紅炎、闇に舞う
アイドル活動を始めて、4ヶ月。
小さな任務はいくつかこなしてきたが、肝心の“アイドルとしての立ち位置”は、いまだに定まらない。
何かが違う。自分はもっとできるはずだ。
――そう思いながら、事務所に足を運ぶと、情報員カラスから一枚の任務書が手渡された。
そこに記されていたのは、住所とふたつの漢字──「己」と「辛」。
我々、忍の任務は十干で伝達される。
「己」は封じ、「辛」は制圧。
つまり今回の任務は、対象の逃走を封じて動きを奪い、警察に引き渡す任務。
「……これは警察発注の正式任務か」
ようやく、自分が本来の力を発揮できる舞台が来た――。
しかし、任務のパートナーの名を見て、思わず手が止まった。
「紅炎 刹那」
……この軽薄な男と一緒に、任務を?
案の定、数分後に現れた刹那は、満面の笑みを浮かべてこう言った。
「よ・ろ・し・く・ネ☆黄昏クン♪」
ヘラヘラしているようにしか見えない。
本当に、こいつに任務が務まるのか……?
いや、任務に感情を持ち込むべきではない。
俺の目で、刹那の実力をしっかりと見極めよう。
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任務当日。
指定された建物の向かいのビル、その屋上に身を潜め、眼下を見下ろす。
ターゲットは――
広域指定暴力団・虻羅組系の直参組織。
人身売買の拠点として警察もマークしている場所だ。
我々の任務は、ここから組織の足場を崩していく、第一の一手。
闇の中、私はひとりの“忍”の姿を見た。
紅炎 刹那。
あの、普段ステージで軽薄に振る舞っている男の面影はなかった。
「入口は封鎖済み。俺は裏から入る。お前は上から、時間は合わせろ」
低く、淡々と、そして冷静に。
まるで命の重みを知っている者の声だった。
私は、思わず言葉を失った。
これが、あの刹那……?
その姿には、装飾も虚飾もなかった。
ただ、任務を遂行するために鍛え上げられた“術者”がいた。
私は、かすかに息を整え、静かに頷いた。
――個人的な感情は不要。
任務を完璧に遂行すること、それが忍びだ。
私は深呼吸を一つ。
静かに助走をつけ、屋上から標的の建物へ跳ぶ。
風を切る音すら殺し、影のように着地する。
――任務、開始。
まずは屋上から内部へ。古びた鉄扉を静かに開けると、薄暗い階段が続いていた。
音を立てぬよう、足の裏の感覚を研ぎ澄ませて降りていく。
階下からわずかに聞こえるいびき――どうやら雑魚寝部屋だ。
私は一人、また一人と、眠る構成員たちを確実に制圧していく。
声を上げさせず、気配すら残さず、まるで死神のように。
彼らが沈黙する瞬間、私は何も感じない。ただ淡々と、任務をこなすだけだ。
だが――
その時、耳に届いたのは、ほんのわずかな風の音。
裏口のカメラを潰し、入り口に立っていた見張りを無音で沈黙させる影。
刹那だった。
その姿に、私は息をのんだ。
華やかさも、茶化すような笑みもない。
ただ、完璧な動き。
構成員を一人、また一人と音もなく制圧し、通路の奥へと進んでいく。
――あれが、紅炎 刹那の“本来の姿”なのか。
二階へと進んだ刹那は、電話番の男を、わずか一瞬の隙を突いて気絶させた。
次に現れた構成員は、明らかに武闘派。
分厚い体躯と油断のない視線。おそらく、元は傭兵か、格闘技のプロだろう。
だが、刹那は臆さない。
一歩、また一歩と近づき――
わずかに重心が傾いた瞬間、閃いた刃のような打撃で、完全に制圧した。
一撃だった。
私は三階へ向かっていた。
そこには組長と、その護衛が複数待機していると聞いていた。
潜入中、ふと気を取られてしまった。
――刹那の完璧さに。
そのわずかな隙に、足音を察知された。
しまった。
ボディーガードたちの反応は早い。
一斉に詰め寄り、私はすぐに戦闘態勢を取った。
相手は明らかに素人ではない。
冷静な目、迷いのない動き。プロだ。
手裏剣を放ち、一瞬の足止めを狙うも、返される。
こちらも全力を尽くすが、攻防は拮抗し、次第に押されていく。
そのとき――
背後から、気配が消えた。
風のように現れた刹那。
迷いなく、一人を沈黙させた。
私は、それを見てスイッチが入った。
今は、刹那を見ている場合じゃない。
任務だ。
次の瞬間、私は全身の気を一点に集中させ、身を翻した。
影のように動き、二人の護衛を無力化。
彼らが床に倒れるまで、息をつく暇もなかった。
私たちは、何も語らなかった。
ただ、任務の続きがあるだけだった。
――そして、最後の一瞬が訪れた。
私と刹那がそれぞれの敵を沈黙させた時、部屋の奥にいた組長は、まるで別世界の存在を見たかのような顔をしていた。
銃も抜かず、怒鳴りもせず、ただその場に立ち尽くしていた。
仲間たちが次々に崩れ落ちる様を、信じられないという目で見ていた。
足元から崩れるように膝をつき、両手をだらりと下げる。
「……なんなんだ、お前ら……」
震えた声がかすかに漏れる。
私たちは何も答えなかった。任務は、もう終わったのだ。
刹那が腰元から無線機を取り出し、静かにスイッチを押す。
「対象、制圧完了。構成員複数拘束済み。搬送と処理を要請する」
いつもの軽薄な口調ではなかった。
冷静で、淡々と、まるで空気のように必要最低限の報告だけを残す。
直後、外から微かなサイレンの音が聞こえはじめた。
我々は影の存在。彼らが来る頃にはもう姿を消していなければならない。
私は深く息を吐いた。
すべてが完璧だった。
あまりにも、非の打ちどころがない。
刹那の仕事は、まさに“本物”だった。
敵の動きも気配も、何一つ逃さず、すべてを先手で封じていく。
その手際は、まるで時間すら操っているかのようだった。
私はというと――
最初のミス。敵に気づかれたあの瞬間が、まだ心に棘のように残っていた。
確かに、最終的には鎮圧した。だが、それは「完璧」とは言えない。
私は――完璧主義者のはずだった。
自分こそが、最も正確で、効率的に物事を進められると信じていた。
だが、刹那の前では、その自信は音を立てて崩れ去っていく。
任務で負けた。
……アイドル活動でも、きっとあの男は自分以上に何かを持っているのだろう。
悔しさに似た、しかしどこか切ない感情が胸の奥に沈んでいく。
私は何も言えず、ただ拳を握りしめた。
ふと、視線を感じた。
横を見ると、刹那がこちらを見ていた。
表情は――読めなかった。
笑っているようにも、無表情にも見えた。
だが、その瞳は、真っ直ぐに私の顔を捉えていた。
何かを言うでもなく、何かを責めるでもなく。
ただ静かに、私の揺れる感情を、その奥底を、見透かすように見ていた。
私はその視線から目を逸らし、そっとマスクを戻した。
任務は完了した。
だが、私の中の迷いと葛藤は、まだ終わっていない。
――これが、紅炎 刹那か。
私は今、ようやく彼という存在の“本質”に触れた気がした。
次の任務までに、何を掴めるのか。
アイドルとしても、忍としても。
自分は――どう進めばいいのか。
その答えはまだ、闇の中だった。
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数日が経った。
あの夜の任務――刹那の圧倒的な完璧さ――
それが、自分にとって想像以上に堪えていたことに、ふと気づいてしまった。
「……私が、こんなことで……」
今までの任務でも、多少の差はあった。
仲間が上手くやったとしても、「ふーん」と流してこれたのに。
なぜだろう。今回ばかりは、やけに心が揺れていた。
練習にも、集中できない。
ダンスの振りが曖昧になり、歌詞がうわの空になる。
自分でも驚くほど、乱れていた。
そんな自分を、鏡越しに見て――また、落胆する。
「黄昏。ちょっと、来いよ」
事務所にいた刹那が、突然私を呼び止めた。
いつものヘラヘラした調子ではない。どこか真面目だ。
彼に連れて行かれたのは、裏手にある資料室のような小さな部屋だった。
「この間のこと、気にしてんだろ? ……本来は見せちゃいけねぇ資料なんだけどな」
そう言って、刹那は一束の紙を私に差し出す。
十数枚のA4用紙。そのあちこちに、色々な付箋が貼られていた。
「……これは?」
「その黄色い付箋部分、見てみろよ」
私は促されるまま、ページをめくる。
そこには、名前の記載はなかったが、十干のレーダーチャート、棒グラフ、円グラフ――
様々なデータが整然と並んでいる。
しかも、そのレーダーチャートは――すべて、突出して高い。
棒グラフも、体力・集中力・忍耐・暗視能力・変装耐性……どれも高位。
ページ下には、ひっそりと「上一位」と記されていた。
「……これ、まさか……」
「そう、お前の評価。」
刹那は、紙束を指差して言った。
「赤がオレ、青が透、白が玲、黒が柩。そして、黄色が……お前だ」
信じられなかった。
刹那の評価は、「下一位」。
透は「平二位」。
柩は「下二位」。
玲に至っては、「下三位」とある。
「……つまり、お前が俺たちの中で“最上位”。少なくとも、資料上はな」
唖然として、言葉が出なかった。
あの任務で、完璧だったのは刹那だ。
迷いなく潜入し、敵を沈黙させ、冷静に指示を出し、無駄がなかった。
だというのに――私は、彼よりも上の評価だというのか?
刹那は、そんな私の心を読んだように言葉を続けた。
「得意分野が違うんだよ。俺は今回みたいな制圧任務は得意だ。でも、情報収集や潜伏はまるでダメ。お前は、全部において高水準なんだ。バランス型ってヤツだな」
肩をぽん、と叩かれる。
「過信するな。でも、卑下する必要もねぇ。お前は、ちゃんと評価されてる」
「おいおいおいおいおい! 俺、下三位ってどういうことだよ!?!?」
急に入ってきた玲が、紙束をひらひらさせながら叫ぶ。
刹那はニヤッと笑った。
「お前は情報戦しかできないからな~。仕方ねぇよ」
「ひどっ!」
そのやり取りを見て――
私は、ふっと力が抜けた。
完璧な奴だと思っていた刹那にも、不得手がある。
あの玲も(まあ、想定通りだったが)やはり得意分野に限られている。
……そうか。
誰にだって、得意不得意があるんだ。
私は、全部において「そこそこ」できるだけ。
だからこそ、自分のやるべきことはひとつ。
任務を、ただ完璧に遂行すること。
それは、忍びとして、そして今はアイドルとしての私の信条だった。
忘れていた基本を、思い出させてくれただけで――
刹那の言葉には、十分すぎる価値があった。
私は、静かに息を吸い込んだ。
そして――また、一歩、前に進む覚悟を固めた。
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黄昏が事務所を後にした静まり返った室内に、ぼそりと声が落ちる。
「……あんな偽資料、すぐバレるって。勇気づけるの、下手すぎだろ」
ソファに寝転んだ玲が、プリントアウトされた評価資料を指でつまみながら呟く。
その隣、机にもたれていた刹那は、缶コーヒーを一口飲んで肩をすくめた。
「うっせぇ。ああいうのでいいんだよ。あいつ、真面目すぎんだろ。バランス崩したらすぐ自滅するタイプだし」
「ふーん……」
玲は片眉を上げながらも納得しきれない様子。
「まあ……そういうもんかね。でもさ、俺が“下三位”はちょっと納得いかねぇんだけど!?!?」
声を張り上げて抗議する玲に、刹那は吹き出した。
「いや、それは事実だろ?」
「むぐっ……!」
玲が口ごもったその瞬間、刹那の表情が一瞬だけ変わる。
軽口とは裏腹に、ふと真剣な目になる。
「……それに、嘘は書いてないしな」
缶コーヒーの残りを一気に飲み干し、空を机に置く。
「黄昏は……あのままだと、潰れる。そう思っただけだよ」
それきり、刹那は何も言わずにソファに寝転がった。
玲はぷいっとそっぽを向きながらも、ちらりとその横顔を見やった。
「……ま、あんたにしちゃ、上出来だったんじゃね?」
小さく呟くと、玲もまた黙って目を閉じた。
事務所には、静かな夜が戻ってきた。
ステージの上では無敵の無口キャラ。
でも、舞台裏では……一歩も踏み出せない影がいた。
「……うるさい。別に、怖いわけじゃない」
強がる声の奥に隠されたのは、過去の傷と、もうひとつの仮面。
柩の心に棲みついた、ある“トラウマ”。
それは、闇の中からずっと彼を縛りつけていた。
刹那は言う。
「俺たちは、“忍んでいる”だけじゃ、届かない」
忍び、そしてアイドルとして。
少しずつ光に近づくため、仲間たちが手を伸ばす。
次回──「黒影、過去に揺らぐの巻」
闇を断つのは、ほんの一言の言葉かもしれない。