マルス・故郷を想う
月明りのない夜だった。夜空は暗く、重い。それを見つめていると、心が押しつぶされそうであった。
この旅で、まさかミシティックに立ち寄ろう機会が訪れるとは思ってもみなかった。あの国は魔王復活などまったく意に介さない国だ。自国の魔法の研究と成果、それによって得られる富と名声にのみ固執している。
魔法使い絶対至上主義者たちの集まり、それがミシティックという国だ。あそこは…、あそこには、果たして本当に人と呼べるものが存在するのだろうか、そう自問する。
「マルスおじいちゃん。珍しいね、いつもはこの時間ぐっすり寝てるのに」
「んお?おお、ル、ルネちゃんかい。すまないねえ起こしてしまったかい?」
不覚にも、彼女がテントから出てきたことに気が付けなかった。今の自分がいかに注意力散漫であるか自覚し、情けなくなる。老いた身ながら、わがままを通して旅に同行させてもらっているのだ、集中力は常に切らしてはならないのに。
いつ何時であっても、この身はリオン殿のために刀を振るう修羅であらねばならない。そうでなければ、我が生に意味は在らず、この老骨を仲間と認めてくれる稀有なお方に、報いることこそ我が使命なのだ。
「難しい顔してますねえ、スリープかけてあげましょうか?今の私なら、飛び切りの効き目のやつを使えますよ?」
彼女はそう言うと、美しい宝珠の耳飾りを触った。何と立派なことだろうか、彼女はオリハルコンを精製するだけではなく、努力を重ね、眠っていた豊かな才能を開花させた。
とても素晴らしいことだ。本当に喜ばしい、その才能を、自分が阻害していなければいいのだが。彼女は昔の恩を忘れず、こんな自分にとことん付き合ってくれる。
「…それはいいから、少しわしの話を聞いてくれんかね?」
「勿論いいですよ。あっ、そうだ。ちょっと待っててください」
彼女はそう言うと、消えていた焚火の火を起こしてお湯を沸かした。そして少々ぎこちない手つきで、お茶を入れて手渡してくれる。
「これ、リオンさんのお茶です。何回か入れてるところを見ていたら、頼んでもいないのに、入れ方を教えてくれたんです。生意気にも美味しいお茶を入れるリオンさんと比べると、私のは少し拙いかもしれませんが、どうぞ」
「ありがとうねえ」
カップを受け取る。暖かい。口の中も温めると、言いにくいことも話しやすくなった気がした。
「これからリオン殿が向かおうとしている国は、わしの生まれ故郷じゃ。わしはこの国の、魔法使いの家系に生まれた。さほど高名ではないが、代を重ね、その国に根差してきた家じゃった」
「私の家と似たようなものですか?」
「ルネちゃんのおうちとは、比べようもない小物じゃよ。とてもそんな立派なものじゃなかった。ただの、典型的なミシティック国の一家にすぎない家柄じゃ」
ただしそんな取るに足らない家だったとしても、純血の魔法使いの家系としては価値があった。それを脈々と受け継ぐことには、ミシティックとしては意味があった。その一点だけが、家の誇りであった。
魔法使いは、繰り返し魔力を用いることで、膨大な魔力を、段々とその身に留めることができるようになる。魔力の消費と回復、それの繰り返しが器を大きくし、より強大な魔法の行使を可能とさせる。
一代で成しえねば次の世代へ、次も叶わぬのならまた世代を重ねる。強く賢い魔法使い同士の婚姻が、着実に強い魔法使いを生み出してきた。
他所からミシティックの学び舎の門を叩き、実力で周りをねじ伏せ、成り上がったものもいた。しかしそんな実力者も、結局行きつくところは、自分の力を受け継ぐ、より強い魔法使いを作ることだった。
ミシティックで生き、育ち、学び、同郷の魔法使いと婚姻を結び、子を作るのが純血。他所の国で生き、育ち、実力でミシティックの市民権を得て、その才覚を継がせるために、ミシティックの魔法使いと子を作るのが混血と呼ばれた。
互いの溝は深く、激しい実力競争が行われた。奇しくも、その競争が魔法学の発展に寄与し、ミシティックは魔法使いの国と称されることになった。醜い差別と歪みは根深くあれど、魔法学において、ミシティックより秀でた国はなかった。
魔法使いたちはそこで学び続けて魔法を研究し、より強力な魔法を編み出してきた。魔法の発展と進歩のために、国も支援を惜しむことはなかった。実力さえ示し続ければ。
だが、これはあくまでも、魔法使いとしての才能があるものにのみ、与えられる恩恵であった。非魔法使いは、人に非ず。それがミシティック国民の、共通認識であった。
「…ミシティックは、魔法使い以外の存在は認めない、そういう国なのじゃ」
「はあ、エルフの里より、もっと過激な思想をもつ国があったんですね」
彼女の言葉に、自分は頷いて同意した。そして喉に貼りついた緊張を、お茶で引きはがし無理やり流し込んだ。
「わしは…、わしはのう、ルネちゃん。実は特殊な体質を持っていての、生まれつき、魔力を一切持たない、持てない体質だったんじゃ」
「え?」
「純血の魔法使いの家に生まれながら、魔力に見放された忌み子。それがわしじゃった」
極々稀にそのような体質の子が生まれると、後々になって聞いたことがある。しかし、ミシティックでは史上初めての特殊体質の子が、自分であった。
魔法使いの国において、魔力が絶無であることが、どれだけ絶望的であることか。そして両親の苦悩と絶望が、どれだけ大きいものだったのか。自分はこの身に刻まれた傷から、それを推し量ることしかできなかった。
自らの子が、魔力絶無の特殊体質であることは、両親には生まれてすぐに分かったことだった。そしてすぐに、秘匿すべきことであると判断した。
その事実が外に漏れれば、一族がどんな迫害を受けるか、想像もつかなかった。少なくとも分かることは、マルスも家も無事ではいられない、この一点のみであった。
そこで両親は、幼いマルスを家に隠し、あらゆる人体実験を行った。特殊体質の改善、または消去。魔力を取り込む器官の生成と移植手術。多量の霊薬を用いて、人体を一から再構築させる方法の模索。
我が子がミシティックで立派な魔法使いになるために、両親はあらゆる情報を精査し、実験を行い、マルスの特殊体質をどうにかする方法を考え抜いた。
幼子を、刃物で切り刻み、危険な薬物を投与し、非人道的な儀式を行ってでも、我が子を魔法使いとして生かす道を探り続けた。
だが、どんな手法をもってしても、マルスの特殊体質が改善の兆しを見せることはなかった。それどころか、度重なる人体実験によって、マルスは心身共に弱り切り、すぐにでも死んでしまいそうなほどに衰弱した。
莫大な資産と倫理観をなげうち、それでも願い叶わなかったマルスの両親は、幼子の命を諦めることに決めた。そして遠くの山里にマルスを捨て、姿を消した。
自分の話を聞き終えた彼女は、静かにさめざめと泣いていた。大きな瞳から大粒の涙をこぼし、ただただ悲しそうに泣いていた。
「わしはその後、里のものに拾われ、体は弱いままであったが、何とか命をつないで生きてきた。そしてある時、親代わりに育ててくれた人から、捨てられた経緯などの事情を聞き、自らのルーツを調べて回ったのじゃ。やがてわしは、わしのことを捨てた両親に行きつき、話の全貌を聞いた。再び会った時、彼らは落ちぶれに落ちぶれていて、家はすっかり没落していた。更に深刻な病魔に侵され、死の間際じゃった。最期の言葉は、許してくれじゃったよ」
「ふざけるなっ!そんなの、許せる訳ない!」
彼女は怒りに身を震わせていた。まるで我がことのように怒ってくれている。本当に優しい子だ、こうして側にいてもらうことが、申し訳なく思えるくらいに、優しい子だ。
「いいんじゃ、ルネちゃん。もういいんじゃよ。わしのために、涙を流してくれてありがとう。それでもう、わしは十分じゃ」
「でもっ!」
「本当にもういいんじゃ」
涙に潤んだ目をしっかりと見据えて、そう言った。自分と両親のことは、当の昔に決着がついている。だから本当に、もういいのだ。
ただ、彼女の優しい心に、自分はまた救われた気がした。両親に対する怒りと悲しみは、自分にはもうないものだから、自分のことのように怒り、悲しむ姿を見られただけで、それで十分だった。
ミシティックよ、我が故郷よ、拭いきれぬこの嫌な予感は、恐らく的中することだろう。だが、大切な人たちの前に立ちふさがるというのなら、真正面から斬り伏せてくれよう。自分はそのために在るのだから。
重苦しい夜空を見上げると、一粒の小さな星が、弱弱しく輝いていた。今にも消えそうであったが、それでも、輝いていた。