 だがその希望は打ち砕かれて、アリスはとにかくひたすら逃げた。


 行くアテなんてなかったけれど、もし捕まったらあの男のところへ連れていかれる。

 そうして……一体どうなるのだろう?

 わからないけれど、とても嫌な感じだった。

 絶対に自分にとっていい方向に転がらない事だけは察してしまった。そうじゃなければ逃げ出すはずもない。


 逃げて、逃げて、そうしてたどり着いた先で。


 サニアと会った。

 彼女もそろそろ孤児院を出ないといけない年齢になりつつあったようで、最近は町の中で孤児院が紹介してくれたお仕事をしているのだと、前に会った時に話をしていたのできっとその帰りだろうか。

 息を切らせているアリスを見てサニアはきょとんとしていたけれど、それでもただ事じゃないと感じたのだろう。


「こっち」

 言いながら、サニアはアリスの手を引いて人目につかないような場所へと隠れた。


 アリスを買った男は、直接アリスを追いかけてくる事はなかったけれど、しかし部下か手下かはわからないがとにかく人を連れていた。

 そいつらにアリスを追わせていたのもあって、アリスは徐々に追い込まれているのを感じ取っていた。

 追手の顔を全部覚えているわけじゃない。

 だから、逃げたと思った矢先に追手の目の前に出る事だってあり得た。


 何があったのかを聞くサニアに、母親に売られそうになった事を説明する。

 とても悲しい気持ちだった。

 こんな事になるのなら、それこそサニアのように捨てられて孤児院で暮らしていた方がマシだったのかもしれない。

 そう思っても、それは流石にアリスも口には出さなかった。

 もっと幼かった頃なら考えなしに口に出したかもしれないけれど、サニアと過ごしていく数年の間でそれくらいの分別はつくようになっていた。


 アリスを買ったという男の特徴を聞いてサニアは「あいつか」と苦々しく呟いた。


 曰く、性質の悪い奴らしい。

 後ろ暗い事も平気でやってるらしく、だがハッキリと尻尾を出さないせいで証拠が不十分で捕まえられないのだという噂がいくつもある。

 そんな相手にアリスは売られたのだ。見つかればタダで済むはずがない。


 大声でアリスの名を叫ばれて探されているわけではないが、だからこそ逆に追手が諦めたかどうかもわからない。

 焦った様子で何かを探し回る人がいれば、それが追手の可能性もあるのだ。

 そうでなくともアリスが家を飛び出した直後追いかけてきた相手以外にも、他にも後からアリスを探しに出た男の手下がいるかもしれない。


 人を探している、というだけなら、それこそ善意で教える者もいるだろう。

 事情を知らなければ、それこそ人助けのつもりで。


 今はまだ捕まっていないけれど、しかしそれも時間の問題だった。

 この町にいる以上、いずれは捕まる。


 その事実に気付いて、アリスは顔を真っ青にした。


「大丈夫。アタシがいる」

 そんなアリスに、サニアは手をぎゅっと握ってそう言った。

「アリスが目をつけられたっていうのなら、多分アタシもあいつに目をつけられてる可能性が高い。

 そうでなくともアタシがアリスと一緒にいるのはそれこそかなり前からだ。

 この町に昔からいる奴なら知ってる。

 ……だからね、アリス。


 逃げよう」


 それは何かを覚悟した目だった。

 そうだ。昔からこの町で暮らしている人なら、アリスの事を知っているだろうし、ましてやサニアと一緒にいるのを目撃した人だってそれなりにいる。町の人全員が、というわけではないかもしれないけれど、アリスの家の近所で暮らしている人なら間違いなく知っている情報で。


 そうなれば、アリスが逃げた以上、サニアにアリスを見なかったか、と聞きに来る者が出るのも時間の問題だろう。


「あ、ぁど、どうしよう、ごめんサニア。そんなつもりじゃ……

 貴方を巻き込むつもりじゃなかったの……」


 あの男のところに行くのは絶対に危ない。

 そう思ったからこそアリスは逃げ出した。

 そして途中でサニアを見かけたから、思わず安堵したのも事実だ。


 だが、そうだ。

 アリスの行方を捜すのなら、知り合いに尋ねる者も出るはずで。


 事情を知らないままなら、サニアも「知らない」で済んだだろう。

 けれどこうして逃げ出したアリスとサニアは出会ってしまっている。


 今からアリスが一人でまた逃げ出したところで、アリスが逃げているという事を知ったサニアが何食わぬ顔をして嘘を吐きとおすにしても。

 むこうは犯罪にも手を染めているらしき相手だ。嘘を吐いている奴を見分ける事なんて容易かもしれない。

 もし、サニアが嘘をついていると思われたなら。

 当然アリスを庇っているという考えに行きつくだろうし、知っている情報を吐け、なんて言われたとして。


 サニアが無事で済む保証はどこにもなかった。


 アリスが逃げている事を知らないまま、会わないままであったなら、まだ言い逃れもできたかもしれない。

 それをできなくさせたのは、まぎれもなくアリスで――


「ごめんなさい……ごめんなさい……っ」


 どうしよう。面倒な事に巻き込んでしまった。

 誰からも必要とされていなかったアリスのたった一人の友達。

 アリスにとってのただ一人を、なんて事に巻き込んでしまったのだろう。


 気付いた途端、アリスは自分自身を責めた。


「アリス、いいの。遅かれ早かれこうなる感じはしてたからさ。

 ここを出ていく理由ができた。あいつも流石にこの周辺はともかく、あまり遠くまでは手を広げられないだろうから、あいつらの手が届かない場所まで逃げよう。

 アタシも、正直孤児院を出たらこの町から出てく予定だったからさ、丁度いいよ」


 サニアの言葉に、アリスはポロポロと涙を零しながら、「ぅん……」と小さな声で返した。

 それが嘘だとアリスはわかっていた。

 そんな事、今まで一度だって口に出した事なんてなかった。

 孤児院を出たら、この町で仕事して独り立ちして、世話になった分を返すんだ――なんて言ってたのに。

 そんな嘘まで吐かせてしまった。


 けれど、そうまでしてアリスを助けようとしてくれるサニアに、感謝の気持ちもあった。


 確かにずっとこの町にいたら、いつかは絶対に捕まってしまう。

 けれど、アリスはこの町で生まれ育った。

 ここ以外を知らないアリスは、この町の外の事など何も知らない。


 一人で未知の場所へ行く勇気がアリスにはなかった。

 もし、そんな勇気があったなら。


 母から愛されない事を早々に認めて諦めて、これ以上母から嫌われる前にと出ていってどこか別の場所で――


 そこまで考えてアリスはそっと首を振る。


「ごめんね、サニア。

 ありがとう……」


「そうはいっても最低限路銀は必要だからさ、ちょっと待ってて。用意してくる」

 ここで、じっとしていてね。


 そう言われてアリスは、サニアが戻って来るまでに泣き止まなきゃと思いながら頷く。


 サニアは何食わぬ顔をして孤児院へ戻り、そこで適当な言い訳をして再び外へ出て。

 旅に出るような見た目は勿論していない。

 本当に最低限の金銭しか持たずに出てきたサニアは、傍から見れば何も不審な様子はなかった。


「おまたせ、行こ」


 サニアが戻って来る頃には日も沈みかけて暗くなりつつあったけれど。


 それでもアリスは眩しいものを見るように、サニアを見て。


 そうしてサニアが差し出した手を取ったのだ。

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