マルス・亢柳一刀流の伝授
師と言葉を交わしてからのマルスは、日々の特訓から、生活のいたるところまで、何もかもが洗練されていった。一つ一つの動作に、極力無駄をなくし、徹底的に自分向けに最適化していった。
何をしても大怪我につながる可能性があるのなら、それを徹底的に排除する。多少の体調変化が、大病につながる可能性があるのなら、それを徹底的に管理する。自己を最大限に活かす道というものを、模索し続けた。
それからの彼の成長は、目覚ましいものであった。道場にいる誰よりも速く動き、その太刀筋は誰よりも鋭く重い、たった数年で、マルスに敵うものは、師範代のクジツだけになっていた。
剣術という天賦の才。誰よりも弱く生まれたからこそ、開花した才能だった。辛酸をなめ続けたからこそ、身に付いた意思の強さだった。マルスは師の言いつけを守り、己という刃を研ぎ澄まし続けた。
「そこまでッ!!」
号令の言葉を聞き、マルスはぶはっと息を吐きだした。大量に流れ落ちる汗を拭い、呼吸と姿勢を整える。
その日、マルスはとうとう稽古でクジツを下した。その激闘を、門下生たち全員が、そして師範のシュレンが見守っていた。互いの礼が終わると、マルスの元にはわっと門下生たちが集まってきた。
「すげえなマルス!まさか、師範代に勝つなんてよ!」
「俺、途中から二人の姿を目で追うのに精いっぱいだった」
「僕は何が起こっているのかも分かりませんでしたよ!」
「あはは…、み、皆、落ち着いて」
尊敬と称賛の声に囲まれたマルスは、群がる門下生たちをなだめるのに必死だった。悔しそうに俯くクジツに、シュレンが声をかけた。
「どうですか、マルス君は?」
「…圧倒的ですね。完敗だ。だけど負けて悔しいのに、誇らしくもある」
その言葉にシュレンは頷いた。
「彼の戦う姿を見て、僕は先代の姿を思い出しましたよ」
「成りますかね?そこまでに」
「可能性があるのなら、そう導くのが我らの役目でしょう。クジツ、これからマルス君の指導は、僕が引き継ぎます。いえ、むしろ…」
「自分が指導される側かもしれない。でしょう?」
クジツはそう言ってにやりと笑った。シュレンは一度目を丸くして驚き、今度は気を引き締めるような表情で、深く頷いた。
「彼の強さに、僕も引き上げてもらいましょうか」
「お願いします。マルスを導くのは、一筋縄じゃいきませんよ」
そうですねと一言呟いて同意し、シュレンはクジツの労をねぎらった。
シュレンとマルスの、一対一での稽古の日々が始まった。シュレンは自らの持つ技のすべてをマルスに教え込み、マルスはそれを、どんどん吸収して自分のものにしていった。
マルスの学ぶ流派、シュレンの修めた亢柳一刀流には五つの型がある。それらは状況に応じて使い分けるものではなく、戦闘において、すべてを十全の状態で発揮させることが、亢柳一刀流の基本であった。
「五つの型を常に動きの中に取り入れなさい。一つでも欠けてしまうと、亢柳一刀流の神髄には程遠くなります」
激しい打ち合いの最中でも、シュレンは冷静にそう語った。マルス以上の立ち回りをしているはずなのに、息切れ一つしない、マルスは稽古の中で、師の強さというものを思い知らされていた。
最初の内は、稽古が終わった後、マルスは立ち上がることもできなかった。床に体がへばりついているようで、まったく持ち上がらないほどだった。シュレンは涼し気な顔で、道場の清掃を行っていた。マルスはそれが悔しくてならなかった。
稽古をし、ぶっ倒れ、また稽古をし、ぶっ倒れる。シュレンによる型の伝授は、苛烈を極めた。怪我こそしないものの、毎回マルスは動けなくなるまで稽古をつけられ、ふらふらになりながら家事をこなし、泥のように眠る、その連続だった。
しかし、型の一つ一つが身に付き始めると、マルスの動きは変わった。元から洗練されていた動きは、より鋭く速くなり、一振り一振りは、より重く強くなった。剣士として、どんどん強くなっていった。
マルス自身も、自分が強くなっていくのを感じていた。昨日できなかったことが、今日はできる。頭の中で想像しかできなかった動きが、思い通りに再現できる。成長の喜びが、更にマルスの原動力になった。
「ここまでにしましょうか」
ある日突然、シュレンがマルスにそう告げた。ぽかんとした表情で、マルスは肩を落とす。
「ど、どうしてですか?」
「僕と君の実力が互角になったからです。いや、もしかしたら、少しばかり君の方が上手かもしれませんね」
がむしゃらに走り続けるうちに、マルスは師の実力を超えていた。夢にまで見た強さを、とうとう手に入れたのだ。達成感は、確かにあった。しかしそれよりも、ふっと目標がなくなったような感覚の方が強かった。
呆然とするマルスに、シュレンはポンと大きめの包みを渡して言った。
「一度お家に帰りなさい、これはご両親にお渡しください。その後、いつ道場に帰ってきても構いません。里の皆さんによろしく伝えてくださいね」
マルスは師から包みを受け取って、里に帰った。帰ってきたマルスの姿を見て、里の人々は大層驚いた。見違えるほど強くたくましい肉体になり、端整な青年に成長していたからだ。
身のこなしも立派な剣士となり、病弱な身を嘆く少年は、もうそこにはいなかった。里の人々は当然、マルスの帰郷を大いに喜んだが、一番喜んだのは勿論、マルスの養父母であった。
「ただいま帰りました」
「おかえりなさい」
マルスと養父母は、抱き合って再会を喜んだ。その温もりは、いつかの旅立ちの時とまったく同じで、マルスの目からは、余計に涙があふれ出た。
養父母は、マルスから受け取ったシュレンの包みを開け、神妙な面持ちで中身を見ていた。そこに入っていたのは、マルスの生い立ちについて、徹底的に調べ上げた資料であった。
シュレンはあらゆる伝手を使い、道場の門下生にも協力を得て、マルスのことを密かに調べていた。いつになるか分からないが、きっとマルスは自分のルーツを知りたいと願う日がくる。それを知っていたからこそ、はなむけとしてそれを手渡した。
しかし調べたすべてを最初に見るのは、マルスではなく、養父母だとシュレンは考えた。二人は何の事情も知らないままに、彼を育て上げ、愛情を注ぎ続けたのだ、本当の両親について伝えるべきかの選択を、二人にも委ねるべきだと思った。
だが養父母は、何の迷いもなく資料をマルスに渡した。そして彼を拾った時のことを詳細に話し、両親を探すべきだと伝えた。
「お前は会いたくないかもしれないが、皆さんがここまで骨を折ってくださったんだ、調べてみる価値はある」
「あなたが本当の親に会って、どう思うのか不安はあるけれど、私たちはあなたを止めるよりも、背中を押したいの。知るべきだと思うわ」
迷いはあったが、マルスは言われた通り、自分のルーツを調べ始めた。当然マルスも気になっていたからだ。そこに待つ、残酷な真実を目の当たりにするまで、マルスはわずかな希望を抱いていた。
しかし、その希望は無残にも打ち砕かれる。長年自分と養父母を苦しませ続けていた体質が、両親の施したものだと知り、我が子の体に平気で人道にもとる実験を繰り返したせいであるという真実は、マルスを絶望させるのには十分過ぎた。
「…わしはミシティックで両親に会い、真実を聞いて絶望した。そして折角苦労して手に入れた力に、意味を見出せなくなってしまった。里にも、道場にも戻る気にならず、ふらふらと、ただ生きてきた。いや、わしはもしかしたら、そこで一度死んだのかもしれんのう。そうして老いて最後にたどり着いたのが、アームルートだったのじゃ。そこで刀を置き、ただ死を待つつもりであったのじゃが。どうしても刀だけは手放すことができなかった。わしは、未練がましい亡霊のようなものじゃ」
話し終えた時、リオン殿、彼は静かに俯いた。涙がぽたりと一滴落ちたのを見て、自分は思わず微笑んでしまった。以前の彼女と同じように、彼はこの話を、我がことのように思ってくれる、本当に、優しい心の持ち主だ。
「わしはのう、ゆえに魔力が絶無の状態が素じゃ。だからリオン殿の今の状態が、どれほど辛いものなのか、わしにはよく分かる。しかも、リオン殿は元は魔力があった身で、そこから急に無くなったのじゃ。わしにも想像のつかない苦痛じゃろうて」
だからこそ、魔砂、プリミティブを確実に手に入れる。この身をかけて、どんな手を使ってでもだ。
「わしは、誰がために刀を振るうか、探し続けていた。手に入れた力を、活かす道はないかを探していた。リオン殿、あなたのためになら、わしは手に入れた力を発揮していいと思える。リオン殿の道を、切り開くことこそが我が使命であり、活かす道であると信じられるのじゃ」
「…マルスさん」
「…私はリオンさんに、そこまでの価値があるように思えませんけど」
「君ねえ、こんなにいい話なのに、やっぱり水差すの?」
「これだけ苦労したマルスおじいちゃんに、まだ負担をかけようっていうんだから、本当に大した勇者様ですねえ」
「…ぐうう」
「おや、ぐうの音は出るようですね」
二人のやり取りを前に、どうしてか思わず笑ってしまった。声を上げて笑ってしまった。幸せだと感じた。彼らを守るためなら、力を振るうことに何のためらいもない。それに、彼らを守ることが、多くの人を活かす道につながると信じられる。
絶望に道を見失い、迷い迷いて、すっかり老いてしまった。だが、老いてようやく勇者の刀になる道を見つけることができた。
師匠、自分はこのいけ好かない魔法の国に、亢柳一刀流の神髄を刻み込みます。魔力などなくとも、奇跡を見せることができることを、この魔法の国に教えてやりましょう。