マルス・師との出会い
辺境の山里に捨てられた幼いマルスは、常に明日まで生きられるか、分からない状態が続いていた。両親によって施された数々の魔術的な改造手術に、その小さな体はとても耐え切れなかったのだ。
それでも里のものは、捨てられた幼子を憐み、里の皆で協力して彼を育てた。その優しき心意気と、献身的な世話の甲斐あって、マルスは幼くして命を散らすことなく済んだ。非常に弱弱しい命の灯を、明日に繋ぐことを許されたのだ。
それからマルスは、里の老夫婦の元で養育されることになった。養父母は、子を早くに失い、それからずっと子宝に恵まれなかった人たちだった。マルスのことを我が子同然に可愛がり、たっぷりと愛情を注いだ。
ただし、どれだけ愛情かけて育てられていても、マルスの人生は過酷なものだった。凡そ倫理観というものを無視した人体実験の数々は、彼の体を容赦なく蝕み続けていた。吹けば消えてしまうか細い命の灯に、世界は容赦なく突風を吹き当ててきた。
実験の後遺症で、マルスは体調を崩しやすく、非常に病気にかかりやすい体であった。それだけではなく、更には病気が重症化しやすいという、非常に重いリスクも背負っていた。
病気を患う度に、地獄のような苦しみが続き、何度も死にかけるのだが、彼にはその苦しみから、死をもって解放されることも許されなかった。
実はマルスの両親が施した実験の中で、いくつかは機能し、成果を出したものがあった。しかしそれは、マルスが死の危機に瀕して、それを脱したことによって機能し始めたものであり、能力を付与した両親でさえ、予想外のものであった。
その能力とは、死の間際のみ、マルスの体は魔力を大量に取り込むと、それを消費して自己再生能力を発現させるというものだった。脆弱な体であり、何度死ぬような大病を患ったとしても、地獄を味わわされるだけ味わわされ、その後は無理やり生かされる。死ぬこともできない終わらない苦しみが、彼には宿命づけられた。
死の間際以外は、魔力が絶無であることは変わらず、マルスはどうあがいても魔法使いにはなれない。死にかけた時だけが、彼がその身に魔力を感じることのできる瞬間だった。
その時のマルスには、自分の出自を知る由はなかったが、魔法使いの一族に生まれた身で、これほど残酷なことはなく、絶望的過ぎる状態だけが、彼の両親が残したものだった。
無論、普段は脆弱な体であるため、里の子どもたちと外で遊ぶことはできなかった。里の子どもたちは、彼を見捨てず、様々な方法で遊んでくれていたが、マルスは彼らと共に野山を駆け回ることは、ついぞできなかった。
「自分は何もかもが普通の人間とは違う」
愛情をかけられればかけられるほどに、その疎外感が、醜く大きく膨れ上がっていった。簡単なものでも、作業を手伝えば熱を出し、どこかに少し強く打っただけで骨が折れ、駆け出せばすぐに息が切れて、過呼吸になった。普通に生きていくことが、マルスの地獄だった。
時は経ち、体の成長と共に、実験の後遺症に負けない体が徐々にでき始めていた。ようやくまともに動けるようになったマルスは、とにかくよく働き、里の人々のためならば、何でもやった。
それが自分にできる恩返しであると、マルスはその一心でいた。いくら働いても、返し切れない恩があると、そう考えていた。
しかし、多少体が丈夫になったとはいえ、無理をすれば、まだまだ容易に体調を崩してしまう。マルスが必死に働いて、恩を返そうとすればするほど、里の人々は彼のことを心配して、気持ちがすれ違うことが多かった。
自分は良かれと思ってやっていることが、相手を不安にさせていることを、マルス本人も薄々感じ取っていた。里の人との不和こそ生まれなかったものの、彼には微小な不満がたまりつつあった。
「強くなりたい、誰にも心配をかけず、守りたい人たちを守れる、そんな強さをもった人になりたい」
この時、マルスの心の中にできた目標がこれだった。まだ漠然とした目標であったが、脆弱な自分を恥じ、強さというものに憧れを抱き始めた瞬間であった。
強くなるにはどうすればいいのか、そんな自問自答の日々が続いたマルス。魔力のない自分は、魔法使いにはなれない、当然なる気もなかった。この脆弱な体では、できることなんて何もないのではないだろうか、そんな不安が頭の中で、もやもやとした煙のように立ち上り、ぐるぐると渦を巻いていた。
ある時、里に一人の旅人が現れた。その旅人は、武者修行の旅に出ている最中、空腹で倒れていたところを、偶然通りかかった里の人に助けられていた。旅人はたらふく飯を食べて一息つくと、命の恩人だと里の人々に感謝し、一宿一飯の恩義に報いるために、何かをさせてくれと願い出た。
その旅人は、名をシュレンと言い、優しく穏やかな表情に柔和な物腰で、性格のよさも相まって、里の人々とすぐに打ち解けた。武者修行の旅の最中であるにも関わらず、里の人たちと一緒に、畑仕事や大工仕事に汗を流し、皆と共によく笑い、よく食べ、よく飲んで騒いだ。
マルスは最初、シュレンにさほど興味を示さなかった。立派な刀こそ持っているが、とても強そうには見えなかったからだ。温厚で間の抜けた彼の性格は、刀を振るうよりも、畑仕事の方がよほど似合っていて、子どもたちに囲まれながら、笑顔で握り飯を食べている姿が、あまりにも牧歌的で、戦う姿など想像もつかなかった。
「いやあ、シュレンさんが来てくれて、毎日助かっているよ。里の子どもたちも懐いとるし、このままここに住んでくれたらいいのになあ」
「流石にそれはできません。ついつい居心地がよくて長居してしまいましたが、私も自分の道場がある身。そろそろ旅を終える予定でしたので、もう帰らなくてはなりません」
養父とシュレンのそんな会話を偶然耳にしたマルスは、彼が道場の師範であることを知った。こいつが剣の師範など、とてもではないが信じられない、そんなことを思っている時、外から子どもたちの悲鳴が上がった。
急いで飛び出ると、魔物のヒュージベアが里近くに現れていた。そして野で遊んでいた子が逃げそびれて、大人たちと分断されてしまっていた。魔王不在期の、不活性な状態にも関わらず、ヒュージベアは興奮して激昂していた。
里の大人たちが懸命に石を投げつけ、気を引こうとするが、ヒュージベアはそれを意に介さず子どもたちに視線を向けていた。このままでは皆食い殺される、マルスは近くに落ちていた薪割り用の斧を手に取ると、無謀にもヒュージベアに向かって突撃しようとした。
「お待ちなさい、それでは無駄死にするだけですよ。立ち向かう勇気は認めますが、蛮勇は自分も周りの人も不幸にするだけです」
シュレンはマルスの腕を掴んで止めた。その言葉と行動に苛立ちを覚えたマルスは、シュレンに食って掛かった。
「じゃああんたは、ここで黙って子どもたちが食われるのを見てろっていうのか!?」
「いいえ、そんな訳ありません。ただ、あなたは黙ってここで見ていなさい」
それはほんの一瞬の出来事だった。シュレンがマルスの横を駆け抜けたのは、まるで風が吹き抜けるような速さで、まるで瞬間移動したかのように、次に彼のことを目にしたのは、子どもたちとヒュージベアの間に立っていた姿だった。
「来なさい」
シュレンはそう言うと、ふっと短く息を吐き出した。そして鋭く冷たい眼光で、ヒュージベアをにらみつけて威嚇した。
本当に、ただにらみつけただけの威嚇行為。しかし、その場にいた誰もが、背筋の凍るような思いがした。空気が、空間が、一瞬でギチギチに張りつめたような緊張感が、場を支配していた。
先ほどまで血気盛んであったヒュージベアも、シュレンの威嚇におののいて、たじろぐ。その一瞬の隙を、シュレンは見逃さなかった。
それは瞬きよりも速い閃き、シュレンの抜刀を目にできたものはいなかった。ヒュージベアはいつの間にか、心臓を一突きにされ、そして腹を大きく割かれていた。巨熊は腹から臓物をぶちまけて、自らの血の海に倒れ伏した。
里の他のものたちは、ヒュージベアを退治したシュレンの活躍に沸いていたが、マルスだけは、最後の一瞬まで見逃していない場面があった。ヒュージベアは怯みはしたものの、絶命する最後の瞬間まで、戦う意思を切らさず、長く鋭い爪でシュレンの顔面を狙っていた。
しかしその爪の攻撃が届くことはなかった。というよりも、攻撃の瞬間まで気が付けなかった。自分の爪がすでに、細切れにされていたことを。それがいつ行われた攻撃であったのか、絶命するヒュージベアにも、目を皿のようにして見張っていたマルスにも分からなかった。
分かったことは一つ、シュレンの持つ、圧倒的な強さだけだった。マルスはその日の夜、すぐに養父母とシュレンに頭を下げて願い出た。
「俺を弟子にしてくれ!俺は強くなりたい!あんたのような強さが欲しい!その強さを俺に教えてください!!」
地面に手と額をつけ、マルスは懇願した。シュレンの道場の門下生になりたい。あの圧倒的なまでの剣の腕前が、欲しい。強さが、欲しい。その道筋が、ようやく見えた気がした。