黒影、過去に揺らぐ
それは、黄昏がチームに加わる、少し前のこと——
俺には名前がない。
あるとすれば、それは「黒」。
任務は「癸」。
暗殺を意味する、十干の末尾。
目立たず、痕跡を残さず、感情も捨て去り、ただ影のように命を奪う。
闇と同化するその姿から、俺は「黒」と呼ばれるようになった。
——それが、俺の存在理由。
疑うことなく、ただ任務を遂行していた。
だが、あの日。
ほんのわずかな綻びが、俺の中に生まれた。
標的はある一家族。
事故に見せかけて処理する、それだけの任務だった。
車に細工を施し、一酸化炭素を車内に回し、意識を奪ったまま、山道の崖へ。
それで終わるはずだった。
誰の記憶にも残らない、“仕事”だ。
落下の瞬間を確認するため、俺は決められたポイントで待機していた。
落ちる光景を見届けることすら、任務の一部。
──崖の下へと転げ落ちる車。
そのとき、目が合った。
後部座席の、少女。
まだ意識があった。
幼い顔に浮かぶ、混乱と絶望。
息苦しさに歪んだ目で、確かに俺を、見ていた。
助けを求めるわけでもなく、ただ……
“そこにいる君は、なぜ、何もしないのか”と問うように。
沈黙の中で落ちていく車。
少女の目が、最後まで俺を捉えていた。
その瞬間、胸の奥で何かが壊れる音がした。
名もなき「黒」だった俺の中に、何か別のものが流れ込んできた。
それ以来、任務に“影”が差すようになった。
ただ殺す。それだけだった自分が……
時折、あの目を思い出す。
——あれが、トラウマというやつなのか。
俺には、まだよく分からない。
ただ、あの日から俺は、“任務”を完遂するたびに、何かを置き去りにしている気がしている。
————————————————————————————
ある日のことだった。
いつもと変わらない、ただの“仕事”の日。
俺は、暗殺対象の生活パターンを監視していた。
対象は、とある国の諜報機関に属するスパイ。
我々にとっては明確な「敵」だった。
情報収集から潜伏ルートの特定まで、手順通りに進め、あとは“処理”するだけ。
だが、その日——
男が自宅に戻ったとき。
玄関で小さな影が飛び出してきた。
「おかえり、お父さん!」
娘だった。
父親に無邪気な笑顔を向け、まっすぐに抱きつく小さな体。
男はその頭を優しく撫で、穏やかな微笑みを返していた。
たった、それだけ。
それだけの光景だった。
なのに——
俺の手は、動かなくなっていた。
指先が、冷たく硬直する。
胸の奥に、不快な鈍痛が広がっていく。
“殺せない”——
その感情が、生まれてしまった。
あの日、目の前で死にゆく少女と目が合った。
今度は、その少女が生きている姿として、目の前に現れたようだった。
俺は、ナイフを鞘に戻し、その場を離れた。
背を向けたまま、ただ歩き去った。
————————————————————————————
それ以来、「黒はもう終わった」
「暗殺もできない暗部に価値はない」
そんな囁きが、組織の中を駆け巡った。
——わかっている。
俺は“壊れた”。
それでもなお、命を絶つ勇気もなかった。
崖下で俺を見つめていた、あの絶望の瞳が頭から離れない。
“死にたくない”と叫んでいた少女の目が、今も俺を見ている。
そんなとき——
「黒、お前には新たな任務がある」
上忍から与えられた指令は、あまりにも意味不明だった。
「アイドルとして、新宿に潜入せよ」
……は?
一瞬、耳を疑った。
暗殺を極めた者に、まさかの芸能活動。
滑稽だ。
狂っている。
そんなものは任務でもなんでもない。
「せめて、俺を処理してくれ」と言いかけた。
だがそのとき、また思い出してしまった。
——落ちていく車の中、俺を見つめていたあの少女の、目。
死ねない。
死にたくない。
この矛盾が、俺の中でずっと燻っている。
————————————————————————————
俺は、名前を与えられた。
“黒影 柩”——くろかげ・ひつぎ。
それを聞いた瞬間、妙に納得してしまった。
黒い影の行き着く先が、棺であるのは当然だ。
そして、柩という名が俺に与えられたということは、つまり——
「これが最後の任務だ」
そう、言外に告げられている気がした。
ここで失敗すれば、俺は処理される。
いまさら驚きもない。
俺はすでに、忍びとして壊れてしまったのだから。
けれど、どこかで思っていたのかもしれない。
終わらせる場所を、探していたのかもしれない。
「黒影 柩」
それは、死に場所を与えられた者の名。
……あるいは、もう一度、生きるための仮初めの名。
どうでもいい。
ただ一つ、理解している。
——これは“余生”だ。
そしてその余生を、俺はステージの上で踊ることで過ごすらしい。
……滑稽だ。
けれど、悪くない。
そう思ってしまった自分に、一番驚いているのは、俺自身だった。
————————————————————————————
「……はぁ……」
汗をぬぐいながら、柩はスタジオの隅で静かに息を整えていた。
ダンスレッスンはなんとかなる。任務での動きには慣れている。
ただ——音楽に合わせるという行為は、未だに馴染まなかった。
リズム。旋律。拍。
そのすべてが、自分にとっては異質なものに感じられる。
「動きは申し分ない。問題は、音に対する感覚だな」
透が近づいてくる。感情を抑えた低い声。目元はどこか鋭い。
「……俺は音を“感じる”ということが苦手なんだ。動きに意味がないようで」
「意味を求めすぎるな。音に合わせるのは、情報戦とは違う。考えるな、感じろ」
柩が眉をひそめると、透は目線を逸らさず言葉を重ねた。
「お前の動きは、すでにひとつの武器になってる。あとは……それを“踊り”に昇華するだけだ」
刹那がそれを聞いて笑う。
「おいおい、名言メーカーかよ、透。いまちょっと鳥肌たったわ」
「事実を言っただけだ」
透は淡々と応じる。
その瞬間、柩は無意識に後ずさり、壁の影に身を滑り込ませる。
すっ……と影へと消えるような動き。
「……うお。やっぱ消えるの早ぇな」
刹那が笑う。
「見事な影遁」
透が静かに呟くと、ちょうどそのとき玲が入ってきた。
「おーい、レッスン中に忍ぶなー!」
玲が声を張ると、影から音もなく柩が顔を出す。
「……いた」
「いや、出てくるな。影の中から顔だけ出すな、ホラー映画か」
玲が爆笑するなか、柩はぽつりと呟く。
「……俺は本当に、向いていないのではないか……」
「その言葉、任務の現場で言ったことあるか?」
透の声が落ち着いたトーンで響く。
柩が黙る。透はわずかに目を細める。
「向き不向きで言えば、俺たちは全員“不向き”だ。けれど——それを理由に引いたことはない」
「……」
「安心しろ。お前ならできる」
その言葉が、妙にまっすぐに響いた。
柩は一瞬目を伏せ、それから無言で頷いた。
「おーい、俺にもその信頼度で褒めてくれよ〜」
刹那が調子よく笑う。
「お前は、まずステップの練習だろ」
「くっ、冷てぇ!!」
玲がぱん、と手を叩いてまとめに入る。
「とりあえず、柩。お前は“忍び”であること自体がキャラ立ちしてるから、自信持て」
「……キャラ……個性……か」
「そう。お前の存在がもう、異彩なんだよ」
玲がニヤリと笑う。
柩はわずかに口の端を動かす。
笑ったのかもしれない。だが誰もそれを確かめることはできなかった。
すでに——彼は再び、影に溶けていたから。
「……また消えた」
刹那が呆れてつぶやくと、透はポケットに手を突っ込みながら言った。
「忍者らしくて、悪くないだろ」
————————————————————————————
プレデビュー——そう聞いて、俺は正直、どう反応すべきか分からなかった。
舞台は、ある地下アイドルグループのデビューイベント。
我々は、その前座として出演することになったらしい。
「チーム名?ああ、『忍んでござる(仮)』だってさ!」
刹那が、満面の笑みでとんでもないことを口にする。
……は?
「“ござる”……?」
「俺がノリで送っといた。仮って書いてあるから大丈夫っしょ!」
心底ふざけているとしか思えないが、運営もそのまま通したらしい。理解に苦しむ。
チーム名も、活動方針も、すべてが未定のまま、俺は今——
ステージ袖に立っていた。
闇に潜み、人知れず命を奪ってきた俺が。
今は、光の下で人前に立ち、歌い、踊ろうとしている。
滑稽すぎて、もはや現実味がない。
「……行くか」
玲が前を向いたまま、小さく呟く。
刹那がひょいと軽やかにステージへと飛び出す。玲も続く。
「透、柩。お前らも早く」
透が短く頷いてステージに足を踏み出す。
そして、俺。
ステージの照明が、一気に視界を奪った。
明るすぎる。眩しすぎる。熱を帯びた視線が、全身に突き刺さる。
無意識に、俺の体はステージの端へとすべり——影へと身を沈めようとする。
「おい、こら柩! 潜むなって!」
玲の声が響いた。
ステージ中央で、満面の笑みのまま、客席に向かって頭を下げる。
「どうもすいません! 我々、ちょっと影に生きる職業なもので!」
会場から、ふっと笑いが漏れる。
くすくすと、少しずつ広がっていく。
……なんだ、これは。
任務ではない。殺気も、敵意も、ない。
ただ、目の前にいるのは、笑っている“人”たちだ。
思わず、心がすっと落ち着いていくのを感じた。
この感覚は、初めてだった。
——もしかすると、俺は、もう“棺”の中にいるわけじゃないのかもしれない。
少しだけ、体の力を抜く。
ステージに、ちゃんと“立つ”ということを、俺はこの瞬間、学び始めた。
ステージの上。スポットライトの熱が肌を刺すように感じた。
音楽が流れる。
レッスンで何度も繰り返した振り付けと、まだぎこちない歌声。
一歩ずつ、音に合わせて体を動かすたび、全身の神経が研ぎ澄まされていく。
初めてだ。
こんなにも、誰かに見られながら、自分のすべてをさらけ出すのは。
心臓が、いつもよりも強く、速く、鳴っている。
緊張で呼吸が浅くなる。足がもつれそうになる。
だけど——隣で踊る玲や刹那、透の存在が、なぜか支えになる。
それでもやっぱり、少しだけドギマギしてしまう。
でも、それが不思議と、悪くなかった。
観客席をふと見れば、笑っている少女たちがいる。
楽しそうに、応援してくれている。
——笑ってる。
その笑顔を見た瞬間、ふと、あの少女の顔が頭に浮かんだ。
あの日、絶望の目で俺を見上げていた、あの子。
あの時、救えなかった命。
戻らない過去。
でも——もしかしたら。
今ここで、目の前の誰かを笑顔にできたなら。
あの子も、いつかどこかで、少しだけ笑ってくれるかもしれない。
……そんな都合のいい妄想にすがりながらも、なぜだか心が少し軽くなった。
ダンスは何度かミスした。
歌も途中で息が裏返った。
だけど、それでも会場は温かかった。
「ありがとー!『忍んでござる(仮)』でしたー!」
玲の締めの声に合わせて、俺も小さく頭を下げた。
拍手が、降ってきた。
……終わった。
途端に、熱が引いていく。
恥ずかしさが一気に襲ってきた。
ああ、もうだめだ。影に潜みたい。とにかく存在を消したい。
こそこそとステージの端へと滑ろうとしたその時。
「こら、柩! まだ潜むな!」
刹那の声が響く。
「最後の決めポーズ、まだだろーが!」
その声に、観客席から笑いが巻き起こった。
……なにこれ。
戸惑いつつも、少しだけ笑いそうになる自分がいた。
ああ、そうか。
きっと、俺は——
これからしばらく、この世界で生きていくことになるんだな。
心の奥で、そんな風に、静かに思った。
だから、今——
俺は“柩”として、生きている。
これは償いなのか。
それとも、罰なのか。
答えはまだ出ない。
ただ、アイドルとしてステージに立つとき、
誰にも見えない影が、いつも胸の奥で蠢いている。
——俺は、まだ終われない。
玲の誕生日。それは、任務よりも難解な“イベント任務”。
その中で、黄昏はひとつの重大な任務を仰せつかる。
——ケーキ係。
だが、彼はただの“頼まれた人”ではない。
かつて、影の任務の中であらゆる毒物を見分け、味と彩りを武器に変えてきた男。
「俺は、完璧なケーキを作れる。だが…それじゃ“面白くない”はずだ」
あえてのハプニング、あえての崩し。
全ては観客の笑顔のため。
それが、黄昏の導き出した最適解!
笑顔のケーキを焼くために、黄昏の美学が火を吹く!
次回、第五話『甘き任務と、完璧なる演出の巻』
——そのケーキ、“任務”を超えてる。