ヴェーネ・フロスという女
ヴェーネ・フロス。持ち前の愛くるしい美貌と、豊満かつ均整の取れた体、老若男女問わず魅了する見た目だけではなく、人の心を容易に揺るがす会話と仕草の卓越したテクニック、魔性という言葉がこれほど当てはまるものもそうはいない。
そんな彼女が生まれた国は、とある大国であった。ヴェーネはそこのスラム街に生まれ、育った。
どうして彼女がスラム街に生まれたかというと、それは彼女の種族に由来する。その国では、選民思想、差別意識が強い国で、特にハーフリングは被差別者の対象にあり、市民権を中々得られなかった。
生まれる場所、生きる場所を子どもは選べない。ヴェーネは薄汚いスラム街の一角で、毎日を生きるのに必死であった。ゴミ箱から食べられそうな生ごみを拾い、道行く人に金を乞うて生活をした。時には泥水をすすって、乾きを潤した。
父は危険な仕事ばかりをやらされていた。ヴェーネが幼いころに、仕事中の事故であっさりと死んだ。見舞金は雀の涙ほどしか出なかった。母は身を売る仕事をしていて、その際中に違法な薬物を使われ、すっかり薬物の中毒者になり、多額の借金を負わされた。
差別を受け、ただ生きるだけでも酷い暴力を受けた。道行く人には唾を吐きかけられ、謂れのない暴言を浴びせられ、路地裏へ連れ込まれて乱暴をされそうにもなった。だが、それでもヴェーネは生きることを諦めず、ピンチの度に生きるための立ち回り方を、ぐんぐんと吸収していった。
まずは逃げ足が速くなった。引き際を弁えられない奴は死ぬ。その見極めを覚えた。軽い失敗を敢えて繰り返し、逃げるタイミングを身に沁み込ませた。軽い罪ならば例え捕まっても、賄賂を渡せば見逃される。
当然賄賂の値は安くない、被差別者であるハーフリングのヴェーネであれば特にそうだった。それでも彼女は逃げるためなら金を惜しまなかった。そこで彼女は、命の値段を知った。
次に覚えたのは、誰に媚びるかという見極めだった。やみくもに媚びを売っても、利益は小さい。ヴェーネ側から差し出すものは最小限に、相手からは最大限の利を引き出すために、誰に媚びて、誰を切り捨てるのかを覚えた。
そうして生きていくに磨かれたのは、観察眼であった。人の表情、仕草、癖、言動から読み取れる性格や生活のこと、それらを敏感に読み取って利用する。人の心の内を知ることで、その隙間に入り込むことができるようになった。
巧みな話術で人を操り、形のない利で味方に引き込んだ。そしてその国の特徴である、選民思想、差別意識でさえ利用した。
派閥間の争いを煽り、対立を深めさせる。差別するものの敵は、他の差別するものである。激化する争いの中で、ヴェーネだけが安全地帯に居続けた。
いつ破綻していてもおかしくない危険な綱渡り、命の危険に常に身を晒しながら、安全を確保していった。死なぬために、生き抜くために。
成長する過程で、自分の体も使えることを覚えた。下心の隠せぬものはだらしなく鼻の下を伸ばし、気持ちを上手く隠せているつもりのものは、分かりやすく彼女に視線を送った。触らせることは絶対にしなかったが、自分から使うことは積極的に行った。
ヴェーネにとって、言葉と体は武器、立場は鎧、人は盾であった。多くの人々をたぶらかし、手玉に取って支配し、自分のことを守らせるように仕向けた。安全に生きれるようになったころには、彼女はその国のあらゆる要人から富を貢がせていた。
ヴェーネは稼いだ金で母親の借金をすべて返済した。母はすっかり廃人同然になっていたけれど、これでようやく最低限の義理を果たしたと、彼女は思った。
彼女は真っ当に生きる方法を学ぶことなく、その国を出た。彼女がいなくなることで、対立の溝は更に深まって大混乱が起き、いくつものくすぶっていた火種が燃え上がった。多くの人が業火に包まれて苦しんだが、彼女はそのことに何の感情も抱かなかった。
こんな国、滅びればいい。彼女はその国で生きる人々に、少しの情も抱いていなかった。後のことなど知らない、次はどこでどう生き延びようか、ふらふらと放浪の旅が始まった。
ヴェーネの語ることを聞いて、俺は言葉が出なかった。同情とか、憐憫とか、そんな陳腐な感情はない、ただ、言葉が出なかった。
「あなたとあたしは比較の対象にもならないけど、勇者になるために生きてきたリオンの今までと、あたしの今までが少しだけ重なった気がしたの。そんなこと言われても困るって分かるのに、ごめんね」
「…別に、そんなこと…」
勇者になることだけを期待され、すべてをその訓練に捧げ続けた俺。生きることだけに必死になり、その術を得るために様々なものを犠牲にし続けたヴェーネ。明確にどことは言えないけれど、確かに重なるところがあるような気がした。
「…なあ、その国の名前って」
「覚えてない。いや、覚える気もない。あたしの記憶の片隅にも、そこを置く場所はない」
そう語る彼女の表情から読み取れるのは、単純な怒りだけではない、深い悲しみ、後悔、嫌悪、あらゆる負の要素が複雑に混ざり合っているように見えた。そこがどんな場所であれ、生まれ育った故郷を記憶から抹消する行為が、その人にとって、どれほどの重さなのかを印象付けられた。
「綺麗な場所じゃなかったから、綺麗に生きることなんてできなかった。これは言い訳じゃない、事実よ。でも、汚泥に塗れていても、生きているだけで明日を迎えられた。あたしのぬかるんだ足元には、いつも明日を迎えられない子の手がまとわりついていたの。物理的にも、精神的にもね」
「そうして得られたのが、人の心を掴み、動かす技術、か」
「日々を生きることに、一番邪魔だったのは他人だったけど、上手に生きることに、一番有用だったのも他人だった。使い方次第でどうにでもできる、あたしはそうして生きてきた」
彼女の話を、嘘と断じることはできない。そもそもここで、彼女が俺に嘘をつく意味がない。同情を誘いたいのなら、もっと欲を絡めて悲しみを強調するだろうし、罪を清算したいのなら、酷い環境について深く語るだろう。
この話を語る彼女は、常に淡々としていて冷静だった。あったことをただあるがままに話している、自分がどう思っていたか、他者がどう感じるかなど関係ない、ただそこで生きていたヴェーネ・フロスについてを語っていた。
生きる意味と目標があったけれど、勇者であることの意義を見だせなかった俺と、生きる意味も目標もなかったけれど、ただ明日を迎えたいがために生き方を覚えたヴェーネ。
きっと俺たちは二人とも、常に前のめりに生きてきたのだろう。一歩でも前に、誰かに追いつかれる前に進めと、他ならぬ自分に責め立てられながら生きてきた。きっとそこに、彼女は共通点を見出した。
「共感には程遠いけど、ヴェーネの言っていることは、分かった気がする。俺も同じことを思ったから」
「ふふっ、バカねリオン。共感なんて、できる訳ないわ。あなたとあたしは、例え深く思い合えたとしても、他人同士よ、同じものじゃない。でも、そうね。少しでもあたしを理解しようとしてくれたことは、素直に嬉しいかな」
ああ、なるほどそういうことか。俺はその発言で、ヴェーネに問うてはぐらかされた質問について思い出し、理解した。
彼女が周りに人を置きたがらないのは、それが例え非合理的であったとしても、他者を信用することができないからだ。生きることに有用なのが他者であると言い切れるのに、他者を信頼、信用しきれない矛盾。
それを理解しているからこそ、触れてほしくなくてはぐらかした。棚に上げた秘め事を、覗かれそうになる嫌悪感は、この旅で嫌というほど思い知った。
案外子どもっぽいところがあるんだなと頬が緩む一方、それって俺にも当てはまるよなと気づいて、きゅっと口を結んだ。
「何一人で表情をころころ変えてるの?」
「…別に」
「ふーん…」
ヴェーネの大きな目でじっと見つめられると、何もかも見透かされているような気がして焦る。しかし彼女は「まあいいわ」と言ってすぐにそれを止めると、今度は身を乗り出してきて楽しそうな顔をした。
「ねえリオン、提案があるんだけどさ」
「提案?俺に?」
「そう。勇者なんてさ、ろくなお金にならないのに、危険な旅を続けなきゃいけないでしょ?正気の沙汰とは思えないわ」
「またそんな、身もふたもないことを…」
「だからさ、世界に押し付けられた使命なんて忘れて、二人で楽しく生きてみない?あたしと、あなたで」
彼女からそんな提案をされて、俺は驚きを隠せなかった。他者を信頼しない、できない彼女から、そんなことを言われるとは、思ってもみなかったからだ。何故だか俺は言葉に詰まって、しばらく二人の間に、無言の時間が流れた。