表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/4

黒影、過去に揺らぐ

それは、黄昏がチームに加わる、少し前のこと——


 俺には名前がない。

 あるとすれば、それは「黒」。


 任務は「癸」。

 暗殺を意味する、十干の末尾。

 目立たず、痕跡を残さず、感情も捨て去り、ただ影のように命を奪う。

 闇と同化するその姿から、俺は「黒」と呼ばれるようになった。


 ——それが、俺の存在理由。

 疑うことなく、ただ任務を遂行していた。

 だが、あの日。

 ほんのわずかな綻びが、俺の中に生まれた。


 標的はある一家族。

 事故に見せかけて処理する、それだけの任務だった。

 車に細工を施し、一酸化炭素を車内に回し、意識を奪ったまま、山道の崖へ。

 それで終わるはずだった。

 誰の記憶にも残らない、“仕事”だ。


 落下の瞬間を確認するため、俺は決められたポイントで待機していた。

 落ちる光景を見届けることすら、任務の一部。


 ──崖の下へと転げ落ちる車。

 そのとき、目が合った。


 後部座席の、少女。

 まだ意識があった。


 幼い顔に浮かぶ、混乱と絶望。

 息苦しさに歪んだ目で、確かに俺を、見ていた。

 助けを求めるわけでもなく、ただ……

 “そこにいる君は、なぜ、何もしないのか”と問うように。


 沈黙の中で落ちていく車。

 少女の目が、最後まで俺を捉えていた。


 その瞬間、胸の奥で何かが壊れる音がした。

 名もなき「黒」だった俺の中に、何か別のものが流れ込んできた。


 それ以来、任務に“影”が差すようになった。

 ただ殺す。それだけだった自分が……

 時折、あの目を思い出す。


 ——あれが、トラウマというやつなのか。

 俺には、まだよく分からない。


 ただ、あの日から俺は、“任務”を完遂するたびに、何かを置き去りにしている気がしている。


 ————————————————————————————


 ある日のことだった。

 いつもと変わらない、ただの“仕事”の日。


 俺は、暗殺対象の生活パターンを監視していた。

 対象は、とある国の諜報機関に属するスパイ。

 我々にとっては明確な「敵」だった。


 情報収集から潜伏ルートの特定まで、手順通りに進め、あとは“処理”するだけ。

 だが、その日——


 男が自宅に戻ったとき。

 玄関で小さな影が飛び出してきた。


「おかえり、お父さん!」


 娘だった。

 父親に無邪気な笑顔を向け、まっすぐに抱きつく小さな体。

 男はその頭を優しく撫で、穏やかな微笑みを返していた。


 たった、それだけ。

 それだけの光景だった。


 なのに——

 俺の手は、動かなくなっていた。


 指先が、冷たく硬直する。

 胸の奥に、不快な鈍痛が広がっていく。


 “殺せない”——

 その感情が、生まれてしまった。


 あの日、目の前で死にゆく少女と目が合った。

 今度は、その少女が生きている姿として、目の前に現れたようだった。


 俺は、ナイフを鞘に戻し、その場を離れた。

 背を向けたまま、ただ歩き去った。


 ————————————————————————————


 それ以来、「黒はもう終わった」

「暗殺もできない暗部に価値はない」

 そんな囁きが、組織の中を駆け巡った。


 ——わかっている。

 俺は“壊れた”。


 それでもなお、命を絶つ勇気もなかった。

 崖下で俺を見つめていた、あの絶望の瞳が頭から離れない。

 “死にたくない”と叫んでいた少女の目が、今も俺を見ている。


 そんなとき——


「黒、お前には新たな任務がある」


 上忍から与えられた指令は、あまりにも意味不明だった。


「アイドルとして、新宿に潜入せよ」


 ……は?


 一瞬、耳を疑った。

 暗殺を極めた者に、まさかの芸能活動。

 滑稽だ。

 狂っている。

 そんなものは任務でもなんでもない。


「せめて、俺を処理してくれ」と言いかけた。

 だがそのとき、また思い出してしまった。


 ——落ちていく車の中、俺を見つめていたあの少女の、目。


 死ねない。

 死にたくない。

 この矛盾が、俺の中でずっと燻っている。


 ————————————————————————————


 俺は、名前を与えられた。

 “黒影 柩”——くろかげ・ひつぎ。


 それを聞いた瞬間、妙に納得してしまった。

 黒い影の行き着く先が、棺であるのは当然だ。

 そして、柩という名が俺に与えられたということは、つまり——


「これが最後の任務だ」

 そう、言外に告げられている気がした。


 ここで失敗すれば、俺は処理される。

 いまさら驚きもない。

 俺はすでに、忍びとして壊れてしまったのだから。


 けれど、どこかで思っていたのかもしれない。

 終わらせる場所を、探していたのかもしれない。


「黒影 柩」

 それは、死に場所を与えられた者の名。

 ……あるいは、もう一度、生きるための仮初めの名。


 どうでもいい。

 ただ一つ、理解している。


 ——これは“余生”だ。

 そしてその余生を、俺はステージの上で踊ることで過ごすらしい。


 ……滑稽だ。

 けれど、悪くない。


 そう思ってしまった自分に、一番驚いているのは、俺自身だった。


 ————————————————————————————


「……はぁ……」


 汗をぬぐいながら、柩はスタジオの隅で静かに息を整えていた。

 ダンスレッスンはなんとかなる。任務での動きには慣れている。

 ただ——音楽に合わせるという行為は、未だに馴染まなかった。


 リズム。旋律。拍。

 そのすべてが、自分にとっては異質なものに感じられる。


「動きは申し分ない。問題は、音に対する感覚だな」

 透が近づいてくる。感情を抑えた低い声。目元はどこか鋭い。


「……俺は音を“感じる”ということが苦手なんだ。動きに意味がないようで」


「意味を求めすぎるな。音に合わせるのは、情報戦とは違う。考えるな、感じろ」


 柩が眉をひそめると、透は目線を逸らさず言葉を重ねた。


「お前の動きは、すでにひとつの武器になってる。あとは……それを“踊り”に昇華するだけだ」


 刹那がそれを聞いて笑う。

「おいおい、名言メーカーかよ、透。いまちょっと鳥肌たったわ」


「事実を言っただけだ」

 透は淡々と応じる。


 その瞬間、柩は無意識に後ずさり、壁の影に身を滑り込ませる。

 すっ……と影へと消えるような動き。


「……うお。やっぱ消えるの早ぇな」

 刹那が笑う。


「見事な影遁」

 透が静かに呟くと、ちょうどそのとき玲が入ってきた。


「おーい、レッスン中に忍ぶなー!」

 玲が声を張ると、影から音もなく柩が顔を出す。


「……いた」


「いや、出てくるな。影の中から顔だけ出すな、ホラー映画か」


 玲が爆笑するなか、柩はぽつりと呟く。


「……俺は本当に、向いていないのではないか……」


「その言葉、任務の現場で言ったことあるか?」

 透の声が落ち着いたトーンで響く。


 柩が黙る。透はわずかに目を細める。


「向き不向きで言えば、俺たちは全員“不向き”だ。けれど——それを理由に引いたことはない」


「……」


「安心しろ。お前ならできる」


 その言葉が、妙にまっすぐに響いた。

 柩は一瞬目を伏せ、それから無言で頷いた。


「おーい、俺にもその信頼度で褒めてくれよ〜」

 刹那が調子よく笑う。


「お前は、まずステップの練習だろ」


「くっ、冷てぇ!!」


 玲がぱん、と手を叩いてまとめに入る。

「とりあえず、柩。お前は“忍び”であること自体がキャラ立ちしてるから、自信持て」


「……キャラ……個性……か」


「そう。お前の存在がもう、異彩なんだよ」

 玲がニヤリと笑う。


 柩はわずかに口の端を動かす。

 笑ったのかもしれない。だが誰もそれを確かめることはできなかった。


 すでに——彼は再び、影に溶けていたから。


「……また消えた」


 刹那が呆れてつぶやくと、透はポケットに手を突っ込みながら言った。


「忍者らしくて、悪くないだろ」


 ————————————————————————————


 プレデビュー——そう聞いて、俺は正直、どう反応すべきか分からなかった。


 舞台は、ある地下アイドルグループのデビューイベント。

 我々は、その前座として出演することになったらしい。


「チーム名?ああ、『忍んでござる(仮)』だってさ!」


 刹那が、満面の笑みでとんでもないことを口にする。


 ……は?


「“ござる”……?」


「俺がノリで送っといた。仮って書いてあるから大丈夫っしょ!」

 心底ふざけているとしか思えないが、運営もそのまま通したらしい。理解に苦しむ。


 チーム名も、活動方針も、すべてが未定のまま、俺は今——

 ステージ袖に立っていた。


 闇に潜み、人知れず命を奪ってきた俺が。

 今は、光の下で人前に立ち、歌い、踊ろうとしている。


 滑稽すぎて、もはや現実味がない。


「……行くか」


 玲が前を向いたまま、小さく呟く。

 刹那がひょいと軽やかにステージへと飛び出す。玲も続く。


「透、柩。お前らも早く」


 透が短く頷いてステージに足を踏み出す。


 そして、俺。


 ステージの照明が、一気に視界を奪った。

 明るすぎる。眩しすぎる。熱を帯びた視線が、全身に突き刺さる。


 無意識に、俺の体はステージの端へとすべり——影へと身を沈めようとする。


「おい、こら柩! 潜むなって!」


 玲の声が響いた。


 ステージ中央で、満面の笑みのまま、客席に向かって頭を下げる。


「どうもすいません! 我々、ちょっと影に生きる職業なもので!」


 会場から、ふっと笑いが漏れる。

 くすくすと、少しずつ広がっていく。


 ……なんだ、これは。


 任務ではない。殺気も、敵意も、ない。

 ただ、目の前にいるのは、笑っている“人”たちだ。


 思わず、心がすっと落ち着いていくのを感じた。

 この感覚は、初めてだった。


 ——もしかすると、俺は、もう“棺”の中にいるわけじゃないのかもしれない。


 少しだけ、体の力を抜く。

 ステージに、ちゃんと“立つ”ということを、俺はこの瞬間、学び始めた。



 ステージの上。スポットライトの熱が肌を刺すように感じた。


 音楽が流れる。

 レッスンで何度も繰り返した振り付けと、まだぎこちない歌声。

 一歩ずつ、音に合わせて体を動かすたび、全身の神経が研ぎ澄まされていく。


 初めてだ。

 こんなにも、誰かに見られながら、自分のすべてをさらけ出すのは。


 心臓が、いつもよりも強く、速く、鳴っている。


 緊張で呼吸が浅くなる。足がもつれそうになる。

 だけど——隣で踊る玲や刹那、透の存在が、なぜか支えになる。


 それでもやっぱり、少しだけドギマギしてしまう。

 でも、それが不思議と、悪くなかった。


 観客席をふと見れば、笑っている少女たちがいる。

 楽しそうに、応援してくれている。


 ——笑ってる。


 その笑顔を見た瞬間、ふと、あの少女の顔が頭に浮かんだ。


 あの日、絶望の目で俺を見上げていた、あの子。


 あの時、救えなかった命。

 戻らない過去。


 でも——もしかしたら。


 今ここで、目の前の誰かを笑顔にできたなら。

 あの子も、いつかどこかで、少しだけ笑ってくれるかもしれない。


 ……そんな都合のいい妄想にすがりながらも、なぜだか心が少し軽くなった。


 ダンスは何度かミスした。

 歌も途中で息が裏返った。


 だけど、それでも会場は温かかった。


「ありがとー!『忍んでござる(仮)』でしたー!」


 玲の締めの声に合わせて、俺も小さく頭を下げた。


 拍手が、降ってきた。


 ……終わった。

 途端に、熱が引いていく。


 恥ずかしさが一気に襲ってきた。

 ああ、もうだめだ。影に潜みたい。とにかく存在を消したい。


 こそこそとステージの端へと滑ろうとしたその時。


「こら、柩! まだ潜むな!」


 刹那の声が響く。


「最後の決めポーズ、まだだろーが!」


 その声に、観客席から笑いが巻き起こった。


 ……なにこれ。


 戸惑いつつも、少しだけ笑いそうになる自分がいた。


 ああ、そうか。

 きっと、俺は——


 これからしばらく、この世界で生きていくことになるんだな。


 心の奥で、そんな風に、静かに思った。


 だから、今——

 俺は“柩”として、生きている。


 これは償いなのか。

 それとも、罰なのか。

 答えはまだ出ない。


 ただ、アイドルとしてステージに立つとき、

 誰にも見えない影が、いつも胸の奥で蠢いている。


 ——俺は、まだ終われない。


 玲の誕生日。それは、任務よりも難解な“イベント任務”。

 その中で、黄昏はひとつの重大な任務を仰せつかる。


 ——ケーキ係。


 だが、彼はただの“頼まれた人”ではない。

 かつて、影の任務の中であらゆる毒物を見分け、味と彩りを武器に変えてきた男。


「俺は、完璧なケーキを作れる。だが…それじゃ“面白くない”はずだ」

 あえてのハプニング、あえての崩し。

 全ては観客の笑顔のため。

 それが、黄昏の導き出した最適解!


 笑顔のケーキを焼くために、黄昏の美学が火を吹く!


 次回、第五話『甘き任務と、完璧なる演出の巻』

 ——そのケーキ、“任務”を超えてる。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ